空には煌めく星と月。
靡いたのは漆黒の髪と……蜜色の翼。
わかっている。彼じゃない。
それでも一瞬その長き黒髪に彷佛された幻影は月に溶けて消えない。
…………歩ませて。たったひとりで。
君には君の道があるから……この背を追い掛けないで。
それでも同じ高処を求めるなら。
留まることは出来なくても、道は残していくから。
見上げた先に佇む少年。
………金色の瞳は赤くは染まらない。
彼ではないから…ゆっくりと落とした瞼の先に映る姿を静かに飲み込む。
追い掛けないで。追い掛けて。
君の……望むがままに――――――――。
真夜中の月
微かに掠れた吐息を吐き出す。
………少し、無茶をした自覚はあった。術を知ったばかりの身で聖華はかなりの大技だった。
身体への負担はさることながら、この虚脱感はいかんともし難い。
ともすれば落ちそうな瞼を夜空を睨むことで引き留めればやわらかな指先がその視界を覆った。
ほっそりとした長く白い指先、キレイに爪を整えられたそれは鍵盤を自在に操ることを知った指先。
黒衣に身を包んだ少年の指をどけるように掴んで無言で睨めば呆れたような溜め息が聞こえた。
不快さを表すように眉を顰めたなら………眉間を優しく撫でられる。
突然の行動に驚いたように目を見開けば聞こえたのは静謐を模した少年の声。謳うように軽やかな澄んだ声音……………
「………話すのも億劫なら、寝ていていいですよ……?」
傷の手当てを任せてくれるのならと苦笑の中に祈るように織り込められた囁きに小さく子供が笑う。
疲れているのは少年だって同じこと。
………元々少年の技は多勢に向けて行なう類いのものではない。それなのに自分が動き易いようにと無茶をしてくれたことを知らないわけがない。
自分も疲れているが…彼だって疲れている。そう掠れた声で囁けば驚いたように目を丸められるのだけれど…………
あまり変化のない秀麗な面の先、漆黒に溶けた瞳が僅かに和む。
微かに浮かんだ笑みは近付いた足音の中に隠されて消えてしまったけれど…………
背後に駆け寄る足音が聞こえる。………もうひとりの連れとは違う、駆けることにあまり慣れていない気配の殺し方を覚えていない足先。
顰められた少年の顔に誰が近付いているのかを確信した子供は緩慢ながらも首を動かしてその姿を捕らえようとした。
見上げた先に映ったのは月。
満月に僅かに届かない真円を描けなかった月の不格好さは、けれど零される月明かりに包まれて美しく闇夜に溶けていた。
その月明かりの祝福を受けた影が……目に入る。
螢火のように月明かりを吸い込んだ、どこか発光しているかのような翼を携えたこの世界にたったひとりの鳥人の少年。
漆黒の髪をなびかせ、身体に受けたはずの傷さえ忘れたような駆け方。………寄せられた眉が人のよさを彷佛させる。
「オイ、爆! 薬草持ってきたぞ。さっさとはっとけよ」
ぶしつけな…どこか慣れ親しんだものにしか晒せない乱暴さを滲ませてかけられた言葉。
あの穴の中に入るより前に与えられていた言葉と同じはずなのにどこかやわらかな響きに、子供は脳裏に浮かんだいまは離れた仲間を思いだす。
それを噛み締め、不器用な翼に答えようと子供は口を開いた。
………よりも早く斬り付けるように黒衣の少年が割って入ったけれど。
「いまアリババさんがゴイの薬酒をとってきていますから………」
鋭い視線にぎくりと少年の身体が軋む。
無用だと切り捨てられたことではない気まずさが少年から醸され、子供は思い出したように自分を支えている少年に顔を向けた。………覗きこんだ表情にのぼる凍えるような冷徹さに眉をしかめる。
その視線に気づいて視線を落とした少年は先程とはうって変わったやわらかさを模して……明らかなあてつけに溜め息もでない。
「デッド………お前怒っているのか?」
小さく息を飲み込んでから吐き出された音は思った以上にしっかりしていて、子供の常人離れした回復力を窺わせる。それをどこか喜びながら少年は眇めた視線で静かに囁いた。
「………ええ、怒っていますよ……」
「悪かったっ! 謝りゃいいんだろ!? その藁人形はやめろっっっ」
不意に取り出された黄色い羽根を取り付けられた藁人形にぎょっとした少年が悲鳴のように捲し立てた。
仲がいいのか悪いのか…不思議な二人に苦笑して子供はとりあえず騒音以外の何ものでもない叫びを止めようとその藁人形を指先で隠そうとする。
当たり前のように自然に…赤く染まった手袋が震えもせずに示される。
何の義理も恩義もない人々のために。あんな……歪みを携えたものたちの愚かな祈りを叶えるために…………
どうして彼が傷つかなければいけないのか。そうすることに何の見返りも求めない彼だからこそ、自分は憧れたのだけれど…………
彼がそうしたいからそうした。ただそれだけのこと。それでもとこの胸が希求することをとめることも出来ない。
視界の中、僅かに彼の姿が歪み霞む。その因を知り、晒さぬように唇を噛み締めてもどうすることも出来ないけれど。
藁人形を掴んだ指先が微かに震えている。訝しげに少年を見上げたなら………泣きそうな瞳が視界に映った。
驚きに息を潜めれば、間近にいた少年の羽根が驚いたように舞う。………月明かりに晒されて舞う羽根は厳かに黒衣の少年を映し、生気のない肌を冷たく静かに浮かび上がらせた。
僅かに沈んだ少年の声は朗々と響く。
月さえも遮ることのできない歌声に、翼は息を飲んで眉を寄せたのだけれど…………
「………爆くんがどういう人かも知らない馬鹿のために怪我をした。それを……怒っているんです………」
怪我をしないでなんて…願える状況ではなかった。それでもそれを最小限に止めるためなら自分の身にかかる負担なんて物の数にも入らない。
だから…怪我をして帰ってきたことを咎めるつもりはないのだ。
それでもどこか憤懣は残る。……この子供は自分に光を教えてくれた。弛むことなく歩む背の美しさと、諦めないことの尊さを具現出来るたったひとりの子供。
翹望し続けた人。誰もがそうあるべきと思いながらも模することのできない魂を秘めた…………
その価値も知らない、見ようともしないもののために傷ついた。……その事実だけが腹立たしかった。
悔しくもれる音に子供は苦笑する。
別に気にすることでもない。自分が憤ったから、そうした。たったそれだけだというのに。
微かな溜め息を苦笑のように落とせば閉ざされる闇夜。その指先を包むように重ねた掌は微かに赤く染まっているけれど…………それでも肉体の痛みなどあの樹に向けた慷概に比べたら…………
静かな月夜の絵画を前に羽根は力なく落とされる。その羽音が耳に触れ、少年を見やれば視線の先の翼は地に平伏して……やるせなく寄せられる眉。
歪められるべき生き方を強制されながら……それでも二人は純乎とした魂を穢さずに華開かせる。
………それを愛でるのが心地いいなんて、大概自分も子供らしくないと緩やかに息を吸い込めば肺に満たされるやわらぎ。
思い出してしまう。………自分の背ばかりを追う馬鹿な少年を。
なにかあるごとに息を詰めて言葉もなく垂らされる長い耳と精悍な眉。
全然似ていない筈なのに……似ている。
自分を甘やかそうとする指先と、誠実さ故に視野の狭い不器用な情緒。
構わないから。痛みも傷も、なにがこの身を襲っても侵されることのない魂を自分は知っているから。
痛まないでもいい。優しい二人が傷つかなくてはいけないほどの傷を、自分は負っていない。
………その身を幾箇所も貫かれたのは金色に身を包んだ少年。負担となるほどの技の酷使を快諾したのは黒衣の少年。
自分はただ、それらを背に立ち向かっただけ。
たったそれだけなのに……………
漆黒が優しく自分を包む。闇夜にも鮮やかな月は未だ真円を描かない。
それで構わない。
無様で不格好で…そうして歩むのが自分達なのだから。
祈る姿で佇む少年の指先を抱きとめて、子供は悠然と笑む。
囁かれる声は絶対の響き。……流れる風の音色さえも息を顰めて子供の声に酔いしれるほどの…………
「悪素はハヤテが自分の血で打ち消してくれた。村人も踏み出す勇気を思い出した。それでもう……十分だろう…………?」
自分の掌にあけられた聖痕1つで動きだした時があるなら、その価値はある。
囁く声の弛まなさに笑みを浮かべそうになる自分の現金さに呆れることも出来ないけれど。
それでも彼がそれを願うなら構わないと捧げられる不器用な優しい笑顔はゆっくりと空に溶ける。
真夜中の月は静かに佇み、闇夜を抱き締める。
……………そうして闇夜は、光り輝くものの行く先をただ緩やかに見つめどこまでも寄り添う。
不思議な神話のような現実に浮かぶのはやはり黒き毛先で。
自分を労る二人の指先に静かに息を落として子供は襲いくる睡魔に従うように瞼を落とした。
………いまは遠く離れている靡く黒髪が閉じた瞼の先に浮かんだ。