宿に戻って部屋で一息ついていると、今度は岡山がやってきて夕食の準備が調ったと
告げられた。
夕食は炉端のある大広間で他の宿泊客と一緒にとることになっており、
用意された浴衣に着替えてきて欲しいとのことだった。
2人が浴衣に薄手の半纏を羽織って大広間に向かうと、
そこにはすでに他の宿泊客がそろっていた。
一組は痩身で少し気難しそうな風采の夫と、それとは対照的にふくよかな体型の
上品で穏やかな感じの妻という組み合わせの福岡という老夫婦。
もう一組は男の2人連れで、中肉中背で30代前半の黒縁眼鏡の神経質そうな男と、
40代前半くらいのやや小太り体型の赤ら顔の男だった。
眼鏡の男が自己紹介した。

「私は『月刊温泉グラフ』編集部の宮崎といいます。こちらはライター兼
カメラマンの山口さん。こちらの温泉には取材できました」

紹介された山口は無言で軽く会釈した。

「あ、どうも。自分は中嶋といいます。東京でこ、公務員をやってます。
彼女は・・・・」

中嶋が美幸を紹介しようとしたところで、岡山が料理を運んできて食事が始まった。
色とりどりの野菜を中心にした季節感溢れる宿自慢の料理はいずれも美味しく、
中嶋と美幸は大いに堪能した。そして勧められるままに中嶋がビールを注文すると
美幸がかいがいしく注いでくれた。

「はい、中嶋くん」
「お、おうっ。ありがとう」

注がれたビールを一口飲むと、今度は美幸にも勧め返した。

「小早川もどうだ?」
「じゃあ、少しだけいただくわ」

美幸もお酒は嫌いではないし、夏実のように強くはないが人並み程度なら飲める。
ただすぐ顔に出るタイプで、コップ一杯のビールでほんのりと顔を赤らめた。
そんな美幸の姿に中嶋の心臓の鼓動が跳ね上がる。

「(こ、これは・・・・)」

普段の美幸の凛とした制服姿のすがすがしい美しさにも目を奪われるが、
今の浴衣姿の美幸は、しなやかな身体のラインが容易に見て取れ、
また少し崩れた感じの着こなしが何ともいえない色気を醸し出して格別だった。
そしていつもはおさげにまとめている長い髪を自然に下ろしているのも新鮮で、
ほつれ髪がうすい桜色に染まったうなじに散る様に思わずどきりとした。
さらに、ほんのりと上気してやや潤んだ瞳でビールを勧めてくる美幸に
普段の清楚な魅力とはまったく別の、いわく言いがたい艶っぽさとエロスを感じ、
思わず中嶋は生唾を呑み込んだ。

「(こんなに色っぽい小早川初めてだ・・・・)」

だがその時、ふと中嶋は自分とは別の美幸に注がれる視線に淫らな気配を感じた。

「(うん?)」

その相手はすぐに分かった。食卓膳を挟んで左斜め前に座っている山口が
ニヤニヤとにやけながら、美幸のことを明らかに好色めいた視線で見つめていたのだ。

「何か?」

中嶋が咎めるように声を出すと、山口は下卑た笑みを浮かべたまま軽口を叩いた。

「いや、別に。随分と仲がよろしいようで羨ましいと思ってな」

そして中嶋をあえて無視するように美幸になれなれしく話しかけた。

「なあ、あんた・・・・ 小早川さんって言ったよな。
俺とどっかで会ったことねえか?」
「えっ?」美幸は山口を見やって記憶をたどるが憶えがない。
「ごめんなさい。記憶にないです。何かの間違いじゃないですか?」
「いや絶対どこかで会った気がするんだけどなあ。あんたみたいな美人は
一度見たら忘れるわけねえんだよ」

美幸が返答に困っていると、さらに続けた。

「まあいいや。ところであんた、今回の温泉モデルになってみる気はねえか」
「えっ? 温泉モデルって何ですか?」

すると山口に代わって宮崎が説明し始めた。

「ほら、温泉紹介の記事で若い女性が露天風呂に浸かっているグラビアなんかが
よくあるでしょ。今回も本当はプロのモデルに頼んで撮影の予定だったんですが、
直前でドタキャンになってどうしても都合がつかなくなりましてね。
グラビアなしではやっぱり華に欠けますし、ちょっと困っていたんですよ。
その点、小早川さんなら文句なしの美人で華やかな絵になりますし、
それにここの温泉のイメージにもぴったりだと山口が言い出しまして」
「そんな・・・・ 私には無理ですよ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。些少ですけど謝礼もお支払いいたします」
「すみませんが、お断りします。絶対無理ですよそんなの」

すると山口が絡むような口調になった。だいぶ酒が入ってきたようで、
ただでさえ赤ら顔が余計紅潮していた。

「別にいいじゃねえか、へるもんじゃねえし。それにきれいに撮ってやるぜ。
いい記念になると思うけどな」

美幸は断り続けたがなおも執拗に言い寄る山口。

「なあ、いいだろ? 俺もあんたみたいな美人をぜひ撮って・・・・」
「おい、あんたいいかげんに・・・・」

さすがに腹に据えかねた中嶋が声を荒げた時、

「それじゃあ、私ではどうですか?」

それまで黙って4人のやりとりを聞いていた福岡夫人が明るい笑顔で言った。
突然鉛を飲まされたような表情になってひきつる山口。

「あ、あんたが・・・・」
「そうそう、そこのお嬢さんみたいに若いきれいな人もいいけれど、
ほら、温泉といったらやっぱりお年寄りでしょ? だったら私みたいな
おばあちゃんがモデルでもいいんじゃないかしら?」
「い、いやっ・・・・ それは」
「それに今はこんなしわくちゃですけど、こう見えても私、若い頃は剣道を
やっててね。その頃は町一番の剣術小町って呼ばれて若い男の子にもてもて
だったのよ。ねえ、あなた?」

福岡夫人は隣の夫に微笑みかけ、夫は黙ったまま苦笑した。

「ねえ、山口さん、私がモデルじゃだめかしら? きれいに撮ってくれるんでしょ?」
福岡夫人が身を乗り出すように山口に迫ってくる。

「えっ、いやっ・・・・」

その勢いに押され、言葉に詰まった山口はまるで逃げ出すかのように席を立ち上がった。

「宮崎、ちょっと俺は原稿を整理したいから先に部屋に戻ってるぞ」
「待ってください、山口さん」

宮崎と山口が立ち去った後、福岡夫人が美幸にウインクをした。
どうやら助け舟を出してくれたようだ。

「すみません、助かりました。ありがとうございます」

美幸と中嶋が礼を言うと、福岡夫人は小さく手を振って笑った。

「いえいえ、大したことじゃありませんよ。返っておせっかいだったかしら」
「そんなことはありません。本当に助かりました」
「それならよかった。じゃあ私達もそろそろ部屋に戻りましょうか。ねえ、あなた」

軽く腕を絡ませながら中睦まじく立ち去る2人。

「いいご夫婦だな」
「うん、本当に」

その時、中嶋と美幸はそれぞれ将来の自分達の姿を彼らに重ね合わせていた。



食事を終えて部屋に戻ってしばらくすると今度は大女将がやってきた。
「よろしければ大浴場のほうにいかがですか? その間にお部屋を調えますので」
2人は勧められるままに大浴場へと向かい、入り口で男風呂と女風呂に別れた。
中嶋が浴室へ入ると湯殿にはすでに山口と宮崎の二人が浸かっていて、
宮崎だけが中嶋を見て会釈してきた。山口は徳利と杯の乗った盆を
お湯に浮かべて、ここでも一杯引っ掛けている。

「どうも」

中嶋も宮崎に会釈を返し、身体を流して湯殿に浸かる。
山口と宮崎は何事かひそひそと話していたが、しばらくすると宮崎が
中嶋に近づいてきた。

「中嶋さん、先ほどの話ですけど、もう一度考えていただけませんか?」
「えっ?」
「ほら、モデルの話ですよ。小早川さんにぜひともご協力をお願いしたいんですが」
「だから、それはダメですって」
「そこを何とか・・・・ 中嶋さんから小早川さんに頼んでみてくれませんか」
「何と言われようと、ダメなものはダメです」

にべもなく断る中嶋。そこへ山口が近づいてきた。

「別にいいじゃねえか? 何もアンタの恋人のヌードを撮らせてくれって
言ってるわけじゃないんだからよ。多少肌の露出のある入浴シーンを
ちょこっと撮らせてくれるだけでいいんだ。いわゆる読者サービスってやつさ」
「・・・・」
「まあなんだ、もしヌードのほうも撮らせてくれるってんなら大歓迎だ。
アンタの恋人にとってもいい記念になると思うがな。
それに今時の若い女は金を払ってでも撮ってほしいってケースも案外多いんだぜ。
『きれいなうちに自分の裸を撮って記念に残しておきたい』ってことらしいがな。
どうだい、ここで会えたのも何かの縁だし、ノーギャラで撮ってやるぜ。
今回限りの大サービスだ」

込み上げてくる怒りをぐっとこらえて中嶋は努めて冷静に言った

「そんなことは必要ない。話は終わりだ」
「そうか、そりゃもったいないねえ」

さらに山口はより好色めいた口調になって続けた。

「それにしてもアンタの恋人はホントにいい女だよなあ・・・・
さっきの浴衣姿に顔を赤らめた様子なんか、プロのモデルでも
あんないい表情はできないってくらい官能的でぞくぞくっとしたぜ。
ありゃあマジにそそるそそる。思わずあっちの方がおっ立っちまったよ」
「なっ!・・・・ 何言ってるんだ、あんたっ! ふざけるなっ!」

中嶋の怒りが爆発して声を荒げ、山口につかみかからんばかりに詰め寄ると、
宮崎が慌てて割って入った。

「すみません、中嶋さん! 山口はちょっと酔ってるんで勘弁してくださいっ!
この通りです。山口さんも呑みすぎですっ! いいかげんにしてくださいっ!」

平謝りに謝る宮崎に勢いをそがれ、中嶋もようやく矛を収めたが、
山口本人は謝るでもなくただニヤニヤと下卑た笑みを浮かべているだけだ。
中嶋は憤懣やるかたなく湯殿から上がり、脱衣場へと向かった。
こんな男と一緒の湯殿に浸かっているだけで不愉快だ。
ところがさらに山口が追い討ちをかけたのだ。

「中嶋さんよお!」

中嶋が振り返ると山口は口の端をゆがめて卑猥に笑った。

「それで今からあの美人と何発やるつもりだい? ホント羨ましいこった」

中嶋が足音荒く浴室から出て行くとさすがに宮崎が山口を咎めた。

「山口さん、いくらなんでも今のはまずいですよ」
「別にいいじゃねえか、本当のことなんだから。どうせあいつらは今から
お楽しみに決まってるさ。どうせこんなど田舎じゃ他にやることなんか
ありゃしねえんだからよ」
「そりゃあそうかもしれないですけど、あんな言い方したら誰だって
怒るに決まってるじゃないですか」

だが山口が一向に気にする様子はなく、かえって舌打ちし、物欲しげに言った。

「ちっ・・・・ あの女をぜひ撮ってみたかったけどなあ」

苦笑する宮崎。彼の「撮ってみたい」は「やってみたい」とほぼ同義なのだ。
山口は確かに腕のいいライターで彼の書く記事や撮った写真は評判がいい。
ただ、彼の女癖の悪さもまた業界内で評判だった。
組んで仕事をしたモデルには片端から手を出し、中には強引に酒を飲ませて酔わせ、
ホテルに連れ込んで半ばレイプまがいに関係をもって訴えかけられたこともあったと聞く。
それでも一向に懲りた様子はなく、逆にそのことを武勇伝よろしく自慢するのだから
たちが悪い。彼の口癖は
『性欲の弱いヤツ、女にもてないヤツは仕事もできない。今時の草食系男子なんてのは
問題外さ。「英雄、色を好む」ってのは本当だぜ』
である。

「でもホントいい女だよなあ。俺が今までに落したモデルにもあれほどの上玉は
なかなかいなかったぞ。ちぇっ、あんな野郎さえいなけりゃ、絶対夜這いをかけて
多少強引にでもモノにしてやるんだがな」

だが、そこで一転して山口は首をひねった。

「ただあの女、やっぱりどこかで会ったことがある気がするんだよなあ」
「またまた〜 山口さんは美人にはみんなそんな風に言うじゃありませんか」
「いや、あれは間違いない。最近絶対どっかで会ったことがあるんだよ」

宮崎は山口に釘を刺した。

「山口さん、彼女は恋人と一緒に来てるんですから妙なことは考えないでくださいよ」
「ああ、わかってる、わかってるって」

軽い調子で返事する山口に宮崎は小さな不安をおぼえた。夜這い発言は半ば本気だろう。
そういえば、山口が酔った時にこんなことも言っていた。
――女には被レイプ願望ってのがあってな。だから多少強引にでも一度やっちまえば
たいてい結果オーライさ。ほらよく言うだろ、『いやよいやよも好きなうち』って。

もう一度小さくため息をつく宮崎。

「(本当に分かってるのかな。これさえなきゃあ仕事はできる人なのに・・・・)」


────────────────────

「気持ちいい・・・・」

美幸がゆったりと湯殿に浸かっていると福岡夫人が入ってきた。

「よろしいかしら」

夫人は美幸のすぐそばに腰をかけると感嘆の声を上げた。

「きれいな肌ねえ・・・・ 本当に白くて瑞々しくてそれに艶と張りがあって。
こういうのもち肌だっていうのね。やっぱり若い人は羨ましいわ」
「そんな・・・・ さっきは本当にどうもありがとうございました」
「いいのよ、いいのよ。そうそうそれより・・・・」

夫人は興味津々といった感じで訊いてきた。

「ちょっとお聞きしてよろしいかしら?」
「何をですか?」
「こちらには新婚旅行か何かで?」
「えっ、いやっ・・・・ そ、その、私達まだ結婚したわけじゃ・・・・」
「あら、そうなの? 玄関のところに中嶋様御夫妻って書いてあったし、
すごく仲睦まじいから、てっきり私、新婚さんかと思ったわ」
「そんな・・・・」
「でも彼、よさそうな男性(ひと)じゃないの。本当にお似合いだわよ、あなた達」

美幸は頬を赤らめ、うつむいた。

「あなた幸せね」
「えっ?」
「だって彼を見てれば、あなたのことを本当に大切に思っていることが
よくわかるもの」
「そう・・・・ ですか」
「ええ。私、人を見る目には自信があるの。たぶん彼はちょっと不器用だけど
誠実で優しくてまじめな性格ね。そして誰よりもあなたのことを愛しているわ」
「・・・・」
「あなたもそんな不器用なところも含めて彼のことを愛しているんでしょ」
「ええ」

美幸はなぜか素直に頷けた。この老婦人が10年ほど前に急死した大好きだった
祖母にどことなく雰囲気が似ていたせいかもしれない。祖母が生きていれば
ほぼ同年代のはずだ。

「福岡さんもとても仲のよさそうなご夫婦にみえますけど」
「あら、そう? 実は主人とは小さい頃からの知り合いでね・・・・」

それからしばらく老婦人の思い出話に付き合わされた。
彼女は結構いいところのお嬢さんだったらしいが、両親の反対を押し切って
幼馴染だった今の夫となかば駆け落ち同然に結婚して家を捨てたのだという。
その後は随分と夫婦二人で苦労したようだが、二男一女をもうけて育て上げ、
今は仕事をリタイアした夫と悠々自適の生活らしい。
彼女は最後にこう締めくくった。

「そりゃあ生活は大変だったし、散々苦労もしたわ。
でもねえ・・・・ やっぱり私はあの人と結婚してよかったと思ってるの。
3人の子供にも恵まれたし、孫は6人、ひ孫も4人いるわ。
そりゃあ女にとっての幸せは人それぞれで色んな形はあると思うし、
一生独身ですごす女性が一概に不幸だとも思わない。
だけど、心から愛せる人と結ばれて家庭を作り、その相手の子供を産むのは
女にしかできない特権だし、本当にかけがえのないことだと思うのよ」

そう語る彼女は本当に幸せそうだ。

「あらあら、おしゃべりが過ぎたかしらね。それにこんな話、今の若い人には
ちょっとぴんとこないかも知れないわね」

上品に笑う福岡夫人。

「そんなことないです。いいお話をきかせていただきました」

自分も将来、中嶋とのことをこんな風に語れるようになりたいと、
美幸は心底思った。

夫人の長話に付き合ったせいでやや長湯しすぎたようだ。いくぶんのぼせてきた。

「すみません。お先に上がります」
「ちょっと待って」

湯殿から上がった美幸に、先ほどまでの穏やかな笑みとは一転して
厳しい表情になった福岡夫人が忠告した。

「あの山口っていう男には気をつけなさい」
「えっ?」
「あなたのことをホントいやらしい目つきで見てたから。
あれは・・・・ カメラマンの目じゃない、ケダモノの目つきよ。
そ、その・・・・ 私の言いたいことはわかるわよね?」

美幸は小さく頷いた。確かに彼が自分に向ける視線に何とも言えない淫らな光を
感じていたのは確かだ。

「はい、ご忠告ありがとうございます」



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