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鈍色の空から大粒の雨が降ってきた。
いままさに帰宅しようとしていたククールが、不機嫌そうに眉を顰める。
雨が降りそうだから、今日の買い物はやめておけ。
そう言ったマルチェロの姿が脳裏に浮かぶ。雨具を持っていくように言われてそれには従ったが……ずぶぬれになった自分を見て、「それみたことか」と彼の嫌味がひとつやふたつ飛んでくるのは免れないだろう。
残念ながら雨脚は酷くなる一方で、やむ気配は殆どない。
風向きから雲の流れを読み、西の空をうかがう。厚く覆われた雲が「今回の雨は長引きますよ」と訴えてるようで悔しかった。
雨に濡れるのはなんでもない。
リュウたちと旅をしていたときには、もっと酷い嵐の中を歩いたこともある。
フェミニストのククールは当然ゼシカの盾になってやった。そのククールの盾になってたのがヤンガスとリュウだったという突っ込みは受け付けないが。
自分自身が軟弱だとは思っていないが、彼らふたりに比べれば見劣りしてしまうのは仕方がない。見た目が優男という点もあるのだろう。
しかし、こう見えてもククールは結構きつい仕事をこなしてきたのだ。あの騎士団で。
大嵐のなか、塀の修理やら屋根の修理をやらされたこと。(風に煽られてもう少しで落ちそうだった)
増水した河川の見回りに行かされたこと。(足を滑らせて落ちそうになったこともある)
挙げていけばきりがない。
それも、大概それはククール自身が命じられたことではなく、先輩騎士に押し付けられたものだった。本当によく逃げ出さなかったものだと自分自身を褒めてやりたい。現実誰も褒めてはくれなかったので自画自賛になるが。
―――あいつは、いつも見て見ないふりしてたし…。
当時騎士団長を務めていた兄のことを思い出す。
彼はいつも窓の向こう側にいた。ずぶ濡れになって帰ってきたとき、塀の修理をしているとき。きっとククールに気付いていただろうに……彼は一瞬たりとも目をくれなかった。
それどころか、わざわざククールがいる場所で他の団員を褒めてやっていた。そう、マルチェロが仕事を命じた本人のことを、だ。実際その仕事をしたのがククールであることを知りながら、あえて。
―――うわ……だんだん腹立ってきたかも。
握り締めた荷物に力を込める。
濡れるのは何でもないと豪語するククールが帰宅を躊躇っている理由がそこにあった。
それは、一冊の本。気紛れに覗いた古本屋で偶然見つけた”それ”は、マルチェロが予てから欲しがっていたものだった。
内容は難しくてよく分からないが、表紙に特徴があったし、前編と後編に分かれているということで何となく覚えていた。マルチェロが持っていたのが前編、そしてククールがいま手に持っているのは後編だ。
結構値の張る書物だったらしく、おかげでククールは買おうと思っていた酒を我慢する破目になった。帰宅せずに雨宿りしているのも、本が濡れてしまったらマルチェロが落胆するだろうと懸念してのこと。
こんな健気な弟に対してマルチェロときたら……あんまりな仕打ちではないか。
「ま、今更昔のことを言ったって仕方ねえよな」
思い直して、ククールは荷物から雨具を取り出す。
強い雨の中を走り出し、ひと気のない場所で瞬間移動の呪文を唱えた。
帰宅したククールを見て、マルチェロは呆然としたようだった。
それも当然だろう。髪は空気が入り込む余地もないほど水気を含んで頬や首に張り付いていたし、衣服も薄い青から濃い青に変色して雫を落としていた。
「雨具を持っていけと言ったはずだが?」
呆れを通り越して怒りすら感じている様相。腕組みして言い放つマルチェロの声音はどこまでも厳しい。
しかし、当のククールは大して悪びれもせずあっさりと答えた。
「ちゃんと持っていったけど?」
「持っていったなら何故そんなにずぶ濡れになっている」
「着てこなかったから」
うちの弟はこんなに馬鹿だったのか、とでも言いたげにマルチェロが右手でこめかみの辺りを押す。弟と同じくらいに濡れて光っている野菜や果物などの食材を見て、ますます頭痛が酷くなったようだった。
だから今日買い物に行くのはやめろと言ったのだ。そんな恨み言を口に出しても詮無いこと。諦めて顔を上げたマルチェロに差し出されたのは、ククールに持たせたはずの雨具だった。
「多分中身は濡れてないと思うんだけどさ」
ククールが雨具に包まれている”もの”を守るためにずぶ濡れになって帰ってきたのだと悟って、マルチェロはその正体を訝しむ。いくら弟が馬鹿で風邪をひかないからといっても、そこまでのことをさせる価値があるものが存在するとは思えなかった。(そう口に出してやれば喜ぶだろうが、絶対に言わない)
雨具に幾重にも巻きつけられ、守られていたもの。視界に映して、マルチェロは言葉をなくす。
その驚いた表情を見て、ククールはとても満足そうだった。が、どんどん兄の表情が厳しく変化していくのに気付いて戸惑いを隠せない。
「あれ…? もしかして……オレ、間違ってた?」
気まずそうな表情を浮かべるククールに対して、兄は低い声でひとこと答える。
「いや、当たっている」
「そっか。良かった!」
嬉しそうな笑みを浮かべるククールだったが、それでもやはりマルチェロは不機嫌だった。
「あの……。兄貴、嬉しくない?」
その問いかけには、軽く首を横に振るだけで答えた。
どうにも解せない態度をとる兄に焦れたのか、ククールが頬を膨らませて憤慨する。
「だったらさぁ、もう少し嬉しそうな顔してくれよ。オレ、あんたが喜ぶと思って頑張ったんだからさ。ついでにさ、『よくやった』の一声があるとなお嬉しいね。
覚えてる? 騎士団のころ。あんたさ、オレが頑張ってキツい仕事しても何も言ってくれなかったじゃん。オレは褒められて伸びる子なのよ。その辺のところ分かってますかーお兄様」
ククールはまくし立てたが、マルチェロは、言葉の意味よりもそれを発する弟の唇の蒼さに気をとられていた。
マルチェロは無言でククールの右手を取ると、そのまま風呂場へと引っ張っていく。後方でごちゃごちゃ文句を言っているのは無視することにした。
よくやった、なんて。
心にもないことを言えるはずがない。
今も昔も。
「……風邪などひくな」
風呂場に放り込んで、置き土産の言葉をひとことククールにくれてやった。
その真意を分かっているのか居ないのか、ククールは「そうだよなぁ、オレが風邪なんてひいちまったら兄貴も本を読むどころじゃなくなるもんな」などと訳のわからない納得をしている。
―――お前が考えているよりも、私はお前を大切に想っている。
それを伝える術を知らぬ自分より、身を削りながら愛情を訴える弟のほうが立派なのだろうか。
「ばか者め……。だからあれはまだまだ未熟だというのだ」
呟いた言葉は、勿論ククールには届かない。
風呂から上がったククールが見つけたのは熱心に本を読んでいる兄の姿。ククールの存在は勿論、少し強くなってきた雨風の音も気付かないほど集中しているのだろう。
普段は「構ってくれない」と文句を言うククールも、今日ばかりは嬉しくて微笑を漏らす。
なぜならば、兄が読み耽っているのは先程自分が手に入れてきた本。
「本当は嬉しかったくせに、素直じゃないねー」
そのまま夕食の準備に取り掛かったククールは、”満足そうな弟の姿を見てマルチェロが苦笑を漏らしたこと”に気付くことは出来なかった。
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