雨に愛された人

「んう…」
 喉の奥から押し潰した声帯だけを震わせた音を発する。
 僅かに体を動かす度に、水を吸い切った重い服がぐじゅ、と嫌な音を立てた。もう湿っているなんてものではなく、泥を着ているような気分だ。
「も…いい…十分、ですから…」
 じわじわゆっくりと、確実に減っていく体力を朦朧と感じながら訴えた。
「頼んだのは主らであろう」
 しかし相手はこっちすら見ずに、手に持った扇の房をゆらりと揺らすだけだった。その房の揺れからまた一筋流れ出し、這い蹲った体にびしゃびしゃと容赦なく滴った。
「ふぁ…っ」
 その水圧にまた反応してしまう体が厭わしい。必死に殺した呻きがまた漏れた。
「淫らになったものよの。この程度で音を上げるとは」
 ぽとりと落とすように揶揄されて、ささあ、と去年よりもずっと長い髪が擦れ合う音がした。
「もう…駄目…溢れる…っ」
 自分の中に溜め切れなかった涙が少しだけ零れた。


雨に愛された人


 長い長い梅雨が続いていた。もう七月も終わり近いというのに。
 普段あんなに水がないと悩んでいる身としては、こんなに水の心配をしなくて良いのは久しぶりで、可笑しなことだが落ち着かない。それぐらいに愛媛は潤っていた。
 梅雨前までは散々「今年はやばい」と言われていた。しかし梅雨に入ってからというもの、流れてくる雨雲は例年に比べて元気が良い。心配は杞憂に終わったのだった。
 更に雨のお陰でさほど気温が上がらず、屋内に居さえすれば非常に快適だった。洗濯物が乾かないことが唯一の悩みではあったが。
 折角余っている物、使わねば勿体ないと、久しぶりに水の贅沢を楽しんでいた。

「香川君もこれやったら機嫌良いかなあ。いっぱいうどん茹でよるかなー」
 部屋干しの洗濯物に扇風機の風が当たるよう調節しながら外を眺めた。相変わらずざあざあと滝のように降っている。
「…でも何か…降り過ぎな気もするなあ…」
 数日前から降り続いている雨がまだ居なくならない。今年の前線は長かった。
「誰も怪我せんとええけど…」
 そう呟いた時だった。

『愛比売』

「え」
 雨音が喋った。雨音に呼ばれた。
 急いで窓に顔をくっつけると、土砂降りの中、こっちをじっと見ている人がいた。いや、大雨の中で傘もさしていないのに微塵も濡れていないから、取り敢えず人ではない。
 玄関へ走った。頭には何も浮かばなかった。ただ呼ばれたと、それだけで走った。
 雪駄を履いて傘も差さずに近づく。長い灰色の髪の、墨流しの和服を着た人だった。無表情のようなつまらなそうな仏頂面だが、しっとりと美しい人だった。濡れていないのは、大粒の雨がその人だけを除けているからだった。
「あの…」
「久しぶりだの」
 ざらざらとした不思議に心地良い声が遮る。
「頼まれたので、来てやった」
「え」
 尊大な口調のように聞こえるが、声に悪気は混じっていない。
「えっと、僕は…」
「建依別が台風に頼んでの」
「高知君が…?」
 そういえば此間から何だか余所余所しかったような…と、考えていたら、すっと寄ってきて顎を掴まれた。
「え」
 予測のつかない動作に固まる。もう既にびっしょりと濡れてしまった髪を掻き上げられて、緊張で更に体が硬くなった。
「主らが渇いておると聞いての」
 耳元で湿った声で囁かれ、冷え始めた体が震えた。


 庭で抱かれた。嫌だと言ったのに。
 人が来るから、濡れるから、といくら訴えても聞き入れてはもらえなかった。
 自分の濡れた恥ずかしい声は、一層強くなった雨と雷に掻き消された。それだけがささやかな気遣いだったのかもしれない。
 もう警報の二、三は出ているだろう。そんな中で外に出ているのは自分とこの人だけ。ぐしゃぐしゃに濡れているのは自分だけだった。
「のう」
 唐突に話しかけられる。さっきはいくら言っても返事もしてくれなかったくせに。
「ん…」
 くぐもった音でしか返事が出来ない余裕の無さが嫌だった。
「こっちを向かぬか」
「や…ぁ!」
 繋がったまま無理矢理に体勢を変えられる。
 抑えられて後ろから一方的に責められていたのに。縋りつくことすら許してくれなかったのに。
 鈍い痛みに小さく声を上げ、何も掴めない手が空を掻くと、微かに髪を揺らして嗤われた。
「暫く見ぬ間に浅ましくなったものだ」
「いや…」
 いつもの趣深い優美なその声で詰られて、綺麗な墨色の目で覗かれて、居た堪れなくなって両腕で顔を隠し、ぎゅっと目を閉じた。
 自分の厭らしさが襲ってくる。自分を抱いているこの人はこんなに綺麗なままなのに。
「建依別にでも可愛がられておるのか」
「…っ」
「図星か」
 隠し事などできない。この人はもう自分の中に沁み渡ってしまっている。自分はこの人によって生かされている。
 もう早く終わって欲しい。早く通り過ぎてこの時間を忘れたかった。
「こら。返事をせぬか」
 顔を隠した腕をそっと払われる。その手が思いの外柔らかく、優しくて、何故か少しだけ心が静かになった。
 腕が退けられると、溢れてしまった涙の痕が見られるのが嫌だった。
「許して、ください…」
 震える声でそれだけ言った。
 すると少し不思議そうな顔をして、濡れた顔をそっと舐められた。
「甘い」
 そう言って何度も何度も接吻された。
「まるで橘じゃの」
 吸い付いている唇は水の味がした。
「主はほんに愛らしいの…名の通りじゃ」
「ふ…ぁ」
 口を開くと弱々しい喘ぎが漏れた。
 もう一度接吻されて、呪文のように囁かれた。
「名を呼んで御覧」
 欲しいものをあげよう。

「五月雨――」



「こんにちはー。高知君ー」
「おう。よう来たな。暑かったろ。入れ入れ」
「ありがとう。あ、はい、お土産な。ポンジュース」
「おう。いつもすまんの」
「ううん。暑いけんねー。これで水分と糖分とビタミンいっぺんに取れる…ん? 何?」
「愛媛、何かあったにゃあ」
「え…な、ないよ? 何で? 何もないよ?」
「うろたえとる。やっぱ何かあったにゃあ」
「いや、いやいやいや、ないって。ないよ! ねえ何で脱がしよんの!」
台風の話の続編です。今度は愛媛に災難。愛媛ごめんよ。

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