■□ シーソーゲーム □■
ロクス、ヴァイパー

「慈悲深きシスター、今日も一段とお美しいことで。」

 唐突に声をかけられて、シルマリルがびくんと振り返る。彼女が声が聞こえた方に視線を向けるまでもなく相手の方から視界へ飛び込んできたのは、隻眼のギャンブラー・ヴァイパー。
彼はにっこりと人懐こそうに笑いながら大きな手をシルマリルに向けてひらひらと翻しつつ近づいてくる。
「今日はひとりなのか?」
 そういう彼もひとりで、結構整っている、けれど男らしい表情を笑顔で崩してシルマリルに笑いかけてきた。
彼は顔見知りの彼女を「シスター」と呼んでみたけれど、彼女は別に修道女ではないことは承知している。
しかしその清浄なる乙女の立ち姿は手首まで黒い服で包みスカートは美しいドレープを描きながら長く、美しい金の髪がごく弱い風にすら舞い踊る。
しかし見るからにすれてなさそうな清廉な乙女に見えて、その立ち姿は禁欲の衣で身を隠すシスターによく似ていて、ヴァイパーはそんな彼女を気に入っていた。
 時間はすでに夜、この時間帯に表を歩く者の多くは邪な目的を胸に沈めつつ行き交うことだろう。
ヴァイパーに関しては単純に賭け事に興じる場である酒場に出向く途中だったのだけれど、そんな道行きの途中でまさか彼女に会うなどとは露ほども思っていなかった。
「え、ええ…」
 ヴァイパーはその笑顔の質を人を食ったそれではなく無邪気に笑う少年のようなものに変えてまで笑いかけるほどだから、彼女を気に入っているから視界に入れば嫌でも気がつくけれど、彼女はそうでもないらしくおそらくヴァイパーの顔を記憶の中から探している、と言ったところだろう。彼らのような蓮っ葉な男たちが縁深い、白粉と香水のにおいがつきまとうような美女たちとは、明らかに対極にいる。
「ほぉ、そりゃ願ってもないチャンスだ。
 お嬢さんにはいっつも女たらしの教皇様がご一緒してるからな、誘いたくても誘えなくて悔しいあまり何度ハンカチ噛んだことか。」
 声をかけながら近づいて、びくびくおどおどしている美しすぎる少女をからかいながらヴァイパーは昌館の壁に肘だけでもたれて戯れのような言葉を続ける。
彼女の名は知らない。しかし惚れていると言われたらおそらく惚れている、ヴァイパーはそう認識していた。
「そ、そう…ですか…」
「そこでだ。教皇様がいないんだったらお誘いしたいんだけど、食事でもどうだ?
 ヤツは優しげな顔したエゴイストだろ、お嬢さんが泣かされてないかと思うと俺は心配で心配でしょうがなくてな。くさくさしてるんだったらあいつのことを忘れるために俺を利用してみたらどうだ?」
「だ、大丈夫…です。ああ見えて彼は私も女性として扱ってくれていますから。
 それに、ひとりと言ってもここで待っているようにと言いつけられているので…」

 こんな場所にこんなすれてない女ひとり待たせるなんて、連れはあいつしかいないな。

 ヴァイパーは彼女の返事を聞いている最中から、彼女の連れの顔が目の前にちらつき始めていた。
夜の町の中でも女と酒と猥雑な喧騒ばかり、そんな場所に、こんな心細そうな顔をさせながら待たせるなんてひどい男。優しげな顔で女を騙す女たらしの不良僧侶。
事実酔っ払いたちは彼女に目を奪われるんだけど、その目の前に立つヴァイパーを見ると舌打ちしながらその場から離れてゆく。隻眼の男前の連れがいる女を、男から奪おうとまで思う者はどうやらいないらしい。
 幼い天使シルマリルは裏のある男、押しの強い男に縁があると見える、確かにひとりなのだけれど実は人待ちの最中で、待ち人からはここを動くなと言いつけられて、軽い誘いをかけてきたヴァイパーからも逃げるに逃げられない。
声をかけてきた彼とは顔見知り程度の縁だけど、ヴァイパーはその男らしくも整ったどこか意地悪そうな容貌を人のよさそうな笑顔で飾るみたいに笑いながら饒舌に畳み掛けてくる。事実彼はにっこり笑うとどこか悪戯小僧みたいな憎めない雰囲気を持っていて、年齢の割にあどけなく見えることがあった。
「な? まずはお友達から始めましょって言うじゃないか。俺はこんなだけど一応紳士でいられるぜ?」
 軽口だけどそこに悪意らしきものを感じないから、シルマリルは困っておろおろするばかり。

「悪いがギャンブラーの友人は彼女には必要ない。
 今なら客待ちのいい女がいるんじゃないのか、毒蛇君?」

「きゃあ!!」
 待ち人来る、ヴァイパーに誘われてどう返事すればと困惑していたシルマリルの小さな体を、小さな背中から男の腕が抱きすくめる。細い男の左手がシルマリルを抱きながら彼女の右肩に、仕立てのいい白いその袖口にはたくさんの金十字がきらめいていた。右腕は彼女を腕の中に収めながら包み込むみたいにしっかりと抱いている。
ゆるく波打つ長めの前髪の色はシルクグレイ、柔和そうな形を持つ目元の奥から紫の瞳がヴァイパーをねめつけている、その様子にさすがのヴァイパーもかなり面食らったらしい、切れ長の挑戦的な目を思わず丸くしてシルマリルを注視している。
「僕の大事なレディにちょっかいかけるのはやめてくれないか。君じゃ彼女の隣に立つには役者不足だ。」
「…おいおい教皇様、そりゃなんの冗談だ?」
「冗談? なにが?」
 やはり彼女の待ち人はこの男だったか。ヴァイパーが声はもちろん顔にも出さず舌打ちする。
面食らったヴァイパーがわざと大げさに驚いた様子を見せながら両手を肩の辺りでひらりと上に向け肩をすくめつつ問うてみるけれど、細い手の主はあろうことか美しい金の髪の少女の腰の辺りをいやらしい手つきでじんわりと撫で始め、彼女は思わず短く悲鳴を挙げた。
けれど耳まで真っ赤になりながらも彼女は男の手から逃げようとしなくて、ふるふると小さな体をふるわせながら、なすがまま。
「俺の女にちょっかい出すなってんだよ。
 こいつの隣に立ちたきゃそれなりの顔が必要だってわからないのか?」
「…ロクス、それシャレにならないぜ? そのお嬢さんは」
「俺の女だ。…俺が一から仕込んでる最中だ。
 なあシルマリル? この物分り悪い空気読めないお兄さんに言ってやったらどうだ、ロクスじゃなきゃダメなの、って。」
 彼の言葉は本当なのだろうか? ロクスはその不実な唇を笑みの形に歪めて彼女の耳朶に甘く甘く囁きかけている。
ロクスは少女趣味はないといつか言っていた、けれど彼女はどう見てもうら若き乙女で、恥ずかしそうに顔を真っ赤にしながら、しかしロクスに抵抗する様子は見せない。

「…いいかげんにしてくださいっ!!」

 今の今まで抵抗できずにふるえていたお嬢さんが突然爆発してロクスを思い切り振り払った。そして彼女はひらりと長いスカートの裾を美しく翻してヴァイパーの元へと駆け寄る。
「ヴァイパー…でしたね? 助けてください、ロクスはすぐ私をああやっていやらしいからかい方して面白がるんです!」
「あっこらバカお前よりによってそいつに助け求めるか!?」
 宵闇の中でも光を放つかのような金の髪が踊る様が、夜の、いや闇の中を泳ぐヴァイパーの隻眼に痛い。
図らずも彼女を腕の中に収めることとなったヴァイパーはまだ面食らっているのだけれど、大きな骨っぽい手で丸い肩を包み支えつつ今にも泣き出しそうな彼女とおふざけが過ぎて女に逃げられた面白い男の顔を交互に眺めている。
「私がバカならあなたはなんなんですかロクス! いいいいやらしいったらありゃしない!!」
「お前そいつはお前を引っ掛けようとしてただろうがなのに僕はダメでそいつならいいのかぁ!?」
「ヴァイパーはむやみに触りません!」
「おいこら抱きつくなとっとと戻って来い!!」
 このふたりは相性がいいのか悪いのか、ヴァイパーはまだつかめていない。ただ少なくとも男の方は守備範囲外などと軽口を叩きながらも隙をうかがっているらしいことは簡単に察して取れた。…世の中と言うものはつくづくバランスが悪いものらしい、女ずれした性質の悪い男ふたりにはさまれたのは純真可憐と言う言葉がぴったりの、この世のものとは思えないほどに美しい少女。
シルマリルは柔和な性悪にからかわれて今にも泣きそうな青い瞳でロクスをにらみながらヴァイパーにしがみついている。
「…シルマリル、怒るぞ。」
 自分からからかっておきながら、お嬢さんの不興を買って逃げられて。ロクスがにわかにその優しげな声に脅しを潜ませ彼女の名を呼んだ。しかしシルマリルは首を縦にも、横にも振らず彼をにらみつけている。
「おいおい大人げない、お前が悪いよ、今のは。」
「お前は黙ってろ。」
「やっぱりいじめられてるじゃないか、お嬢さん。かわいそうに、こんなにふるえちまって。」
「恐怖じゃない。怒りだ。お前はその女を誤解してる、いやまったく知らないくせに口を挟むな。」
「恐怖も怒りも大差ないさ、要はロクス、お前は振られちまったってことだろ?
 いくら男前でもしつこいと株下げるだけだぜ?」
「シルマリル!」
 びくん。

「仕方ない。―――――ロクス、あばよ。」

 突然、ヴァイパーがひらりと身を翻した。その腕にシルマリルを抱え、いかにも彼らしい含み笑いなど浮かべて、知らないとはいえあろうことか天使をさらうなど、さすがのロクスも思い及ばなくて迂闊にも固まってしまい出遅れる。
いきなり抱えられたシルマリルはロクスの時とは違い悲鳴ひとつ挙げなかった。咄嗟にヴァイパーの首にしがみつき身を丸め、路地裏へと駆け込んだ彼に己を預ける。
まさか、まさか逃げられるとは、奪われるとは!…取り残されたロクスは唖然、呆然、そしてその端正で優しげな表情に怒りを漲らせてようやく後を追いかけ始めた。
夜を駆け抜ける盛大な追いかけっこの火蓋が、唐突に切って落とされた。



「さて、と…うまく巻けたかな。」
 今まで駆けてきた道なき道を、ヴァイパーが息をきらせつつ振り返る。女を抱えて逃げていては悪目立ちするからシルマリルはすぐに下ろされた、その後は彼に手を引かれて逃げた、逃げた、町の中じゅう。
他者を裏切らぬ善なる存在が図らずも裏切ることとなったロクスの姿に、怒気を隠しきれていない横顔にシルマリルがびくんと身をすくめたことも一度や二度ではすまないだろう。帰る機会を逃した以上、手を引くヴァイパーに従うより他にない。
「しかしお嬢さんも罪作りだ、あいつにあんな顔させるなんて。」
 適当な場に腰を下ろしつつヴァイパーが思い出せるのは、追いかけてくるロクスの表情。悔しげに歯軋りしていそうな激しい感情の露出が彼に心地よい。今不安げに己を見つめて、しかし何も言わない麗しい少女の様子もそれをさらに盛り上げる。
「…ロクスは自分に興味を示さない私を連れて行かれたことが腹立たしいのでしょう。」
「別にお嬢さんの意思じゃない。俺が掻っ攫っただけ。
 それにさ、お嬢さんに抱きついてべたべたして、あれじゃ唯の痴漢じゃないか。
 まあずいぶん必死なことで…面白いもん見せてもらった気分だ。」
 ヴァイパーは低くそう言いながら、町の明かりが遠くに見える廃屋の玄関、わずかに残る段差に座ったままで人差し指だけ動かしてシルマリルを促した。けれどシルマリルはやはりロクスが心配なのだろう、座ろうとしないでうつむくばかり。
ロクスとヴァイパーが違うのはその後の態度で、ロクスは露骨に嫌な顔をするけれど、ヴァイパーはそれ以上要求しない。ふ、と小さなため息だけ、脚を伸ばし組んでシルマリルを見上げると、自分もロクスと同じに泣きそうな顔をさせていることに気がついた。
「お嬢さんはロクスが好きで一緒にいるのか?」
「違います。」
 間が持たずにヴァイパーが不躾な問いを投げかけると、あっさりと否定の言葉が返ってきて脱力しそうになる。
「あ、好意がないとかそういう意味ではないんです。…ちょっと、事情があって……」
「…だろうな。ロクスはああ見えて悪い気じゃなさそうだ。
 毛色の違うあんたって女を楽しんでるのと同時に探り入れてる。…俺と同じだ。」
「…苦手なんです、そんな目で見られるのが……。」
「別に慣れなくてもいいさ。男はいい女がいると本能で目を向けちまう。
 …そうやって戸惑うあんたも綺麗だぜ。」
 それは口説いているのだろうか? 口にしたヴァイパーも自分自身曖昧でわからない。
言い終わらない先から声に出しておかしそうに笑った彼に何か思ったのか、シルマリルがようやく腰を下ろしてしゃがみこみ目線を下げてヴァイパーを見る。
「さっきは必死で顔見る余裕もなかったが、間近で見るとたいした美人だな。
 悔しいが確かにロクスぐらいの色男でないと男が見劣りしちまう。」
 翼を隠す天使は少女の姿を持ちながらも淡く、ごく淡く光を放っていて、闇の中でも己を際立たせる。
やわらかな金の髪、青い瞳、白い肌――――その姿は、まるで精密に美しく計算しつくされ生み出された人形のよう。なのに彼女は確かに呼吸をし、ヴァイパーの目の前にいる。
それが人間の目には神秘的に映るのだろう、しかしヴァイパーは理屈などどうでもよくて、何か言いたげに自分と言う男を見ている少女に愛嬌ある愛想笑いを返し先を促した。
「何か訊きたそうな顔してるぜ、お嬢さん。俺のことが知りたいのか?」
「あ、いえ……」
 否定の言葉を口にしながら彼女の視線はヴァイパーの右目を捉えていたから、ヴァイパーはおどけるみたいに己の眼帯を指差した。
「ああ、これか。酔っ払ってつい右目なんて賭けちまった。んで負けた。
 それでコレさ。」
 いつもなら笑って言いくるめて煙に巻くのだけれど、どういう風の吹き回しなのか、名前も知らない彼女にはあっさりと語って聞かせた。言いながら右目を軽く指差しながら低く笑い飛ばして
「因果なもんで、それでもこの世界から足抜けできない。
 ま、お嬢さんには縁のない世界だろうが、話として聞く分には面白いかな?」
 自嘲を隠して、笑顔に摩り替えるあたりまでロクスと彼とは似たもの同士。
そんな男たちのことにはおそらく気づいているのだろう、彼女は悲しげに眉根を寄せただけでそれ以上つっこんだ話を聞こうとはしなかった。
「ヴァイパー」
「…クラレンス、クラレンス=ランゲラック。
 あんたがロクス、ロクスってあいつの名前呼ぶたびに嫉妬してたんだぜ。俺はやっと顔覚えてもらっても、呼ばれるのは通り名のヴァイパーだし。」
「あ、私は」
「おっと。…いいよ、名前聞いちゃ執着しそうだ。
 俺はロクスみたいに無意識に自分をかなぐり捨てられない。」
 そこまで言って、ヴァイパー…クラレンスが大きく咳き込んだ。追いかけっこが楽しすぎて張り切りすぎたらしく、だがよりによってこんな時にこうならなくても…クラレンスが内心で自分に舌打ちするんだけれど、蝕まれた体が言うことを聞かなくなって久しくて深い咳はすぐには止まらない。
喉の奥に広がる鉄くささが、彼の無理を激しく訴えている。
 そんな彼を見、シルマリルは慌ててその背をさすった。咳が止まらない間、何度も、何度も…
「クラレンス、クラレンス、大丈夫ですか? 具合が悪いのでしたら戻りましょう。」
 さっき知ったばかりの彼の本当の名を、シルマリルが何度も呼び男の広い背中をさすり続ける。
すぐそばに聞こえる優しい声が、装われた優しさではない心根の優しい人間のそれが、装うことに慣れてしまったクラレンスにはいたたまれない。しかし、彼女の声は耳に心地よく響く。
「…いい声だ。その声でやっと俺の名前、呼んでくれたな。」
 まだ咳は止まらないけれど、喉の奥で咽ながらもクラレンスが色あせた顔色で笑う。人の善性よりも強い善の感情で構成されているシルマリルにはそんな彼が心配でならないんだけど、彼女には課された制約があり、彼女の勇者でもない彼に天使の慈悲を施すことはおそらくできないだろう。
シルマリルがそれを望んでも、彼女らを統べるものがそれを許さない。制約を違えれば彼女には罰が下される。
「クラレンス…大丈夫ですか? ひどい咳でしたけど」
 それでも心配なことはどうしようもないから、シルマリルはその絹の袖でクラレンスの脂汗を、乱れてわずかに額に降りた銀髪を指先でそっとぬぐった。
「なあに、夜型人間の不摂生のせいさ。
 あぁロクスのヤツがうらやましい、こんなに優しいあんたがそばにいるのにあんな態度あるかよ。」
「…彼には彼の事情がありますから。
 それよりもクラレンス、あなたにとっては普段のことかもしれませんけれど、無理はいけません。
 私もロクスの所に戻ります、謝っても許してもらえなかったら…その時はその時ですよね、あなたたち風に言うと。」
「いや、あいつは根に持つ男だ。今夜お嬢さんをすんなり帰しちゃあ心配でよけいに具合悪くなっちまう。
 しばらくすれば落ち着くから、とりあえずほとぼりを冷まさないか?
 んでお嬢さんの存在のでかさってヤツをあいつにきっちり教えてやらないとな。」
 おどけながら。それっぽい理由を並べながら。クラレンスは彼女を手放そうとしない。
他人が追い込まれる様を、他者の破滅を誘い叩き落すことがこの上ない快感と言う歪んだ自分を内包する男が次に破滅に導こうかと狙ったのは、すでにずいぶん高みから転げ落ちている破戒僧の青年。
おとなしくしていれば宗教国家のすべてをその掌に握れると言うのに、何を思うのか自ら放蕩に遊ぶ性質の悪い男。
そして彼はその容姿につりあうほどの女性をついに手に入れた、どういう事情かなど関係なくて、クラレンスにとって恵まれすぎている己の鏡像が妬ましく、羨ましい。
何を奪えばあの男にダメージを与えられるかと考えたら、真っ先に浮かんだのがこの少女の姿だった。
「…クラレンス、私のことを心配してくださるのはとてもうれしいのですが、私はあなたの体の方がよっぽど心配です。ロクスを怒らせたことを気にしているのでしょうけれど、彼は女性に怒っても手を挙げたりはしませんから…。」
 シルマリルが穏やかにそう語っている最中、再びクラレンスが激しく咳き込んだ。
「クラレンス!!」
 シルマリルの狼狽した呼びかけを聞きながら、クラレンスは今彼女の連れがどんな様子でいるのかを想像している。考えるだけでぞくぞくすると言うか、他人の不幸は蜜の味とはまさにこのことで、おそらくあの男はあることないこと想像ばかり掻き立てられて、血眼になって自分たちを探していることだろう。
「クラレンス…あなた、なにか病気なのではありませんか?
 喀血しているじゃありませんか、ロクスならきっとどうにかしてくれ」
「…お嬢さん、野暮言うんじゃないよ。あいつに助けられるなんて真っ平ごめんだ。
 あいつだって俺のこんな様子見たらそれ見たことか、って指差して大笑いすることだろう。…男に恥かかせないでくれ。」
「そんな意地を張ってどうするのですか!」

「じゃあお嬢さん、キスしてくれたら恥も外聞も捨てて言うこと聞こうか。
 俺のプライドはそのぐらい高いんだ、相応のものを要求させてもらうぜ?」

 クラレンスにとって、すべての事象が賭けの対象になる。己の青ざめた唇を指差して笑いながら、賭けを挑んだ相手は心穏やかな聖女様。その唇を賭けて、彼女はどう出る?
その慈悲を優先しおそらく清らかだろう唇を差し出すか、清らかな己を守るために口を閉ざすか――――シルマリルは困ったみたいに眉根をはっきりと寄せて迷っている。
「…そんなに…ロクスを、困らせたいのですか?」
「いいや。あいつに借りを作るのが嫌なだけだ。
 お嬢さんみたいな優しい女にはわかりっこない、バカな男どもの意地の張り合いさ。」
「痛みや苦しいのを我慢してでも、彼からの助力を拒む、と…?」
「ま、そういうこった。でもお嬢さんがあんまり心配してくれるんでな、お嬢さんが相応のものを差し出してくれるほど俺を心配してくれるんだったら、俺だってあんたの心意気ってヤツに応えたい。」
「…わかりました。
 私はあなたが苦しんでいるのに何もできませんけれど、あなたの苦しみを楽にする手段は知っています。
 …知っているのに、知らないふりはできません……から」
 そして聖女様は清浄なる身よりその慈悲を選んだ。今にも消え入りそうな声で、途切れ途切れに語りながら、そしてどう言えばいいのかわからなくなると…ふるえながらまぶたを閉じて、ずいぶんと硬い表情でクラレンスの頬を小さな手で包み込んで唇を寄せてくる。
据え膳食わぬは男の恥、クラレンスは唇を寄せる女のぎこちない表情に舌なめずりしつつ視線を伏せて、青ざめた唇をわずかに開いて彼女を待つ。
「―――――!」
 殺気、空を切る音、そして鈍い音。崩れかかった段差が受けた衝撃にぼろりと崩れて小石が転げて落ちた。
「…俺の女になめた真似しやがって…横恋慕したいんだったら自分のツラと相談ぐらいしやがれ。」
 聞こえたその声にシルマリルはすでに唇どころか顔半分ぐらい両手で覆って、驚くあまりに尻餅なんてついている。あろうことかこの場面でロクスに見つかった、彼はクラレンス…ヴァイパーの座る段差めがけていつも携えている十字を象った杖を突き立て牽制し、おたおたとその場でひどく狼狽しているシルマリルの腕を力ずくで引き寄せ己の後ろに隠してしまった。
「シルマリル!」
「ご、ごめんなさい!」
 そしてもののついでなのかシルマリルの名も呼びつけたけれど、
「…何もされてないか?」
「………はい?」
「妙な真似されてないかって訊いてるんだ。
 どうせさっきのはこいつの口車に乗せられたか弱みつかまれたか、そんなとこだろ。…ったくいちいちそんなんでいいようにさせてちゃお前いつか…まあいい、その様子ならまだ何もなさそうだな。
 ヴァイパー、確かに返してもらったぞ。」
 別に叱りつけるつもりはなかったらしく、ロクスはヴァイパーの略奪と逃走を警戒するかのようにシルマリルの腕をしっかりつかんだまま離そうとしなかった。
「…ったく野暮なことしやがる。もうちょいだったのになぁ。」
 もう少しのところで奪われてしまったクラレンスはさほど悔しそうな様子を見せず、憎まれ口なんて叩いてくれた。
「何がもうちょいだ。
 一部始終見させてもらったけど、ありゃ三文芝居以下だな。騙されるのはこいつぐらいだ。」
 それをロクスが間髪入れずに混ぜっ返す。
「待って下さいロクス、クラレンスは病気なのです! あれは演技などでは」
 シルマリルが知るふたりのやり取りなんだけど、今彼女の中では軽口を叩きあいふざけられるような場面ではない。いきなりロクスに取りすがり、焦りの色を隠すことすら忘れて彼を引き止めた。
「じゃあ俺も病気だな。多分そこの毒蛇君と同じ病名だ。」
 しかしロクスの返答は実に冷たいもので、彼はクラレンスの通り名すら呼ばずにひらりと線の細い手を翻してシルマリルをあしらった。
「ふざけないで下さい!」
「…いいかげんにしろ。どこまでお人よしでいれば気がすむんだ。
 君にはこの男も僕も理解できない。自分の枠にはめ込んで無理に解釈するんじゃない。」
「おいおい、お前こそ懲りてねえんじゃないのか? お嬢さんは純粋に俺を心配してくれただけだ。
 もうちょっと優しくしてやれよ、今日みたいに逃げられてから血眼になって探してみても手遅れかもしれないぜ?」
「忠告ありがとう。素直に受け取ってしっかり捕まえておくことにしよう。
 シルマリル、行くぞ。」
「でもロクス」
「助けてほしけりゃ頭のひとつぐらい下げるだろ。
 それをしないヤツに僕は押し付けの親切なんて施さないことにしてるんだ。…ありがた迷惑って言葉、君だって知ってるだろ?」
 善なる存在に、彼らの心境や立ち回り方を理解しろと言ってもそれは無理な話で、今も冷たく言い放ったロクスの言葉にシルマリルは泣き出しそうに青い瞳を月明かりに揺らして彼を見上げている。
その眼差しに耐え切れるほどロクスは性根が歪んでいないらしく、自分から目をそらして話を変えるかわりにまだ立ち上がらないヴァイパーをにらみつけた。
「もう用はないんだな?」
「………ああ。鬼ごっこ、楽しかったぜ。」
「…フン。体損ねて鬼ごっこ、か。
 病気なら健康な僕に挑むなんて無茶は次からやめておくんだな。
 確かに僕は戦士のように頑丈じゃないが、これでもそれなりに体力に自信はあるつもりだ。」
「お前もそんな優しいお嬢さんを邪険に扱っていじめるのはやめろよ?
 俺に盗られて血相変えるぐらいならもっと大事にしてやんな。」
「僕らにはお前なんかに理解できない込み入った事情があるんだ。」
「それぐらい俺にもわかるさ。
 じゃなきゃそんないい娘がお前と一緒にいるはずないし。」
 男ふたりは似たもの同士、別れるにしてもあっさりとは行かないらしく、憎まれ口の応酬で時間ばかり夜ばかり無駄に浪費してゆく。それでもその場から腰を上げようとしない、おそらく出来ないだろう「クラレンス」がまだ心配で、シルマリルはさっきから腕をつかんだまま離そうとしないロクスのことを一瞬忘れて、月明かりの元でも顔色の悪いクラレンスへと駆け寄ろうとしたけれど――――そんな彼女を、ロクスは手放さない。
憎まれ口も切り上げてシルマリルを力ずくでつれてこの場を離れる。
「お嬢さん、おやすみ。いい夢見ろよ。今夜はここでお別れだ。
 俺を心配してくれるのは嬉しいが、そっちの色男は嫉妬深いから気をつけるんだぜ。」
 ヴァイパーの更なる挑発、憎まれ口にロクスが一瞬歩みを止めたけれど、彼は何も言わず、振り返らずにシルマリルをつれて立ち去ってゆく。
 人間でいるのってこんなに疲れるなんて。穏やかなシルマリルに、刺激的な男たちは刺激が強すぎる。
今もまだつかんだまま腕を離そうとしないロクスの手の感触が痛いほどで…今のロクスは片手に十字、片手には天使と人間界の神の代行者たる様相を呈しているのだけれど、実情は渦巻く人間の生臭い感情の渦の真ん中にいた。
「あの…ロクス」
「しゃべるな。…黙ってついて来い。」
 ついて来いも何も、翼を隠しているシルマリルが逃げるはずがない。
彼はヴァイパーを嫌っている。そんな男と己の天使が、あどけなく純粋な彼女が一緒にいた。爆発しそうなんだけどそのきっかけを作ったのは自分だと言うこともわかっているから、必死でこらえている。
多分彼女は何度もヴァイパーを振り返っていることだろう、それが腹立たしい。
腹立たしくてもなぜかと問われると困るから、ロクスは黙り込むより他はなかった。



2008/04/16

今作より簡単なあとがきをつけます。

緊迫したコメディを書いてみたくて筆の向くままに書いたらオチがつかなくて苦労しました。
最初は別の展開だったのですが、病人のヴァイパーに無理はさせられなくて中途半端になってしまった気が…。(汗)

ロクスは執着したら嫉妬深いと思ってます。