|
朝、ごく自然に目を覚ましたマルチェロが一番最初に受けた違和感は自分の右隣―――普段はそこで眠っているだろう人物が不在であることだった。
ゆっくり上半身を起こして、マルチェロは「そういえば」と思う。昨夜自分とククールは、些細なことから口論となり、仕舞いには半ば互いを無視するような形で床についたのだ。
今までの例を思い出せば、深い溜め息が漏れた。ククールは、マルチェロと喧嘩をしたり自分にとって不快なことが起こったりすると必ず無口になる。いや、無口などという生易しいものではない。末期状態は自分の前で欠伸や咳まで堪える念の入りようだ。
またククールとの冷戦が始まるのかと思うと気が重くなる。どうやら現在の異母弟は、マルチェロの気分を沈みこませることが出来るくらいの存在になっているらしい。……あのククールが気付いているかどうかは定かでないが。
残念ながら、兄は弟と違って惰眠を貪れるような性質ではない。ずっと部屋に閉じこもっていることもできず、マルチェロは不承不承立ち上がった。
着替えを済ませ、朝食の準備をするためにキッチンに向かう。
家にはどんな食材があったか、なにを作るべきか、そんなことに思考を巡らせていた彼だったが、あまりにも予想外の状況が待ち構えていたために呆然と立ち尽くす。
既に朝食がふたり分用意されていたのだ。ククールがしたことに違いない。
驚きの表情そのままに周囲を見回す。
どういうわけか、朝食の準備をした者本人は見当たらなかった。
朝食を用意するだけしてどこに行ったというのか。寝室に戻っているとは考えにくい。弟は偶に朝風呂に入っていることもあるが、今回に関しては件の理由も必要もないはずだ。何故かといえば、昨夜の自分たちは寝床を共にしなかったから。それに尽きる。
広い家でもないのだから、ククールが居れば何か物音がするはずだ。
そう考えたマルチェロが耳を澄ました。そのとき―――。
外から、鼻歌が聞こえた。
窓から窺うと、そこにはご機嫌で洗濯物を干している弟の姿。
マルチェロはますます分からなくなった。昨夜自分たちは喧嘩したのではなかったか。あの愛しい我が弟君は、怒ってひとことも口をきかずに自分の寝室に篭ってしまったのでは……。
それがどうだ。一夜明けてみれば、兄との諍いなど全て忘れてしまったかのように朗らかな笑顔。予想を遥かに超えたククールの行動に、マルチェロは戸惑いを隠せない。
『あんたは結局オレのことなんて邪魔だと思ってるんだろ?』
『ほら、やっぱり。そうやっていつもオレのことを引き離す。結局あんたは昔と何も変わっちゃいねえんだ』
何が気に入らなかったのか、昨夜突然不機嫌になった弟。吐いた台詞があまりにも馬鹿馬鹿しかったので、『そう思いたければ勝手に思えばいい』と軽く流したら次の言葉が出た。
後は売り言葉に買い言葉。ククールの放った台詞を否定してやることも肯定してやることもできないまま会話は強制終了した。マルチェロの決定的な台詞を最後に。
『―――私に不満があるなら出て行けばいいだろう』
言い過ぎたという自覚はあった。あのククールが本当に出て行くとは考え難かったが、それでも”もしかしたら”と心に引っかかっていたのは事実だ。
最悪の可能性も心の中で覚悟していたマルチェロにしてみれば、上機嫌な弟の姿は不可解としか言いようがない。本人に直接問い質してみたい気もするが、蒸し返すのは賢明でないと考え直した。
煩わしいが、邪魔ではない。引き離してるのではなく、受け流しているだけだ。
事と次第によってはそんな言葉をかけてやっても良かったが……どうやら必要なかったらしい。今回初めて自分から折れても良いと考えていたことを、あのククールは知らぬまま終えるのだろう。
「あ、起きたんだ。おはよう兄貴」
外から戻ったククールが、真っ直ぐマルチェロに向かって歩いてきた。
洗濯籠を放り出してぎゅっと抱きついてくる。その背を包んでやりながら、マルチェロも小さな声で”おはよう”と返した。
「晴れてるけど、外は涼しいを通り越して寒いくらいだよ」
「そうか」
他愛もない言葉のやりとり。それでも、甘えてくる弟を今朝はおとなしく受け止め、冷えた背中を手のひらで擦ってやる。
やっぱり兄貴はあったかいな、などとククールが言うので「人を暖房の代わりにするな」と、不満そうには聞こえない口調で不満を漏らした。
「昨夜さ、寒かった」
ぽつりと言ったククールにマルチェロは解せぬような表情を浮かべる。
「そうだったか?」
マルチェロ自身はそう感じなかったので、どうせこの弟のことだからうっかり毛布を蹴飛ばしていたのだろうと安直に考えた。就寝前は然程でなくても、最近は明け方に冷える。
しかし、ククールが発した次の台詞で、先の仮定が愚かに思えるほど誤っていたことを知った。
「オレ、最近ずっとあんたと一緒に寝てたから気付かなかった」
兄の肩に顔を埋めるようにして、ククールは言う。
マルチェロが”何に?”と問いかける前に。
「―――隣にあんたが居ないと、寒い」
その言葉にどんな想いがこめられているのか。理解できぬほどマルチェロは愚かでない。
再会して数年、マルチェロとククールはいくつかの季節をこの場所で過ごした。
現在はすっかり生活スタイルが出来上がっているが……暮らし始めた当初は探り探り、弟相手に遠慮などしないマルチェロでも些か戸惑っていたことを思い出す。
兄でさえそうであったのだから、弟のククールの苦労はそれ以上だったに違いない。
気を遣って居心地悪そうにしていたククール。不安そうな表情を見せるククール。心を押し隠してわざと軽口を叩いて見せるククール。
そんな彼の姿を最近見ていなかったということは……多少の喧嘩や諍いはあっても、ふたり上手くやっていたのかと今更ながら思う。
「オレさ、兄貴はオレに何もしてくれてないと思ってたんだ。優しくないし、最近丸くなったとは言ってもやっぱり嫌味は健在だし。……でもさ、それは大きな間違いだって気付いたんだ。
今のあんたはオレが引っ付いてても拒絶しない。怒って口を利かないときも、そっちから何かしてくれるってことはないけど、オレが普通に話しかけたらちゃんと答えてくれる。朝寝坊するオレの代わりにふたり分メシも作ってくれる。
こうやって平和に暮らせるようになってさ、オレ頑張ったなーなんて自画自賛してたわけ。でもさ、結局のところオレの努力なんて小さいもので全部兄貴がオレにくれてたもんなんだよ」
それは買いかぶりだろう。
このククールは、たまに兄への評価が高すぎることがあって頭痛がしてくる。
「というわけでさ、オレ、絶対に兄貴のそばを離れないって決意したから。今本当に幸せなんだ」
ぎゅっと強く抱きついてくるククールに、マルチェロは呆れて息をつく。
「私の意志は無視か……」
「なんだよ! 兄貴は幸せじゃねーのかよ。ほら、見ろよ今日。起きたらメシは出来てるし、洗濯物だって済んでるんだぜ」
「普段私がやっていることだ。お前こそ自分の幸せを痛いほど感じただろう。それはそれは、結構なことだ」
マルチェロのもっともな言い分に、ククールがぐっと言葉に詰まる。
しばらくしてから、それはあんたがオレを起きられなくなるようなことをするから……などと不穏なことを言い出したので打ち消すように言葉を遮った。
「私も、お前が隣に居ないと違和感がある。その程度にはお前を気にかけているから安心しろ。拒絶する理由も今のところはない。―――以上だ」
短い言葉で言いたいことだけを言うマルチェロに、ククールは「騎士団にいたときみてえ!」と憤慨したが、その口をキスで塞いでやったらおとなしくなった。
さきほどまで冷えていたククールの頬は、少し赤みを帯びて熱を持っている。
「ずるいよ、あんた…」
弟の愚痴は軽く無視して、マルチェロは食卓へと足を進めた。さきほども気付いていたが、自分の好物ばかり用意している弟はなかなか健気だ。
その健気な弟君ククールといえば、一度引き剥がしたものの今度は背中からべったりくっついている。
「いつまでそうしているつもりだ。食事が出来んだろう」
「昨夜の分を補完してまーす」
不満を漏らすマルチェロに対して悪びれた様子もない。強引に振り解いても良かったが、今日それを為すのは可哀想な気がして躊躇ってしまう。本当に自分は随分甘くなったものだと思う。
仕方ないので、マルチェロはククールに或る提案を試みた。
「では、私の膝の上で食事をするかね? 兄が歳の離れた弟を膝に乗せて食事するとは、なんとも微笑ましい光景ではないか」
勿論本心ではなかったが、こうでも言わねばククールは自分から離れようとしないだろう。20代半ばを過ぎた男が、どうして40近い男の膝で食事をしたいものか。慌てて離れるだろうと考えていたのだが。
―――なぜかククールは乗りに乗っていた。
「やだなぁ兄貴ったら! まるで何かのプレイみたいだけど、兄貴が良いって言うならオレは喜んでやるよ! オレ、ずっと昔から夢だったんだよね。兄貴の膝の上で食事するの。ガキの頃の夢が20年の時を越えて今!って感じ?」
「ちょっと待て、ククール…!」
無理やり食卓に着かされそうになって、マルチェロは慌てた。が、こんなときのククールの勢いは凄まじい。拒否する暇もあったものではない。
「ああ、やっぱり椅子じゃ狭いか。……よし、今日はリビングで食べようよ! ソファならきっとふたりでも座れるって」
「おい、待てククール。私が悪かった、だから……」
マルチェロの言葉など聞こえてないのか(それとも聞こえないふりをしているのか)ククールはいそいそと朝食を移動し始める。
弟は先程”何かのプレイみたいだけど”と言っていたが、マルチェロにとってはとんだ羞恥プレイではないか。
しかし、もう逆らえる自信などない。第一、言い出しっぺは自分であるのだから。
左手でサラダの皿を、右手でフォークを。
そして膝の上には自分の異母弟が。
結構悪くはないと癖になってしまったのはマルチェロの方で、「もうやめてくれ」とククールが泣きついたのは後の話。
ふたりの住む家は、冬の訪れが近くなっても温かかった。 |