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井戸端で女たちの快活な声がする。
若い独身の娘が二人と、結婚したばかりの初々しい奥方。赤ん坊を抱いている。そして50を超えたであろう主婦が数名。
水の周りにひとが集まるというのはよく言われることだ。こうして家事の合間に取り留めのない話で盛り上がる。この地が平和に治められている証拠だろうと、その町に立ち寄った青年は微かな、そして少々苦味を含んだ笑みを漏らした。あの中に水を分けてもらいに入るには多少の勇気がいるようだ。
彼は仕方なく近くにあった道具屋に立ち寄り、自分には必要もないだろう薬草を気持ちばかり購入すると、その店の主人に水を分けてもらった。それを少しずつ口に含んで喉を潤す。楽しそうに語る女たちの会話が、なんとなく耳に入ってきた。
「ああ、わたしもこの前教会で聞いたわ! 例の天使さまのことでしょう?」
「最初はそんなものがあるもんかねと思ったけどねえ。この前この町に立ち寄った旅の商人が同じ話をしたところをみると本物みたいだね」
「素敵だわ…! ああ、わたしもその天使さまのご加護を受けてみたい」
「いやだわイザベラ、そのためにはあなた、愛する主人を置いて旅に出なくてはならないことよ!」
天使、という言葉に青年は反応した。
普段ならば「この世に天使などというものがあるものか」と一笑して立ち去るところだが、多少興味が沸いた。
詳しい話を聞くにはキャアキャアと黄色い声をあげるご婦人よりも、教会を訪ねたほうが得策のようだ。
教会はそう遠くない。些か逡巡してから、黒髪の美丈夫は足を進めた。
まだこの地を離れていなかったらしい旅の商人は、瞳を輝かせ高揚した様子でそのときの「奇跡」を語る。
ああ、聞いていただけますか、旅のおかた。
あなたはお逢いになられたことがあるか? 美しい銀髪の天使に。
あれはわたしが遠く北の地からリブルアーチへと足を進める道中であった。
魔物の襲撃を受け、身体を癒す薬草も切らしていたわたしはそのとき死を覚悟していた。
大の字になって青い空をみつめ、このまま天に召されるのを待つばかりであったわたしの元に、そう…天使が現れたのです。
その瞳の色は今までわたしがみつめていた蒼穹……まさにアジュール。長い銀髪が太陽の光に輝いて…それはもう言葉に表せないような美しさで微笑むと、傷ついたわたしの身にそっと手を伸ばしたのです。
あのかたはわたしに癒しの呪文を施し、そればかりか水と食料をこの手に握らせた。
ああ、この衝撃を言葉のみで伝えることなど出来ましょうか。
それほどに高潔。かのひとの存在で、大気までが喜びに震えるようでした!
陶酔しきった語り口に、青年は苦笑した。
死を覚悟した絶望のなか、その人物と遭遇したことは、彼にとって確かに奇跡と呼べるかもしれない。だが、わが身に降った僥倖が出来事そのものを美化しているのではないか。そう疑いたくなるのも、今の彼を見ていれば致し方ないことだろう。
「ところで旅のおかた。わたしにその話を問うということは、あなた自身も何か思い当たる節があるのではないのですか」
青年が零した笑みに気付かなかったらしい商人は、なおも明るく言葉を紡ぐ。
「もしもあれが天使ではなく、実在する人間なのだとしたら…ああ、是非ともまたお逢いして、深く感謝の意を表したいのですよ」
そこで商人はしみじみと青年の姿を瞳に映した。さきほどまでは気付かなかったが―――それは商人が熱く語り、自分の世界に入り込んでいたためなのだが―――目の前の男は驚くほどの長身で、大層整った顔立ちをしていた。フードを深く被って隠してはいたが、美しい黒髪と類まれなる翡翠の瞳。それが優しく慈しむような色を取り戻す瞬間を、確かに見た。
「大変興味深い話をありがとうございます。……ですが、どうやらその天使はわたしの知っている者とは違っているようです。外見は多少似ているような気がいたしますが、彼は素行も悪くお世辞にも行儀がいいとは言えない男で……顔とイカサマだけが取り得のどうしようもない奴ですのでね。―――ああ、逃げ足もメタルスライムなみに凄いんでした」
ふわりと笑って、青年は踵を返す。その背中に商人は再び声をかけた。
「それは残念でした。ところで―――」
続けて放たれた商人の言葉に、青年は振り返る。
慈愛と悲哀と歓喜と……複雑な感情が混じった、それでも優しい微笑みだった。
「そうですか。……見つかるといいですね。天使さまの探し物が」
銀髪を靡かせ、背を向けた「天使」に商人は問いかけた。
あなたは一体どこにゆかれるのか?
野暮な質問ではあったが答えてくれた。商人に背を向けたまま、呟くように。
―――私は私を一番憎んでいる男を捜して旅をしています。
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