デハビランド 「モスキート」 
     
         デハビランド「モスキート」

 軍用機は一般的にその国の軍部や国防省が性能要求を出し、メーカーはそれに沿って研究を行い設計・開発→審査→量産に移るのが流れであり逆のパターンはほとんどありません。その理由としては用兵側が必要としていないコンセプトだったり、性能不足ならば即不採用となり、莫大な開発費は回収できないからです。(これは現代の家電メーカーでも同様で、企画部が指示を出す前に設計・開発部が動きを起こせば責任者はただでは済まされない)

 1938年、大手航空機業界の圧迫と鉄・アルミなどの戦略物資不足の状況下で木製航空機の製作を提案したメーカーがありました。1920年、エアコー社のチーフエンジニアが立ち上げた航空機メーカー「デハビランド社」でした。

 しかも、デハビランド社が提案したのは当時ドイツの主力戦闘機であったBf109を最大速度で振り切ることのできる非武装型高速爆撃機でした。ヨーロッパにその名を轟かせていた最新鋭戦闘機スピットファイアでさえ、振り切れるかどうかという状況で木製機に実現できるはずがないと官僚達は考えました。イギリス空軍省はこの異色の新型機には反対の立場をとり続け、ドイツ陸軍がイギリス・フランス連合軍に止めを刺した「ダンケルクの撤退」以降も3度に渡って計画中止が出されるほどの嫌われぶりでした。


 1940年3月、ようやく偵察機としての試作許可が下り、1年後の1941年2月に試験飛行が実施されました。試験飛行前に空軍省に提出された資料では最高速度は630キロが可能であると報告されましたが、誰も信じていなかったといわれています。試験飛行の結果は上々で最高速度は設計値とほぼ同等の630キロを記録し、軍関係者を驚愕させました。公約通り、戦闘機を振り切る高速性能を発揮したわけです。


 モスキートの特徴は材質のほとんどが木材であるため、金属材料を大幅に削減でき、木工関連の業種全体を機体生産に動員できることや木製機はレーダーに探知されにくい点がありました。イギリスのみならず、日本やドイツでも木製機の開発は行われていますが、画期的な新型機はついに登場せず主翼に木材を使用したドイツのコメート、日本の四式戦「疾風」の木製試作機(開発中止)程度しか挙げられません。

 制式採用後は、写真偵察タイプ、高高度爆撃タイプ、(夜間)戦闘機タイプを出発点に多数の派生型やそれに準ずる改良機が数多く生産されました。マーリンエンジンのパワーとデハビランド社のレベルの高い機体設計は速度性能だけでなく、搭載量にも優れており偵察機タイプで250kgクラスの爆弾を2つ装備することができました。さらに高高度爆撃タイプは1.8トンまで搭載することができ、これは日本の中型爆撃機を凌駕する搭載量でした。

 主に爆撃機タイプが対ドイツ戦に使用され、レーダー妨害の電子戦や夜間に中枢設備を奇襲する軽爆撃で最も戦果を挙げました。また木製であるため、迎撃機からの被弾に強く生還率が高いこともモスキートの優秀性を語るのに欠かせない要素の一つとされています。

 戦争終結後も生産は続けられ、ジェット機が登場した戦場でも使用され続けました。

戦後、デハビランド社は世界初の民間用ジェット旅客機DH106「コメット」を就航させました。

 コメットは従来の旅客機と乗客数はさほど変わりませんでしたが、倍のスピードで運行が可能になり、成層圏の飛行が可能であるため天候の影響は受けないとベストセラーになるはずでした。しかし、1954年成層圏飛行中コメットの墜落事故が発生しました。その原因は当時爆発事故によるものと推測されていましたが、墜落機体の回収後、さまざまな検収の結果金属疲労が原因と判明しました。

 これは機体の離着陸時に与圧を繰り返された結果、金属疲労で亀裂が発生し、胴体の窓枠の角など急激な破壊が発生し、空中分解に至るというものでした。この教訓から今日では窓などの開口部に角をつけることは絶対の禁忌とされています。コメット墜落事故の悲報から発注のキャンセルが相次ぎ、ついに1959年経営の悪化したデハビランド社はホーカー・シドレーに買収されました。


性能諸元 (モスキートB.MkXVI   爆撃機型)      

 全長; 13.57m
 全幅;  16.52m
 全高;  5.300m
 正規全備重量; 6490kg
 エンジン; ロールスロイス「マーリン」 1710馬力×2
 最大速度; 668km/h 
  武装;  
爆弾 最大 1814kgまで     



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