■□ 長い夜短い夜 □■ ロクス、パートナー妖精:フロリンダ イベント「ロクスの夜」より


「…天使様ぁ。」
 曖昧な明かり満ちるせまい宿屋の一室に不安そうな声がぽつりと落とされた。
「あそこ気持ち悪いですぅ。天使様も顔色真っ青だしぃ、一度天界に戻りませんかぁ?」
「大丈夫…せっかくロクスが誘ってくれたのですから、せめて彼が戻るまで待たないと……」
「じゃあぁ、そこのベッドに横になってくださぁい。
 どーせ誰もいないんだしぃ、ロクス様戻ってきたらフロリンがびしーっと言ってあげますぅ。」
 勇ましく言い放つんだけど間延びした声が間抜けで迫力どころか緊張感のかけらもないんだけれど、可愛い動物の着ぐるみを着た小さな存在が手足をばたつかせながら顔色が悪い翼持つ存在を励ましている。
 天使でありながら無謀にも人の欲望渦巻く場所でも最たるもの、酒場へと、誘われたからとついていった間抜けな天使様。案の定欲望という名の障気に当てられて呆れながらそこに背を向け何も言わずに立ち去って、今は青息吐息で椅子に腰掛けている。
部屋を取った主、幼い少女の姿の天使をこともあろうか酒場へ誘った当人はまだ戻らない。豊満な肢体を持つ酒場の女性たちを両腕だけでは足りなくて体全体を使い抱えて独占し、グラスを片手に下品な笑いの最中に身を置くなど、聖職者として許されるものではない。
後見に等しいらしい副教皇という初老の司祭から見限られ放り出されても仕方のない振る舞いだった。
「…天使様ぁ。」
「……そうですね。どうせ彼はすぐには戻らないでしょうから、彼がいない間だけでもベッドを借りましょう。
 頭ごなしに耳に痛いことを言っても、誰だって素直に聞けるものではありませんから。」
「天使様、優しすぎますぅ。
 あーゆー人にはびしーっと言ってあげないとぉ。」
「ビシッと言っても、彼は余計に話を聞かなくなるだけですよ。
 私は天使と言ってもまだ幼いし…ロクスは23歳と言うことですから、子どもに説教されているって感じるでしょうから。」
「天使様と人間の歳はちがいますぅ!」
「それをわかるのは私たちだけです。さ、フロリンダ。」
「…ご一緒しまーす。」
 幼いが大人びた物言いにたしなめられて、小さな存在はさしのべられた小さな手に素直に従い幼くも美しい天使のそばに寄り添った。彼女は小さな存在の気遣いに素直に従って主のいないベッドを、ほんの少しの間借りるつもりでそっと横たわる。
しかし彼女たちの見立ては大きく外れることとなる。



 あれから程なくロクスは宿に戻ってきた。
当然誘いを蹴って姿を消したふたりの姿を見て、誰も見ていないのをいいことにあからさまな不機嫌を露にした。
酒と白粉と香水のにおいにまみれた紫の法衣を乱雑に脱ぎ捨て放り投げ、運良くそれは粗末な椅子にうまくかかったけれど――――彼は不機嫌な顔を隠そうともしないで、足音を忍ばせて自分が横になるはずの、たったひとつのベッドの端に音をたてないよう腰を下ろす。
 わずかに汚れが残るような色合いのシーツに金の髪を神々しく散らし、美しい金の髪を持つ少女の姿をした天使が眠っている。その顔色は曖昧な明かりの元でもわかるほどに褪せていてあの場の空気が彼女には合わなかったのだと言うまでもなく物語るんだけど、…今時シスターでもそこまで初心な女はそうは見つからない。
しかし酒場女の妖艶なにおうような色気とは明らかに異質、何を飾ることもない、飾る必要もない天使という人ならざる存在は、信仰の対象だけあってその姿は例えようもなく美しい。大人の女、言い換えれば遊びでもかまわない、後腐れのない女ばかりを相手に浮き名を流す女たらしの不良僧侶は、白状すれば少女に対する興味は極めて薄い。今ベッドに横たわる彼女は少女と言うよりも子どもの寝顔のまま。
 ロクスは黙って不機嫌な顔のまま、細く長い指を金の髪に絡みつけた。
彼女の持つ空気は生臭坊主にはいたたまれなくなるほど神々しい。その容貌は幼さすら残す。
しかしそこかしこに女のにおいを隠していて、女を武器にするようなしたたかな女たちと渡り合ってきたロクスには彼女こそがずるさを体現しているようにしか見えない。
人の良心につけ込むやり口は一端の悪党のそれ。寝顔を覗き込めば、まるで男を挑発しているかのよう。
「…ったく大した天使様だ、あんなのを見ておきながら僕のベッドで暢気に寝てるなんて。」
 思わず押し殺し吐き捨てた毒を間近で浴びたシルマリルは、その声でその瞬間に目を覚ました。きょろりとあどけない目がロクスを捉えるのに時間など必要ないほどに彼は近くにいて、彼女が目覚めたと気づくなりに打って変わった甘い毒を含めた笑顔を浮かべ、先ほどとは正反対の口調で口を開いた。
「なぜ帰ってしまったのです?
 ひょっとして、天使様には刺激が強すぎたのですか?」
「ロクス、あなたお酒くさいっ」
「そりゃ、酒場で僕を待つ女性たちにさんざん飲まされましたから。
 あなたが彼女たちの前に姿を現してくださらなかったから、僕は酔っぱらい扱いで。
 よそで飲めるんだったらここでも飲めるでしょう、などと言われては男として断れませんよ。」
「い、意志が弱いような物言いはやめてください。」
「別に弱くはありませんよ、意志も、酒にも。
 この通り酔ってはいますが酔いつぶれてはいません。」
「わ、私は酒場の女性とは違います! そんなに近づかないでも話は聞こえています!!」
 甘い毒を隠そうともせず吐き続ける男の言葉に、天使は当然拒絶を返す。
だがその返し方は彼の思ったとおりで、実に初心というか性根が曲がった男の嗜虐心を満足させてくれるものだった。寝顔を覗き込まれていた驚きだけじゃない、じんわりと囁くみたい、いや口説くみたいな口調に飛び起きていつもは釣り上げることなどなさそうにすら見える眉を釣り上げて慌てて彼から離れるんだけど、
「襲ったりしませんよ、そんなおそれ多い。」
 あまりにも予想通りで面白味に欠けるらしい、ロクスはあっさりと彼女に甘い毒を吐くのをやめた。
「……………」
「おっと、失礼。
 怒っているのですか?」
 それでも。彼はその柔和かつ端麗ないかにも聖職者らしい容貌と真白い法衣を持ちながらも、その振る舞いは女慣れした不実な男性で、今ももう子どもをからかうのをやめておきながら自分のベッドに腰を下ろしたままで脚を組みにやにやと笑い神聖なる存在を女として値踏みしている。
彼の様子は人間の汚れた感情に不慣れな天使には不愉快だったらしく、シルマリルは珍しく言葉とは違う表情を見せながらようやくしっかりとした口調で彼を咎めた。
「…いいえ、少しあきれてしまっただけです。」
「ははは、手厳しいですね。」
 シルマリルの言葉は呆れたなどではなく、怒っている。聖職者でありながらあの堕落した姿に、そして自分をからかって面白がっているその人の悪さに。
今も否定も肯定もしないでただ笑っただけのロクスの言葉がさらにカチンと来てしまったらしく彼女は彼をにらみつけるんだけど、
「だが、僕はこんな男なんですよ。
 もし、それが気にくわないのなら二度と僕にかまわないでくださいね。」
 誰かを視線で恫喝するという話ならば、この幼い天使では彼にかなうはずがない。
男性なのに美しいほどの表情、穏やかな紫の瞳に刺すような鋭さを隠して一瞬だけシルマリルをにらみつけるんだけどそれはほんの一瞬で、彼女がびくんと一瞬の恐怖を露にした頃にはもう柔和な笑顔で彼女を見ている。
そのまま凍りついた空気の中で、シルマリルはなぜか動けなかった。
「じゃあ、もう眠いので。また来たかったら来てください。
 お休みなさい。」
 しかしロクスはそのやりとりにすら飽きてしまったのか、本当にもう眠いのか失礼にも天使を追い払うような台詞を口にしながら、ようやく空になったベッドに入るべく動き出した。善意のみでできているシルマリルが厚かましくもその場に居続けることなど出来ぬと言うことを踏まえているとしか思えない。
事実重ね着している法衣の下の服の留め金を外しその男性の線を持つ喉元を見せた彼の様子に、シルマリルは慌てて就寝の挨拶すら忘れて結局一度も起きなかったフロリンダを拾って、這々の体よろしく窓から夜空へと逃げていった。
「…フン、襟開けただけで逃げるとはね。ガキが生意気に俺に説教するからだ。」
 やはり狙ってやったらしいロクスは包み隠さぬ裸の自分を言葉に出しながら毒づいて、着替えるのも煩わしいほどに荒っぽく法衣を脱ぎ寝間着に着替えて床に潜り込んだ。
シルマリルには長くロクスには短い夜が、ようやく終わる。