■□ 栞 □■
樫宮/明里の面影+オリジナルヒロイン    6月頃


「先輩はっけーん。珍しいお店で見ーつけちゃった。」

 両肩をぽんと叩かれるのとほぼ同時に聞こえた、その聞き慣れ始めた独特の調子に、祐一郎は振り向きもせずにため息をひとつついた。
「いらっしゃいませ!」
「スパイシーチキンバーガーのセット、ドリンクはアイスティーでサイドメニューはアップルパイ。
 あとチキンナゲットの5個のヤツをサルサソースで。
 イートインでお願いします。」
「かしこまりましたぁ!」
 しかし声の主はため息なんて見事に無視して、祐一郎の並んでいたレジでさっさと注文を済ませる。
ひとりの時は無愛想な祐一郎とは正反対に、「スマイル:0円」の店員と張り合うかのような堂々とした笑顔で注文をする彼女を見ているとつられて元気になるか、逆にげんなりして元気を奪われるか。
祐一郎はおおよそ「元気」などという単語とは縁の遠い男で、いつも奪われてしまうような気がしてならなかったりする。
「…聞いてると気持ち悪くなる。」
「なにが?」
「お前の注文。ハンバーガー食ってアップルパイまでとはな。」
「ハンバーガーはともかくアップルパイはあたしの中ではデフォなんです。甘いものバンザイ。」
「お会計690円になります!」
「あ、はい。」
 ふざけた会話をしている間に店員が清算を言い渡してきたから晶が当たり前に小さな財布を開いたんだけど、その手を祐一郎がさえぎり一度はポケットにしまった財布をもう片方の手で取り出して開いた。
「あ、先輩そんなつもりじゃ」
「310円のお返しになります! 出来上がりましたら番号をお呼びします!」
 彼女は別に先輩にたかっておごってもらうつもりなど毛頭なかったのだけれど、祐一郎は当たり前のように年下の友人の分まで清算を済ませて71番の札を受け取ると、店の奥へと足を向けた。
思いがけずおごってもらった形になった晶は後ろめたいんだけど注文札を持って行かれてしまったから背の高い先輩を追いかけるしかなくて、彼が無言で71番と68番の札を置いたテーブルに先に腰を下ろした。
「…呼ばれたら取りにいきますね。」
「そうしてくれ。」
 言いながら祐一郎は大振りのバッグを奥に、自分が手前に座り、あまり混んでいない店の中ふたり連れの客は店の奥の4人がけのテーブルを選んだ。祐一郎は置いたバッグから本を取り出し待ち時間をつぶすつもりでいたのだけれど、目の前の友人は興味津々で彼が取り出した本の背表紙を覗き込んでいる。
「それ、まだ文庫になってないやつですよね?」
「あ、ああ…そうだったかな。」
「あーいいなぁ。市の図書館ではいっつも貸し出し中なんですよ。
 今度大学の図書館に行った時に物色しますから、先輩それまでには返却よろしくお願いします!」
「読むなら貸してやろうか?」
「え? それ先輩の本?」
「ああ。読み終わるのはまだ先だろうがな。」
「うわぁ! だったらいつまでも待ちますよ!
 だって先輩だったらひと月もかからないだろうし確実に読めるってことだし!」
「…お前はいつも無駄に元気だな。」
「それ取ったらなーんも残らないからー。」
 以前は交わしもしなかったテンポの会話を交わしていると、程なく番号を呼ばれる。おごってやった当人に取りに行けと言った祐一郎だったけど呼ばれたら自分が立ち上がり、彼女が引き止める間も与えることなくカウンターへと足を向けた。
愛想のない口ぶりの祐一郎なんだけど、今までは寡黙に本を読み感想を表に出さないことが当たり前だった自分にもしかしたら初めて出来た「本について語れる友人」の存在は大きかったりする。
自分と同じ活字中毒、なのに明るく社交的で祐一郎みたいな愛想の欠けている人間相手だろうと巻き込めるだけの勢いもある。
彼女はそんな自分を「空気読めない騒がしいヤツ」なんて皮肉的に表現して笑い飛ばすんだけど、元気な友人どころか女友達と言う存在に縁遠かった祐一郎にはそんな彼女だから実に新鮮に映っている。
数回彼女と「カズマ」とのやり取りを見かけたことのある、祐一郎、いやカズマの働くホストクラブ「ゴージャス」の店長の水無月が、そんなふたりを見て微笑ましそうに笑って言った台詞が忘れられない。

『カズマにも気のおけない女友達がいるんだね。
 誤解されるとつらいところなんだけど、それでも離れられないと言う気持ちはわかるかな。
 いるだけで楽しくなれる友達に男も女もないからねぇ。』

 そう言われたことでようやく彼女の存在を素直に受け入れることが出来た。
意識しているのとも違う、けれど一緒にいて安心できるし楽しい時間が過ごせるし、時が経つのを忘れてしまう。それをかつて抱いた同級生への恋愛感情と似ていたからと自ら誤解してどういう顔をすればいいかわからなくて戸惑ってばかりだったけど、見ている人間に明確に断言されてようやく解放された。
彼女は友達。少しだけ年下の、けれど気のおけない友人。
一緒にいるだけで楽しくなれる自分がいるが、それは恋愛感情ではない。
「ほら。後輩ならおとなしくおごられてろ。」
「ありがとうございます、いただきまーす。」
「そのかわりチキンナゲット少しよこせ。」
「え? いやーんそれとこれとは話が別!」
「同じだ。」
 こういうやり取りは男としか出来なかった。こんなに「ノリのいい」「女友達」なんて今までなかった友人のタイプを一度に手にするきっかけが転がっていたことが不思議なんだけど、何もかもが理屈では片付けられないことも知ったのも彼女がいたからだと今では素直に受け止めている。
「…先輩、よくこういうお店って来るんです?」
「ん?」
「あたしはここのほかにもドリンクバーのあるファミレスとかよく行きますけど、先輩ってなんだかイメージじゃないなーって。
 ファーストフードにしてもスタバとか、ちょっとオサレなカフェとかそんな感じ。」
「俺をなんだと思ってるんだ…よく来てるよ。なければ困るほどだ。
 まあカフェも行かないわけではないけど…ひとりとか男ふたりで入っても寒いだけだしな。」
「あたしでよければつきあいますよ。
 あ、そのときはワリカンで。」
「俺がリサーチする時は耐久レース並だぞ。そんなに時間も取れないしな、1日に5軒とかざらだ。」
「その日に向けて貯金しないとっ。」
 あまりのテンポのよさに、祐一郎は一瞬とは言え煩わしいことすべてを忘れてふっと口元を緩めた。
そう、彼女といると気持ちが緩む。ほっとする。それは彼女が姉の羽衣に似ていることが大きな要因なのだろうけど、羽衣よりもずっとテンポも歯切れもいい。
他の人間はお調子者だと思っているようだけど、祐一郎は目の前の後輩のことをおそろしいほどにクレバーで頭の回転の速い女だと早いうちから捉えていた。
「…先輩、その本、ちらっとでいいんで見せてください。」
「ん? …ああ、ほら。」
 話が途切れてもすぐに別の話題が出てきて、祐一郎は取り出しただけでテーブルのすみに置いておいたハードカバーを、求められるままに彼女へと差し出した。それを受け取ると彼女はすべての食べ物から手を離して指先をしっかりと紙ナプキンで拭いて、大事そうにまだ借り物ですらない本を、表紙からぱらぱらとめくり始めた。
口先だけとか本の扱いが乱雑な自称読書人は多いけれど、彼女のそれは見まがうことも、疑う余地すらもないほどに本好きのそれ。本を愛しているからこその丁寧な扱いには、疑いようのない染みついてしまった愛情を感じてしまう。だから祐一郎も読みかけの本だろうとためらうこともなく彼女に差し出すようになった。
「…あ」
「なんだ?」
「いえ、なんでも。」
 ぱらぱらとページをめくっていた丸い指先が祐一郎の読んでいたページで止まった。
そこには本屋からもらったプラスチックに絵柄がプリントされた少しだけ丈夫な栞がはさんであって、記憶が間違っていなければ物語としては盛り上がりも何もない変哲のない一場面だったはず。しかしなんでもないと告げた表情はそうではなくて、祐一郎もコーヒーの入った味気ない紙のカップを置いて開いたままのページを覗き込んだ。
…やっぱり、記憶に間違いはない。だって今朝も電車の中で読んだから間違うはずがない。
「気になるじゃないか。言いかけたんだったら腹くくって言えよ。」
「あーもーちっさいことにこだわるー。」
「小さいことなら言ってしまえ。そんな言い方すれば余計に気になるだろうが。」

「…この栞、好きな絵本作家さんのだったから欲しかったんです。
 けどこないだやっと欲しい本が見つかったからって喜んで買いあさったけど、もうなくなっちゃってたんですよ。
 それだけ。」

「あ、でも多分その栞とは縁がなかったんですよきっと。
 縁がないものをどうにかして手に入れてもすぐなくしたり壊したりするから」
 くるくるくるくる表情を変えながら、しかし彼女は祐一郎にとって栞以上のなんでもないものを「欲しいからちょうだい」などとは言わない、そんな様子さえも微塵も見せなかった。縁がないものについてころころと笑いながら語る様子を見ていると、それに執着していない人間ならば…
「縁があるかないかなんて、手に入れてみなけりゃわからないだろ?
 ほら、好きな作家のならお前にやるよ。この本はスピンもついてるし、なくても困ることはない。」
 祐一郎はそう微笑みながら告げると、何の未練もなくはさんでいたプラスチックのシートを彼女に向けて差し出した。細いとは言っても男性の手で差し出された絵本作家独特のメルヘンチックな絵柄の栞がアンバランスすぎて違和感を感じそうなのだけれど、晶はどこを見ているのか、と言った具合に視線を泳がせながら、彼女にしては珍しく歯切れの悪そうな調子でもごもごと口の中でなにやら言っている。
「…くれくれって言ってるみたいに聞こえるだろーから言いたくなかったのになぁ。」
「俺はいらないからお前にやるよ、ってだけの話だ。
 お互いの利益が一致しただけの話だろ?」
 そう、無理に聞き出そうとしたのは祐一郎の方。彼女はごまかそうとした。
しかしそのごまかし方がへたくそで余計に気になってしまって、聞き出したらなんて他愛のない話。
このままだったら彼女はおそらく受け取らないから――――祐一郎は一度差し出した栞を引っ込めて。
すでに読み終わったけどまた読み返していたもう一冊、文庫本を手に取りそれの表紙を開いて引っ込めた栞を挟み晶に差し出した。
「ほら、これ読むか? ああ、紙の栞はそのままにしとけよ。
 一度読んだが読み返してたところだからな。」
「先輩…。」
「嫌でも栞、いるだろ? 変な気を回すな、後輩なら後輩らしく甘えてればいいんだ。」
「…惚れさせる気満点?」
「馬鹿。寝言言うぐらいならこの本は貸さないからな。」
「あぁん借ります借ります、貸してくださいステキな先輩!」
 一冊の文庫本と一枚の栞をめぐって他愛もなくじゃれあい、軽妙に掛け合い、そして晶がようやく文庫本のおまけとして欲しがっていた栞を受け取った。
使ってるのならいらない、と言っていたけれどその表情は正直にもうれしそうに緩んで、いや笑っていて、そういうあたりに年齢相応のものを感じる祐一郎。
たった一枚の栞でこの笑顔が自分へと向けられるのなら、惜しいものではない。
…かつて好きだった女ではとてもこういうやり取りは望めなかっただろう。
「この本を読み終わるまでには返せよ。」
「はい! あたしは先輩と違って意外にヒマな受験生だからもォバリバリ読んであさってあたりには返しちゃうかも。」
「馬鹿。」
「…先輩、ありがとうございます。栞…というか先輩がくれた縁、大事にしますね。」
「…馬鹿。早く食ってしまえよ、冷たくなるぞ?」
 あまりにも素直な感謝の言葉が面映くて、祐一郎は気の利いた言葉ひとつ口に出来ずに憎まれ口を叩くばかり。合縁奇縁、彼女と巡り会った縁そのものが不思議な偶然だから、簡単な言葉ではあきらめて欲しくなかった。
彼女にメニューが冷めると言いながらそれは自分に言ったのと同じで、祐一郎はすでにぬるくなったコーヒーに口をつけながらテーブルの下で脚を音もなく組んだ。
白いテーブルの上には食べかけのふたつのハンバーガーと紙カップがふたつにアップルパイ、チキンナゲットの箱、そしてハードカバーが一冊と文庫本が散乱していた。