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ククールと初めて逢った日。
それは、しんしんと雪の降る夜のことだった。
その夜、マルチェロはなかなか寝付くことができなかった。
ベッドから起き上がり窓の外を見つめる。他の子供たちの迷惑になるので明かりは点けず……夜の闇のなか、それでも景色が白く染められていくのが分かる。明日は子供たちが大喜びすることだろう。
さくり、さくりと雪を踏みしめる小さな足音が聞こえた。時計を確認すれば、もう午前2時近くになっている。
こんな時間に誰がやってきたのだろう。目を凝らしてみれば、それは若い女性のようだった。
女性は院の扉の前に立ち、”なにか”をそっとその場に置く。
泣きながら、何かを祈るように十字を切り……そして、いままで抱いてきたものを見つめていた。
思わずマルチェロは部屋を飛び出した。
あれは、子供だ。いま、まさに自分と同じような境遇の子供が作られようとしている。
見つけてしまった以上見過ごすわけにはいかない。どうにか思いとどまって貰えれば……。そして、こんな寒い冬の晩、あんな場所に赤子を置いていこうとしている女性に対してひとこと何か言ってやらねば気が済まなかった。
もし、あのまま朝まで置き去りされていたら、あの子供は凍死してしまうかもしれないというのに。
突然開いた扉に、女性は驚いたようだった。
一瞬逃げようとしたが、すかさずその手をマルチェロが掴む。
自分は12歳……少年ではあるが、背丈は160センチあり腕力もそこそこついてきている。彼女を止めるのは容易かった。
睨み付けるように、マルチェロは女性を見つめる。 そして互いの姿を視界にとらえたとき、はっと息を呑んだのは二人同時のことだった。
「マルチェロくん…?」
驚きの表情を浮かべながらも、女性は問いかけるように口を開く。
そう、この女性をマルチェロは知っている。数年前まで自分が住んでいたアパートの隣に住んでいた女であった。
妻子ある男の子を身ごもり、自分をひとりで産み育てた母。 貧しかったが、母の沢山の愛情を受けてマルチェロは育った。
その女はその時アパートの隣に住んでいた女性。母とは年のころも近く、敬遠しがちだった周囲の住人とは違って懇意にしてくれた人だった。マルチェロ自身も可愛がってもらった記憶がある。
女性には夫がいた。しかし、とても幸せな夫婦関係とは言えなかったようだ。どちらかといえばヒモのような存在だったのだと思う。
たまに帰ってきては妻に金をせびり、言うことを聞かなければ暴力をふるう。その物音が、隣の自分の家にまで聞こえていた。
母は何度も別れるように諭したが、女は「優しいところもあるんです」と微笑むのみ。手に巻かれた包帯、痣だらけの足、痛々しく顔が腫れていたこともある。しかし、当時9歳だった自分には何も出来なかった。
彼女の夫は本当にどうしようもない男だった。女癖も悪かったらしいが、こともあろうにマルチェロの母にまで言い寄った。
妻のことで相談が…と神妙な顔でやってきた男を気軽に家に招き入れてしまった母も母だが、まさか彼が邪な感情で近づいているとは思わなかっただろう。あの日マルチェロが学校を早退して帰ってこなければ、どんなことになっていたか分からない。
しかし、その事実を知っても女は夫と別れなかった。男を信じようとしたのだ。マルチェロにとって、それは許すことのできない行為だった。
もう女性の顔もその夫の姿も視界に入れたくない。何より、母を危険な目に遭わせるわけにいかない。母を説得し、そのアパートを出ることにした。母が亡くなったのはそれから1年後のことだ。
以来、逢うことはなかった女性。
今まで抱いていたのは、あの男の子か。
「どうして、捨てるんですか?」
子供の真っ直ぐな瞳は、女の良心を強く揺さぶっただろう。女はマルチェロを正面から見ることが出来ず目を逸らす。
「育てられないの…。女ひとりでは無理なのよ」 「母は僕をひとりで育てました。その母も2年前に過労で亡くなりましたが」
詰るような口ぶりで、マルチェロは言い捨てる。女が同情するような視線を送ったが、厳しい瞳で突っぱねた。 「これは、あの男の子ですか?」
小さな籠に入れられたものを抱き上げながら、マルチェロは問う。まだ3ヶ月にも満たないだろう赤ん坊は、何も知らずに寝息を立てている。
「愛した夫の子でしょう? なぜ育てないんですか」
前半部分の口調が酷く苦味を帯びたものになっていることに、マルチェロ自身も気付いていた。しかし、堪えることなどできなかった。
女は冷たい雪の上に座り込んで、嗚咽を漏らす。
「あの人は、居なくなってしまったの。あの人はね、資産家の次男で……好きなことを好きなようにやって生きていた。でもね、跡取りであるお兄様が亡くなってしまって…実家に呼び戻されたのよ。
当然わたしも連れていってくれると信じていた。でもね、あの人は言ったわ。”身辺の整理はつけてから帰って来いと言われている。俺には或る社長令嬢との結婚が待っているんだ”
わたしはひとりになってしまった。あの人がいないと生きていけないのに」
どうして。
どうして子供とふたりで強く生きていく道を選ばないのだろう。
ひとりの男に依存し、全てを捧げ、捨てられ……生への希望をなくした女がどうなろうとマルチェロは構わなかった。
しかし、この小さな赤ん坊には罪はない。
「あなたの事情は分かりました。でも、こんな寒い雪の夜に自分の赤ん坊を置いていく。その行為は理解できない。明日の朝、冷たくなっているわが子を想像しなかったんですか」
女は顔を上げなかった。 罪の意識に苛まれているのか。そうだったらいい。自分の愚かさに気付き、少しでも思いとどまってくれれば。
腕の中の赤ん坊は”母親”を失うことはない。
しかし、彼女は母親でもなかった。
そこにいたのは母になれなかったひとりの「女」
「そう、ね…。考えもしなかった。この子、死んでたかもしれないのね」
マルチェロの中で、なにかが、弾ける。
「帰れ…」 赤ん坊を抱く腕に力がこもる。 「帰れ! 帰れ―――!」 精一杯の叫びをぶつける。
目を覚ました赤ん坊が火のついたように泣き出した。院の明かりが点って、周囲に光が漏れる。
それでも、彼は叫びを止めることはできなかった。
女は怯えたように逃げ出した。
マルチェロの叫びに、ではない。視線が全てを語っていた。 あの女は、施設の明かりが点るのを見て怯えたのだ。
直に誰かがこの場にやってくる。マルチェロのような子供でなく、分別のしっかりした大人が。
それらに説得され、自分に”この子”を返されることに怯えたのだ。
ほどなくして、数名の大人たちがやってきた。
マルチェロの腕に抱かれているものを確認して驚愕する。 「一体何があったのだ」と問いかけられてもマルチェロは答えなかった。答えられなかった。
赤ん坊が大声で泣いている。それを憎憎しげに見つめて、マルチェロは叫んだ。
「泣くな! お前はこれからひとりで生きていかなくちゃならないんだ!」
悔しかった。何に対してかは分からなかった。
ただ、どうしようもないやり切れなさが心を支配して、こんな小さな赤ん坊にまで八つ当たりをしてしまう。
混乱した子供……マルチェロを宥めようと、大人たちが手を伸ばした。赤ん坊を取り上げられそうになり、彼はそれを全身で拒む。
この子に親は居ない。 そう、自分にとっての母のような……”親”は。
しかしどう頑張っても、自分にはこの子の親になることはできない。
だから、兄になろうと思った。
血の繋がりなどなくても。
この子にとっての、たったひとりの家族になろうと決意した。
そして、現在。
あれから30年近くの日々が流れ、マルチェロはその”赤ん坊”の夫になっている。 |