■□ UPSET □■
×ロクス フェイン ロクスイベント「告白」後・キス表現あり
湖水は伝説など意にも介さず時をたたえ続ける。
「魔竜の死体から生まれた湖、美しいが人を呼ぶこともある。…世を儚み身をこの湖に投げる者も後を絶たない、それがただの噂なのか真実なのかは定かではないが、俺も夜この湖を遠くから見るだけでもぞっとする。」
うっそうと緑滴る湖畔に佇む大柄な青年と、その傍らにたおやかに立つ少女の姿が小さく、ごく小さく大きな大きな水鏡に映りこんでいる。青年の声の質は凛と低く厳しいのだけれどその響きはどこか穏やかで、それを聞きながら少女はその背に負う純白の翼をわずかに動かしながら水辺へと歩み寄り屈みこんで小さな手を水にひたした。
「…こうして見ていると、美しい風景のように見えるのですが。」
湖水は美しく波紋を広げながら、覗き込む少女の姿を映している。手をひたしたそこを中心とした合わせ鏡、湖水の向こうにも別の世界が広がっている、そんな錯覚を青年に覚えさせるほどに湖は静かで穏やかでそして美しかった。
「君が降り立ってから今までを振り返ると、何かが起こるとしたらここもそのひとつになるかもしれない、と考えることが増えた。知識として伝承は俺の中に蓄積されてはいるが、やはり伝説は伝説、子どものお伽噺に過ぎないと思っていたのだろう。」
「多くの伝承は語られるうちに姿を変えます。
それが物語のように思えることは不思議ではないと思いますよ、フェイン?」
彼女の静かな声で名を呼ばれると、多くの男は胸の中をざわめかせる。
天使とはそういう存在なのだと、人を取り込む魔性持つ存在なのだと、知識持つ青年は自らの身と心をもって思い知ることとなる。
小さな体に過ぎた大きさの翼持つ少女は神聖なる乙女で、なのに湖水から手を離し雫を滴らせつつ立ち上がるとやはりその小柄さばかりが目立ってしまう。彼女の後ろに立つ形でその背中を、翼を見守る青年はかなり大柄で刀身の大きな両手剣を携えているから、ふたりでいると大人と幼子のような奇妙な対比図がそこにあった。
「…シルマリル」
ふたりとも黙り込むと、あとに音は残らない。風が渡れば木々がざわめくのだけれど今日は風も穏やかな昼下がりで、その間に耐え切れなくなったのか青年が彼女の名を呼ぶと、当たり前なのだけれど彼女はくるりと振り向いた。
湖水よりも空よりも青い瞳が美しい、金の髪の天使様。花誇らせる水仙のような慎ましやかな衣の緑がこの景色に融けて高名な芸術家が描き出す美しい宗教画のよう。あどけない少女の面差しを持ちながら、その立ち姿はこの世のものではないだけに美しかった。
いつからなのだろう、彼女はひらりひらりと美しい線を描く若緑の衣の腰に巻いた美しい金鎖に、使い込まれた金の十字架を下げるようになった。
彼はそれの存在に程なく気づいたのだけれど、もしかしたら彼女も己と同じに誰かを失ってしまったのかもしれなくて、もしそれがその形見だったら、などと考えるとついに聞き出すに至れなかった。
この世界ならば、誰しもそのような思いをしたことがある、そう思うと何も聞けなくなってしまう。
「以前、ここの近くの町へ、セシアと言う勇者と来たことがあります。
戦火に見舞われたあの町の近くに、こんなに穏やかな場所があるなんて…なんだか不思議です。
ここも帝国領になるのですか、それとも六王国連合?」
「いや、厳密に言えばエクレシア教国領だ。
これだけのいわくを持つ場所を、何事もなく抑え込めているのはその国の性質ゆえのものなのだろうが…教国も聖都を焼かれ主だった司祭たちは国内に散ったままだと聞く。しかも教皇不在…教国の象徴は副教皇では務まらぬと聞くが、現在教皇の座に上る権利を持つ者の噂話を聞く限り、果たして帝国から聖都を守りおおせたかどうかは疑問だがな。」
魔道士ギルドに籍を置く、ウォーロックのフェイン。幼き天使シルマリルの勇者。知識と魔術と剣を彼女に捧げる男。
人間と同じに迷い、悩み、時に涙を流す美しい天使の存在は、世界を傷つけるほどの災厄を招いた男の拠り所でもある。高い場におわす存在でありながら運命は彼の元へと舞い降りた、彼は宗教に身を委ねない男なのだけれど、終焉の間際に舞い降りた御姿を、差し伸べられた小さな手を、優しげな声を忘れたことなど一度もない。
こういう感情を宗教だというのならば、確かに彼も信じる存在を胸に抱きここにいることになる。
「美しいだけでは信徒は集まれども国は守れない。もっとも、俺と同じ男であることに変わりはないのだから、どれほど美しいのかも疑問だ。」
その知識と職業ゆえに宗教には少々厳しい見方もしてしまう、いや、神は彼に祝福を与えてはくれなかったから、単純に嫌いなのかもしれない。
フェインはその魔道の力ゆえに両親から疎まれて持て余されて、それでもようやく見つけた居場所で過ごした穏やかな日々もあたたかい愛もつかの間の夢、そして彼は訪れてしまった永遠の別離に耐え切れず我を失い力に身を委ねた。
…そのような境遇である彼が神を信じ抜くことなどできないということを、神の御使いでありながらシルマリルは理解している。矮小な存在であろうと自分も神の代行者、ならば神を信じきれなくなった彼に、父たる存在に代わり自らが誠意を示す。
小難しい話ではなくて、シルマリルと言う天使は戦う力は持ち合わせていないけれど、その身に大きな慈愛を抱いている。他者の悲しみを己のものとし共に悲しむその姿は人間の、特に男性には依存にも似た危険な安らぎをもたらす存在でもあった。
シルマリルはフェインの静かな怒りを耳にしながら、彼女にも思うところはあるのだけれど、それを口にしてはただでさえかけがえのない存在を、今度こそ永遠に失ってしまった彼に対してあまりにも心無いと感じているから黙り込むばかり。
「聞くところによると、次の教皇殿はこの一大事にどこで何をしているのか、その美しさを違う用途に使っているそうだ。
…すまない、天使の君に聞かせる話ではないな。人間の汚れた部分を君に聞かせるとは…俺も疲れているのか。」
フェインの中の鋭い宗教観が、寡黙な彼を少しだけ饒舌にしていた。
「僕は続きを聞きたいな。
ずいぶんと的確に僕や教国について分析しているようだし。」
ふたりしかいないはずの静かな湖畔に突然聞こえた男の声に、フェインは言葉を切りハッと顔を上げシルマリルから視線を外し声の聞こえた方を向いた。
高貴な紫色の上着に豪奢な金刺繍の十字、真白い法衣――――語るまでもなく、彼から名乗るまでもなく高位の僧侶だと察したフェインは、先ほどまでの悪口を聞かれたと瞬時に理解し口を一文字に結んで閉ざした。
そしてシルマリルは明らかに困惑している。
「どうだ? 僕の容姿の評価は美しいということのようだが、残念ながら傷が入ってしまってね。
見てのとおり正直そこの天使から比べたら見劣りするものだから自慢できるほどではないと思うが。」
弱い風にさえ踊るほど軽いシルクグレイの前髪が揺れて視界を開き彼の容貌を際立たせる。
突然現れた彼はごまかし笑いさえ浮かべることなく人差し指で己の顔、右目をさしつつ穏やかな語調に痛烈な皮肉を潜めながらフェインにやり返した。
整った顔立ちから微笑を消したら冷たさが残る、そして彼の言葉のとおりに、その右目に目立つ真新しい傷が入っていた。
「まさか…」
そのあと、フェインは言葉を続けられなかった。
「まあ、顔や姿形では国を守れないという件には反論の余地もない。
事実守れなかったのだから。」
宗教国家の若き宗主が、自国内とはいえこんな辺境を旅しているなど誰も思い及ばなくて、しかも顔も知らぬ彼に対して吐かれた暴言に痛烈な皮肉で切り返されたフェインは短い言葉しか口にできずにいる。
叩きつけるような皮肉の嵐は怒りの矛先が陰口を叩いた己に向けられたから、フェインはそう思い口を閉ざすばかり。
「ロクス、あのっ」
「黙ってろ。…他の男とでも一緒にいられるあたり、君もたいしたたまなのかただの天然なのか。」
しかし真相は違った。皮肉の矛先はフェインではない。
美しくすらある容姿を持つ青年はその姿にそぐわぬ下衆な暴言を天使相手に吐き捨ててサディスティックな笑みを浮かべる。
美しい唇の端をわずかに上げて自虐的に笑った優美な青年、天使シルマリルが見える男、そして彼女もその名を知っていた。
「シルマリル…君の勇者には、まさか」
「あ、あの、フェイン…ロクスを責めないでください。
彼も大変なのです、聖都のことだって……」
ようやく状況が飲めてきたというか、偶然と言うものはそこらじゅうにごろごろしているものなのだろうか?
突然現れた僧籍の青年の正体を察したフェインなのだけど、察したところでそのあとに言葉が続かない。
おまけにシルマリルはフェインの愚痴にも似た悪口をこらえて聞いていた風で、今渦中にいる青年が目の前に現れたことで今にも泣き出しそうなほどにうろたえているから――――
「僕が弁解していないのによけいな口を利くなおしゃべり天使。
ああ、これは返す。僕のクロスは適当に処分してしまえ。
…博愛主義の天使様を信じた俺がバカだった…!」
そして。フェインがずっと気にしていた十字架の元の主が彼だということを唐突に知ってしまった。
最後の方、その優美ですらある唇から汚い言葉遣いで吐き捨てたのはひとり言だと言われなくてもわかるのだけど、その中身まで察してしまうフェインもまたロクスと同じ境遇に立っていた。
優しい天使を拠り所にして依存しすぎて、神聖な存在への信仰ではなく男としての恋慕の情を抱えてしまった。
男性にしては細い手でロクスは首にかけていた十字架を引きちぎるように外してシルマリルにつき返し、もともと己の物であったそれはいらぬ、つまりは捨ててしまえなどと捨て鉢な台詞を口にして彼女に背を向けた。
ロクスは優美な外見を持ってはいるのだけれど、もともと己の中で渦巻く鬱屈とした感情を持て余し続けて歪んだ男だから、その怒りの矛先となった者は苛烈な感情表現に驚くばかり。
彼に渡した聖なる守りをつき返された穏やかなシルマリルは今にも泣き出しそうに青い瞳を揺らしている。
「待ってロクス…待ってください」
「次からは用がある時だけ来るようにしてくれ。
君は自分がどういう行動をとっているのかさえわからないほどのお子様みたいだからな、振り回される側はたまったもんじゃない。…男は誤解しやすい単純な生き物なんだ、覚えとけ。」
そこにあるのは、嫉妬。おそらくこの優美な姿を持つ青年はフェインとその天使、同時に彼の天使でもあるシルマリルの振る舞いを誤解したらしい。フェインも他の、黒い髪持つ鋭い眼差しの寡黙な青年と天使が共に行動している様子と鉢合わせたことがあるけれど誤解には至らなくて、取り立てて話すこともなくその場では別れたことがある。
しかしこの美しい青年は容姿のことをさらりと口に出すほど己に自信があるだけにプライドも高い様子で、けれど中身はおそらく少年よりも子どもで手に負えなくて我が強くて、他の男と彼の天使が共にいたことを許せないらしい。
その有無を言わさぬ厳しい口調で、シルマリルの弁解を口にするより先に押さえつけてばかりいる。
フェインは何も言わない。誤解を解くつもりもない。
おそらく女に不自由してそうにない彼がそれだけ天使に執着しているのと同じ、フェインも己の天使を失えずに微妙な距離感を保ちながら彼女に剣を捧げている。一度は左の薬指に誓いの輪をはめた男は男と女の距離感を体験していて、多少の努力は必要でも結局なるようにしかならぬとわかっているし、下手に弁解して彼の誤解が解けたところで自分に何一つメリットはないことも当然気づいている。
善なる存在にはつらい場面かもしれないけれど、譲れないという話ではどちらも同じだった。
「フェイン、ごめんなさい。すぐに戻ります!」
だが、男たちにそれぞれ思惑があるのと同じに、シルマリルにも意思がある。
彼女は純白の翼を背にしまうと、己の足で駆け出し紫の法衣の後を追った。言葉ではフェインに謝るけれど、つまりは気持ちは彼女の行く先に向いているということなのだろう、…残される男は、たまったものではない。
けれど彼女は純真で、教皇候補が口にしたとおりに自分の行動が何を意味するのかわからずに振舞っている節が多々あるから、フェインはロクスとは違い嫉妬は軽くすれども落胆せず、後を追わず。
彼女の意思表示がない以上、次の機会は必ず巡ってくる。
『すぐに戻る』
フェインは先ほどのシルマリルの言葉を受け取ると、所在無いのだけれど他にやることもなくその場に、湖畔の緑の上に腰を下ろした。
戻ると言った以上、彼女は約束を違えないと信じているからいくらでも待てる。
らしくもなく本気になってしまった矢先に、まさかこんな目に遭わされるとは。
ロクスは自分と教国に対する魔道士の陰口よりも、その男と己だけの天使になったと信じていたシルマリルが共にいたことがどうしても許せなかった。
博愛主義、八方美人の優柔不断、思い返せば自分との約束だって押しの強い男に押し切られたのかもと思えば思いあたりがないわけじゃない。
とにかくシルマリルと言う天使は美しいだけの子どもでずいぶんと手こずらせてくれたし、1年以上行動を共にしていてロクスはようやく数日前に唇までこぎつけたばかり。それでも、天使が、神聖なる存在が人間の男に唇を許した事実に舞い上がってしまって――――だから、他の男と一緒にいたという事実が瞬間的に怒りに火をつけた。
ロクス自身、己で己を持て余すことがあるから、頭に血が上るとどうしようもない。
「ロクス…待って、お願いです、話を聞いて!」
だが彼女は共にいた、先に同行していた勇者殿を放り出してロクスを追ってきた。…こういうあたりが男に誤解を与えてしまうことを、彼女はおそらく気づいてない。
ロクスは当たり前のように気がつくというか、男と女の駆け引きめいたことならばこの男は幾度となく夜に昼に繰り返してきた。
わざと翼も広げられぬほど木の生い茂った街道に入り込んだ男を追うために彼女は翼をしまいその足で駆けてきたらしい、他の女とならばこのような場面さえ楽しみに変えてしまうロクスなんだけど、先に本気になってしまった嫉妬深く中身が幼稚な男は簡単に己を裏切った女を許せるはずがなかった。
「ああ、お強い勇者殿をほっぽって己の立場すら守れない勇者失格を追いかけてきたのか。ご苦労様で。」
久しぶりに叩きつけられた冷たいロクスの言い回しにシルマリルがびくんと肩をすくめて立ち止まるんだけれど、いいかげん彼女だってこの男の人となりに慣れてきている。以前のようにそこで言葉を失い泣きそうな表情は見せずに、頼りなさそうなのは相変わらずでも顔を上げて、彼の紫の目を見て弱々しくも口を開く。
「フェインも…あの人もあなたと同じに大変な境遇の中でもがいているんです。
確かに教国と将来の教皇になるあなたに対して暴言に近い物言いだったとは思いますけど、彼はそれだけの体験をしてきたのですから…許してあげてください、あなたならできる」
「できない相談だ。僕の悪口とか教国への恨み言なんて別にどうでもいいさ、妬まれるのは慣れている。」
「またそんな物言いをする!」
「うるさい! あの晩キスさせたのはあわれみか?
迷える子羊に対する天使様の慈悲なのか!
わかってるだろう、俺が欲しいのはそんなものじゃない、君自身だということを!!」
見かけによらず口が達者な天使様と辛辣な舌の持ち主との舌戦は苛烈で、一度始まると誰も止められぬことがしばしばある。どちらかが飽きてようやく終結、そんなこともあった。
しかしロクスの幼稚かつ露骨な嫉妬の言葉を、シルマリルは意外な手で封じてしまう。
「お前が欲しい」なんて言われた直後、シルマリルは小柄なりに思い切り伸び上がり、爪先立ちでロクスの唇を己の唇でふさいだ。ふらつくから彼の紫の法衣をしっかりと握り締めて、羞恥心からか不自然な体勢をこらえているのかぷるぷるとふるえている存在感と唐突過ぎる行動に、さすがのロクスも唖然と唇を奪われている。
「…あなたはいつも私を子ども扱いするけれど…あわれみであなたの気持ちをあいまいに受け止めるなんて器用なことを、私にできると思っていますか…?」
ゆっくりと離れてロクスがそのふるえる声を聞きながらシルマリルの顔を見ると、彼女が恥らう時と同じに耳まで真っ赤になりながら、言葉は最後の方は消え入りそうな問いかけで終った。
「お願いですロクス…自分を卑下しないでください。
あなたに惹かれた私は…あなたのそんな言葉を聞いていると泣きたくなるんです………!」
泣きそうな表情の女にここまで言わせて、女たらしの不実な男が取る行動は限られるだろうに、ロクスは女との駆け引きも忘れて背伸びする小さな体を抱きしめ支えて、今度は己から唇を重ねた。
らしくもなく目を閉じ唇からしか伝わらない存在感を想像力を駆使してふくらませ、重ねるだけの唇の感触に酔いしれる。相変わらずふるえている慣れない唇はいかにも彼女らしくて、けれどロクスの腕にすべてを預けて、拒む素振りは見せない。
これ以上は男として先を求めてしまいそうだと自制心が働くまでロクスは長い口づけを交わし、ギリギリのタイミングで名残惜しくも離れて――――しかし、腕の中の彼女を解放しない。
抱きしめて髪を撫でて己を落ち着かせる。
思えば危うげなあたりが男心をくすぐる女で、だが彼女も自覚しているとおり、やれることの器用さの割に性格は不器用としか言いようがないから、罪なことに彼女はいわゆる「天然」の類なのだろう。
思わせぶりでそれがまた罪なのだけれど、それでも唇を許した男はたったひとり。
不実な神の下僕、その人だけ。
そう考えれば多少のことは許せていたのに、やはり自分は嫉妬深いらしく、目の当たりにしたら冷静でいられないことをロクスは言葉に出さず痛感している。美しすぎてある程度まで平等に優しい彼女だから、彼女に好意を寄せた男ならそこにつけ込むのはしょうがない、と言ったところだろうか。
こうして彼女のただひとりになったロクスも、彼女のそんな性格を利用した。
罪深き美しい天使は、安心したかのように人間の男の腕の中でおとなしくしている。
「あなたが私のためなんらなんでもできる、って言ってくれた時…とても嬉しかったんです。
過去に人間と恋に落ちた天使の話を聞くたびにどうしてそんなことをするのだろうって思ったけれど、あなたが現れてやっとわかったんです。ロクス…あなたにこうされていると、すごく幸せなんです……」
「…そのぐらいにしてくれ。聞き慣れた口説き文句も、君の声で言われちゃ耳の辺りがくすぐったくてしょうがない。」
天使は感情的に満たされればそれで充分に幸せになれる、人間なら快楽を感じるのと同じらしいのだけれど、言われる側は人間の男だからたまったものではない。手をつけられないのに本能が頭をもたげそう。
ロクスはもう一度だけ軽く唇を合わせると、ようやく小さな体を開放した。翼をしまったシルマリルはその水仙の花咲く佇まいのような慎ましい衣装がとても似合う小柄な少女で、そんな彼女が幸せそうに青い瞳を潤ませながら頬なんて染めている。
彼女の腰を巻くベルト代わりの金の鎖に、装身具と共に下がる十字架はかつてロクスが首からかけていたもので、気がつけばシルマリルはよくそれを指先でもてあそんでいる。今もそうで、丸い指先が十字架を撫でていて、その仕草には疑わしいものなど何もない。
注意して見ていれば彼女は思わせぶりでもなんでもないのに、男たちは勝手に解釈しては都合よく、時に悪く思い込んでばかり。
「あの…」
「ん?」
「これ…また、かけてくれますか?」
そして彼女はその手にしっかりと握り締めていた、ロクスがつき返した十字架をおずおずと差し出した。今度はそれを受け取り、ロクスが彼女の目の前でいつもと同じように首にかける。
怒りは瞬間で解けても謝ることがなかなかできないプライドばかり高い男を、シルマリルはどう思っているのだろう?
彼女は差し出したそれをロクスが受け取りまた身に着けただけなのににこにこと幸せそうな笑顔を見せている。
「好きにしていいのなら返しません。それでもいいんですよね、ロクス?」
「…好きにしろってのはそういう意味しかないだろ。
でもまあ、長いこと身につけていたものを君が肌身離さず持ち歩いている姿にはさすがに感じるものがあるな。
ああ、あの魔道士の所に戻るのか?」
「え? ええ…彼にまつわる話を聞いて駆けつけていた最中だったので……。」
「ま、そういうことなら仕方ないか。しばらくの間、あの男に君を貸しておこう。」
「もう…ロクスったらやきもち焼きなんですね。」
「他の女ならここまでなかった。君は飛びぬけて美しいからな、気が気じゃないんだ。
基本僕はあとくされない男だと思うよ。」
「怒ると怖いですよ、あなたは。」
ここまでのやり取りをしても、ロクスは謝る言葉を口にはしない。それどころか他の女の話なんてしゃあしゃあと口にする。安心と安定と言う意味ではシルマリルが待たせているフェインの方が遥かに条件を満たしているのだけれど、それでも不実な男が心の底から「君のためなら何でもできる」などと口にした言葉でころりと転んでしまったあたり、天使も女であることには変わりない。
事実ロクスはシルマリルが関わると態度が変わるから、彼女は不実な男を根拠もなく信じている。
この男の唇は、どういう理由なのか心地良いことを知ってしまった。
2008/04/25
唐突にべっろべろに甘ったるい話を書きたくなったと申しますか、平井堅氏の「UPSET」を聴きながら徒然に書いていたらこんな風になりました。
他の男勇者と天使が一緒にいる所を見たロクスはこんな感じになるのではないかと妄想全開です。
曲の方はヘタレ男が二股かけられたことを知ってしまった歌ですが、人目や体裁を気にしたり汚い言葉が本音として存在するあたりがロクスのイメージにつながるのだろうなぁとか思いつつ。
これを書いている時点での新アルバムに収録されている曲ですので、興味がある方はどうぞ。
氏は非常に質の高いアルバムをリリースする実力派ですので、相当好みが合わないなどでなければ聴けると思います。
同行勇者を誰にしようかと少しの間考えていたのですが、小説コーナー表紙のアンケートでフェインに票が入っていたことを思い出したので彼にいたしました。
正しい意味でいろいろ知っているから待てるフェインと、辛抱きかないロクスの対比も書いていて楽しかったです。
クライヴではリアクションがなくてどうなったことか、ルディに至っては私の中では中のいい友人関係の構図が成り立っております。