辺りはもうすっかり暗くなってしまった。
 あんなにたくさん歩いていた生徒も、眺めているうちに数が減り、今はもう誰もいない。
 結局トイレで勝呂と会ってから、塾に戻る気にもなれずさぼってしまった。正十字の階段に座って頭をからっぽにしていると、多少楽になれた気がする。
 頭の中はまとまらないままだ。雪男がどうしてあんな事を俺にするのかも、俺は一体どうしたらいいのかも。雪男の考えている事が分からない。そんな事今までもあったはずなのに、なんだか今の雪男には自分を危機に陥れる何かが住んでる気がして、それがとても怖い。
 特に、自分を貪っているときの雪男は。

「……っ」

 夜だから、肌寒い。けれど、雪男と暮らしているあの部屋には、どうしても戻る気になれなかった。また組み敷かれて、無理矢理犯されてしまう。想像しただけで、顔の痣が痛む気がした。
 その時、鞄の中にある携帯の着信バイブが鳴った。画面に映った名前は雪男だ。手が震えて、通話ボタンが押せない。何もできないまま着信画面を眺めていると、暫くして着信が切れた。何故かその事にひどく安心する。
 多分、雪男はもう帰っていて、俺が帰ってこないから心配してるんだろう。いつもなら弟を心配させまいとさっさと帰る所だが、今日はそうはいかない。お前のせいなのに、と恨むような気持ちにさえなった。
 いっその事この携帯を捨てて、どこかにいってしまおうか。そう思っていると、またバイブが震えた。また雪男かと思ったら、今度は着信ではなくメールだった。志摩からだ。
 塾ではごめん、お詫びと言ってはなんだけど、今日部屋で坊と猫さんも呼んで男だらけのお泊まり会するからおいで、という内容だった。

「……やった!」

 これには心躍った。あの部屋で、雪男と夜を過ごさないで済む。素晴らしい口実だ。志摩が神様にも見える。志摩からのメールには、雪男も誘えと書いてあった。みんなと一緒にいれば、雪男も変な事はしないだろう。
 俄然、帰る足が軽くなろうというものだ。


 部屋に戻ると、雪男はもう風呂に入った様子だった。

「兄さん!こんな遅くまでどこに行ってたの、電話にも出ないし」

 こうして遅く帰ってきた自分に怒る姿は、普段と全く変わらない。それが逆に、なんだか不安になる。
 それを悟られないように、努めて普段通りの声を出した。

「わ、悪い。それより雪男!志摩がさ、あいつの部屋で勝呂と子猫丸呼んでお泊まり会するんだって。いこーぜ!」
「お泊まり?」

 俺の言った事を反復したその言葉が、妙に機械的なのを無視する。雪男、笑ってじゃあ行こうかって言えばいいんだ。言ってくれよ。眼鏡の向こうの目が、見えない。

「そうだよ!こんな部屋に二人でいるより楽しいぜ?俺友達んちでお泊まり会ってはじめてだ!なんかワクワクす」
「何言ってるの?」

 雪男が笑った。
 気が付けば、床に引き倒されていた。受け身も何もとれなかった身体が痛む。今日は雪男のせいで傷だらけだ、と頭の片隅で思った。

「兄さんは今日この部屋で僕とずーっと一緒にいるんだよ。よりによって他の男の部屋に泊まりにいくなんて許さない」
「……」

 俺をのぞき込んでうっとりと笑う雪男は、昨夜のセックスの時と同じ顔をしていた。
 ああ、まただ。また雪男に捕まってしまう。また身体を好きにされて、虐められてしまう。嫌だ、こんなのは嫌なんだ。

「ああ、それとも他の人もいる前で公開セックスでもしたいのかな?いいよ、兄さんが望むならいつでもしてあげる。学校の中でだって」
「雪男、嫌だ」

 はっきりと、雪男が聞き逃さないように、言った。
 雪男の肩を掴んで、ゆっくりと力を入れる。俺が本当の力を出せば、この筋肉質の広い肩だって、簡単に壊してしまえるだろう。それを今までしなかったのは雪男だったからだ。弟だったからだ。あの時だって、俺が本気を出せば、雪男をケガさせてでも逃げられた。
 でも、今は違う。声が震えそうになるのを、必死で我慢する。雪男の身体を力づくで、俺の上から押し退ける。
 弟に対して、本当の意味であらがうなんて。でもそうさせたのは雪男だ。

「雪男、やめてくれ。やめよう、俺はお前とこんな事したくない」

 俺の本気を読みとったのか、雪男はどこか呆然と俺を見ていた。けれどここで、こいつに情を移すわけにはいかない。今日こそは、雪男の好き勝手になるわけにはいかないんだ。
 雪男のためにも。

「じゃあ俺……行くから」

 雪男を完全に俺の上から退かしてから、立ち上がった。痛いくらいの視線に振り向かないまま、鞄を担ぐ。

「行っちゃだめだ兄さん!」

 強い力で後ろから羽交い締めにされて、ぎゅっと抱きしめられる。ぎりぎりと、雪男の腕が身体に食い込む。
 このまままた乱暴されるんだろうか。訪れるであろう衝撃に、身体が竦む。いや違う、そうなったら力づくでも抵抗して、逃げるだけだ。けれど、それはいつまで経っても来なかった。
 代わりに聞こえる、小さな嗚咽に耳を疑う。

「いやだ……兄さん……」

 雪男が、泣いてる。俺の背中を濡らしながら。
 昔、あんなに泣き虫だった雪男が最後に泣いたのは果たしていつだったか。親父の葬式でさえ泣いていなかった雪男が。
 こんなに弱く、小さくなって泣いてる。

「兄さん、行かないで……ほんとに好きなんだ、愛してるんだよ、兄さん……兄さん以外、何もいらない」

 嗚咽と涙の間で、雪男が俺を何度も呼んだ。
 泣かせてしまったのは俺で、泣いているのは雪男で、でもその原因を作ったのはこいつ本人で。
 雪男、俺達何してるんだ。俺達、なんでこんな事になってるんだ。つい最近まで、只のいい兄弟だったじゃないか。

「もし、怒ってるなら謝るから……僕が全部悪いんだ、だから行かないで、お願いだ、好き、好きなんだよ」

 ゆっくりと雪男の方を向くと、俺を抱きしめていた腕が解けた。

「兄さん……愛してる」

 涙を流す雪男の顔が近づいてきて、唇に唇が触れた。そこからは動かない。そういえばあんなに体中舐め回されたのに、唇のキスはした事がなかった。
 それはとても幼稚な、唇と唇がさわっているだけの、キスとも呼べないようなキス。俺の、ファーストキス。

 そこで俺は全てを理解した。キスで分かってしまった。
 身体から力が抜けて、どすん、と音を立てて鞄が落ちる。その音と一緒に、俺の中から何かが落ちた、気がした。
 おかしいのは、俺の方だったんだ。

「……ばか」
「兄さん」
「俺がお前を置いていく訳、ないだろ」

 そうだ、俺だって。雪男を愛してる。兄弟だからなんてもんじゃない、もっと深くで。きっと深すぎて気づかなかっただけなんだ。だってこんなにも、目の前の弟がいとおしい。胸がドキドキして、切なくて、苦しい。

「ごめんな、気づかなくて。辛かっただろ」
「……っ」
「俺もお前を愛してる。お前以外いらない」

 肩に顔を埋めた雪男を、今度は俺が抱きしめる。
 いびつでも異常でも狂ってもいない。これが俺達の形だったんだ。俺が頑なに否定していた胸の中は、こんなにぴったりと形が沿って、合わさる。
 俺が愛しているのは雪男だけで、雪男が愛しているのも、俺だけなんだと分かる。世界に一人の弟は、世界に一人の愛すべき人だったのだ。愛しい人の身体に包まれて、これ以上幸せな事があろうか。

「雪男……愛してる」

 道徳や常識なんてどうでもいい。その時確かに、世界には俺達二人だけだった。

--

 こっそりとほくそ笑んだ事に、兄さんは気づいただろうか。いや、気づかなかったんだろう。

「雪男、抱いて?」

 そう言って微笑む兄さんを見て、流れる涙は本物だった。けれど本当は、嬉しくて楽しくて全身で高笑いしたかった。
 兄さんが手に入った。やっと、僕のものになったんだ。

 物心ついた時には、僕の中には兄さんしかいなかった。僕にとって兄さんは、自慢の双子の兄であり、尊敬すべきヒーローであり、胸を焦がす恋愛の相手であり、欲情する唯一の対象だった。
 小学校に入る前、いつものようにいじめっこから僕を助けた兄さんに、駆け寄るふりをしてその匂いを嗅いだ。4年生の時、風呂場でふざけあう兄さんの身体を全身目に焼き付けた。精通してからは、熟睡している兄さんのベッドで何度も自慰をした。時には、顔や身体に精液を掛けて悦に浸った事もある。それこそ、今までずっと。
 兄さんは、僕の世界だった。

 突然なんかじゃない、遅すぎたくらいだと想う。
 我慢していたんだ、それこそ昨日の夜まで。性欲を持て余す歳には、目の前のご馳走に、毎日待てを喰らい続けているようなものだった。
 いずれ爆発してしまうだろう、そう分かっていた。でももしそうなっても、兄さんをこちらに引き込む自信が、僕にはあった。
 兄さんは、僕に全力で抵抗できない。僕の言葉を、耳に入れて、理解せざるおえない。僕のこの想いを、例え兄さんの中のそれが僕と同じ形でなくても、受け入れなければならないのだ。
 僕から兄さんが離れる事など、できはしない。
 僕が行かないでと泣けば、兄さんは絶対に僕を一人にしない。それは昔からの、僕らの思考の奥底に眠る、絶対命令だ。
 それは小さな頃から僕が兄さんに仕掛けていた、罠だ。

「たくさん、愛してあげる」

 そう、これからもずっと。ゆっくりと兄さんをベッドに沈めながら、垂れそうになる涎を啜った。


--


「あ、んあ、あっ」
 素直に声を出す兄さんが可愛くて、中に入れた指を限界までバラバラの方向に動かす。後孔は嬉しそうにぴくぴく震えて、僕の指を締め付けた。
 心を伴ったセックスが、兄さんを溶かしている。例えそれが偽りでも。

「兄さん、可愛い」
「ゆ、雪男ぉ」

 汗まみれの額にキスをする。もう全身にキスをしたけれど、まだ足りない。撫で回しても気持ちいいこの肌は、キスをするともっと気持ちいい。
 額から唇を這わせて、とがった耳に優しく噛みつく。ひくんと身体を震わせて、また中の指をきゅうっと締め付ける。
 たまらない、早くここに入れたいなあ。でもだめだ、もう少し。
 兄さんが自分で、ここに入れてと頼むまで。

「ゆ、雪、雪男っ」
「なあに?兄さん……」
「も、もうっ……入れてっ」

 ああ、やっと聞けた。これで兄は、完全に僕の腕の中に落ちてきた。もう後戻りはできない。させない。逃がさない。
 今まで必死で飲み込んでいた涎が、口から溢れた。やっと味わえる、僕のご馳走。
 おいしそう。そう思った。

 遠慮もなにもないまま、一気に性器を押し込むと、華奢な身体が跳ねた。

「ひゃんっ!あ、うああっ」
「はあーっ……いい、兄さんほら、これがほしかったんだよね、ね!」
「い、うあ!あ!あああっ」

 ぐちゃぐちゃと腰を動かす度に音が鳴る。潤滑油も使っていないのにこんなに濡れているのは、全部僕の精液のせいだ。もう自分でも何回いったかわからないほど、さっきから射精が止まらない。
 嬉しい、嬉しい、気持ちいい。本当に兄さんは、僕の全てだ。僕の身体は全て、兄さんのために存在する。だからこんなに、性器も涎を垂らして喜んでいるんだ。

「あ、ゆき、お、雪男っ!ゆきおおっ、はげし、いぁっ!」

 最高にはしたない顔は、僕の涎と兄さん自身の涎でべちゃべちゃだ。なんてだらしなくて、汚くて、淫らな顔なんだろう。その顔もっと見たいよ、もっと見せて。
 好き勝手に思い切り腰を叩きつけていると、今までのものよりもっと大きい快楽のうねりが腹の底から近づいてきているのを感じた。ああ、まだ上があるのか。本当に、兄さんとのセックスは底なしだ。底なしに、気持ちがいい。

「兄さん、嬉しい?僕の性器つっこんでぐちゃぐちゃ突きまくってもらって嬉しい?」
「う、うれひ、うれひい、よぉっんぐう!う、ああっ」
「出る、出るよ、今までよりたくさん、いっぱい出してあげるね、うっ」

 僕の出してあげる、という言葉に反応した兄さんが今まで以上に後孔を絞ったもんだから、逆らって奥までねじ込んで、射精してやった。奥の奥まで、それこそ全身を満たしてしまえるんじゃないかって位の精液を注ぐ。熱い飛沫が大量に性器を通り抜ける刺激に、一瞬気を失いそうになる。

「お、おお、おー……はぁー……」

 兄さんはもう声も出さずに、目を見開いて震えていた。あぐ、とだけ、開いた口を動かした。ぶっ飛んでしまった兄さんだって、こんなに可愛い。

「兄さん……愛してる」

 今日二度目の愛の告白は、きっと兄の耳には届かなかっただろう。

--


「志摩!奥村から返事は!」
「ひゃっ!き、来てへんよぉ、坊怖っ!」
「これは、もうこぉへんと思うなあ。まあ三人でしましょ」
「……ちくしょう……」
「……」
「坊、そんなに奥村くんと話したかったんかなあ」
「……あー」
「そもそも奥村くん呼ぼ言ってたんも坊やし」
「あー」
「何志摩さんさっきから」
「俺、全てに気づいてしもた」
「はあ?」
「まあ、なんや……頭の回転が速いと苦労するって話や猫さん」
「なんやいらっとするねえその言い方」

--


「ん?雪男」
「兄さん、そんな下丸出しで動いちゃだめだよ。どうしたの?」

 事後処理のために身体を拭いた後、タオルを洗って戻ってくるとお尻を突き出して僕の鞄に顔をつっこんでいた兄さんが、何かを持っていた。
 それは、僕の祓魔師の証明を入れたケース。資格を手に入れた時から、肌身離さず持っているものだ。
 その中、持ち主の僕しか触らないそれの中には、僕の宝物が入ってる。小さな時、お風呂に入った兄さんをこっそり盗撮した写真だ。兄さんが入る前の風呂に忍び込み、何度も何度もテストして、ようやく成功したその日、その写真で一度自慰してから、ずっと触らず仕舞っていた。

 兄さんを手に入れたくてたまらなかった、あの頃から。
「あ、それ?」
「……」

 兄さんは、その写真をおもむろにビリビリと破いてしまった。そして僕を見て、にっと笑う。

「こんなんじゃなくて、いくらでも撮らせてやるよ」
「……うん!」


 腕の中にするりと入り込んできた身体を抱きしめる。
 さて、兄さん。
 明日から、二人で何をしようか。





20120225

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