台風を喚ぶ男

 暑い。暑い暑い暑い。
 さっき冷蔵庫から出したばかりなのにもう大量の汗をかいているペットボトル。自分の汗でべたついた甚平の麻。壊れたクーラーのリモコンを放り出し、とっくに最強になっている扇風機に真正面から当たりつつ、
「今年は…きっついにゃあ…」
 体中の元気を絞り出すように高知は呟いた。


台風を喚ぶ男


 毎年のことながら、四国の夏は水がない。
 毎年必ずどこかで取水制限だ。ダムだの溜池だの海水を浄水にする計画だの色々聞くが、結局今年も台風頼みじゃないか。その台風も、今年はもう既に二つも過ぎ去ったのに全然大したことない。がっかりさせんな。
「ああー…」
 このだらりとした今にも溶けそうな声も何回目だろうか。その声が扇風機の羽に当たってがらがらと音を鳴らす。こんな風にずっと直に風に当たるのは体に良くないと以前に愛媛が言っていた。「もー! そんなんしよるけん夏バテになるんよー」と怒られた気がする。
 暑くて何もする気が起きないが、その反面どうにも手持無沙汰になって携帯を見ると、ちかりと光ってメールが来ていると主張していた。片手と顎でぱきんと開く。噂をすれば愛媛だった。
『今日も暑いね。高知君は大丈夫? 
香川君がちょっと危ないみたい。
此間の台風もいまいちやったけんね。
今度は徳島君があんまり助けてあげれん
みたいやけん、僕が頑張ろうと思うんやけど、
高知君もできたら手伝ってくれんかな』
短くまとまって絵文字のない、しかし人柄の伝わる、いつも通りの愛媛のメールだった。すぐに返信を打とうとして、高知の指が止まる。安請け合いして良いのか? 自分にも余裕があるわけではない。だが、
『解った。すまんな愛媛。
香川にはうどん食うの止めて
キウイ送れって言うといてくれ』
 そろそろ乾いた生活も限界だ。高知には計画があった。


 夕方。足摺の先端に高知は立っている。
 岬の下から吹き上げる風が濃い。塩で湿気のある海風では、扇風機の風とは違い、当たっていても全然湿気の不快感が取れない。
 夕方の足摺は綺麗だ。しかし夕方や明方というのは人でないものに出会う時間である。岬という場所では尚更。沈む日の最後の光線でぼんやりした世界には、高知には見えないが、おそらく色んなものがいる。今から会おうとしている相手のように。
「おい、そろそろ来とるんやろ」
 海の上空に向かって投げた声が風に溶けたあたりでくすくす笑う声がした。
「よう。久しぶり」
 宙にふわふわ浮いてにこっと人好きのする笑顔を寄越した相手を、高知は油断ならなさそうな目でじっと見つめた。
「此間は残念だったねえ。大したことないので」
「そう思っとるんやったらもうちょいましなの寄越せや」
「いやあ、だってねえ」
 南国育ちらしい健康そうな日焼けした顔。これがあの元寇を泣かせた台風だと思うと時代も変わったと思う。
「で、話ってなあに? 久しぶりに口聞いてもらえたと思ったら、こんなとこで二人だけでって言うんだもん。びっくりしちゃったよ」
「…お前、次うちにいつ来るがか」
「え?」
 おそらく本当に何にも想定していなかったのだろう。素直にきょとんとした顔で首を傾げる。
「次は雨、ようけ連れて来てもらわな困るき、今日はその話じゃ」
「なあんだ」
 台風はふわふわ浮いたままくるんくるんと退屈そうに翻った。
「本当に困っとるんじゃ。お前にやって解っとろうが」
「さあ。俺は気流で漂ってるだけだもんさー」
 言葉を交換する度にいらいらするのは多分暑さの所為だろうと思う。
「…ほんなら、頼んだき、じゃあな」
「どうなるかなんて判んないよー?」
「……」
 嫌だった。正直近くにいるだけで暑苦しい。嫌だ。
 こんな湿りきった熱風そのもののような奴の手は。
「……何…したら、ええがか」
 口腔の奥でくきゅっと奇妙に笑う音がした。笑い方まで湿ってるのか。


『雨降ったね! 前線元気になってよかった。
台風のお陰かな。僕も大分助かったよ。
まだ暑いけど、扇風機とクーラーに当たり過ぎんようにね。
今度みかんジュース持って遊びに行くね』
 愛媛が珍しく「!」なんかを使っていた。嬉しかったんだろう。
 直ったエアコンの温度を一度上げる。風向が下向きに変わり、閉まった窓の内側、カーテンレールに結んだ鉄風鈴が涼しい音で鳴った。相変わらず汗はかいているが温くないペットボトル(ポンジュース)を口に運び、ほうと息をつく。

「…あんなん愛媛にさす訳にいかんきにゃあ…」
読んでくださってありがとうございます。
夏になったらみんな困る水不足のお話です。

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