第2次世界大戦中、日本海軍はアメリカ海軍の潜水艦によって甚大な被害を被りましたが、潜水艦開発では先進国でもありました。ここは航空機の解説がメインですので詳しい解説は省きますが、自動注水でバランスを保つシステムや高速潜水艦が開発されましたが、最も華々しいのは艦載機が搭載可能であった点でした。
敵に発見されず、作戦海域に侵入して航空兵力を送り込むという構想は日本だけでなく世界の列強海軍が実用化させようとしましたが、成功したのは日本海軍だけでした。 太平洋戦争突入後の昭和17年頃から、小型の水上偵察機を1機搭載できる潜水艦が登場しましたが搭載機の性能ではせいぜい偵察が主であり、対艦攻撃などできるものではありませんでした。
この構想を拡大・発展させ、アメリカにとっての急所であるパナマ運河を攻撃できる「潜水空母」の建造を提唱した海軍の高官がいました。かの有名な山本五十六でした。艦船はシアトルやサンフランシスコでも建造できましたが、アメリカの工業の中心は五大湖や東部工業地帯でした。パナマ運河を破壊すれば、これらの物資を船舶で輸送することはできなくなります。山本はアメリカの工業力の規模を知っていたからこそ、潜水空母プランを開戦直後に実行に移しました。
搭載機も、当然パナマ運河爆破が目的なので最低でも500キロ爆弾が搭載できる能力が必要となります。海軍では次期高速艦上爆撃機「彗星」の改造型を検討しましたが、潜水艦で運用しやすい専用機を新規で開発したほうが有利であるとの結論に達し、艦上爆撃機開発の名門であった愛知航空機に「17試特殊攻撃機」として開発命令を出しました。
ただの空母や戦艦用の艦載機とは異なり、晴嵐には以下のような新機構が採用されました。
・主翼はピン1本を外すと前縁を下に90度回転して後方に・水平尾翼は下方に、垂直尾翼上端は右横に折りたためる
・暖機した潤滑油を注入できるなどの工夫で、作業開始後約3分以内で発進可能
・大型爆弾搭載時は航続距離が落ちるため、重量となるフロートを外してもカタパルトで発進が可能。
・敵に追撃された非常時には加速のために、フロートの切り離し投棄が可能。
母艦となる伊400型潜水艦も昭和19年末に竣工し、離発着の猛訓練が開始されました。訓練の最大の目的は発進時間をいかに短縮するかにありました。昭和19年といえば、マリアナ沖海戦で日本艦載機部隊を葬り去った高性能レーダーやVT信管が実用化されており、制空権・制海権の無い戦闘海域に浮上して発進など自殺行為でもありました。訓練の結果、15分程度まで短縮されました。
しかし、訓練終了の頃には戦局は大きく変わっていました。ナチスドイツとの戦いは大勢が決してしまい、大西洋の海上戦力が全て太平洋に出てしまっていたのです。パナマ運河を攻撃しても何の意味もなくなったため、攻撃目標はアメリカ海軍の機動部隊泊地「ウルシー環礁」(サイパン・グアムの南東方面)の奇襲と決定しました。
ウルシー環礁への出撃中、日本降伏の知らせを受けた攻撃部隊は日本への帰投中に搭載機を海中に投棄しました。アメリカによる「晴嵐」接収を恐れてか、艦体の重量軽減策か、はたまた攻撃機だけでも射出させてやろうという搭乗員達の心情からかは分かりません。
戦後、メーカーである愛知航空機に残されていた晴嵐の予備機がアメリカに接収されました。調査を受けた後は修復が施され、現在は復元機がアメリカスミソニアン博物館に展示されています。
性能諸元
全長; 10.64m
全幅; 12.26m
全高; 4.58m
正規全備重量; 4250kg
エンジン; 愛知「熱田」三二型液冷倒立V型12気筒 公称1,340馬力×1
最大速度; 474km/h (フロート投棄後は560km/h)
武装; 13mm機銃×1 (後部旋回機銃)
爆装; 800kg爆弾×1 または800kg航空魚雷×1など