■□ 正体不明 □■
ロクス、アイリーン ロクスイベント「治療1」・アイリーンイベント「罠の森」以降
「ねぇシルマリル、水浴びしちゃダメ?」
鬱蒼とした森の中で唐突に眼前に現れた清流の清々しい流れを見たアイリーンが、無邪気にも純白の翼持つ神聖なる存在に向かい誘いにも似た問いかけを投げた。
ここはアルカヤでも南部に当たるレグランス王国の北部、鮮やかな緑を持つ森の中は相応に蒸し暑い。
「…こないだ甘えちゃったけど、ほら…ね、汗でべたべたするのはやっぱり好きじゃないし……」
「そうですね、レグランスは日差しが強くて暑い国ですから、北のブレメース育ちのあなたにはつらい気候でしょう。
ずいぶん歩いたことですし、休憩も兼ねてゆっくりしましょうか。」
当初の焦れったいほどの距離感はどこに失せたのか、誰にも馴染もうとしなかったアイリーンが今では姉を慕うように純白の翼持つ麗しい少女の姿の天使様に甘えるような仕草を見せるようになり、背格好は大差ないけど面差しや物言い、雰囲気が明らかに年長に見える金の髪の天使様はそんな彼女を咎めることもなく微笑みでうなずいてばかりいる。
単に傷ついた神の先兵の彼女を管理する上での自由などではなく、天使のその物言いは物腰穏やかな姉の物言いに近くて、いつもアイリーンの言いにくそうに切り出してくる要望にまず理解を示してうなずく様子は、両方失ったアイリーンにとって姉や母のそれなのだろう。
水浴びできることよりもにっこりとまぶしく微笑みうなずいたシルマリルの言葉が嬉しかったのだと言うまでもないほどに表情をぱあっと明るくしたアイリーンは無邪気にもシルマリルに飛びつく勢いで抱きついた。
「あっりがとうシルマリル! あなたって天使とか肩書きはすごいけどものすごく優しいよね。
私のわがままとかにっこり笑って許してくれるし、…お姉ちゃんが今も生きてたら、こんな感じかな……」
けれど抱きつきながら思い出すのは、優しかった姉と義兄との楽園の日々。
アイリーンのはしゃいでいた言葉の調子が少しずつ下がってゆき、最後の方はまだ癒えぬ悲しみをまた思い返して暗くなる。
いくら大人びていようとあの現実は大人にさえ酷だろうという永遠の別離に居合わせた者として、気丈に振る舞うアイリーンの姿は健気でさえあった。
「光栄です、アイリーン。
あなた達にとって血縁関係はとてもとても大事なものでしょうに、私にお姉さんを重ねて下さるなんて。
…不幸な結末ではありましたけど、本当のセレニスは優しい女性だったのですね。」
「……うん。
でももう大丈夫よ。あなたがそう思ってくれてるって思えば、私お姉ちゃんのことには耐えられるの。
みんながお姉ちゃんのこと悪く言うのは…仕方ないもの。
あんなことを、あれだけ大きな事件を起こしちゃったのもお姉ちゃんには違いないから。」
「アイリーン、セレニスのことを胸の中で解決するのは難しいと思います。
けれどあなたに優しかったセレニスのことまで否定してはいけませんよ。」
「うん…そうね。…ありがとう。
シルマリル、わがままついでにもうひとついい?」
「はい?」
「一緒に水浴びしよ? ね?」
「ああアイリーン! そんな言いながら衣に手をかけないで!」
「いいでしょー、ねー?」
少し重い空気、けれど女心は天気に似ていて雨降り間際の重い空からからりと晴れた南国の太陽。無理にはしゃいだのは明白だけど、アイリーンがしがみつきついでに天使様の衣に手をかけ脱がそうなんてしている。
脱がされそうな天使様もまるで美しいだけの少女のよう、胸元を押さえながらも笑っている。
鬱蒼とした森の中に可憐な少女ふたり分のはしゃぐ声が吸い込まれてゆく。
「――――――――!?」
木々の騒々しいほどのざわめきに隠れたそれに、ロクスは思わず耳を疑った。
立ち止まり顎に指を当ててさらに耳を澄ませると、…確かに聞こえる。
こんな人の気配しない森の中なのに、ロクスだって逆らえない上司のような天使の依頼でなければ縁も何もないはずの場所だというのに、少女のはしゃぐ声が、まるであの麗しくも幼い残酷な天使様の声が紛れているかのように聞こえるなんて…
「…やれやれ…僕もやきが回ったな。」
誰もいない独り言は彼の本音。こうして望まぬ場所を法衣をしっかり着込んだ厚着のままの道行きは拷問でしかないと言うのはわかりきっていたのに、馬鹿なことに渋々とはいえうなずいてしまった自分を、うなずいた後にどれほど呪ったことか。
あの時の心境は、そう、悔しいのだけれど
「僕としたことが舞い上がってあんな頼みを受けるなんて…。」
そう、「舞い上がっていた」。
「まったくあの女もあざといやり口覚えやがって。
自分で男を操るなんて一端どころか悪女じゃないか、なーにが天使だ。」
そして僧侶にはあるまじき悪口雑言を並べて頭が上がらない上司に等しい天使に毒づきながら、それでも自分の疑惑…というより欲望には逆らえなく、いや逆らわずにロクスが声が聞こえる気がする方へと足を向けた。
その言葉の中には、自分がいいように少女の姿を持つ幼い天使に振り回されて言うことを聞かされているという現状に対する苛立ちと諦めが隠れていた。
少し歩けば疑惑は気のせいではなかったことを確信する、ロクスが足を一歩進めるごとに少女のはしゃぐ声は確かになり、その中身が聞こえるほど近くに来て猜疑心の塊のロクスも年頃の少女の存在を確信した。
小さな集落でもあるんだろうか? とにかくこの暑さだし人心地つきたい。
「きゃあぁぁぁあぁ――――ッ!!」
緑の闇を引き裂きロクスの耳をつんざくほどの大音量の黄色い悲鳴が不埒者を襲う。
一瞬見えた楽園、清流に遊ぶ妖精、いや片方は天使。白い肌を惜しげもなくさらし水と戯れていた様子を確かに目撃したロクスなんだけど、ふたり分の少女の悲鳴に襲われ思わずよろめいてしまった。この状況なのにもったいないことにこめかみを指先で押さえる形で目元を強く押さえてしまった、激しい水音と少女達の悲鳴は途切れない。
「なーにーあんた誰よー!!あっちいきなさいよー!!」
「どどどどうしてロクスがここにッ!? こっち見ないで下さいッ!!」
「いやー!きー!!」
「早く立ち去りなさいいつまでそこにいるんですか!」
「えーいうるさいうるさい!
粗末な胸とかくびれてもいない腰を見て僕がありがたがるとでも思ったのかこの馬鹿娘どもがっ!!」
…とうとう開き直った。ロクスはとんでもない暴言を吐いて騒ぎ立てる天使と一度しか会ったことのない同胞を一喝、そして今の今まで慌てて背を向けていたのにゆらりと彼女らに向き合いしっかりとそのはじける肢体をにらみつけながら重ね着している紫の上着の留め金を外しつつ、ゆっくりと川岸へと歩み寄る。
ふたりは自分の体を隠しているのではなく、シルマリルがアイリーンを抱きしめ自分は丸い肩からなめらかな腰、見掛けよりもふくよかな尻を少しだけ不埒者に見せながら、その体を盾に己の下僕の少女を隠していた。
口に出さずその気概に感心したロクスが紫の上着を勢いよく翻し脱ぐと、彼女の背中に投げつける形でふたりの少女の裸体を自ら隠してしまった。
「これなら見えもしないし文句ないだろう。
僕は向こう向いてるからとっとと上がって着替えろ。…天使と言っても体を冷やしちゃまずいんじゃないのか?」
肩に触れる厚い布の感触とそれに長年かけて染みついた香油の香りにシルマリルがようやく天使の自分を取り戻す。その衣はわずかにロクス自身の、個のにおいが紛れていて紛れもなく彼の上着だというのは見飽きるほどに見えていて知っているんだけど、それが水を吸い重くなり流れに沈み水を吸い上げて濡れてゆく。
「あ、ろ、ロクス! 上着が濡れて」
「いいさ。どうせ脱ごうかどうしようか迷ってたぐらいだ。
脱がなきゃならない理由が出来ただけだし。」
「でも…」
「つべこべ言うな、見るぞ!」
「それはダメ。」
じたばたとしているシルマリル、しかしアイリーンは不埒者が背中を向けたのを見てシルマリルの肩に掛けられた紫の衣で姉と慕う天使様をそっと包み、自らは片腕で胸を隠し下腹部が見えないあたりまで水に浸かりながら音をたてずに移動して草の上に脱ぎ捨てていた服を手にした。
もちろんその間アイリーンはロクスの背中から目を離さない。
振り向こうものなら超特大の魔法を一発お見舞いしてやるつもり。
「アイリーン、大丈夫です。彼がああ言うのだったら盗み見るような姑息な真似はしません。」
「…それは当てつけか。」
そのやりとりから彼も同胞なのだと聡いアイリーンは理解したんだけれど、それにしても…
「…シルマリル、上がった方がいいんじゃない?
そこの生臭坊主じゃないけど体冷やしちゃうよ。」
「生臭坊主は余計だ。
子どもらしく口のきき方ひとつ知らないなんてシルマリルの教育が悪いんじゃないのか?」
「レディの入浴のぞくあんたが教育ですって!? それなんの冗談?」
「はん! 薄い体のうちはレディなんて言葉使うモンじゃない小娘、10年早いんだよ。」
「…ロクス、素が出てますよ……。」
いかにも高位の僧侶のような出で立ちなのに何とも柄が悪いことで。
混乱しきりで水から上がらないシルマリルも心配だけどこの男もなんだか油断ならない感じがするからとアイリーンが思わず口の悪さを出してしまったんだけど、返ってきた言葉も負けず劣らず。
「シルマリルも言ってやんなさいよ! 薄い体なんて言われたのよ!!」
「まあまあ、アイリーンが怒るのもわからないじゃありませんけど」
「まあいいわ。
私とシルマリルの水浴びなんて、生臭坊主が見たらその瞬間に天罰下っちゃうほどだもんね。」
「そこの馬鹿天使なら勢いでそのぐらいするだろうな。あー背中ですんで良かった。
貧相な体見せられて死ぬなんて馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。」
「ふふふ…勝手に思ってなさい。シルマリルって胸おっきいし腰細いんだからー☆」
「アイリーンっ!」
いきなりの暴露に耳まで真っ赤になった天使様の一喝でようやく静かになった。
すでに着替えたけど髪だけは濡れたままのアイリーンがニヤニヤしながらロクスの前に回り込むんだけど、彼は小憎らしいガキの顔を一瞥しただけでフンと鼻で笑い、また唇を一文字に結んだ。
真白な薄い法衣が緑の中まぶしいほどで目が痛い。
「おいのろまな天使様、着替えたか?」
「あ、はい、…大丈夫です。」
それは大人の余裕というものなのか? ロクスはあえてアイリーンを無視していつもの調子でもうひとりに呼びかけた。それへの返事を聞いてやっと振り返ろうと長い前髪を揺らしながら紫の視線を移すんだけど、そんな彼の様子と大好きな姉みたいな天使様の言葉に、アイリーンがおもしろい顔をしているのも気づかずに大きな声を挙げる。
「ちょ、ちょっとシルマリル! ダメ!まだ振り向いちゃダメーっ!!」
「あぁ?」
アイリーンがじたばたおろおろと両手を振り回しロクスを押さえつけようとするんだけど体格も年齢的にもそして性別ででもロクスにかなうはずがなくて、無理だと踏んだなりにその顔、目のあたりを両手で叩く勢いで押さえた。
「っ痛ぅ……このクソがき、僕に何の恨みが」
「シルマリルまだ着替えてないクセなに考えてるのよ!私がコイツ押さえてるから」
「…大丈夫ですよ、ロクスの上着は大きいからすっぽり隠れます。
それに私のあの服は装身具が多くてすぐに着ることは…。」
気を遣い笑いながら、でも正直困ったように眉根を寄せてそう言った天使様は長い紫色の裾の濡れた法衣で一糸まとわぬ裸体を隠している様子で、背中に小さく仕舞った翼が不格好な形のシルエットを形取っていた。当然慌てたのはアイリーンなんだけど、確かにシルマリルはほとんど肌が見えないように、おそらく手で前の袷をしっかりと合わせて立っている。ロクスは確かに長身ではあるけど大柄な男性と言うほどでもないのに紫の法衣の裾は草の上に、わずかに見えるつま先と衣の奥の闇で不確かな白い脚がいかにも女性のそれで――――見てしまったロクスはアイリーンが手を振り上げていることに気づいているのかどうなのかと言った様子で一瞬惚け、直後アイリーン以上に困った顔を見せて長い前髪をかき乱し濡れそぼる天使様から視線を外した。
「…必要もないのに水浴びなんてするからだ。僕が通りかかったのは偶然だからな、妙な疑いかけるなよ?」
「わかっています。ごめんなさい、大きな声出したりして。」
「おいしっかり合わせてろ! …腹が見えてる。」
「きゃ!?」
「今度は脚かよ…もういい、座ってろ。
上着は貸しといてやるから次会う時までに乾かして返せ。」
配慮を憎まれ口にすり替えるのはロクスのやり口で、シルマリルは見られたことを恥じらう以外に特に不愉快ではなさそう。
そんな不思議な麗しい少女の姿を持つ天使とその下僕の男性のやりとりに、当然のごとく疑問を抱いたアイリーンがまたロクスに噛みついた。
「…さっきから思ってたけど、アンタってシルマリル相手になんでそんなにエラそーなのよ。
アンタ聖職者でしょ!? シルマリルは信仰の対象なのに」
「…こんな間抜けな天使に捧げる信仰なんて僕にはないね。」
けどロクスだって狙ってるはずもなく、困った表情から戻れずに顔を片手で覆いながらも、アイリーンへの切り返しはやはり鋭いまま。
シルマリルも困ったような笑顔のままでそこにいるから
「シルマリル、僕が席を外すからその間に着替えろよ。
少々時間がかかろうと構わない、どうせ1時間も2時間もかかるもんじゃないだろ。」
「…それだいたい最初に出る言葉よね?」
「お前も一緒だよクソがき。シルマリルは薄い体のお前とは違うんだろ?
だったら誰に見られても恥ずかしいってもんだ。」
いつものロクスの調子で、物言いは命令形で場を離れることを告げ、さらに噛みついてきたアイリーンの首根っこもつかんで有無を言わせぬ力でずるずると引きずり言葉の通りにその場から姿を消した。
彼の配慮はいつも彼が姿を消してから気づかされることが多くて、今もそう、毒づきながらシルマリルをひとりにしたのはその羞恥心を察してのこと。
とにかく不器用で複雑な男だから、おそらく似た者同士のアイリーンとは当分の間相容れないだろうし、近親憎悪でお互いに反発もしてしまうだろう。
あのふたりをふたりだけにしてはまた騒動が起きそうな気がして、シルマリルは誰の気配もなくなったことを感じると躊躇することなく紫色の法衣をその細い肩から滑り落とした。
「だいたいアンタなによ!確かこないだ私のケガを治してくれたあの神官よね?
こないだはあんなに聖職者っぽい態度だったくせに」
「これは失礼、お嬢さん。
私も少々取り乱していたようで、らしくない姿を見せてしまった。」
「…なによそれ、気持ち悪い。
てかアンタシルマリルがいなくなると猫かぶるってわけなの?」
「猫をかぶる? さあ、何のことか。
今日は特に怪我もしてないようだから、私の出番はなさそうですけど。」
「やめてやめて鳥肌立ちそう!」
アイリーンの指摘の通り、シルマリルの前から離れるなりに態度を豹変させ柔和な、優しげな笑顔なんて浮かべたロクスの言葉がよっぽどだったのだろう、指摘した側のアイリーンがこの暑い昼下がりの中自分の両腕をぎゅっと抱きしめてあたためるみたいに肌をさする。
そんな彼女の様子を微笑みながら見ている紫の瞳の人の悪いことと言ったら!
その微笑みは柔和とか優美とか言うよりも邪悪と言った方がしっくり来て、男性だというのに妖艶ですらあった。