災難
授業が終わると、誰もが帰路につくか、或いはグラウンドや別館に設けられた部室へ向かうため、放課後の校舎はいつも異様なほど静かだった。
木下はそんな静まり返った廊下を歩いていた。空気の流れる微かな音と自分の足音しか聞こえないのが心地よい。しかしそれも普段ならの話。彼は今、非常に機嫌が悪いのだ。静寂を楽しむ余裕など欠片もない。理由は廊下を曲がったところの空き教室にあった。
その問題の空き教室へやってきた。木下は扉に手をかけ、一気に引き開ける。苛立ちを遠慮なくぶつけたため引き戸は勢いあまって壁に突き当たり、けたたましい音を立てた。
中にいた三人のうち二人、望月と平は物音に驚いて彼を見る。その無防備な反応が少しだけ愉快だった。
「遅いですよ。早く入りなさい木下くん」
しかし残りの一人である小林は表情をまったく変えず、ちらりと木下を確認しただけだった。
木下の機嫌はますます悪くなった。小林の無反応っぷりには日頃から頭にきているのだ。そもそも入学時に知り合ってから今まで、怒っているところはおろか、笑っているところすら見たことがない。今だって完全に不意討ちだったはずなのに、返ってきたのはちっともオモシロクない反応。もしかしたらあの顔は仮面か何かじゃないだろうか、とさえ思えるほどだ。
「話って何だよ小林」
丁度目の前にあった机にも八つ当たりをかまし、木下は教卓に腰掛ける小林に近づいた。彼が教室内に入ると同時に、小林が望月に目配せする。すると望月は入り口へ向かい、そっと扉を閉めた。小林の下僕とも取れる行為に、木下の怒りは募る一方だ。
「木下くん。貴方は先日の千里台高校での出入りで、私の命令を無視して行動しましたね」
彼が望月に文句を言おうとした時、小林が澄んだ水のような声でそれを遮った。
木下の脳裏にさして遠くはない過去のことが蘇る。最初は小林の指図通りに行動していた。しかし鎖を振るうたびに誰かが悲鳴を上げるのが愉しくて、気付くと口元を吊り上げて笑いながら、手当たり次第に。あの状態できちんと水色の制服のみを狙っていたのは奇跡に近い。
「ああ。それがどうかしたのかよ」
「貴方のその行動のせいで、我々の作戦は大幅に変更せざるを得なかったのですよ。少しは反省したらどうですか」
ガタン、と望月によって机が元の位置に戻される音が響く。
「おいおい、やられたんなら文句言われても仕方ないけどな。俺はむしろ千里台の奴らを大勢ツブしただろうが! 礼を言ってほしいくらいだぜ」
「お前な! 迷惑かけたんだから謝れ!」
不意に背後からやけに上ずった声が飛んだ。振り返ると、平が焦った表情でこちらを見ている。
「んだと! 誰がいつ迷惑掛けたよ!」
「木下、ここはおとなしく謝っとけって」
ドスのきいた声で怒鳴りつけると、望月まで平に加勢した。木下をなだめようと一生懸命作り笑いをしているが、彼もまた顔に焦りが見え隠れしている。
「自分には非がないとか思ってても謝っとけ!」
「てゆーか小林さんに逆らうな、いやマジで」
「そうそう! お前、ただでさえ小林さんに逆らいすぎだし!」
「謝れって、な? 謝りゃ済むんだから」
何故か二人ともやたらと必死である。
「望月くん、平くん?」
しかし小林の妙に威圧感を含んだ声で、二人は石像のように固まってしまった。いくら相手が小林とはいえ、四天王らしからぬ怯え方である。
「余計なことは言わないように」
「は…はい」
一瞬、ほんの一瞬だったが無表情な小林の瞳の奥に異様な光が見えた。殺気とも気迫とも違う、一番近いものと言えば…獲物に狙いを定める獣のそれ。何故反省を促す二人を黙らせたのかも少しばかり気になった。まるで、木下が逆らうことを誘っているみたいな。どうも小林の様子が普段とは違う。
「で、木下くん? 反省する気はあるのでしょうね」
それでもこう言われるとつい噛み付いてしまうのが木下だ。駆け引きとは縁のない人間だと自分でも実感している。
「あるわけねぇだろ! 俺は俺のやりたいようにやる! それの何が悪い!」
最高潮になったイライラに任せて叫び、また机を蹴り飛ばす。机は周囲の机や椅子を巻き込んで教室の床をすべった。
小林はそれを眺め、溜息をついた。そして切れ長の目が真っ直ぐに木下を見据える。
「そうですか。では…仕方がない」
一気に室内の空気が張り詰めていく。木下は腕に巻きつけてある鎖を握り締めた。愛用の得物が歯軋りのような音を立てる。小林は力ずくで来るつもりなのか。ならば望むところだ。返り討ちにして…
「お仕置きが必要ですね」
にっこり。
「へっ!?」
いきなり小林が見せた満面の笑みと、場の雰囲気に全く適していない“お仕置き”という単語に木下は思わず素っ頓狂な声を上げた。あまりのことに苛立ちも吹っ飛んでしまう。
「聞こえませんでしたか? お仕置きが必要だと言ったんですよ」
仮面のような普段の顔からは想像もつかない、凄まじくにこやかな表情を崩さずに小林は言った。話し方も語尾に“はぁと”でも付きそうなものに変わっている。
小林の言うお仕置きとは、どう考えても闘って力の差を思い知らせるということではなさそうである。何よりあの目。新月のごとく細く弧をえがいて笑う目の奥には、今度ははっきりとあの光が見て取れる。まさに獲物に狙いを定める獣そのものだ。だが仮に小林が狙いを定めた獲物が木下だとして、まさか本物の獣よろしく食欲を満たすために狩りをするわけではないだろう。では一体何を満たすため…そこまで考えた時、嫌な予感がして木下の背筋を悪寒が走った。
「ま、まさかお仕置きって」
「強姦というやつですね」
木下が続けかけて飲み込んだ言葉を、小林は天使の微笑で言い放った。嫌な予感は見事に的中してしまったようだ。あまりにも異常な事態が確かに起こっている現実に目眩がした。
不意に入り口の方で戸が開く音がした。はっとしてそちらを見やると、望月と平が素早く外へ出ようとしているところだった。
「おい、お前ら!」
慌てて後に続こうとしたが、戸は無情にも木下の眼前で閉ざされた。手を掛けて引こうとしても、向こう側から押さえつけられているのかびくともしない。
「よくもハメやがったな! 出せ! 出せっての!」
「これは小林さん個人のシュミだよ。俺たちは無関係…見張りは頼まれてるけど」
いくら力に自信があるとはいえ、一対二、しかも相手が同じ四天王のメンバーでは勝てっこない。ガタガタと空しい音がするばかりだ。反対側の扉へ回ったところで同じだろう。何とかして逃げないと、という思いで一杯の木下の耳に、廊下からふざけたノリの会話が飛び込んできた。
「大体さ、俺らはちゃんと忠告したし。な、もつー」
「そうだよね、たいらーん」
「お、鬼―――――――ッ!! お前ら鬼だ―――――――ッ!!」
叫んだ途端、ガシッ! と肩を掴まれた。恐る恐る振り向くと、やっぱり笑顔の小林の顔があった。木下は今になってようやく感情の赴くままに行動してきたことを後悔した。
「さ、それじゃ始めましょうか」
うきうきしたセリフが終わるか終わらないかの内に、木下は床に叩きつけられ、組み敷かれていた。そこは皮肉にも、先ほど彼が机を蹴ったせいで開けたスペース。
「貴方ってサディストでしたよね? でも私はそれ以上にサディストですよ。覚悟してくださいね」
何処に隠し持っていたのか、小林はロープを取り出した。その表情は、歯がキラーンと光りそうなほど爽やかだ。
「い…嫌だぁ―――――――――――――――――!!」
割と時間が経ったように思う。もう戸を押さえておく必要はないだろう。手を離して煙草を取り出すと、望月が脇からライターを差し出してくれた。
「おう、サンキュ」
好意に甘えて火を貰うと、平は煙を存分に吸い込んで味を堪能した。
教室の中の物音はあまり聞きたくないが、どうしても耳に入ってきてしまう。木下はしぶとく無駄な抵抗を繰り返しているようだ。さっきまで響いていた悲鳴は口を何かで塞がれてしまったらしく、もう聞こえてこないが。
「これで木下も仲間入りか…」
「よせよその言い方…」
望月は前髪を掻き上げ、やや大袈裟に溜息をついた。制服の袖から赤い筋のついた手首が覗く。そういえば四天王で最初に小林に狙いを付けられたのは彼だった。しかも余程気に入られたのか、ことあるごとに嬲られている。
「ああ、悪い悪い。それにしても小林さん、鬼だよな」
「鬼なんてもんじゃねえよ。今日の木下だって、普段ならあれぐらいで呼び出したりしないし。ヤる理由が欲しかっただけだろ」
平が吐き出した煙は揺らめきながら空気に溶け込んでいった。もたれている戸の向こうからはくぐもった声が必死に何かを訴えていたが、彼は窓の外を見ながら聞こえないふりをした。小林と木下なら、小林の方が怖いに決まっている。望月だってそのはずだ。
しばらく二人は黙って外を眺めていた。ひたすら灰になってゆく煙草だけが時間の流れを形にしている。
「なあ、何で俺たち四天王やってんだ?」
不意に望月が口を開いた。
「小林さんから離れたら、こんなことする必要もないのにさ」
平は最後の煙を吐き出すと、窓から煙草を投げ捨てた。そして望月に苦笑を投げかける。
「ヤられんのも悪くないって思ってるんじゃねえ?」
「ばっ…馬鹿、んなわけないだろ!」
声を荒げて反論する望月の顔が赤くなっている。平はそれ以上何も言うなという意味で彼の頭を乱暴に撫でた。結局今言った理由なのだろう、自分たちが小林から離れないのは。勿論怖くて逆らえないというのもあるが。
「平! 望月! そこにいるんだろ!? 助けろ!」
その時、猿轡を解かれたのか再び木下の悲痛な声が聞こえ始めた。どうやらまだまだ“お仕置き”は続きそうだ。例の獣のような目を思い出してちょっと鳥肌が立った。
「おい! おいってば! うわっ、小林やめろ!」
立ちっ放しが疲れてきたのか、望月がずるずるとその場に座り込んだ。平もならって腰を下ろす。窓から見える風景は空だけになった。
「聞こえてんだろ!? 何とかしてくれ、俺もう…ギャ―――――!!」
外はよく晴れている。この分だと、あと一時間もすれば綺麗な夕焼けが見られそうだ。
「平、何か聞こえるか?」
「いや、気のせいだろ」
わざとらしい問いにわざとらしい答えを返し、平は二本目の煙草を取り出した。程なくして、また煙が辺りを漂い始める。煙草を持つ手を軽く振り、器用に煙の輪を作って遊びながら平は呟いた。
「木下…頑張れよ」
望月に聞こえてしまったらしく、派手に噴き出される。平もつられるようにして笑った。
日が傾き始めた空をゆっくりと鳥が飛んでいく。実にのどかな放課後だった。ただ、時折木下の生々しい悲鳴が聞こえてくる以外は。
「もう…もう勘弁してくれ――――――――――――――――!!」
ヒスイから頂いた小林×木下小説です!
小林さんがクールで鬼で素敵過ぎ。
木下だけでなくしっかり他の四天王もモノにしている辺りに感動。
望月がお気に入りと言うのも嬉しいです。ほら、やっぱり小林×望月だし
サディストな小林さんは何をしでかしてくれるのかしら、ドキドキ
でも、木下もサドっぽいですよねぇ何となく。
中々お目にかかれない冷峰のやおい小説を有難う御座いました☆大感謝!