■□ sulky □■
×ロクス
「お嬢さんお名前をきかせてくれるかい?」
…まさかそんなあいさつ代わりの言葉なんかで怒らせるとは思ってもみなかった。
かろうじて道だとわかるほどに荒れた細い街道を行きながらのやりとり。森とまでは行かずとも鬱蒼とした林の中の小道はまるで獣道、そんな風景にはあまりにも似つかわしくない、高貴な紫色の法衣が穏やかな風に翻る。
「…シルマリル。」
先ほどから何度この名を呼んだことだろう? いい加減飽きてきたのが本音なんだけれど、まるですねた少女のように怒っている空気を身にまとっている女性がそこにいる以上、放っておくのは少々気が引けてしまう。
体裁云々とか打算的な話もあって、ロクスはさっきから何度も同じ調子で女の名を繰り返し呼び続けていた。はっきり言って聖職者の仮面をかぶった善人の自分だということはしっかりと自覚しているから、正直そっちがその気なら好きにすればいいさと投げやりに扱うことだって、別にためらいはしない。――――以前はそうだった。
けど、今は違う。
「なにが君の気に障ったと言うんだ?
いつまでこんな不毛なやりとりを繰り返すつもりでいるか知らないが、いいかげんにしてくれないか。」
らしくないことに、少々思い通りにならないぐらいのことでこんなにいらつくなんて自分はおかしくなってしまったのかも、とも思ってしまう。
聖職者の仮面をかぶった破戒僧、その素行の悪さ故に大陸最大の宗教圏を持つエクレシア教国の最高権力者である教皇の座を約束されておきながら、成人した今でもそれなりの、お情けの立場だけを与えられたのをいいことに遊びほうける遊び人。
見掛けと立場とはあまりにもかけ離れているのだけれど、気にくわない女はぞんざいに扱ってきた。
柔和で優美な物腰と柄の悪さという相反するふたつの顔を持つ生臭坊主の元に、汚れを知らぬ天使様が舞い降りたのは彼の信心故のものなのか?
いや違う、彼女には彼女の事情がある様子だが、それをすべて聞いたところで謎は解けやしなかった。…たぶん彼女は隠し事などしてはいない、出来るような性格でもないから、おそらくロクスが問うた時に答えた中身がすべてだろうとは思う。
素直な素直な美しい少女の姿を持った無垢な存在。しかしその存在感はあまりにも生々しくて、人間の女との違いを見いだすことは困難を極める。
少々世間知らずで、少々純粋すぎて――――すべては「少々」の範疇の話。
人間とは明らかに違うと思わせるのはその美貌だけ。
しかしその美貌があまりにも現実離れしていたせいで、ロクスは彼女の言葉を、自分は天使だと言い切った言葉を「ああそうなのか」と納得してしまい、人間の女性と同じに扱うことを忘れてしまっていた。
事実彼女の背には美しい純白の翼がある。訪れる時はふわりと舞い降りる。
その瞬間にわずかに舞う純白の羽根があまりにも美しくて思わず一枚だけ拾い懐の奥に隠し持っているあたりは、聖職者としての残された信心という奴なのだろうか?
教会組織の中で信じられるものがどれだけあったか、そこにいる坊主達はもちろん天使も神さえもお伽噺の絵空事、伝承と書物の姿を借りたよた話だとすら思っていた彼なのに、自分の掌に宿る力と同じ、天使だと名乗った彼女の祈りが発露する数々の奇跡だけなら信じられるようになった。
だだをこねる子どものように反抗しながらも、だだをこねる子どものように母親の気を引きたくて仕方がない。信仰には疑問を持ってはいるけれど、神を父や母に、信徒を子どもに置き換えたら何のことはなくて単純なものなのだとようやくわかった。
ロクスにとって信仰の対象は、ひょっとしたら今目の前ですねた背中を見せている幼い天使様なのかも知れない。
そして誰に対しても冷徹ですらある彼はそのことに気づきつつあり、それがさらに苛立ちや反発に繋がってゆく。誰かに依存してしまう恐怖は知っているはずなのに止められないこの衝動が信仰というものならば、確かに天使は信仰の対象たる存在だけはあると言ったところだろうか。
「シルマリル!」
「ここが町中じゃなくてよかったですね。
ロクスは頭に血が上って私はあなた達勇者にしか見えないと言うことを忘れているみたいですから。」
焦れて焦れて思わず声を荒げてしまったロクスにようやく返ってきた天使様のお言葉はあろう事か当てこすりで、まるで痴話喧嘩、売り言葉に買い言葉の様相をにわかに呈してきた。
「町中で僕が大声を挙げるとでも思ったのか、馬鹿馬鹿しい。」
憎まれ口を吐き捨てて嘲るように口元だけを歪めて笑うその表情を、ロクスは誰かに見せることなどほとんどない。全くないと言っても過言ではないだろう。
そんな彼に何を思うのだろうか、純粋すぎる天使様は宙を舞うのをやめて地面に小さなつま先をつけて降り立ち、美しい金髪をなびかせる勢いで彼を振り返った。
その表情は、明らかに怒っている。
「…私が相手するのも馬鹿馬鹿しいほどの相手なら、もう帰ります。
顔も見たくないでしょうから訪問もしばらく控えて」
「ちょっと待て。話がどこへ飛んだか見えないぞ?」
「あなたにとって私は女性ではなくてただの天使なのでしょうから!
天使には人格なんて存在しないんですよねあなたの中では!!」
「待てと言っただろうが!」
どう考えても、天使相手に繰り広げる会話ではない。女との痴話喧嘩に限りなく近い彼女の言い分がロクスには理解できなくて、考える時間がほしくて話を腰を折るんだけれど、彼女は言い捨てるだけ言い捨ててしまったのか、たった今地上に降り立ったのに捨て台詞を吐いてしまうとふわりと翼を広げて空へ帰る姿を見せたから――――しなやかにのびた指先からやわらかな曲線を持つ小さな手を、細いけれど確かに男性の大きな手がとっさにつかみ引き留めた。
「だから僕の話も聞け! 僕が君を怒らせるようなことをしたのか?
これでも最近は自重しているつもりだ」
「自重したんじゃなくてそう言う余裕がないだけでしょう?
素行に問題がなくなってもあなたという人は別の問題を生むんですね。」
「余裕なんて作るもんだ、そもそも人間なんて問題だらけだというのは君たち天使の方がわかっていることなんじゃないのか?
とにかく飛ぶのをやめろ、これじゃ話も出来やしないだろうが!」
「いつまで握ってるんですか!!」
「君が諦めるまでだ!」
このやりとりを教皇庁のお歴々が見たらいったいどう言うことだろう? 次期教皇候補が、信仰の対象である天使を相手に拘束しては噛みついているこの姿を…。
「なにが気にくわなかったかぐらい聞かせても減るもんじゃないだろう!
頭ごなしに信じろとか原因が分からないのに頭を下げろとか言わないから僕は君を信用できたんだ!」
優しげですらある秀麗な表情を険しく変えて、シルクグレイの髪を振り乱す勢いで。
何に対しても仮面をかぶって外そうとしない男が髪を振り乱す勢いで感情を露にし、その不実な口から「信用」なんて言葉を出されては、根が素直な天使様が我を通せるはずもない。今の今まで怒っていた、もう見限る勢いで去ろうとしていたシルマリルが憮然とした様子で宙を舞うのをやめ、つかんだまま離してくれないロクスの意外なほどの力強さに驚きながら大きな手を一瞥して、
「…諦めたから、離してもらえませんか?」
これまたすねたみたいな言葉を、ぽつりと彼に投げかけた。
事実もう空に舞い上がる様子は見せていないんだけれど、しかしロクスは手を離そうとしない。
約束は裏切られるためにあることを思い知らされ続けた彼がおいそれと簡単に信じられようはずもない。
「…離して下さい、ロクス。もう逃げませんから。」
「僕の境遇を知っているなら、僕の返事も想像つくはずだ。」
純粋な天使様には、信じていたのに裏切られる人間の胸の内がどれだけ理解できるだろう。逃げないから離せと人間を裏切らぬ彼女に請われても、ロクスはその手をしっかりとつかんだまま離さなかった。
「お願い…離して。言ったでしょう…私にも人格があるんです。
私は天使ですけれど、それと同時に女性なんです。」
そしてシルマリルは、罪なことに乙女のような表情を見せた。身の振り方がわからないと言わなくてもわかるほどに明らかな困惑を隠しきれずに目を伏せて、しかし頬を染めることはないのはその特殊かつ神聖なる立場故のものなのか?
『人間の男など異性として意識することもない、取るに足らぬ存在。』
彼女はそれ以上何も言ってないのにそう言われているような錯覚を覚えたロクスはひねくれ者ここに極まれりと言ったほどのゆがんだ男で、少女の手をつかんだままねめつける勢いで視線を上げようとしないシルマリルを突き刺すみたいに見つめた。
その衣と同じに深い紫色の男の視線のすべてが、かわいそうなほどに身をすくめている小柄な少女の姿をした天使にそそがれている。
「だから何だ? 君は天使だろう、僕に男なんて感じてないはずだ!」
「いいかげんにしてください…私には邪険なくせに、反対に自分は男性だからなんて言うなんて、あなたはどこまで……」
「他の勇者候補と同じに扱っているくせに女扱いしろなんて言い出すからだ。
ずるいのは君の方だろうが。」
冷徹で聡いロクスは、最初は気づかなかったけれどやりとりをしているうちに彼女がどうしてすねていたかの理由に気がついた。仮面をかぶった次期教皇・ロクス=ラス=フロレスとして他の勇者達には対応しただけの話なのに、建前の顔を見せただけなのに、その見せかけの優しさを自分に向けていなかったことに、この美しいだけの幼い天使様は「どうして自分には優しくしてくれないんだろう?」なんて不満を感じてしまったらしいのだ。
その建前がいかにつまらないものかと言うことを思い知らせたはずの彼女が、今さら建前の、見せかけの、嘘の優しさを欲しがるなんて!
「君もその辺のつまらない女と同じか? ならば僕だって相応に扱ってやっても構わないが。
けどそれがどういうことかわかってて子どもみたいにすねてるんじゃないだろうな?」
「………え?」
「僕は確かに聖職者だ、けど破戒僧だってことは知っているよな?
僕の流儀として妙齢のご婦人が期待しながら思わせぶりに振る舞うんだったら、僕の取る行動はひとつだぞ。」
「ちょ、ちょっと、ロクス??」
実態のない精神体じゃない、シルマリルはこの世界では勇者にしか見えないけれどその体は生身に近い不思議な存在。他の女性勇者に手を取られて遊びに行くことをせがまれたこともあるし、目の前のロクスは怪物との乱戦の最中何度も彼女を突き飛ばしては血腥い場から聖なる存在を遠ざけたかわからない。
だから、触れることが出来ること、その手はあたたかくやわらかいことを当たり前だけど知っている。
「他の奴には見せてない、誰も知らない僕の弱みをずいぶんと握ってくれてる君だ。
相応のものを要求しないと釣り合わないな。」
じり、と小石と土を踏みしめる重い足音を立てながら、ロクスが自分よりかなり小柄なシルマリルを見下ろしつつ彼女へとにじり寄る。その距離はすでに腕を伸ばせば触れられるほどで、シルマリルの背中の向こうには林らしく大木が。
すぐに追いつめられたシルマリル、背中に感じる木の息吹、目の前には不敵に唇の端だけ上げて笑っているロクス。そして白い手袋に包まれていない、大きな男性の手がシルマリルの耳をかすめそうな近さで木の幹に触れて、ロクスが腕の中に閉じこめるみたいな至近距離からさらに言葉を続ける。
「僕の放蕩を止めていたのは君だ。とりあえずたまった鬱憤を晴らせるぐらいには相手してもらわないと。」
柔和で端正な表情に甘い毒を含ませながら、ロクスが何をしようとしているかすらわからない読めないシルマリルではない。根は素直で純粋だけど彼女だって当然学習する、彼の緩く波打つ長い前髪がシルマリルの金髪と触れて絡みそうなほどの近さなのに、彼は顔を近づけることをやめない。
そしてロクスがゆっくりとまぶたを閉じる。
がさっ。
なにかを引きずったみたいな大きめの音にロクスが片目だけを開けると、あろう事かシルマリルはその場にしゃがんで不埒な男をやり過ごしていた。
小さな彼女がさらに小さい、しゃがみ込んでロクスをにらみつけているその表情は美しい少女なだけに険しさもひときわで、きっかけになった時よりももっと怒らせた、怒っているなんて言うまでもないほどに明らかなほどの珍しい表情だった。
「…冷静さは失ってなかったみたいだな。
まあしゃがむことさえ思いつかないぐらいに間抜けな天使様なら、話のタネにキスぐらいしてもいいかって思ってたけど。」
「ロクス…あなたって人は!!」
「女として扱ってほしいってことはこういう事だ。
懲りたならもうつまらんことを言い出すなよ。」
「彼女たちにも同じことをしたわけではないでしょう!」
「いきなりの初対面でそんなことするか、変質者じゃあるまいし。
けどそれなりの時間つきあえばするさ。
君とはもうつきあいも長いしな、まあ世間知らずだけど美人だし悪い気はしなかったぞ。」
「私で遊ばないで下さい!!」
「きーきーわめくな。ほら、いつまでもしゃがんでると汚れるぞ。
天使様のお召し物は汚れないってのなら話は別だが。」
そして今度はまったく別の、いつもの彼の同じ意味でその大きな手がさしのべられた。そこには下心も邪気もない。
素直とは対極にいるこの男とつきあわざるを得なくて一緒にいる時間が長くなるうちに、言葉や振る舞いほど悪い人間ではないことを知って、シルマリルにも明らかに油断が生まれていたのだろう。
先ほどのあれから一転して割り切って信じられるほどシルマリルはまだ成熟してなくて、まだ疑いを残しながらもその手にはもう他意がないことも今までからわかっているから――――おずおずと小さな手をその手のひらにのせると、彼の手のひらはいつもと同じにあたたかかった。
手のひらに触れた丸い指先の感触に、ロクスは躊躇なくをの神聖なる存在の手を取り引き起こして立ち上がらせる。何を思っているわけでもなさそうな表情はいつもの彼のもので、けれど自分の本心は奥底に隠すから油断ならないんだけど……
初めて触れた手のあたたかさにシルマリルは生き物がぬくもりでやすらぐことをとりとめもなく思ったことを、なぜか今さらに思い出していた。