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樫宮/明里の面影+オリジナルヒロイン    4月終わり頃


 …ようやく朝が来る。
あの事故からどれだけ経つだろう? こうしてアゲハチョウの様に黒くしかし鮮やかなスーツに腕を通すようになってどれくらい? 装うことには慣れているけど派手な性格ではない祐一郎にとってあまり楽しいとは思えない時間に、ようやく終わりが見えてきた。
店の掃除も終わりネクタイを解けばようやく自分の意思で呼吸が出来る、そんな錯覚すら覚えるんだけど、これが自分の義務ならば四の五の言うほど文句言いではないつもり。アルバイトならば他の職種でもいいのだろうけれど、自分の小遣いプラスアルファの収入では話にならないからこの道に飛び込む腹をくくったはず。
幸い自分が勤める店は比較的良心的だから後ろめたいことは少ないんだけれど、それでも酒が過ぎると慣れていなかった体が悲鳴を挙げることは珍しくはなかった。
安酒でなくても、望まぬ酒なら悪酔いすると身をもって知ることになった、これもいい経験、と思わないことにはやっていられない。
 すっかり白く明るくなった表に出ると、そこには会社へと向かう朝の、昼の顔ばかりが行きかっていた。
自ら望んでいないままホストを続ける男にとって、それにはさすがに後ろめたい。しかし昼間の顔をまとわなければ。
昼の自分は真面目な学生で、いずれサラリーマンになり平凡なままつまらない男になるのだろう。
だが、それでいい。虚飾に包まれているだけでない嘘で存在を固めているカズマなんて男にはなれない。演じることは出来てもそれ以上は到底無理――――ああ、望まぬ自分の境遇と世の中の上っ面に吐き気がする。それが飲みすぎから来る悪酔いだと理解はしているのだけれど、それでも悪態をつき唾を吐きたくなることもある。
それをしないあたり今の彼はもうカズマではなく品行方正な昼間の顔、樫宮祐一郎なのだけれど、だから余計に吐き気は強くなるばかり。
吐き出せないストレスが吐き気にかわろうと、吐けないことには変わりはない。祐一郎は吐き気が強まり白く冷たい太陽の光で目がくらみ、思わず狭い路地に身を隠すみたいに少しだけ入り込んで、すでに消えて色を失った飲み屋の看板に片手をついた。

「…大丈夫ですか?」

 その声に、祐一郎が己の醜態に気づきハッと我に返った。我に返るほどのショックが強すぎて顔を上げた瞬間世界がぐにゃりと奇妙にゆがみ、一瞬意識が切れそうになったけれど、左頬に突然触れた強い冷感に、祐一郎は文字にしようもない悲鳴を挙げてしまった。
「もしかしたらーって思ったらやっぱり…しゃんと歩きましょうよ、ホストが飲まれて悪酔いしてゲロ吐いたなんてみっともないったらありゃしない。
 男前が売りなんでしょ、カズマさん?」
「あ………」
「変な顔色してますよ。とりあえずこれどうぞ、全部飲んじゃっていいですから。」
 差し出されたのはキンと冷えたミネラルウォーターと、厳しくも耳に痛い女の声。顔を下げたまま上げられずにいる祐一郎の視界の中にあるのは使い込まれた小さめのローファーと短い白い靴下と朝の光にふさわしいはじけそうな女の脚で、祐一郎はその声に思いあたりがあるけどこの状態ではなかなか記憶を手繰れない。とっさには思い出せない程度の親密度、記憶を手繰れない程度の仲。
プライドの高い男は親しいとは思えない相手に心を許すこともまたなかった。
「恩着せたりしませんからまず飲んで歩けるようになってください。
 あたしの身長でカズマさんに肩貸せるなんて思えないでしょ。はい、ちゃんと握って!」
 だがいつまでたっても醜態をさらすばかりで意地を張る男に、彼女は決め手の一撃を叩き込める隙を伺うみたいに様子見の憎まれ口のラッシュを叩き込んで、有無を言わさず彼の手にペットボトルをしっかりと持たせた。
その口ぶりはどこか彼の姉の羽衣に似ていて、祐一郎は明らかに眉根を寄せて嫌な顔を見せる。
「…お前は俺の姉貴か?」
 それでようやく顔を上げて誰かを確認して思い出した。たった一度、いや祐一郎とカズマの両方をあわせれば2度会っただけの、ほぼ接点のなかった高校の同級生の今居薫の後輩だと言う小柄な少女。
名前はまだ思い出せないんだけど、肩で切りそろえた元気のいいくるくる巻いたくせ毛と溌剌とした生気あふれる目、そして口さがない早口気味の声と子どものような小柄さには覚えがある。
平日の朝だから当然高校の制服で、それはかつて祐一郎も毎日見ていたもので、どこか懐かしい。
「こんな自分より年上のひねた弟なんて持った覚えありません。
 いいから飲んじゃってくださいって、あたし登校途中だし。」
「ほっとけよ。さっさと学校に行け。」
「言いながらふらついてどーするんですか。
 たとえ見ず知らずの人でも同じことします、恩になんて着せるほどたいしたことしてないからミョーな気つかわないでとっとと飲んじゃってあたしを解放してください。」
「うるさい!」
 その物言いがやはり姉を思い出させて後ろめたくて、しかも縁が歩かないか微妙な具合の後輩にそんな心配をされたことで面子もあるし、祐一郎は恫喝するみたいに低く鋭く言い放った。しかし酔っ払いと素面の判断力は比較にならなくて彼女の方がずっと冷静で、うるさいと言いながらまた頭を押さえわずかによろめいた祐一郎の腕を、その物言いとは正反対に細くて頼りない女の腕がとっさに力強く支えた。
「…素直に飲んでください。急性アル中で救急車、なんて笑い話にならないでしょ?
 あたしもそんな通報したくないですから。」
「お前…」
「風間です。下の名前、覚えてないなら苗字でどうぞ。」
「…悪いな、ありがとう。」
 あまりにもかたくなな祐一郎の態度を見て、彼女は賢しくも出方を変えたのだろう。今度は猫撫で声でもない優しげな声で祐一郎に語りかける――――そんなあたりまでが羽衣そっくり。
そして祐一郎は虚勢と意地を張りながらも羽衣に勝てないのもまた同じで、羽衣によく似た空気を持つ年下の少女の心配をようやく素直に受け取った。
浴びるみたいに冷たい水を飲むと、不思議にもあのぬぐえなかった吐き気とそれにつきまとう不快感が洗い流されてゆくかのように体の奥から引いて行った。そして頭が冷えて目が覚めて思い出す。
「お前、ホストって…!?」
 祐一郎が、切れ長の涼しげな目を見開いて思わず間抜けな一言を口走った。それは自分から隠していた二重生活を暴露したに他ならず、目の前の彼女はフンとあきれたみたいに笑いながら醒めたため息をついて彼から目をそらした。
「たった2度見かけただけでなぜ」
「…隠したかったら見抜かれてもしらばっくれるぐらいの図太さと覚悟ぐらい用意しましょうね。
 無理なら最初から隠さない。弱み握られちゃ身動き取れなくなるだけですよ?」
「そんなことを訊いているのではなくて」
「あたし、人の顔覚えるの得意なんですよ。名前もね。
 見慣れない服着てるぐらいだったら充分見分けつけられます。
 …声、大きい。自分から正体ばらしたくなったんですか?」
 化粧をしていないはずの桜色の唇に、音もなく人差し指が立てられる。彼女の台詞は的を射ていないようで彼の真実を暴き立てていたから祐一郎は隠すことも装うことも忘れてにらみつけたけど、そうすることで初めて彼女と目が合った。
冷静に考えれば、姉に勝てたためしなどない。姉に似てる女に果たして勝てるだろうか?かろうじて残った判断力が「この女にはかかわるな」と叫んでいたけど、それを選ぶにしても、思わせぶりな物言いの真意を探り口をふさぐ約束を引きずり出さないことには祐一郎は安心できそうにもなかった。
 …彼女は、明里とは違う。正反対のタイプ。
明里は高圧的な態度で反論をふさぎ押し切ることも出来たけれど、彼女は祐一郎の物言いすべてをそうは見せない聡明さと冷静な観察眼でことごとく看破出来ると見える。友人ならばおそらくおそろしく頼もしく、対立したら気が休まらない。
「…大丈夫、言いふらすつもりなんてありませんから。
 これでも恩も恨みも忘れないタイプなんですよ。先輩には普通なら入るの難しい所に案内してもらった恩だけじゃなくて、無事に論文書き上げられた恩もありますから黙っておきます。」
 そして彼女は祐一郎の腹の中、胸の内をどこまでも見透かしているみたいに、朝の白い光の中できらきらとラメみたいな光の粒子をまといながら微笑んだ。その姿は星のない夜みたいな祐一郎、いやカズマにとって少々苦手というか、呑むか呑まれるか、共存が出来なさそうで…怖い。
「それでお前が得をするのか?」
「もちろん、大学に用が出来たら先輩にくっつかせてもらいます。
 だって薫先輩、こーゆー話じゃてーんで頼りにできないんだってわかりましたから。でも先輩ならそっち方面じゃすごい頼りになりそうだし、ギブアンドテイクの方が損得もはっきりしててわかりやすいでしょ?」
「交換条件、か…確かにわかりやすいな。善人ぶられるよりも信頼はできそうだ。」
「でしょ?
 あたし2年ばかり遊びすぎて、勉強で頼れる友達とか先輩ってほとんどいないままなんですよー。
 真面目な人たちからは多分うるさいって嫌がられてそうだし。
 だから先輩みたいな人って仲良くなれたら貴重なんだなって思ったら、きっかけなんてどーでもいーからお友達からはじめましょ、なーんて。」
 祐一郎が怖いと感じるのも無理はない、彼女は相当のやり手っぽい。他人を分析できる人間は多いけど自分もまたひとりの人間として他人と同じように分析していて、置かれている立場を把握していた。
見抜かれたカズマの正体、それを呑んだ上での交換条件…感じたとおり、年下でも祐一郎よりも上手かもしれない。
「じゃ、あたし学校ありますから行きますね。水はそのうち返してください、できたら紅茶で。」
「ならその辺の店に」
「学校ありますって。皆勤かかってるんです。――――それじゃ。」
 それなのに、彼女はその技量を無駄にするかのごとく実にさっぱりしていて、色男のホストを演じる祐一郎相手に「じゃあね、バイバイ」なんて輝くばかりの笑顔で手なんてひらひらさせて立ち去ろうとしている。見慣れていたはずの上着と短いスカートが翻る様子は明らかに祐一郎が過去に置いてきた昼の世界そのもので、当たり前だけどもう戻れなくて、その服を見るといつも明里を思い出しては言いようのないもやもやした気持ちばかりを抱えてしまう。
不意に再会したかつてのクラスメイト、そして好きだった、しかし言い出せなかった縁すら存在しなかった女のことばかりを思い出すけど、直接の面識のない後輩とやらのどこが好きだった彼女に似ているのだろうか?
むしろ彼女は姉の羽衣を思い出すと言うのに。
昨夜も明里の顔を見たから、もやもやをぬぐいきれないままカズマは朝が来てもカズマのままでいる。
いやカズマを演じながら樫宮祐一郎の素顔が見えていることも気づかないほど動揺していた。