■□ ホットチョコレート □■
樫宮/薫+オリジナルヒロイン    5月頃。

 あれ? あそこにいるのは委員長と晶じゃないの?


「でもさっき紅茶おごってもらったし。まだ飲み残してるし。」
 そういいながら小さな手がスチール缶を左右に振る。言葉のとおり、振った動作にちゃぽちゃぽとまだ中身が入っているらしい水音がついてきた。
「じゃあ一気に飲んでしまえ。」
 答えたのは、ドスの聞いた低い声。威圧的でさえある。
「んな無茶な」
 しかし紅茶を持つ手の主、どう見ても高校の制服を着ている明るい色した巻き毛の少女はその言葉に微塵も臆せずに鋭く切り返す。切り返しのとおりに、飲みきれないから飲み残して、けれど奢ってくれた当人に悪いからと彼に見えない角度、自分の小さな体の陰に隠していた。
それを知っていたのかどうなのか、長身の青年は心無く聞こえる言葉を続けた。
「無茶と言うほどの量じゃないだろ。
 それを片付けたらきちんとした飲み物の一杯ぐらいおごってやる。」
「水腹ならぬ紅茶腹になっちゃうし。」
「じゃあ別のを飲めば良いだろう。」
「いやそーゆー問題じゃないし…ってちょっとちょっと、高校生を大学構内に置き去りですか!?」
「迷いたくなかったらついてこい。迷子になっても俺を呼び出すなよ。」
「どーしてあんた…先輩呼び出すはずないでしょ。薫先輩いるし。」
 ふたりは話の中身の割に派手なやり取りを繰り広げているけど、そのまわりには彼らを気にする素振りすら見せない若者たちが行き交うばかり。
ここは大学の構内で、青年の方はここの学生なんだけど、少女はその服装のとおりの高校生。高圧的な青年と口さがない少女のぎすぎすしたやり取り、けれどあまり仲はよろしくなさそうなやりとりを軽妙なテンポで繰り広げるこのふたりは、もしかしたら仲ははたから見てるよりもいいのかもしれない。


 あれ、どー見ても晶が委員長に懐いたってより、委員長が晶引きずりまわしてる…よね?


 そんなふたりだけがまるでドラマのカメラワークのようにクローズアップされているふたつの瞳に、ふたりとも気づく様子はない。それも致し方ないほどに午後の大学は混んでいた。
傍観者の視線にふたりとも気づくことなく、愛想もそっけもなく言い捨てて歩き出した青年に置き去りにされそうな少女は、仕方なく駆け足で大股で先を歩く青年のあとを追った。
じゃれあっているのではなくて、彼女はそうするより他はない。
「確かに調べ物したいって言ったけど、図書館だけならこないだ来て道覚えたからひとりでも大丈夫なんだけど」
「構内は関係者以外立ち入り禁止だ。このところ物騒だからな、前のように気楽に入れなくなってるぞ。」
「いちいち人の言葉尻にかぶせないでくださいよ。」
「本当のことを言ったまでだ。お前は放っておけば水をかけるまでしゃべりそうなのでな。」
「あーそーですか。そりゃ失礼しました。黙ってついてきますのでどーぞ先をお急ぎくださいな。」
 遠慮のない言葉の応酬に、売り言葉に買い言葉、少女はツンとそっぽを向くみたいに言い捨ててその後告げたとおりに黙り込んだ。彼女はここの学生じゃないから、ここの学生である彼の後をついて行くより他はなくて、ふてくされながらもはぐれないようについて歩く。
彼女は可愛がってくれた先輩を頼りに大学構内の図書室を訪れたことがあるんだけれど、それ以外の場所には行っていないから他の場所の位置取りなどわかるはずもない。しかし受験生である彼女にとって大学構内の図書館は公立の図書館よりも「自分に必要な蔵書」が充実しているから、来ることができるようになって以降時々忍び込んでいる。
 けれど今日は違う、雑誌を買いに立ち寄った本屋で見知った顔とばったり会って今この状況。
彼は店頭で知り合って間もない顔を、そしてしたたかな物言いと正反対ですらあるか細い両腕いっぱいに抱えられた書籍を見て、何も言わずにそれに手を貸した。駅まで送り届ける道すがらでまだ調べ物をしたい様子をほのめかした彼女の言葉を彼は聞き逃せなくて、青年は本を持ったままで出たばかりの大学へととんぼ返り。
男の腕にしっかりと抱えた重く感じる紙の束の中身にはわかりやすい傾向が存在し、しかしその傾向から大きく外れた雑誌が2冊だけあって、青年の目にはそれで他の本を挟んでいたことが不思議ですらあった。
「あの本もお前が読むのか?」
 たくさんの専門書や参考書を挟んでいた2冊の少女雑誌はかなり異質で、その違和感がどうしてもぬぐえない青年が、自ら「しゃべるな」と暗に言いながらも問いかける。
「へ?」
「雑誌。
 普通あの手の雑誌を参考書で挟んでごまかすものじゃないのか?」
 彼の指摘したその行動は同世代ならばおそらく覚えがあるだろう。いかがわしかったり都合のよろしくない本を、「手にしているだけで立派な人に見える本」で挟んでごまかすのが普通だろうに、彼女は祖の真逆、遊びとうわさと占いが大好きな彼女たち向けの本で、到底高校生は読みそうにない専門書やらを隠していた。
まだ彼が抱えたままのそれらは当然彼女がレジに出した状態のままで袋に入れられたから、一見すると少女雑誌の束のように薄い紙袋が少しだけ透けて見えていた。
…強面ですらある長身の青年が、うっすらと少女雑誌が透けて見える紙袋を小脇に抱えている様子はこちらもまたかなり異質なものに見えるのだけれど、中身を知っている彼は気にしている様子すら見せていなかった。
「ああ、アレ。
 ほとんど読まないんですけどね。でもウチ娘に学力は必要ないって親なんで、いつも買ってる本とか見られたらなに言われるかわかったもんじゃなくって。
 けどその手の雑誌をその辺にうっちゃってれば安心してくれるんです、芸人まがいのヨゴレな娘はそれに見合った雑誌見てる、って。」
「…自虐だな。」
「お金のムダって言ってくださいよ。
 女が喜ぶ言葉や礼儀は心得てるんでしょ、カズマさん?」

 ……瞬間、空気が凍った。

 それまでどうやら優位と言うか立場的に高い場所にいたらしい青年が、小娘の短い言葉で言葉を呑むみたいに口を閉ざした。眼鏡の奥の涼しげ通り越して冷たく鋭くすらある眼差しは落ち着きなく右へ左へ、その目の動きは周囲の様子を伺っている。そして懸念は懸念に過ぎず誰も気に留めた様子がないのを確認し、青年は明らかに眉をつり上げて少女をねめつけた。
小憎らしいことに彼女は軽やかな巻きの大きな髪に指を絡めて遊びながら、にこにこ、いやニヤニヤと年上男の反応、いや出方を待っている。
「どうしました、樫宮先輩?」
 そして口を開いたその表情は明らかに駆け引きに勝った女のそれ。小娘のくせに、駆け引きのなんたるかを知っている小賢しい存在の登場に、青年は日々気が休まらない。
しかしここで引き下がっては小娘の思う壺なのは確実で、だから青年はいつも居丈高に、上からその小さな頭を押さえつける物言いで上位に立とうとするんだけど…成功したためしがない。今この場で釘を刺すにしても、目も耳も多すぎる。
青年は奥歯が欠けそうな勢いで歯軋りするより他はなかった。
 夜は黒蝶としてひらりひらりと花から花へと飛び回る男なのに、昼の顔のこの体たらくは何なのだろう? ようやく青虫から飛べるようになった紋白蝶にからかわれてあしらわれて笑われてる。
しかしこのままなめられっぱなしでは、さすがに男として年上として立つ瀬がない。珍しく頭に血が上ってしまった青年は、逆上するとまわりが見えなくなる性質で、彼の弱みを握っていいように手のひらの上で弄んでいる小悪魔をやり込めることで頭がいっぱいになっていた。
けれど何が出来るはずもなくて、彼は精いっぱいの抵抗のかわりに背中を向けた。そして彼女を無視した速足で歩き出す。
「あ、待って」
 青年にはこの小娘が何を思い握った秘密を誰にも漏らしていないのかがわからない。それで揺さぶりをかけるぐらいはするけど、それもかわいらしいいたずら程度のもので、怒る方が大人気ないことは彼にだってわかっている。少女はそのどこか蓮っ葉な物言いとは違い信頼はできそうなんだけど――――どうしてだろうか? どうも神経がざわつくみたいで落ち着かない。
よくあるような後輩が先輩に好意を持ってまとわりついているのとも違う。彼女はおそらく彼女が慕う先輩と彼とが同じ場所にいたとしたなら、迷うことなく慕う先輩の名を呼ぶことだろう。
…そう、声をかけているのは、いつも青年の方から。小憎らしいはずの遠慮を知らない少女には理解できない引力があった。
「―――――きゃ!?」
 どすんと重い音と短い悲鳴、思案にふける青年がそれにハッと我に返りはじかれたみたいにふり返ると、何があったのだろうか彼女は尻餅をつきひざを起こしたまましかめっ面で髪をかき上げていた。
彼女の足元には雑巾があり、ぴかぴかに、鏡のように磨き上げられた床には彼女の脚と服、そしてスカートの中の下着の模様までくっきりと映しこまれていた。

唐突な状況に青年は固まってしまって、床に映るそれから目を離せずにいる。尻の痛みにあうあうと意味のないうめき声を挙げていた少女だったけど、間抜けな男の顔と視線をたどり何を見ているかにようやく気づかされて…濡れている冷たい床、なのに少女は立てていたひざをあわてて倒してスカートを押さえる。
 あれだけやり合っても誰も気に留めなかったのに、今は皆が彼女の様子から目を離さなかった。



 出るのはため息ばかり。
あのままあの場で彼女を見世物にしておけるほど彼は薄情ではないんだけれど、完全に固まってしまって何も出来なかった。そこに駆けつけた彼女が慕う先輩・薫が座り込んだまま泣き出しそうな後輩を抱えるみたいに起こして呆然と立ち尽くす青年の尻をたたくみたいにカフェテリアに駆け込んだ。
「…晶、どこもすりむいてないよね?」
 薫の静かな問いかけに、後輩の晶はテーブルに倒れこむみたいに突っ伏したままで首を縦に動かした。
薫の中の彼女は「女芸人」のあだ名をもらうほどに体を張って何かしでかす少女だった記憶がある。すべって転んだ姿を見られたからと立ち直れない勢いで落ち込むような性格じゃなかった、そう思うんだけど…実際今彼女は顔を見せようともしないし一言もしゃべらない。けれど泣いている様子もまたない。
「制服だから仕方ないけど、それにしてもうちらの高校のスカートって短いよね。
 あたしも足が気になってしょうがなかったもんなぁ。」
 わざと気にしてない素振りで他愛のない話を振るんだけれど、晶は反応ひとつしなかった。くるくる巻いた肩までの髪をテーブルに散らしたままで突っ伏したまま動かない。
それほどにショックが大きかったのかもしれないんだけど、薫が知る限りそういうデリケートなタイプでもないからおどけた言葉も続かない。
晶はどんな局面だろうと必要と彼女が思ったならとどまることを知らないマシンガントークを繰り出せるのに、いざやろうとすると見てる以上、いやはるかに難しいことに気がついた。

「いつまでそうしているつもりだ?」

 何とか慰めようとしている気持ちを逆撫でするみたいな心無い物言いに、薫が声の聞こえた方をにらみつける。すぐそこにもうひとりの当事者・樫宮がトレイを手に立っていて、彼はまず薫の前にコーヒーがなみなみと注がれたカップを置き、そのあとテーブルにトレイを置き白い椅子に腰を下ろした。
「樫宮、あんたね」
「…見てないから。だから顔を上げろよ。」
 続いた言葉は、薫の想像をはるかに上回り裏切るほどの響きを持ってテーブルに響いた。
彼がテーブルに置いたトレイにはコーヒーがもう一杯と、ホットココアが乗っていた。コーヒーはともかくあたたかくなりつつある季節にホットココアもないだろうに、薫はそう思うんだけれど――――
「紅茶台無しにしたから…ここの紅茶は色がついたぐらいだって聞いたからな、そんなものよりはこっちの方がマシだろ。落ち着いたら駅まで送るよ。」
「樫宮、あんた…」
「…見てない、なんて言ってもあの構図じゃ嘘だって言われなくてもわかるだろうからな。
 出来るだけ早く忘れる。…ように、する……。」
 眼鏡の奥の涼しげな眼差しが、所在無さげに伏せられたまま。唐突なアクシデントに困惑しているのは彼も同じで、「見てない」と言いながらもそれを否定する前には大きなため息をひとつついた。
誰かのためとはいえ嘘をつく後ろめたさ、けれどそれをどうしようもない無力感。とげは小さい方が抜けにくく、痛みを引きずることを顕著に語っているみたいで空気が重い。
薫はまたため息をついた「委員長」――――樫宮祐一郎の、見たことのない横顔に戸惑いながら彼から目を離せずにいた。
実は薫はこのあと待ち合わせがあって時間がどうにも気になるんだけど、「じゃあそういうわけで」と中座もまた出来そうにない。可愛い後輩はあられもない姿を公衆の面前にさらしたことですぐには立ち直れなさそうな様子だし、薫が帰ったあと残るのは、どうにも不器用な男が一人。
先ほどの彼の言葉からもわかるとおり、人当たりがいい印象はあるけど女の扱い方には期待できない。
「…今居、さん」
「へ?」
 けれど、薫が途方にくれている中、不意に涼しげな眼差しが彼女を捉えた。苗字だけ呼んで一瞬の間が空いたこと、彼が薫の名を呼びなれてないことを如実に物語っているようでなんだか奇妙な感触。
「後は俺がなんとかする、暗くならないうちに送るから。」
「え、でも」
「待ち合わせ、あるんじゃないのか?
 さっきからずっとあの時計を気にしてる。」
 言いながらクスリと笑う笑顔にはどこか裏がありそうに見えるんだけど、響きだけならなんとも優しげで薫は素直にうなずけない。しかし、けれど…その申し出そのものは、ありがたい。
たとえ遊びに行く待ち合わせだろうと、遊びに行く待ち合わせだからこそ気持ちはそっちに飛んでしまってて、下手したらうっかりいろいろと口を滑らせてしまいそう。
「いいよ、後は俺がなんとかするから。」
「そ…そう? じゃあ……」
「ああ、助かった、ありがとう。」
 これ幸いとばかりに腰を上げた薫の椅子が音を立てて、それでやっと今の今まで顔を見せなかった晶ががばっと顔を上げた。目で薫を引きとめようとしたのは引きとめられた薫にもわかったけれど、それよりも素早く、彼女が顔を上げたのとほぼ同時に祐一郎の手が、指先が晶の額をそのままの体勢で押さえて再び顔を下げてしまわないように、意地悪に押さえつける。
突然そんなことをされてしまった晶は一瞬固まってしまって、それで完全に主導権を祐一郎に握られてしまってこの構図に気づいたあとは悔しげに彼をにらみつけている。
「先輩は約束があるそうだ、あきらめろ。」
 薫の前では記憶どおりの品行方正な「委員長」、けれどどうもその後輩相手にはエゴイストの面をのぞかせている。語調はどこか強い命令形、することも多少強引で――――そんな彼の様子は、薫の記憶の「委員長」ではないしもちろん大学の構内でたまにすれ違う樫宮祐一郎のそれでもない。
晶は泣いてまではいなかったけれど目はゆらゆら揺れていて、こらえていたことはわかる。
「ほら、顔上げたからあとはどうにかなるよ。――――じゃ。」
「う、うん……」
 にっこり笑って彼はそう言ったけれど、そう言われた薫の返答は誘導されたようなものなのだけれど、それに気づいてもどうにかできる展開じゃない。有無を言わさずにこやかに追い払われて、薫は仕方なく愛想笑いでその場から退場するしかなかった。
その表情も態度も物言いも、薫の知ってる「委員長」、のはず…なんだけど……薫はその不自然さに気がついても何か言えるほど樫宮祐一郎と言う同級生について何も知らなかった。


「さて、と……それを飲んだら送るから。冷めないうちにな。」
「見たでしょ?」
「ああ見た。言い訳も何もしないでおこう。
 けどさっき言ったとおり、出来るだけ早く忘れる努力はする。あれは事故だ。」
「タダ見!」
「代金。」
「やッす! あたしのパンツはココア並かよ!?」
「高く払って欲しいのか? 見せてくれてありがとう、って。」
「…ココアでいい。」

 言い争いは、しばらく止まらないことだろう。