■□ carry on □■
樫宮/明里の面影+オリジナルヒロイン    6月頃

 PM6:00前の駅の混み様は想像をはるかに上回る。
「急げ! 電車が出るぞ!」
 駆け足で駆け込み乗車をした直後、祐一郎は飛び込んで激しく後悔した。夕方のラッシュを避けられそうなギリギリの時間だからと狙った電車だったけど、すでにラッシュは始まっていて飛び込んでも中に入ることすらままならないほどに混んでいて結局ドア際から奥には入れなかった。微妙なタイミングの悪さに肩を上下させながらも祐一郎は悪態を口にするかわりに今にも何か言い出しそうに不機嫌に眉を歪めたけれど、言ったところでどうにもならないこともまたわかっているから声にしては言わなかった。自分はドアを向いて、顔だけを横に向けて、腕はドアに向けて肘をつき、わずかなスペースを開けてそこに今日の連れが立つ場所を開けて自分は壁になる。
「…悪いな、予想が甘かった。」
「こんな日もあるってことなんでしょうね。しょうがないですよ。」
「いやもう少し俺が早く切り上げていればこんな目にあわずにすんだから」
「あってから言ってもしょうがないですって。15分ぐらい辛抱できます。」
 祐一郎とそれ以上言い合うつもりがないらしく、晶はごそごそと器用に体を丸めて鞄から文庫本を取り出すと栞を頼りに開いて目を落とした。
「…ライトノベルか?」
 本を、いや活字を見かけると祐一郎はその内容をたどるのが癖になっている。目の前の彼女が開いたそれも眼鏡越しに文章が見えたからつい目で追い、その文字数から傾向を察して抑えた声で問いかけると、彼女は顔を上げずに素っ気なく答えた。
「友達が面白いからって貸してくれたんです。明日あたり返そうかなって思って。」
「どうだ?」
「まあ…物足りないですけど、ライトノベルがやたら厚くてもあれですからね。
 あらすじとしてはよくある話です。」
「ライトノベルは物足りないがたまに当たりがあるからな。…大半が時間の無駄になるが。」
 彼女とは好きな作家が同じで、活字中毒同士で、しかし彼女は祐一郎とは違ってとても活発で一見本の虫にはとても見えない。けれど祐一郎は少なくなった自分の時間を使い、本のある場で過ごすパートナーとして小さな後輩を選ぶことが多くなった。今まではなかったからわからなかったんだけれど、男女の友情があると言うのならばおそらくこういう距離感をさして言うのだろう、なんて顔に出さずに考えることも増えた。
バイト先に好きだった高校のクラスメイトが来れば落ち着かないし、それを多分未練を残してる、と言うのだろうし、幼馴染のことだってある。しかし1年もすれば自分を追いかける形で同じ学び舎に通うことになる元気な後輩と、本屋で図書館で同じ時間を過ごしていると気持ちが折れてしまいそうな二重生活も何とか送れるまでに気力が戻るから、と口には出さずに利用している。
最初は横柄な先輩に噛みつく勢いだった彼女も最近ではずいぶん慣れてきたと言うか容赦なくなってきた、お互いにテスト前にカラオケボックスに参考書を持ち込んで遅くまで勉強したり、その関係はかなり微妙な距離感を保っている。はたから見たら疑われる、けれど話を振られたらお互いに困惑することだろう。
「どーしても何か読みたいときとか、ラノベなら親の見てる前で呼んでも何も言われないからそれは楽かな。もう一回、って読み返そうとは思わないけど。」
「勉強してると小言を言う親、か。お前も大変だな。」
「母親がなにもできない人で、父親はそんな女が可愛いなんて信じきってますから。
 娘心にもちょっと痛いなぁって思うこと、ありますよ。」
「確かに可愛げはないな。なめてかかると足元をすくわれる。」
「まぁ可愛げは必要になったらなんとかするよう努力してみます。」
 祐一郎の目から見ても、目の前の彼女は人並みではなく美人の部類に入ると思う。女と接する機会が少ないわけでもないどころか夜の顔はホストの彼だから、昼の太陽光の下で見る表情がいいと思える彼女が美人でないわけがないことだけは感じている。
しかし、それ以上ではない。気楽につきあえるだけ。自分の正体を知っているもうひとり・明里よりも、今は近いかもしれない。…明里との距離は、どうも縮まりそうにない。
 祐一郎はカズマに切り替わるまでのたった15分間の残り時間の中、赤を強くしてゆく空をやるせなく眺めていた。明里のことを思うと、どうにもまだ苦しくてため息が出そうになる。
臆病で見ているだけのままで終わってしまった高校時代をどう悔いてみても戻らないことはわかっているのだけど、悔いる余裕なんてないこともわかっているのだけど、忘れたくても明里の顔を見る機会が唐突に増えたからかさぶたをはがされた生傷みたいにいつまでもじくじくと痛み続ける。
態度は一人前でも、たかだか二十歳そこそこの不器用な青年が青臭い思い出を何とかできるわけもなくて、ため息を吐き出すより他にできることが見つからない。
薫に対して優しかったのも、もしかしたらを期待してしまったから。そのために薫を、今はいい関係を築けた年下の友人を利用した。つきあいとも言えないくらいの縁の薫はともかく、歳若い友人は祐一郎の本心を気づいているかもしれない。
彼女はおそろしく鋭いところがあるから、先ほどの言葉のとおりに「なめてかかると足元すくわれる」。
 けれどカズマと祐一郎の二重生活を誰にも、慕う先輩の薫にさえ漏らさずに自分の中にそっと閉じ込めて、祐一郎相手にもほとんど口に出さないほどに気を遣わせていて…厄介なことに、祐一郎にとってそれが心安らぐ気配り。
彼女が心配するほどに、祐一郎は彼女といる時間ばかりを浪費している。
それは恋ではない。気持ちは相変わらず明里に残している。気持ちが揺れるのを揺れている電車のせいになどできるはずもなくて、祐一郎は頭の中をさまざまなことで一杯にしてしまう。
いつか彼女が明里の存在を追い越してしまったら、もしかしたらを思うと怖くなるけど、気のおけない友人関係は何にも変えがたいから――――

 瞬間、電車が大きく揺れた。

「わ!?」
 祐一郎の二の腕の長さ分のスペースが突然なくなり、くるくる巻いた髪が大きく揺れて舞った様子に大きな手が慌ててそれを捕まえる。腕の中に収めた質量は小さいけれど確かなもので、揺れた反動で祐一郎の手の甲が音がするほどドアのガラスにぶつかった。
「先輩、手!」
「足踏まれなかったか?」
「あたしはなんともないけど先輩の手、あんな音」
「頭打つ方が大事だろう。すまない、離れられそうにない。」
アクシデントとはいえ覆いかぶさり抱きついてきた男の感触にさすがに図太い少女も驚いたんだけど、少しだけ視線を上げれば嫌でも見える祐一郎の様子まで勘繰っていては彼に悪い。大きく揺れた電車の動きに、とっさに窓際にいた彼女のことを一番に案じて自分の手でかばってくれた、心配してしまうほどの音を立ててぶつかった手、それだけでなく背中を押されて身動き取れなくなってしまった彼に四の五の言う方が失礼だろう。
 彼女を見送るまであと一駅、2分程度。しかし2分の抱擁となると、それはずいぶん熱烈になる。
心配そうに見上げている大きな目を見ているといたたまれなくなる、祐一郎は抱きしめるみたいに彼女の頭を自分の胸にうずめさせた。…自分の顔を、見られないために。
 頬をくすぐる髪の感触も女の体の質感も、カズマで感じるものとは違う。今は樫宮祐一郎、必然から生み出されたもう一人の自分ではなく、20年あり続けた素顔の自分。
今自分がカズマならば、今作る表情は想像できる。しかし……

 樫宮祐一郎は、こんな時どんな顔をするのだろう?
したことがないからどうしようもなくて困惑するばかり。