雨と風が強い夜だった。
少しだけカーテンをずらして、ポップは外の様子を伺う。
窓を叩きつけるように降り続く雨と、うなりをあげる強い風。窓に映った時計の針は三時の形を作っているが、実は九時だ。あるはずもないのに、一瞬「もうそんな時間か?」と考えてしまった自分が愚かで笑えてくる。
この雨と風とでは、きっと来ないだろう。
ちょっとだけ残念に感じてしまうのが悔しい。
別に約束しているわけではないし、そう望んだわけでもない。彼が勝手に来るだけなのだ。
来るも来ないもあいつの勝手で自分が一喜一憂する理由などない。そう言い聞かせるように頷いて、ポップはベッドの中に潜り込んだ。
ヒュンケルはいつもこの時間にポップの部屋のドアを叩く。
用事など作らない、言い訳もしない。そんなヒュンケルを部屋に招き入れるかどうかはポップの一存だ。
眠いときは正直にそう告げるし、そもそも仕事や用事があるときは自室に居ないこともある。しかし、彼は文句ひとつ漏らさないで素直に帰っていく。
滞在時間も1時間程度と短めだ。酒を飲んだり、話をしたり……互いに本を読んでいて会話らしい会話をしないこともあった。
そんな状況であるのに、なぜヒュンケルは尋ねてくるのか。その理由を知りすぎるほど知っていたポップは毛布にくるまってひとり赤面した。
ヒュンケルは、ポップのことが好きだ。はっきり言われたのだから間違いない。
そう、彼は自分に逢いたいだけなのだ。
……そして。
ヒュンケルが去る間際、ポップは彼が自分にキスすることを許している。本当にその時だけ。別の場所、別の時間には絶対にそんなことをさせないから、彼の一番の目的はそれなんじゃないだろうかとまで思っている。自惚れではない、ポップに確信させるものがその時のヒュンケルにはあるのだ。
「おやすみ」と低く憂いを帯びた声。
優しく頬を包み込む大きな手。人差し指で軽く髪を梳く。
そっと重ねられたくちびるは優しく。
目を開けると、そこには愛しくてたまらないと言ったように細められた紫色の瞳。
それから、何も言わずドアを開けて去っていく。
その背中を見送る自分の表情がどんなものなのかポップには分からない。
でも、きっと焦がれたような顔をしているのだろうと思う。
きっと現在の自分のように。
ポップ自身も、ヒュンケルが好きだ。それでも、どうしても素直になれない。
いっそのこと無理に奪ってくれれば……憎まれ口を叩きながらも彼のことを許して、正々堂々と彼の傍に居られるのに。そんな愚かなことを考えることもあった。
ポップが本気を出せばそう仕向けることは簡単だ。しかし、実行してしまえばヒュンケルを苦しめることになるのも分かっている。臆病な自分を棚に上げ、ずるいやり口で彼を追い詰めることなどしたくない。真っ直ぐな想いを、裏切るような真似などできようはずがない。だから、ポップはいつもヒュンケルを牽制し、予防線を張り続けているのだ。
カチリと時計の針が鳴る音がする。
雨の音、風の音、時計の音。全てが耳障りで眠ることができない。
意識せずともポップの身体は探っている。彼の気配を、足音を。
研ぎ澄まされた感覚は、過敏なまでにヒュンケルを求めている。
がたりとドアが鳴る音がして、ポップは思わず飛び起きた。
しかし、いつも控えめに叩かれるノックの音は聞こえない。それが風のせいだったことに気付いて、ポップはどうしようもなく泣きたくなった。
寝巻きを脱ぎ捨て、普段着に着替える。身体をすっぽりとマントで包むと、雨と風が舞い込んでくる窓を開け放って飛び出した。
**********
自分を迎えた男は、とても複雑な表情をしていた。
驚きと、困惑。少しの怒りと、隠せない喜び。それらの感情が混ざりあって、言葉もない。
しかしそれは一瞬のこと。濡れ鼠になったポップを心配して直ぐに家の中に招き入れる。
感情のままに風雨の中を飛び出したポップだったが、ヒュンケルの家のドアをノックするのには躊躇いがあった。
途方に暮れて戸外に佇んでいると、突然開いた扉。ヒュンケルは今まさに出かけようとしていたという出で立ちでポップの前に姿を現したのだ。
どこかに行くつもりだったのかと問いかければ、「お前のところに行くつもりだった」との言葉。雨が少し弱まるのを待っていたのだが、その気配がないので諦めて出ようとしたのだという。
「まさかお前がいるとは思わなかった。こんなに驚いたのは久しぶりだ」
ポップの髪の毛をタオルで拭きながらヒュンケルが言う。
その時の表情を思い出してポップが忍び笑いを漏らすと、彼は照れたように「笑うな」と呟いた。
頭と顔はなんとかなったのだが、いまだ衣服はずぶ濡れのままだ。
「あのさ……」
冷たくなった身体を温めるために風呂を貸してもらおうと考えた。しかし、開きかけた口はすっぽりとヒュンケルの胸に収まってしまう。力強い腕に捕らわれてポップは身動きができない。これではヒュンケルも濡れてしまうと必死に抵抗して引き剥がそうとしたが、彼は力を弱めようとはしなかった。
「すまん。見ないでくれ。多分オレは今、どうしようもない顔をしている」
ヒュンケルの言う”どうしようもない顔”
それに、ポップはこれまでに感じたことがないほど強く胸を打たれる。
「ガキの頃さ、こんな夜の日は怖くて眠れなくてさ……」
ベッドの上、独り言のように呟くポップをヒュンケルが背後から包む。
「母上に抱き締めてもらいながら眠ったのか?」
その言葉が的を射ていたのか、ポップが悔しそうにヒュンケルの腕をつねった。
「わりいかよ……」
「悪くなんてないさ。以前も思ったが、本当に良い母君だな」
自分の親を褒められて満更でもないポップが、寝返りを打ってヒュンケルの胸に収まる。
少しだけ身体が震えているのを見咎めて、ヒュンケルは毛布をポップの肩にまで引き上げた。
「寒くはないか?」
「へーき。お前は?」
自分を抱き締める男のわき腹を温めるように擦りながら問いかけるポップに、ヒュンケルは一瞬言葉をなくす。
闇の世界で生きてきたヒュンケルは寒さには殊更強い。しかし、それを今言うのは違うような気がした。
自分に労わりの言葉をかけるポップの方が、とても寒そうだったから。心を冷やしている暇などないのだ。
「少し、寒いな……」
ヒュンケルは嘘をついた。
「そっか……。じゃあ、今夜はずっとおれが温めてやる」
伸ばされたポップの手をとって、ヒュンケルは彼にくちづけた。
**********
翌朝。
風は落ち着きをみせたものの、いまだ雨はやまぬままだった。
「本当にお前は運がいいな」
苦笑しつつ言葉を漏らすヒュンケルは、既に登城の用意を済ませている。それに対して、ポップは起きようとする気配も見せず……毛布に包まってベッドの上をごろごろ転がっていた。
「お仕事ご苦労さまー。きっと今日は一日雨だぜ。おれ、休みで本当ラッキー」
やーい、ざまみろヒュンケル。
そんな可愛くない台詞を受け止めつつ、ヒュンケルは健気にもポップの朝食と着替えを用意しはじめている。
「ほら、いい加減に起きろ。雨の中仕事に向かう人間を見送るくらいしてもいいんじゃないのか」
中々顔を出してくれないポップに焦れたのか、些か非難めいた色を乗せてヒュンケルが言った。
「やーだね。おれ、今日は一日寝てることに決めた。うん、それがいい。こんな雨の日に起きるなんて間違ってるね」
喧嘩を売っているようにしか聞こえない言葉がベッドの中から返ってきたが、あることに気付いてヒュンケルは薄く笑みを浮かべる。
毛布を無理やり引き剥がすと真っ赤な顔をしたポップの姿があった。
愛おしさにたまらずくちびるを寄せる。
「気に入ったか?」
「ばーか、おめえは気障すぎんだよ!」
ポップは外方を向いたが、それが照れ隠しなのは一目瞭然だ。
「高かったんじゃねえの、これ」
左手の腕輪を見つめながら、ポップが問いかける。
「まあ、そこそこな」
「あのね、こういうときは『安物だ』とかカッコつけんだよ。まったく。いくら今日がおれの誕生日だからってさ、こんな高いものを寄越して……」
ブツブツと文句を言い始めるポップ。
困惑している彼に「気にするな」と言ってやるのは簡単だったが。
多少の勇気を必要としたものの、ヒュンケルは平静を装ってその言葉を放った。
壁のカレンダーをまくって、ある日付を指差して。
―――オレの誕生日、楽しみにしてるぞ、と。
師が決めてくれた誕生日を、初めて師以外の人間に打ち明ける。
ポップの性格ならば「そんなん知りたくねえ!」とか「なんでおれが!」とか反論するだろう。少なくともヒュンケルはそう思っていた。
しかし、毛布の中の少年の答えは、意外なもので。
「ふん……。楽しみに待ってろ。すげーいいものやるから」
数ヵ月後、ヒュンケルは最高の贈り物を受け取ることになる。
それは、ポップの「好きだ」という言葉だった。 |