ミカエル、ラファエル、シータス、ロクス

『シルマリル、ミカエルの白薔薇の手入れをお願いします。』
 上司の鶴の一声で、多忙極めるシルマリルの貴重な休日は瞬時につぶされた。
しかしそれを疑問に思うシルマリルではなくて騙されたことさえ気づかずに、素直にうなずきせっせと白薔薇のお手入れに勤しんでいる。普段から休日といえば彼女の小さな宮殿の花壇の手入れに精を出す彼女だから、仕事ではないと彼女が思えばそれは仕事ではなくなるし、尊敬し敬愛してやまないミカエルの宮殿のお手入れを言いつけられたのだからと気合も入っている。
一面の白薔薇は美しく咲き誇り芳しくて、シルマリルはつい唇をほころばせて背伸びすると胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。他の色の薔薇とは微妙に違う凛とした香りが、館の主を思い出させるから――――深呼吸して気分を新たにし、シルマリルはまた薔薇の中にしゃがみこんだ。
しゃがんでしまうと小柄な彼女は見えなくなって、薔薇だけがかさかさ、かさかさと局地的に揺れている。
「誰かいるのか?」
 そこへ現れたのは、何も知らない館の主。凛々しくも穏やかな呼びかけにシルマリルは当然応えて顔を上げ、白薔薇の海の中からひょこりと金の髪の幼い天使が目から上だけを現した様子に、呼びかけたミカエルは目だけで驚いたけれど何も言わずに彼女を見る。
「ミカエル様、ラファエル様のお言いつけでお庭のお手入れをしていました。」
 言いながら立ち上がる姿は花盛りの水仙そのもので、他の幼い天使とは少々趣の違う独特の立ち姿にミカエルも口元をほころばせて彼女を見、うなずいた。
「…シルマリルか。
 お前も忙しいだろうに、ラファエルは何を思うのか……」
「いいえ、ちょうど今の時期は私の庭は手を入れる所がなくて、少しさびしかったんです。
 ぼんやり寝ているのも気が引けると思っていた時にこちらのお手入れを申しつけられて、ミカエル様のお庭を見られるいい機会だって思うと嬉しかったんです。」
「お前は他の天使以上に働き者だからな。
 お前がどこをどう手入れしてきたのか、眺めるだけですぐわかる。…いい腕だ。」
「ありがとうございます。」
 彼女と話しながら広い白薔薇の庭を眺めるだけで、それが一枚の絵画に姿を変える。
天使とはそういう存在で、大天使ミカエルと幼くも美しい天使が白薔薇の海の中で佇む様子は、もしこの場に立ち会えた画家がいたなら、全身全霊を傾けて絵筆に魂を込めることだろう。
ミカエルはそこにいるだけで絵になるけれど、幼い天使も美しい少女の姿と彼女を取り巻き咲き誇る白薔薇に囲まれていることでその存在の神々しさが増している。
しかしこの場ではふたりともそれぞれ「個」に過ぎず、幼い天使が人のそれに近いことはそうとしても、ミカエルまでもここではひとりの青年でもあった。
「それでは私もその腕前に報いねばな。
 お前の補佐のシータスは茶に詳しかったが、お前はどうなのだ?
 我が宮殿には茶に詳しい天使がいるから、その者にお前の好む茶を用意させよう。」
「え! あ、その、そんなつもりでお引き受けしたわけではありませんので」
「お前の腕を見込んで次も頼みたいのだ。気兼ねなどしてくれるな。」
「そう…ですか……。
 あ、私はどのようなお茶でもその味を知るのが楽しみですので、ミカエル様がお好きなお茶と同じものをお願いします。」
 にっこり笑って目上の者を、男を立てる幼い天使。ミカエルがせっかく誘っても彼女らしい返事しか返ってこなくて、ミカエルは内心で少しだけがっかりしているのだけれど――――大天使たるものが、いや天使長がそんな素振りなど見せられるはずがない。あどけない働き者は身分と言うものをしっかりとわきまえているから雲の上の存在である天使長の前ではただただ恐縮するばかり。
ミカエルは彼女と同じくらいだった頃のことなど、もう思い出せもしないのに。
「誰か、テーブルの用意をしてくれ。いつもの茶をふたり分だ。」
 天界では穏やかにそう口にするだけですべての事柄が穏やかに運ぶ。人間界ならばどこで聞いていたのだろうと疑問を感じそうなタイミングでシルマリルよりも少しだけ年長そうな女性の天使が少し離れた場所から姿を現すと、彼の言葉にうなずき下がり、再び白薔薇の海原にふたりきりで残される。
「それにしても、すごい数の白薔薇ですね。
 いい香りで胸がいっぱいになって…私、薔薇の香りは得意ではないのですが、ここの白薔薇の香りで印象が変わりました。とても清々しくて背筋がのびます。」
 あどけない少女は、この薔薇たちの由来など知らない。
ミカエルは彼女に己と同じ思いはして欲しくなくて、また素直に薔薇をほめた彼女の笑顔が台無しになることは語るにも想像するまでもないから語りたくはなくてただ微笑むばかり。
それにこのあどけない少女と薔薇の香りはあまり似合うとは思えなくて、しかし清々しい香りは確かにミカエルでさえ背筋が通るような、そんな思いを抱くことがあるから、ミカエルは彼女の話に耳を傾けている。
「私の庭は小さくて、こちらの美しい白薔薇と同じ木を植えてもなんだかかわいそうな思いをさせそうです。」
「お前ほどの働きならば、アルカヤのことが終結すればすぐに階級も上がるだろう。
 宮殿が広くなるだけではない、お前よりも幼い天使が、お前を見習うためにつけられる。
 …天使とはそういうものだ、私もそうして今の立場にたどりついた。」
「………………。」
 ミカエルの広い視点と長い経験から来る客観的な言葉に、幼い彼女は何を思ったのだろう? 不意に目を伏せ微笑みの形のままで口を閉ざした悲しげなシルマリルの様子に、ミカエルがわずかに驚きを隠せず出してしまう。
 思いあたりがないわけではない。彼女は幼いが故に人界に住まう人間たちに引きずられすぎている。
彼女は幼いが故に感情は人に近くて、シルマリル自身天使としては感情の起伏が激しい。今は彼女の怒りは大きな力を伴い奇跡を瞬時に発露させるけれど、それは彼女を闇に落とす危険性もはらんでいるからミカエルはいつも気が気ではない。
それに彼女の下ろされた人界「アルカヤ」に住まう人間たち、特に彼女の協力者たる7人の選ばれし者たちは未熟な天使を天使というよりももっと身近に捉えているから、彼女もそれに慣れすぎているきらいがある。
おそらく彼女を預かるラファエルが休日をつぶさせてまでミカエルの元に幼い天使をやったのもそのことを案じてからの配慮なのだろう、彼女の働きぶりを見ている限り、彼女ならば程なくアルカヤの混乱を終息させることができる。その後に天界では彼女の階級の上昇が約束されているに等しいから、できることならば彼女の胸が少しでも痛まずにすむように。
人々との別れに気持ちを残すあまりにそれが傷へと変わらぬように。
ラファエルも気を揉んでいるに違いないことを、ミカエルは感じていた。
シルマリルにとってラファエルもミカエルも雲の上の存在に違いないけれど、ラファエルは兄であり父であり、ミカエルはその友人なのだから、人間の感情で説明できるような単純な構図は伴っていない。
確かに彼女はその与えられた仕事故に大天使たちと近しい位置にいる特別な存在だけれど、ミカエルの中では「危なっかしいシルマリル」でしかなかった。
「薔薇の香りが苦手とは初耳だが、誰ぞより受け取ったことがあるのか?」
「はい。アルカヤでの協力者より、私の生まれた日に黄色い薔薇を一輪もらいました。
 私によく似ている花だということで渡されましたけれど、私よりずっと華やかで少し恥ずかしい思いをしました。」
「…教皇候補、か?」
「………はい?」
 悲しい顔を見たくないからとミカエルは話題を不自然に変えたけれど、シルマリルは話の切替がうまいらしくすぐにまたにっこりと笑い顔を上げた。ただ彼女の口から語られたことで思い出したのは、先日とあることで怒り心頭の彼女を暴走させぬためにと彼女の妖精に請われアルカヤを内密に訪れた時のことで…高貴な紫色の金十字の法衣をまとう、不遜な青年の嫌な笑顔。
幼くても天使を少女としてしか扱わない不信心者の顔を思い出してミカエルが固まった。
そして彼の口から唐突に己の勇者のひとりの立場を出されたことで、シルマリルも一緒に固まった。
「あの者…名はなんと言ったか」
「え? あ、の…??」
「お前の佇まいは水仙のようだ。お前の印も確か水仙だったな。」
「は、はい。
 ミカエル様、黄色い薔薇をくれたのはレイラと言う勇敢で美しい騎士の女性です。
 赤や薄紅のようにどこか甘さがあって媚びた様子がない、凛とした姿が私に似ているといってくれました。
 その薔薇はむしろレイラにこそ似合っていたのに、私みたいな頼りない存在をそこまで評価してくれていたことが嬉しくて恥ずかしくて……今考えれば、恥ずかしいあまりに薔薇の香りが強く感じられたんだと思います。」
「………………………!」
「ミカエル様がおっしゃっているのはおそらくロクスのことだと思いますけど、彼は私に薔薇を差し出すなんてことはしないと思います。
 私を一番子ども扱いしていますし、彼は毎晩大輪の薔薇に囲まれるような暮らしをしていましたから。」
 堕落した夜の話を、こんなあどけない唇に語らせる男がシルマリルの勇者としてその手を差し出している。シルマリルを心配するあまりに幼い天使に深入りし関わりすぎたミカエルは人間の男が彼女に関わってしまったことを知ってしまった。
矮小たる人間に過ぎぬあの男の挑戦的な紫の目が忌々しく思えることもある。
人間がどういう存在かを知りすぎたミカエルは、幼くて純粋なシルマリルが心配でたまらなくて仕方がない。性質の悪い男から、彼女に気づかれぬように気を揉みつつ引き離したいなどと考える姿は人間の青年に近く、天使と人間がどれほど似ているかを図らずも匂わせている。
その神々しさの源でもある善性が足枷になっていることを、天使たちだけが気づかない。

「あのー………」

 そこに割って入るような野太い声に、ミカエルがハッと我に返り声が聞こえた方向に向いた。
シルマリルは平然としている、声の主は彼女の補佐のシータスだから彼女の態度はある意味当たり前。
「どうかしましたか、シータス?」
 完璧な仕事人間?を演じる小さな存在と見かけよりもずっと有能なあどけない天使様、ふたりそろえばここはアルカヤにつながる。彼女の最優先事項となればミカエルだろうと口出しはできなくて、あどけなくたおやかなシルマリルがシータスの報告に耳を傾ける様子を黙って見守る他はない。
「…よろしいのでしょうか? 今お休みの最中ですが……」
「何かあったら駆けつけるのが私の役目です、休みなど気にしないで。…さ。」
「…わかりました。
 あの…私の勝手な判断に過ぎませんので、すべてはシルマリル様のお考えに従いますが…」
「はい? どうしたのですか?」
「ロクス様とアイリーン様がとてもお疲れのご様子です。
 とは申しましても、身体的な話ではなく…どう現せば適切か思い浮かびませんが…。」
「…アイリーンは姉セレニスの話があることですし、ロクスはそのセレニスがアララスに攻め入ったことでひどく自分を責めているみたいですからね。疲れてしまうのも無理はないでしょう。
 わかりました、行きましょう。」
「……シルマリル様、アイリーン様はあなた様にお会いしたいと申されていましたが、ロクス様は絶対に呼ぶなと私にきつく言い渡されましたが、いかがいたしましょうか?」
「私が勝手に押しかけるだけの話です。ロクスだってそろそろ慣れる頃でしょう。
 先にロクスの様子を見ましょうか、すぐにアイリーンの元に向かうつもりで行きますから、シータスは他の勇者たちの様子に気をつけてくださいね。」
「ありがとうございます。」
 ぼんやりしていそうな外見なのだけれどシルマリルは働き者で、補佐を務めるシータスとの相性も相当にいい。状況の把握もうまいしさすがはラファエルの下だけはある、といった具合だろうか。
ロクスの名を聞いたにもかかわらず、優しげでありながら毅然としたシルマリルの横顔に、ミカエルは懸念が懸念に過ぎぬと安堵しつつそれを微笑みに変える。…人間の男を相手取り、よほど心配なのだろう。
天使とは違い無鉄砲で、悪魔とも違い時にしおらしい素振りも見せる人間の男だから油断ならぬ。まして相手は善性が勝つか性悪か微妙な具合で判断がつかないから、このあどけない存在が心配でたまらない。
「ミカエル様、せっかくお誘いいただいたのに申し訳ありません。」
「いや、お前が何を優先せねばならぬかをしっかりと覚えていることが嬉しいぞ。
 茶の席はまたの機会にしよう。」
「それではお言葉に甘えさせていただきます。…失礼します。」
 翼広げる彼女のそれは何にも汚れていない。高位の天使のごとくその翼に淡い色を持つのはまだまだ先の話で、それでも純白を持ち続けるのならば彼女はその名を人間たちの経典に刻まれるほどの存在となりうる。
幼い天使たちと同じに丈の短い衣服ではなく、慎ましく己の姿を包む長い衣も彼女ならではで、ミカエルは翼広げ宙に舞う幼い天使の姿を、小さな背中を黙って見送った。当然シータスも彼女が休日を切り上げ任務に戻るのにあわせてじゅうたんを翻すのだけれど、
「ああ、シータス。シルマリルの仕事ぶりを聞かせてはくれまいか。
 あれはなかなか己の仕事を評価しようとせぬからな、ラファエルも私も気になるが知るに知られず気を揉むばかりだ。」
「……………は。
 そういうことでしたら、シルマリル様の後を追うのが最もわかりやすいかと思われますが。
 先日のようなことは稀な話です、普段のあの方は仕事熱心で非常に優秀だと思っております。」
「それはそうだが」
「…おそらくご懸念のロクスに関しましても、つい先日彼の育った都市に軍が攻め入ったことで、シルマリル様相手に軽口を叩けるような気持ちの余裕はまったくないように見えました。
 それが却って任務遂行の妨げになりそうなのが心配ではあるのですが…」
「人とはかくも弱いもの、か…。
 シルマリルには悪いが、仕事ぶりを見せてもらうことにしよう。」
 人間たちの葛藤など、天使たちにとっては盤上の駒が刻む棋譜と大差ない。シルマリルはそこまで行き着いていないけれどミカエルからすればそんな所で、なのに人間の男に振り回されつつある現状に気づいているのだろうか。
彼はやたらとシルマリルの影に見え隠れしている人間の青年を気にしてばかりいる。
そしてそのことを妖精にまで見抜かれていることを、当人だけが気づいていない。
 シルマリルと同じように遥かに大きく力強い翼を広げたミカエルの後を追おうとしたシータスが、何かに気づいてじゅうたんの動きを止めた。
彼の視線の先には、誰のものかわからぬ赤い雫が滴った痕が白薔薇の根元に残されていた。



 すべてに疲れ果てた青年が、ぼんやりと聖都を見下ろせる場所にうずくまるように座り込み焦土と化したそれを見下ろしている。
軽く長い前髪が聖都から吹き上げる風に舞うんだけれどその紫の瞳は動かなくて、まばたきすらも忘れてしまったかのように動くことなくぼんやりと見下ろしている。
 草を踏みしめる軽い音に、紫の瞳がようやく動いた。
「…君か。なんだ?」
 ふわりと咲いた一輪の水仙のような佇まい。大天使ミカエルが愛でてやまぬ愛らしい天使の姿に、彼は特に思うことなどなさそうな抑揚のない声でそれだけ返すと再び焦土に視線を落とした。
「休日だと聞いていたのに…。」
「ごろごろしているのって性に合わなくて落ち着かないんです。」
「なら他の勇者の所へ行け。…よりによってなぜ僕なんだ……。」
「邪魔ですか?」
「……別に。相手にしている気持ちの余裕はないがな…」
「じゃあ空気とでも思ってください。」
 美しすぎる幼い天使シルマリル。あどけない容貌なのに、小さくて折れそうな佇まいなのにその中身はなかなかしたたかなようで、勇者たちの性格にも慣れてきた彼女の物言いもなかなかのものとなりつつある。
あのロクス相手にああいえばこういうといった具合の返答を返して静かに歩み寄り、彼のそばで同じ場所を見下ろす。
何を言っても彼の慰めになりそうな言葉を口にできないとわかっているから、シルマリルは何も言わずにやわらかな金の髪をかき上げた。風下になるロクスは何を感じたのか、相手にしているだけの気持ちの余裕はないらしいのに、眼下の風景と彼女の姿をしきりにきょろきょろ眺めている。
「…薔薇なんて君には似合わない。」
「はい?」
「薔薇の香りがする。でも君に似合う花じゃないと思うが。」
「ある方のお庭のお手入れをさせていただいていたんです。
 とても立派な白薔薇の庭園だったから、それの移り香が残ったんでしょう。」
「…移り香、か……。」
 すべての言葉に後がなかなか続かないロクスの目が不意に動き、突然慌てた様子で立ち上がりシルマリルの手を取った。彼が取ったシルマリルの左手、丸い人差し指の先に赤い珠が浮かんでいる。
「お前、これ」
「え!? …あら」
「…ったく暢気にもほどがあるぞ、自分の怪我にも気がつかなかったのか。」
「そういえばちくっとしたような…あ、でも薔薇には棘があるのは当たり前ですし。」
「だから僕は薔薇が嫌いなんだ。
 過剰に身を守るあまりに棘で人を傷つけてしまうなんてどこまで自意識過剰なのか…」
「そうだったんですか? でも薔薇に罪はありませんよ?」
「君をこうして傷つけたのにか?」
「それは私がうっかりしていたからです。………あ」
 シルマリルが暢気にそう言う間にも、赤い珠は大きくなりまた滴ろうとする。
彼女と気が長いやり取りをしても埒があかないと判断したロクスは伺いも立てずに天使の白い指に唇を寄せ、傷口を舐めた。当たり前だが血はロクスの舌で拭われて彼のそれに言いようのないにおいを残すんだけど、こうして目の前にいる時のシルマリルは人間とかわらないことを不意に感じてロクスは眉間にくっきりと皺を浮かべた。
それはまるで怒らせた表情のようで、シルマリルが困った顔で見上げていることに気づいた彼はすぐに表情を元に戻して再び傷口に唇を寄せた。
「別にやましいことじゃないぞ、人間は小さな傷ならこうやって血を止めるんだ。
 天使の君に効果のほどはわからないが、止まればそれに越したことはないだろ。」
 彼女の仕草で、彼女が天使だと、人間の少女ではないと気づくことが多くてロクスはいつも言い訳めいた台詞を口にする。今もそうで、これがやましい行為ではないと断言して、証明する代わりにすぐに唇を離そうとしたけれど
「…………あの」
「ん?」
「そのまましゃべらないでください…くすぐったい。」
 あどけない天使様が言い放ったひと言で、中身の精神年齢が不明のロクスがカチンと来る。
「お前なぁ!
 人が雑念捨ててお前の心配してやってるってのにお前が煽るようなこと言ってどうするんだよ!!」
「心配してくれって言ったことないと思います。」
「じゃあその危なっかしい態度なんとかしろ。そしたら俺もお前のことで煩わせられずにすむから。」
「地が出てますよ?」
「いちいち出させるな。…これでもいろいろと大変なんだから。」
「演じ分けるからですよ…なにを考えているのか。」
「君には一生わからない。天然でぽやーんとしてて何かあっても慌てるだけの君にはわかるはずがない。」
「装っていると言うのなら私にも装い通してはどうですか、ロクス?」
「見抜いてるヤツ相手に演じるほど僕は鈍くはないんだ。
 …君が来ると気が休まらないし疲れるんだよ……。」
 一旦勃発した言い争いは双方の性格ゆえに白熱することが多くて、しかし今日はロクスの方が気力が伴わないらしく、最後の方はひとり言に近い尻すぼみな語調だった。
それでシルマリルも彼の疲労度を測るようなずるさがあって、シータスの心配が考えすぎではないことを知り
「…帰った方がいいですか?」
なんて心配そうに問いかけるから、ロクスは気が休まらない。
「君も休日なんだろう?」
「私の休日は明日でも明後日でも別の日にできます。
 でもあなたたちの気持ちが沈んでいたりしていることを先には延ばしたくありませんから…」
 「あなた『たち』」。そう、己は彼女の代行者のうちのひとりに過ぎない。時に己が彼女のたったひとりと思い込みそうになることを、ロクスはこうして不意に思い出させられてはさらに気持ちを落ち込ませてしまう。…自分が倒れようと、彼女には自分の代わりなど他にもいる。
それを思い出してしまい、ロクスは小さな手を開放した。執着しているのは自分の方だということを、このどこか醒めている青年は当の昔に気づいている。そして執着し続けて身の破滅を招きたくはないし、何よりも彼女はいつか天に還る存在。
依存の度合いが大きければ大きいほど、別離は耐え難いものに姿を変える。だけど――――

「じゃあ、そばにいてくれないか…ひとりでこの風景を見下ろしているのはさすがにつらい。」

 弱音を吐けるのも厳しい表情を見せられるのも、相手が天使という人間ではない存在だからに他ならなくて、人間の女性相手には決して口にしない台詞を消え入りそうに口にしたあと、ロクスはそれっきり黙りこんでしまった。
たとえ複数の中のひとりだろうと、彼女が個の事情を後回しにしても己を優先してくれるこの現実が、ロクスにはありがたいから………
もとよりそのつもりだったシルマリルが首を横に振るはずもなく、一見無為な時間は日の傾きと共にゆっくりと過ぎてゆく。焦土から吹き上げる風は焦げ臭くてロクスの知るそれではなくなってしまって、今はその災厄を招いた一端を担ってしまった者として後悔するより他の事が思い浮かばない。折れてしまった膝が言うことを聞いてくれない。
彼自身はこうしている場合ではないんだと頭の中でうるさいほどに叫んでいるというのに。
 そして彼の天使はそんな彼も許すほどに懐が深いから、危険なことをわかっているのに彼は依存ばかりを強めてゆく。
こんなことを繰り返していては、その小さな手を解けなくなるというのに。



「…シルマリルはどういうつもりなのだ…ああしていてはいずれ空に戻る際にあれの傷になりかねぬというのに。」
 危なっかしい幼い天使の様子を見守っていたミカエルが、彼女に依存してのめりこみ手を離せなくなりつつある人間の男の様子に懸念を隠せずにつぶやく。ミカエルほどに強い力を持ち合わせていない彼女が人間たちに天使として受け入れてもらうには他に手段などないことはわかっていたが、まさかあのような幼い少女の姿を持つ彼女にこうも強く依存するほどにこの世界の人間が疲れ果てているとまでは思いもよらなかった。
強い人の願いが実体を強くする天使だけあり、シルマリルが今強い存在感を放つのは、彼女の勇者たちがその存在を強く願っているから。彼女がいることが救いにつながっている、そばにいて欲しいとそれぞれに願っているから。
あの青年の姿で思い知った、シルマリルはこの地に引きとめられる可能性が芽生えている。
天界もまた彼女を手放せないほどに状況は逼迫しているというのに。

「ロクス、とりあえず今日は休みませんか?
 明日後悔しないために今日休んで、明日のことは明日考えましょう?」

 その優しい声色が、あの青年にとって唯一の救いなのだろう。人間はすがるものを引き止めるために思いもよらぬ力を発揮する。それを狙うには、シルマリルは幼すぎる。おそらく狙っている計算高さもない。
ミカエルはそのあどけなさが心配で仕方がなくて危機感を募らせ続ける。
…それを、人間は「嫉妬」と呼ぶことには気づいていない。