腕を伸ばそうとして、躊躇う。

それはほんの小さな恐怖。

絶対にないって解っている。
それでも消えない刺のような。

それは小さな小さな、恐怖。

気づかれないように笑って。
なにもなかったように腕を隠す。
………だから気づかないでいいんだよ。

伸ばそうとした指先。
躊躇って落ちた影。
そうして。

…………掬いとってくれるのは、何故?


爪先の祈り声

 喧噪の谺する室内は妙に居心地がいい。
 誰かの声が必ず響いていてほっとする。暖かなその雰囲気がどこから零れているのかを知っているから尚更だろうけれど。
 アンダーシャツを脱ぎ軽く汗を拭ってワイシャツを着る。そうしている間に響く、声。
 「あ〜!! こらスバガキ、なに人のエネルギー源とってやがる!」
 「え〜、これってマネージャーたちがみんなにって渡してたやつじゃん」
 「ちがーう! これは凪さんが俺にって渡したんだ!!」
 「オイ猿野、勝手に妄想膨らませてんじゃないZe」
 「どこから湧いたんスか!? マリファナ先輩っ」
 …………声が響く。この室内のどこまでも谺すようにはっきりと。
 入部したその時からもうずっとこれが消えたことがない。いつだって馬鹿なことをやっているくせに、誰よりも熱心に打ち込んでいた。今までこうしていたことがなかったと言うことが不思議なくらい、一心に。
 その声をここのところ満足に聞けていない気がするのはきっと気のせいではないだろう。
 ずっと別メニューをしていたせいでなかなか同じ場所にいられない。まして同じ時間帯に帰ることなど更に難しい。
 それでもこの日々を無駄とは思わない。………ほんの少し寂しいとは思うけれど。
 同じ場所にいたいのだ。その力となれるように……一つの目標を同じく駆けるものとして肩を並べたい。そのために必要なら、いま一時の距離くらい、我慢する。
 我慢してみせる、から。
 そう思って一歩離れた。………近付けば伸ばしたくなる腕の自覚はあまるほどにもっていたから。
 それでも時折枯渇する。息を吸うほどに自然に求めるものがあると知って、愕然とするけれど。
 声が、聞きたくなる。そばに寄れなくても構わないからその声を。今は同じ場所にすら立てないから……せめてその姿を忘れないために一番に降り注いだ奇跡の音を。
 陳腐な真似だと解っていて……顔を見せれば子犬のように駆け寄る姿さえ、解っていて。
 それでも近付けない。何故かと問われれば口を閉ざすだろうけれど。
 ………腕がのびる。彼を祝すように。
 自分の腕ではなくて、それでも数多くの腕が彼のために伸ばされる。それだけの価値がある人だから。
 それが少し、切ない。彼にはあまりに多くの腕が用意されていて、いまだ隣にすら駆け寄れない自分の腕は、もうとうに忘れ去られているのではとか、考えてしまうから。
 誰もがその実力を信じている。何かを起こしてくれると、その勝負強さや強靭な意志を。
 そうして多分きっと彼は本当には知らない。自分がどれだけこの部に必要と思われているか。………望まれているか。
 知らないでも解っているのだ。本能とでもいう場所で。
 だから、望まれるままに戯けて……あるいはその曇りない言葉を発する。
 その透きとおるまっさらな声で、断言するようにいつだって言葉を紡ぐ。揺るがないと示すように。
 その姿はあまりに当たり前過ぎて、かえってその本質を隠してしまう。
 幾度も幾度も泣いているくせに。幾度も幾度も傷付いているくせに。
 その全てを隠し込んで笑って示すから、時折錯覚してしまうのだ。
 彼は泣いたことなどなく、まして傷付き倒れたこともないのではないか、なんて……………
 あんまりにもそれが不安で腕を伸ばした。
 自分のことを頼って欲しくて。頼りない自覚はあったけれど、それでも野球に関してだったら力になれると信じて。
 でも、それはきっと詭弁。そばにいたかったからその理由を欲したに過ぎないと、あとから自覚した。
 その声に多分、自分は魅了されている。示された事実よりも何よりも雄弁な、彼のまっすぐさを代弁する音に。
 「っと、ヤベ、おいネズッチュー!」
 自分の思索に耽っていれば突然響いたのは猿野の声。
 …………まさかいま自分が考えていたことがばれたわけでもないのに思わず同様して肩が跳ねてしまった。顔を向けてみれば不可解なものを見るような視線が一瞬して、次いでさらりとそれが消える。………おそらく小心な自分が突然声をかけられて驚いた、くらいに納得してくれたのだろう。
 「ど、どうかしたんすか、猿野く……」
 「時間がねぇから説明あと! さっさと来いよ。荷物これだけだな?」
 「へ? あ、はいっす……って自分で持つっすよ!」
 「それはボタンはめてから言え。先行くぞ!」
 「ちょ……! 待ってくださいっす! あ、お先失礼するっす!」
 突然の猿野の奇行には慣れている……が、あまりにテンポが早いと付いていくことさえ出来ない。いきなり何かに誘われたらしいことを理解したと同時に誘った本人は自分の荷物を担いでさっさと部室から出ていってしまった。ちゃっかり周りの先輩たちには挨拶をしながら。
 頭の中は既にパニックで状況を組み立てることもうまく出来ない。そんな自分の状態を苦笑して見ているみんなは少し同情的だ。………大抵こういった突発的な発作のような衝動に付き合うのは自分だから。
 そして大体の場合においてこれらの行動の先は本当に他愛もないことが待っている。それをきっと本人も自覚しているのだろう。巻き込む相手は文句を言わない自分が一番多い。
 慌ただしくドアを絞めながら駆け出し、同時にボタンもはめる。………妙な恊働動作が得意になってしまった。そして視線は、前に。
 自分の前を当たり前に歩いている彼の背中。ふと思う、今と同じ位置関係。
 前をいくこの背中を自分は必死になって追いかける。同じスタートラインにいたのに、彼の背中には大きな翼があって…………自分のそれはあまりに脆弱だった。
 駆けて駆けて駆けて、もしかしたらそうすれば……追い付けるんじゃないかとか、思うから。
 「猿野くん!」
 それでもふと感じる不安に、声が聞きたくなる。まるでその名を呪文のように繰り返す、たったひとりの時。
 ゆっくりと振り返って、笑って。
 ……………祈りのように、願うその瞬間。
 「お、結構早かったな。合格合格♪」
 「………なんの審査っすか」
 ちょっとだけ苦笑して、その声に応える。他愛無いと解っているそれが、何よりも自分には貴重で重い。
 彼の方には鞄が二つ。重いはずなのにそんな素振りを欠片も見せないのだから、本当に身体はちゃんと作られていたのだなと思う。なにも運動をしていなかった彼の、それでも最大の武器は他の誰よりも抜きん出たそのしなやかな身体から生まれる力だから。
 その肩に手を伸ばし、自分の分の鞄を礼をいいながら受け取る。それにちょっと目を細めた猿野は笑みを浮かべて指差した。……いま歩くその前方を。
 「んっでな、今日は散歩するぞ」
 「……………はい?」
 断言された言葉に目を瞬かせる。………今までも確かに突然連れ出されたと思ったらどこかの新作のアイスだとかお菓子だとかに付き合わされたり、自分はやったことのないゲームの新機種が出たと連れていかれたりは珍しくなかった。が、突然あんな慌てて走り出して散歩と言われるとは全く予想していなかった。
 思わず漏れた間の抜けた声に気を悪くするでもなく笑いながら猿野は確認するように答えた。
 「だから、散歩。ぐるっと遠回りして駅にいくんだよ。いまの時間なら店も閉まってねぇし、なんか食いながらのんびり歩こうぜ」
 無邪気な笑顔に示された指先が重なる。まるで冒険しようと誘う子供のような仕草に笑みが漏れた。
 そう言うところが、憎めないのだ。
 破天荒で気まぐれで、どこか自分とは相反するところばかり持っている彼をそれでも好んでしまう因。
 「でも疲れているんじゃないんすか?」
 自分はそばにいられれば嬉しい。声を間近で聞いて、その気配を感じて……そうしていれば一人戦うその孤独に押しつぶされずにいられるから。
 それでも彼は、別で。いつだってみんなに囲まれて、しかも更に特別メニューだってこなしているのに。
 いくら体力に自信があっても辛いだろうと思うのだ。それなのにわざわざ………
 「んー? ああ、別に。たまには羽伸ばさなきゃやってられんだろ。眉間に皺寄せて投球していても楽しくないのと同じだろ?」
 わざわざ……それでも歩く理由なんて思い当たらない。それでも付き合ってくれるのか。
 いつ、ばれていたのだろう。時折我慢しきれなくて歩み寄ってしまう壁際。少しでも彼の声が聞こえる場所。ほんの欠片でもその姿が見える場所。
 笑って事も無げに晒される気遣い。自分も一緒だからと言うように示される音。
 ………なんでこんなにも綺麗なままの音が、残っているのだろうか。
 泣きそうな思いで眉を寄せれば振り返った顔はどこかいたずらっ子のような笑み。軽い拳が叩いた眉間は、確かにここ数日深い皺ばかり刻んでいた。
 でもそれは彼のせいではなくて。………彼が気にかけるにはあまりに浅ましい理由と原因なのに。
 それでも彼は思い気遣う。解らないように静かに。重りとならないように当たり前の顔で。
 あんまりにもその仕草が幼くて。………あんまりにもその全てが深すぎて。
 泣き出したい衝動にさえ、かられる。
 それを飲み込み、唇に笑みを捧げた。
 ……………そばにいたい。同じ高処を目指す仲間として肩を並べたい。
 ほんの少しそれは大それたことかもしれない。けれど決して不可能なことなどではないはずだから。
 「猿野くん」
 その名を呼んで腕を伸ばす。
 他の誰でもない、自分のボロボロの腕を。
 一瞬の痛ましそうな視線は深い笑みにとって変わり、厭うことなくその腕は甘受される。
 そうしてこっそりと絡む指先たちは、人通りの少ない道を感謝しながら強く握りしめられた。
 「………今度は僕が誘うっすね」
 その言葉に含まれる気遣いに驚いたように目を大きくしたあと、猿野は視線を少しそらして小さく頷く。………微かに赤くなった頬が気遣われることに不馴れな彼を彩って少し寂しさを胸に去来させた。
 それを掬うように僅かに引いた指先で近付いた彼の目元に小さく口吻ければますます染まった色に苦笑する。
 本格的にそっぽを向いた彼は、けれど離れはしない。
 互いを絡めるように握りしめた指先が解かれはしないのだから。


きみが辛い時。
苦しんでいる時に。
どうか自分が初めに気づけますように。

………今この胸をあたためるぬくもりを、きみに捧げられますように。



 キリリクHIT、子猿で子津視点で合宿終了、レギュラー発表後。キーワードは「きれいなもの」です。  …………いや、今回は楽……だったのかな?  前に彼女との電話でうっかり口滑らせて子猿の子津視点を書くことを約束してしまっていたのですが、これはその時に考えた話。  そのあと書こうかなーとノートにまとめていたコマ割りは全く別のものになりましたとさ(笑)  なんでまた書くでしょうよ、子猿。  どうでもいいが難しいんだよこの二人。ふと気づくとカイのようなこと考えているんだもん、子津!!(汗)  仕方ないから数カ所書き直したよ! 猿野は猿野で相変わらずどっか達観しちゃうしね!(涙)  ………もう諦めて下さい。所詮私の書くキャラたちです……………  この小説はキリリクを下さった恵ちゃんに捧げますv  着実に子猿増やしてくれてありがとう。……3作目…か?



■もっと極悪リクにしようかと思っていたのですが。結構やりやすいネタになってしまった感じですなぁ。
■私もせせねも子猿のイメージがカイ爆に通じる部分があるから、そこを分ける方が大変な気がします(苦笑)やー…爆と猿はそこまででもないんだけど。カイと子津がなー(笑)
■本当、せせねがミスフル知って「子猿」って発覚した時は笑った。既に以前から私は「子猿ー!」と言っていただけに。