■□ 簒奪者 □■
ロクス、ヴァイパー 「ヴァイパーの挑戦」後    >>悪党


 星の降る夜空に純白の羽根が舞う。
『天使様、ロクスに内緒で今夜逢えないか?
 あんたと取引がしたいんだ。』
 そう昼間の雑踏の中、彼女の勇者達以外にはごく限られた者にしか姿が見えないはずのシルマリルに囁いた低い声がどうにも気になって、彼女は自分に囁いた言葉に従い同行していたロクスの鋭い目をかいくぐり人気のない町外れまでやってきた。
朽ちかけた十字架や真新しい墓石が並ぶ不気味な闇なのだけれど天使がそれを恐れるはずもなくて、シルマリルは淡い光をわずかに放ちながらその輝かんばかりの金の髪を夜風になびかせて辺りを見回した。
…これだけ静かなら、彼女ならば人の気配に簡単に気がつく。しかし人の気配は感じられない。
「…ヴァイパー……いるのではありませんか?
 私は確かにひとりです。でもロクスが後をつけているのならわかりませんけれど」

「ほぉ…さすがは幼くても天使様。
 もっともこっちはあんたの姿は見つけるまでもなく見えてたけどな。」

 静かなシルマリルの呼びかけに応えるタイミングで、隻眼の青年が石碑の影から姿を現した。亡霊の類は怖くなくてもいきなり聞こえてきた彼の声にはたいそう驚いたらしい、シルマリルがびくんと怯えた様子を見せてしまった様子を、ヴァイパーと呼ばれた彼はロクスと似たような人の悪い笑みを浮かべながら見ている。
「可愛い天使様、あんたも知っての通り、俺はロクスにずいぶんと嫌われちまってな。
 取り引きしたくてもあいつは坊主のクセ俺を殺す勢いで嫌ってやがる。」
「それは…あなたが卑劣な手段ばかり使うからです。
 ロクスは裏切られ続けて自分の殻に閉じこもっていました、そんな彼がだまされたことを許せるはずなんてないでしょう?」
「へぇ、ずいぶんとロクスのことわかってるんだな。嫉妬しちまいそうだ。」
「ロクスと話がしたいんだったら、そう言う物言いを彼の前だけでも封印して下さい。
 あなたが心から望むのなら、…私がロクスを説得します。」
 シルマリルも不運なことに、彼女をもっとも慕う天使の勇者殿は彼女とは対極にいるような堕落した破戒僧で、それでもその生真面目さで彼に向き合いそして押し切る形で彼の信頼を勝ち得た。
しかし彼には因果というか縁深い同類の男の影が常につきまとっていて、ロクスは同族嫌悪で彼を嫌っているが、目の前のこの男はどんな意味でその言葉を口にしているかわからないけれどロクスのことを気に入っているらしい。
この町は北国のはずなのに生ぬるく気持ち悪い夜風が吹き抜け、シルマリルの淡く光る金の髪を揺らす。その穏やかな慈愛の見える表情を厳しくして身構えている様子が彼には快く見えるのだろう、ヴァイパーはニヤニヤと笑いながら彼女の真摯な説得を聞いていた。
「つまりはロクスはあんたに頭が上がらない、そう言う訳なんだ?」
 どこまで真剣に聞いていたのだろう、ヴァイパーはシルマリルの言葉から配慮を抜き取って端的にまとめてしまった。そして穿った見方をされたシルマリルが当然のように彼の言葉に困惑の表情を見せる。
「ったく可愛いねぇ…純粋っつーか、なんつーか。
 そのうちロクスになんかされなきゃいいけどな。」
「…そう言う物言いをしている間は、ロクスがあなたと向き合うことは無理だと思います。
 それに私たちは本来あなた方人間とは違う次元に存在しています。私は自分だけ安全な場にいるには未熟すぎるから同じ次元に受肉していますけど」
「あ、ロクスがなにかするって意味はわかってるんだ。
 賢い女は手強いのがまた小憎らしくていいな。」
「…ヴァイパー。」
「はいはい。本題に入れってんだろ。
 わかったよ、天使を怒らせるとどんな天罰が下るかわかんねえしな。」
 どこまでが本気でどこからからかわれているのだろう? あのロクスが嫌がるほどなのだから生真面目なシルマリルが許せるはずもなくてその美貌故に厳しさが増す彼女の怒りの表情に、ようやくヴァイパーも本題を切り出すような素振りを見せた。
「あんたの忠実な下僕のロクスを、あるべき立場に戻してやりたいって思ってるだろ?
 ロクスが拒もうとどうだろうとお構いなしで。」
「…あなたのやったことで、ロクスは決定的に放逐されることとなりました。
 何を今さら」
「おいおい、俺はあいつの望みを叶えてやってるんだぜ?
 ロクスは教皇庁に嫌気がさしてる。あの放蕩ぶり見てりゃわかるだろ。
 あいつは今さら教皇庁に戻るよりもあんたの手先として生きていきたいなんてかいがいしいこと望んでるんだ、俺はその手助けをしただけさ。」
「それでも! あんなやり方をする必要がどこにあったというのですか!
 ロクスは彼なりにその役目について理解はしています、でもあなたが教皇庁の秘宝を盗んだことで、彼は弁解の余地すら残されなかったのです!!」
 まるで清冽な水晶の放つ輝きのよう、邪な者にシルマリルの存在と放つ光は当てられただけで激痛を伴うはず。けれどなにかのきっかけで闇に触れたヴァイパーは特に影響がある様子すら見せずに、あの笑みを唇に貼りつけたままシルマリルを値踏みしていた。
「…こんな理解者がいちゃ、俺の入る隙間なんてあるはずねぇな。
 この世の者とは思えないほど美しい女が、ただひとり自分のすべてを理解し誠実に接してくれる。そしてその女は自分の存在理由に基づいて決して裏切らない。
 でもな。それじゃ俺が困るんだ。こんなにあいつのことが好きなんだからあんたは正直邪魔なわけだ。」
「え―――――きゃあ!!」
 闇の中に、唐突に女の悲鳴が響きわたる。
ヴァイパーの手にはロクスを踏み台にし盗んだ魔石があり、シルマリルはそれに触れるどころか近づいただけでもダメージを受ける。そしてそれは人の手にあれば強力な力を手にした者に与え、それ故に魔に染まりし出自でありながら神聖なる教皇庁の奥にあった。
「きゃあぁあぁぁぁ―――――――っ!!」
 闇を切り裂く絹の悲鳴と痛ましく宙に舞い散る純白の羽根。魔石は天使が触れることあたわぬ呪われし宝玉、人だけが触れて手にすることが出来るが手にし続ければ侵食されて闇に落とされる。未熟なシルマリルではかつての魔王の魂のかけらというそれが放つ障気に耐えきれるはずもなく悲痛な悲鳴を挙げながらそれに束縛され逃げることすらかなわずに、傷ひとつなかった美しい御姿が見る見るうちにぼろぼろになってゆく。
ヴァイパー自身なにやら特殊な力を有しているのは明白で、それでロクスも操られて彼の謀りごとにはめられてしまった。
「あんたが天使じゃなきゃロクスから寝取ってやるところなんだけどな。
 あいにくと天使と寝たことないからどうなるか不安でなぁ。」
 下品な台詞を神聖なる天使に向かい吐きながらヴァイパーは彼女を痛めつけ身動き取れそうにないほどにぼろぼろにしてしまうと、彼女にようやく近づいて片膝をつく形で跪き天使の勇者と同じにその肩に直に触れて力強く抱き寄せた。
精神体に限りなく近いシルマリルの消耗は著しくて抵抗ひとつ出来ずにヴァイパーに抱えられ、その丸いあごに手をかけられ力ずくで上を向かされ顔を覗き込まれた。
「見れば見るほどいい女だ。
 俺は多少幼い方が好みでな。あんたが人間じゃないのがつくづく悔やまれるよ。
 あんたも奪ったら、ロクスはどうなるかな?
 あんた恋しさに俺のお仲間に身を落とせばそれこそ俺の望み通りなんだが。」

「悪いが今ので交渉決裂だ。お前の仲間になるぐらいなら死んだ方がよっぽどましだよ、ヴァイパー。」

 頼りない星明かりに、長い上着の影が翻る。消耗しても淡く光を放つシルマリルのそれに照らされた姿はここにいなくても主役を張っていたロクスで、その紫色の瞳が怒りに燃え上がり親愛なる天使様を捕らえ抱えているヴァイパーを貫く勢いでにらみつけていた。
「僕がお前を相手しないと踏んだなりにシルマリルに手ェ出しやがってこのど外道が。
 その汚い手を彼女から離せ。彼女はお前みたいな薄汚れた男が触れられるような存在じゃない。」
「やっと騎士の、いや教皇殿のお出ましか。待ってたぜ、ロクス。
 大事な天使の危機に駆けつけるなんてカッコいいじゃねぇか。」
「僕は御託は嫌いだ。次は容赦なく力に訴える。
 …シルマリルを離せ。」
「奪い返さないのか? 宝玉と同じに。」
「奪い返しても構わないが、シルマリルはそんな扱いを嫌うんだ。
 僕だって彼女の下せる天罰は怖い。」
「悪いが好みの女だから、お前が奪い返さないんだったらこのままもらって行くぜ。
 抱けなくてもせいぜい眺めて楽しませてもらおう。」
「貴様!死にたいんだな!!」
 苛烈なる男ふたりの舌戦はロクスにより一方的に打ち切られた。いつもの十字を掲げた杖を携えてはいないがそんなことは彼には関係ない、人を癒す力持つ手を掲げてその掌が強く清浄な光を放ち、ロクスの指を縫い漏れて図らずも光で十字を描き出す。
「…もう一度だけ言う。シルマリルを離せ。
 嫌と言えば…殺すぞ。」
「おーこわ、心底惚れちゃって。
 教皇の座に昇るお前が、その手を血で汚しても天使様をお守りしたいってのか?」
「どうせ僕は血塗れだ、けどそれでシルマリルが守れるなら迷うことなどなにもない!!」
 彼の激情に応えてしまった光の十字がはじけるみたいにふくれ上がり、ついにロクスの手を離れた。ただの僧侶ではなくその手に奇跡を宿す神の下僕のそれは、汚辱にまみれた者が浴びればひとたまりもない。
 しかし、ロクスの激情が生み出した「天罰」は力無い白い手でいとも簡単にかき消された。シルマリルが渾身の、残された力すべてを振り絞る覚悟で手をかざして、自分と抱えているヴァイパーに向けて放った一撃をかき消してしまったのだ。
つかんで消すでもなく握りつぶすでもなく、彼女の手のひらが受け取った十字はまるで奇跡の発露のように細かい粒子となって散ると、彼女に吹きつける霧雨のように白い手に吸い込まれて消えてしまった。
驚いたのは当然ロクスで、とらわれの彼女を助けたくて「殺してやる」とまで逆上しての一撃なのに、まさか助けようとした彼女に遮られるなんて思ってもみなかった。
そして思い知らされる矮小さ、…こんなに傷つきぼろぼろになろうとシルマリルは神の御使い、どんなに奇跡の力を内包していようとロクスは所詮人間に過ぎないと痛いほどに突きつけられる。
「ロクス…いけません、あなたは…不必要な殺生を、戒められている身のはずです…。」
 そしてその今にも消え入りそうな切れ切れの言葉も慈愛に満ちた存在のもので、ロクスは怒りと焦燥とそして困惑をすべて混ぜたまま、ただ一言を絞り出した。
「しゃべるな、シルマリル…」
「彼は…ヴァイパーは……あなた、と、とても…似て……」
「しゃべるんじゃない…」
「だから………」
「やめろシルマリル、もうしゃべらないでくれ!
 そんなになってまで他人のことなんて心配するんじゃない!!」
 翼傷ついた天使はそれでも優しくて、自分を傷つけ捕らえた者をも守ろうとしていて、そんな彼女の献身の精神がロクスにはただただ痛い。
それはどうやらヴァイパーも同じらしく、しっかりとシルマリルを抱えて離そうとしなかった彼だったのに、まさか命に関わる一撃を放たれた自分が、このとらわれのお人好しで愛らしい天使に守られることになるとは思ってもいなかったらしい。
その人の悪い笑みを翳らせて、しかし消さないで、とうとうヴァイパーはシルマリルをそっとその場に横たえて解放した。そしてすぐにリズムを取りながら後方へ2、3歩飛びすさる。
「…つかまえてせいぜい人質にしようと思ってたが、まさか助けられるとは思ってもみなかったぜ。
 これでも恩は忘れないし貸し借りも好きじゃないんでな、今日の所はロクス、この美人はお前に返してやるよ。
 それに大好きなロクスに似てるなんて嬉しいこと言われちゃなぁ。」
 案の定ロクスはヴァイパーの捨て台詞じみた軽口なんて無視して地面に直に横たわるシルマリルへ駆け寄り今度は彼が傷ついた小さな体を腕の中へと守るようにおさめた。
「天使様だから手も出せないが、その辺の女ならお前がもたついてる間に遠慮なくいただいちまうぞ、ロクス?」
「…言ってろ。シルマリルに免じて見逃してやるから早く消えろ、僕はお前が大嫌いだ。」
「フン、やっぱり天使様はさすがだ、お前のことはもちろん俺のことさえお見通しだな。
 せいぜい大事にするんだな、モノにも出来ない女をさ。」
 シルマリルを奪い返した安堵からロクスの感情は不思議なうねりを見せている。
彼女をここまで傷つけたヴァイパーに対して怒りは渦巻き続けているが、彼女が戻ってきた安堵がそれに混ざり中和して彼自身その感情を持て余している。
ヴァイパーは鏡像にも近いロクスの胸の内をわかっているような顔を見せながら、それでももうちょっかいを出すつもりもないらしく、あの笑みを結局一度も消すことなく闇に紛れ、そして―――――気配が消えた。
聖職者と天使という亡霊の存在など許さぬ者達がいる墓地はただ静かで、もう生あたたかく生臭い風も吹いていない。
ほんの少しの間残るヴァイパーの気配をロクスが探るけれどどこにも感じられなくて、彼が立ち去ったと判断するなり今度はシルマリルを激しく揺さぶりその名を呼んだ。
「シルマリル!おいシルマリル!!大丈夫か!!」
 夜の闇でも淡く光る美しい天使様、なのにその光は消えそうに弱くて揺さぶっても力無くぐったりしたまま。その様子は人間ならば今際の際によく似ていて、ロクスの顔色はたちまち焦燥に染め上げられた。
「……ロクス。」
 そんな彼を安堵させるためかそれとも呼ばれてつい返事したのか、シルマリルは苦しげに目を開けそれでも笑って彼の名を呼んだ。
「なんであの時僕の攻撃をかき消したんだ!
 僕の力は君と同じ神の奇跡だ、君に危害を加えるはずなどないだろう!」
「…ヴァイパーが…傷つくと思ったら……」
「この馬鹿!!」
「それに…あなたのあの攻撃は…私には力の源になるんです…。
 だってそうでしょう?…あなたの力は、闇を払う神の奇跡なのですから…」
 切れ切れに、それでも笑いながら答える彼女を、ロクスは思わず思い切り抱きしめた。シルクグレイの髪がシルマリルの顔に触れて、シルマリルの淡い光がわずかずつだが戻り光を放ち始める。
「この馬鹿…君は大馬鹿だ。危ないんだったら僕のことなんて忘れてしまえ。
 自分の身を守るのが先だろうが…。」
「ロクス…」
「…ああ、聞いてる。でも無理するな。
 君なら抱えても重くはないから余計なことなんて考えるな。」
「いいえ…お願い、このまま…こうしていて下さい。
 私たちは…祈りの力が強ければ強いほど実体が強く現れます。
 癒しの奇跡を持つあなたならなおのことです、だから…少し、休ませて…。」
「…わかった。何も心配するな。」
 彼女の言葉は方便などの口から出任せではなくて、ロクスの名を呼んだ時とは弱々しいなりに比べものにならぬほどにはなったらしく、彼の了承の返事を聞くなりシルマリルは糸が切れたみたいに眠りに落ちてしまった。
弱いなりに規則正しい呼吸は彼女の安全を物語っているように感じられて、ようやくロクスが大きく緊張して固まっていた体の中の息を吐きだす。
 どうすればいいのだろうか、あろう事か自分は神の御使いを愛してしまった。
ともすれば怒りのあまりに闇に染まりそうなほどに腕の中のこの天使に執着している今を思えば、もうごまかしは利かないだろう。
それは信仰から生まれる感情ではない。
 気を失った天使を抱きながら、ロクスは闇の中途方に暮れるしかなかった。