スーパーマリン・スピットファイア(マーリン・タイプ) 

   スーパーマリン・スピットファイア(マーリン・タイプ)


 

 1934年、イギリス空軍の要請により、スーパーマリン社に新型戦闘機の開発が命じられました。この背景にはヒトラー率いるナチスドイツの再軍備宣言により、ドイツ空軍が近い将来イギリスを脅かすであろうと考えられた結果によるものだったからです。

 スーパーマリン社はスピットファイア開発前はスポーツ機の開発も行っており、過去には水上機レースの最高峰である「シュナイダー杯レース」で3年連続優勝を飾った航空機会社の名門として知られていました。(シュナイダー杯は3年連続で優勝すると、永久にトロフィーを所有できた)

 3年連続でイギリスを優勝に導いた超高性能機を世に送り出した設計主任「レジナルド・ミッチェル」はこのノウハウを生かした新型戦闘機の設計に着手しました。
 最初は水上機のノウハウをそのまま生かしたタイプ224と呼ばれた飛行機が完成し、テスト飛行を迎えましたが複葉機に劣る空戦性能、エンジンのパワー不足により、設計値では400㌔は出るはずのスピードが370㌔そこそことテスト結果は散々で、同時期開発されていたグロスター社(後にイギリス最初のジェット機「ミーティア」を開発)の複葉機「グラディエータ」に採用競争で敗れました。スーパーマリン社の親会社であったビッカース社の重役はこの開発競争に敗れた新型機を「スピットファイア(かんしゃく持ち、怒った猫)」と呼んでいましたが、レジナルドは再起をかけ設計を一からやり直した革命的な戦闘機の開発を決意しました。
 最大の敗因であったエンジンは空軍省の勧めたエンジンでは出力が低く、レジナルドはシュナイダー杯の頃からエンジンを製作していたロールスロイス社の最新型エンジンを選びます。このエンジンこそがスピットファイアやムスタングを傑作機にした「マーリンエンジン」だったのです。


 失敗作と陰口をたたかれたタイプ224とはもはや別機と化したスピットファイアは1936年2月、試作機がウールストンで完成しました。翌月イーストレイのサウザンプトン空港に運ばれたスピットファイアはビッカース社での社内テスト飛行を迎えました。テスト飛行を終えた後、ビッカース社のテストパイロットは

「改修点は特に見当たらない。誰もが元気付けられたと思う」

というコメントを残しています。この報告を受け、空軍省は早速空軍パイロットの手でテスト飛行を行いましたが、すでに完成の域にあったスピットファイアに改修の余地がなく、量産命令がスーパーマリン社に出されました。
 量産体制が整っていなかったスーパーマリン社には最初の310機の生産も過酷なものでしたが、戦時体制になると、自動車メーカーも生産ラインとして徴用できたため、やがて生産実績を上げていきます。しかし量産されたスピットファイアが武勲を立てる姿を目前にしてレジナルドは癌で享年42歳という若さでこの世を去りました。まさしく命を懸けた彼の執念がスピットファイアを完成させたとも言えるのです。

 スピットファイアが迎えた最初の山場は今日バトル・オブ・ブリテンと呼ばれるドーバー海峡上空の攻防戦でした。この戦いに勝利したスピットファイアは国民から「救世主」と称えられました。やがてこの名機はイギリス海軍でも採用が決定し、「シー・ファイア」の名称で空母や陸上基地などに配備されました。


 性能諸元(Mk.XVⅠ)

 全長; 9.56m
 全幅;  11.23m
 全高; 3.57m
 正規全備重量; 3572kg
 エンジン; パッカード266(離昇出力:1580馬力)
 最大速度; 669km/h 
  武装;  20㎜機関砲×2 ブローニング12.7mm機銃×2      
      爆弾:ロケット弾×2~4



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