■□ breath □■
×ロクス  告白イベント後

 歌が、聞こえる。

 か細い歌声が聞こえる。何を歌っているのかはわからないけど俺はその声が誰のものかを覚えている。
 シルマリル。天使シルマリル。俺の愛しい幼い天使。
彼女のためなら何でもできると誓ったばかりの、あどけない俺だけの天使。
…俺は、人間の…矮小なる人の身でありながら、天使と約束を交わした。彼女が違えないなら、俺はこの先どれだけあるかわからない人生というものを…彼女と、生きていきたい。
女を馬鹿にしていると思われても仕方のない、子どもに興味がなかった俺が魅入られた、いや初めて本気で愛した女は、まるで子どものようなあどけない少女の姿を持つ天使だった。確かに人のそれよりも、いや比べることさえおこがましいほどに美しい天使なのだけれど、シルマリルは女というにはまだ幼すぎて、俺は天使を小馬鹿にし続けていた。
なのに今のこれ、現実ではないとわかっている、夢の中にまでシルマリルのか細い声が満ちて俺は囚われてしまっている。
 なぜだろう、目が開かない。果てのない水に漂うみたいな浮遊感が俺を包み込んだままで、俺はその中を漂うばかり。こうして考えるだけの意識はあるのに目は開かなくて体に至っては指先一つ動かなくて、正体不明の浮遊感の中にシルマリルのか細い歌声が、まるで悪夢を呼ぶ聖歌のように満たされて少しずつ息苦しくなる。
 幼い頃の記憶が呼び起こされる。あの悪夢、女たちが歌う聖歌に潜む魔力、それに気づき引きずられる恐怖のあまりに拒否した俺――――思い出したくない…拒否したのは歌声ではなく教皇庁の存在で…それに対する恐怖が聖歌を引き金にして俺を侵食して………

 唐突に目が開き、俺の悪夢はそこで途切れた。



「…うなされていましたよ、ロクス…。」
 目は…開いた。シルマリルの顔と彼女が落とす影、その向こうには…木漏れ日。ああ、昼間…だったのか。
「う…っ、ああ、夢か……。」
 頭が痛い。耳のすぐそばに心臓でもあるみたいに自分の鼓動が耳障りでうるさいんだけど、今度はなかなか頭が起きなくて、俺は手始めにと自分の手を視界の中へと動かした。…確かに、俺の手だ。鈍いけれど、まあ思った通りには動く。
静かに呼びかけたのは悪夢を呼んだ歌声の主のはずなのに、あれほどの恐怖が嘘のように消えてしまった。
「ひどく疲れていたみたいだったので起こしませんでしたけれど…起こした方がよかったですか?」
 シルマリルがそんな言葉を口にするほど、俺の顔色はよくなかったらしい。けれど夢見も悪かったのが寝姿にでも出ていたのだろう、彼女は起こすかそのまま寝かせておくか相当に迷ったらしい様子で…俺の額を、撫でた。
「!??」
「きゃ!?」
「――――痛ッ!!」
 なんてこった、俺は彼女の膝枕で寝てたらしい。そんなのありえない、寝てる顔を見られるなんて…弱みを握られるのと変わりない!
冷静に考えれば、もう慌てたところでどうしようもない、時すでに遅しだってことはわかるだろうけど冷静になるどころか頭にはもやがかかったみたいだったところに水でもぶっ掛けられたみたいに目が覚めて、飛び起きた次の瞬間、こめかみに痺れるみたいな激痛が走って俺は思わずそこを押さえた。
「急に飛び起きたりするから…もう少し目が覚めたら、ゆっくり起きてください。」
「いいよ、もう目が覚めた!」
「じゃあ痛みが取れてから、ゆっくり起きてください。」
「いいって言ってるだろ!」
「子どもみたいなことを…」
 それでも、どんな顔をしてたのか…考えるだけでぞっとする、俺は彼女の膝からとにかく離れようと体を起こしたけれど、シルマリルは俺の肩にちっちゃな両手を置いて自分の体重で俺の頭をまた同じように膝に膝に乗せて…くれた。
「最近眠りが浅い、って言ってたでしょう?
 眠らなきゃって考えて目が冴えるよりは、眠れる時に眠る方が体には優しいんですよ。」
「いいよ、俺は寝てる顔を見られるのも嫌いなんだ!
 それよりは頭痛を我慢して起きてる方がマシだ!!」
 けど、俺はシルマリルの前では思ってることだけじゃなく文字通りすべてを暴かれる、素っ裸にされちまう。隠すことが裏目に出る。いくら惚れてようと、さすがにこんな子どもに何もかもを、弱みを見せるなんて真っ平ごめんだ。
俺は肩に乗っているシルマリルの手を、細い手首をつかんで…そのやわらかさについ次の瞬間に手を離した。
…もう、駄目だ。俺って男はどこまでみっともないんだか……女慣れしてたのは表向きだけで、意識しちまったら触れることすら戸惑っちまう。多分、シルマリルはそんな俺の性格に気づいてるんだろう。口の悪い俺の駄々をうまく受け流しかわして、まるで母親みたいに俺をなだめすかす。
こんなの…みっともないったらありゃしない。
「じゃあ顔、隠しててください。
 …ふふ、ロクスの寝顔、可愛かったんですけれど。」
「…ちくしょう……そんな風に言われるのが嫌なんだ………。」
「あら、そうだったんですか。ごめんなさい。
 もう言いませんから、もう少しこうして休んでください。」
 ああ…こんな時、他の女相手にはどう言ってたんだっけか…?
もうそれさえも思い出せないくらいに、こいつのことで頭の中がいっぱいになっちまってる。特に俺は、甘えたい盛りをようやく出るぐらいの時期に親元を離れてる、母親ってヤツの記憶が曖昧どころかもう忘れちまったほどで、それを感じさせる女との距離のとり方がわからない。他の女に関しては文字通りの「男と女」、あえて母性とかなんとかそういう要素から遠ざかっていた。無意識に避けていた。
そして俺に舞い降りた運命、幼い天使様。シルマリルは幼いくせに母性が強くて、姉とか母親の気性みたいで…離れられなかった。
俺にとっては母親というよりも姉に近いかもしれない。…姉なんていないから、想像に過ぎないけど。
母親ほど、すべてに寛容じゃない。そこに彼女の損得勘定も絡む。
無償の愛なんてうそ臭いもんじゃなかったから…俺はこいつに引きずられた。
我ながらいったいどんな面してるんだか…こんなことを考えてる顔なんて見られたくなくて、俺は顔を隠すために右腕を目の上に持ってきた。
「いつもあなたが戦うばかりで、私が出来ることといったら祈るだけで…だから、このぐらいのことさせてください。
 体が傷つくのはいつもあなたなんだから、私が頼んだことで気持ちが疲れたり傷ついたりしないでほしいんです。」
「…気持ちが疲れるのは僕の都合だ。君にどうしてほしいなんて、そこまで望んでないよ。」
「…望んでほしいんです、って言ったら…あなたはきっと困るんでしょうね。
 あなたにお前なんか必要ない、って言われた時、今だから言えますけど泣くのを我慢できなかったんですよ。」
「………え!?」
 あっけらかんとした明るい物言いと、ふさわしくないその台詞の中身に、俺は思わず目の上に乗せていた腕をずらしてシルマリルがどんな顔でその台詞を言ったのかを見上げた。
彼女はまるで他愛ない思い出なんかを話してるみたいに笑っていた。
俺ならば絶対に口になんてしない、墓にまで抱えていく勢いの胸の内のみっともない話を…それをシルマリルは笑って話す。
「人払いをして一晩中わんわん泣きました。」
「あ………ごめん…」
 覚えてる。忘れるわけない。俺は彼女にとんでもないことをした、ひどいことを言っておきながら…その舌の根も乾かないうちに手のひら返して彼女に告白した。
自分のしでかした悪さがしっぺ返しみたいに返ってきて自分で自分の首を絞めた、自分が何を思ってるのかを嫌でも見つめる羽目になっちまった。
それでこらえなくなっての告白で、あんなことをした俺なのに、シルマリルは心底嬉しそうに笑って俺の告白にうなずいてくれたから、女心ってヤツがまったくわからなかった。
抱えておくのがもう苦しくて苦しくて、それから逃げたいあまり断られるのを承知で、あきらめ半分で何もかもをぶちまけた。
…彼女のためなら、俺の体がどうなってもかまわない、いつからかそんなことを思い始めてて、けれど他人のためになんて生きてこなかった俺がそんな気持ちを抱えちまったことが苦しくて苦しくて仕方がなくて…俺はどこまでも身勝手だ。
自分を犠牲にするシルマリルに依存して甘ったれて拠所にしてたのに、彼女の心配すべてを踏みにじる勢いでないがしろにしていた。
「泣いてちょっとすっきりしたら、あなたは感情的になると本音を口にするか、それじゃなければ真逆のことを言うかのどちらかだったことを思い出しました。
 私がいらなければ、あなたは作り笑顔のままで私を体よくあしらって早々に追い返すんじゃないか、その方が楽だから…って思ったら、もしかしたら、って思ってしまって…。
 もうそれ以上考えられなくなりました。」
「ちょっと待て、じゃあ僕はあの晩の次の日には」
「…たぶん、でしたけど。」
「……バレバレだったか、みっともない……。」
 シルマリルは見かけは子どもでも中身は俺よりも大人だって思う。自分の感情の受け止め方だってそうだし、俺の行動からいろんなことを見抜くし、…数え上げれば限がない。なのに俺は体裁だなんだみっともないとかカッコ悪いとか、そんな理由ばかりで必死になってバカなことばかりやっている。
どっちが大人かなんて考えるまでもない。
「私、みっともないあなたは嫌いではありません。…好き、って言ったらあなたは嫌がるでしょうけど…あなたが初対面の時の最初の最初の印象のままの敬虔な聖職者なら、私は…役目を終えたら、迷わず天に戻ります。
 多分あなたもそれを望み、私と過ごした時間を武勇伝にして初代教皇の再来として教皇庁を」
「やめてくれよ。君が天に戻って僕は地上に残されたら……」
 …きっと気が狂っちまう。いや、もしかしたら最後の敵とやらを目の前にして、戦うふりして敵の手にかかり、天使の勇者のままの立場を冥土への土産に自死を選ぶかもしれない。
女遊びしていた頃はこんなこと考えもよらなかったのに、人間なら俺の立場は申し分ないのに、…相手は天使だ。例え一国の元首だろうと天使が相手なら、それは身の程知らずの恋。
お互いに立場を選べば引き裂かれるだけの恋。
「ロクス、訊いてもいいですか?」
「………なにを?」
 あの夢はそんな俺の不安が現れたんだろう、俺は陰鬱な気持ちを思い出して顔を隠すためにまた腕を目の上に乗せた。けれどシルマリルは静かなんだけど機嫌よさそうな声の調子のまま、なにか訊きたいらしくそう切り出した。

「いつ頃から私を意識するようになりましたか?」

「……っな…!」
「私は、先代の聖女ディアナとあなたが会った時、あなたが初代教皇に似ている、って言われた瞬間でした。
 その時のことは今でも覚えているし思い出せます、あなたはあなたであり、以前アルカヤを守った勇者に似てるかもしれないけれど、まったく別人だと」
「待て、ちょっと待て、それ以上言うな!
 君のことだ、自分も言ったんだから僕にも言えなんて卑怯な要求を」
「あら、見抜かれましたか。でも聞いてしまいましたね?」
「君が勝手に聞かせたんだろうが。僕は言わないからな。」
「あ、そんな、ずるい。」
「ずるいのはどっちだ!?
 君は意外と性格が悪いって思ってたけど本当に悪いんだな。」
「そんな、私はただ知りたいだけです。」
「知りたいだけのくせに立派に取引の形に持って行ってるじゃないか。
 勘弁してくれ、僕に言わせるなよそんなこと…。」
 とうとう俺は飛び起きて、シルマリルの顔を正面から見たけどすぐに目をそらす羽目になる。こんな時、俺はどうやら女の顔をまともに見られないような男だったらしい。
でもシルマリルはあのくるっとした可愛い目で俺を見つめて目をそらさない。
…やっぱり彼女の方が大人だ。
「ロクス。」
「…無理だって。」
「私があなたに声をかけた日から、1年半を過ぎたぐらいです。
 なのにもう忘れたんですか?」
「忘れました。僕は覚えておくのは苦手なんだ。」
「忘れてしまいたい、そんなことでしたか?」
 ……ああ。もう無理だ。忘れるはずはないけど言いたくもない、でも彼女は結構容赦ない性格で、言いたくない理由もそれに絡む俺の気持ちも多分気づいてるだろうに、自分の好奇心を優先した。
俺も似たようなもんだから彼女を責められない、でも…言わなきゃならないのか?
女はただ好きって気持ちだけじゃ納得しないってのは他の女で知ってたけれど、シルマリルを意識する前はそれさえ楽しみのひとつなんて嘯いてきた。
当然、こんな俺だから笑ってごまかして――――正直に白状するはずなんてない。
頼む、このまま…このまま膠着状態の後にあきらめてくれ、シルマリル。
俺は君に逆らえないんだ。
「忘れたんだったら思い出してください。私にとっては大事なことなんです。」
「大事?」
 俺が目をそらしたまま口をつぐんでいたら、シルマリルの声の調子が変わった。
我が強くてささやかにわがままでそれがどうにも可愛い彼女ではなく、天使シルマリル、真面目で何事も全力で向き合う、そんな彼女の声。
「…僕のきっかけが、君にとって大事なはず」
「あります。」
「シルマリル…。」
「本当に覚えてないのならそれでもかまいません。」
「じゃあ」
「…あなたにとって私がその程度の存在だったってことでしょうから、それだったら……」
「…ちょっと待ってくれ、そんな」
 そして気づいた、いや気づかされた女心。シルマリルは何もない顔をしてるけど、当然彼女は俺と彼女の責務を天秤にかけなきゃならない。今はまだいい、彼女の責務を俺が肩代わりできる間は何も考えてなくても一緒にいられるしそれを正当化する口実だってある。
でも、それには終わりが来る。それは遠い話じゃない。
…シルマリルはそれに気づいてる。俺も気づいてたからあの不安な夢、けれど彼女は人間と違って夢に遊ばない。夢の中へ逃げない。
そういう意味では俺も夢には逃げないけれど…そうだ、シルマリルはいつも「選ぶ側」。重すぎる責任をその小さな肩に乗せている。そのことに疑問を抱かずに、重責を抱えているのに自分のことそっちのけで俺のことなんていつも心配してばかりで…そう、そのことに気づいたのが俺のきっかけ。
俺とは正反対に面倒なことから逃げない。自分のことより他人のこと。最初はそれを偽善とか天使様の博愛主義とかそんな風に見ていたけれど、
「…ロクス。」
「…………………」
「やっぱり言えませんか?」
「………副教皇から」
 …駄目だ。耐えられない。はじめからわかっていたけど、逆らってもどうにもならない。
俺はこの女の手のひらの上で踊らされてばかり。
「クソジジイからぼろっかすに言われて……」
「え?……あ、クラレンスが宝玉を盗んだとき」
「こんな話してる最中に他の男の名前なんて出すな。しかもあいつの名前なんて。」
「ご、ごめんなさい。……それで?」
「う……勘弁してくれよ、僕が自覚したきっかけは充分にわかっただろ。」
「きっかけ? じゃあ始まりは?」
「ああもうどうしてそんなに白黒つけたがるんだ君は…白状すれば、いつごろからだったかってのはわからない…ってことになる。」
 俺の煮え切らない言葉に、シルマリルは明らかに落胆した。
そんな顔を見たくなかったけれど本当の話だから仕方がない。あ、でもこれを俺の不実のせいとかなんとかそんな風に考えられても困る!
自分で自分の首絞めるのはもうそろそろ卒業しないと。
「勘違いするな、…気がついたらもうその時には、ってことだ。」
「はい?」
「気がついたら他のご婦人方がどうでもよくなってて、君のことばかり気にしてた。
 いつからそうなってたかはわからないけど、まあジジイの雷より前だってのは間違いない。
 君に言われて何もないレイフォリアの森まで行った時は多分もうそんなだったと思う。君が僕の中で他のご婦人方と同格かそれよりも下ならば、僕はまずあんな所まで用もないのに出向かない。」
 そうだ。多分彼女よりも前、俺の方が先に意識してたと思う。根拠もないのに何かあるんだろうなんて、その時はすでにシルマリルを信頼しきっていた。実際にあの森に年老いた聖女がいて俺が何か言うよりも先にいろんなことを見抜かれて、シルマリルが俺の運命だったことだけは確信した。
その時はまさかこんな風に引きずられるとは思ってなかったけれど、大人にならない、人のそれとは存在してる次元が違う、歳を重ねない幼いシルマリルなのに――――
「…綺麗になったな、シルマリル。」
「え? え?? えぇえっ???」
「子ども扱いしてすまない。」
 子ども扱いし続けた男なのにあべこべにあどけない彼女に惚れてしまって、混乱するあまりに泣かせてしまうこともあった。みっともないことを棚上げしてもカッコ悪くて余計にみっともなくて、俺は勝手にこらえきれなくなって、考えるよりも先に謝った。
そう、彼女は女性として美しくなった。多分唐突に言ったみたいに聞こえただろう、シルマリルは青い目を白黒させて戸惑って…そして俺から目をそらしてほのかに染まった頬を小さな手で包み込んだ。その仕草はやっぱり子どもっぽいけれど、やっぱり綺麗だって思う。
「…白状したから、約束は守れよ?
 君はこの僕からあんな台詞を引き出した女だ、頼むから裏切ったりしないでくれよ。」
「………あなたも結構ずるいと思いますよ…。」
「僕が汚らわしくて俗物でずるいなんてわかりきってたことだろ、今さら取り繕うつもりなんてない。」
 でも彼女は…こんな俺を裏切らなかった。それで充分なんだって今では臆面もなく思える。
シルマリルは俺が突然綺麗だって言ったことで戸惑うばかりで、その仕草が可愛いあまりに…こういう瞬間、考えるよりも先に触れたいなんて思うものだって思い知らされた。けれど触れることすら戸惑ってしまう初心な恋。
まさか俺がそんな少年みたいな恋をするなんて思ってもみなかった。まともに女に惚れるよりも先に女の味を覚えて、僧侶のくせに女と共寝して朝帰りなんてことも一度や二度の話じゃない。
それがまさか男を知らない少女、いやそれ以前に触れることすらはばかられる女を好きになるなんて…
「…因果は巡る、ってことなんだな。僕の罪はそれほどに大きかったということか。」
「は、い??」
「ひとりごと。
 さて、と…天使様の膝枕なんて畏れ多いお慈悲もいただいたことだし、それに見合う働きぶりを見せるとしますか。」
「あ、ロクス、無理をしては」
 照れ隠しの言葉でごまかして今の顔を見られないために立ち上がった俺の腕に、シルマリルがかわいらしく取りすがる。俺の法衣の腕にそっと添えられた小さくて品のある手と、その言葉に思わず彼女を見た俺と目が合ってくるんと見開かれた青い瞳がたまらないんだけど…それ以上が、できない。
笑ってごまかすことしかできなくなった。
俺はいつの間にか意気地なしになってしまった。
シルマリルが戸惑うのはいつものことで珍しくもないんだけれど、俺までこんなだから最近は不自然な沈黙が増えてしまった。それでも俺は…彼女といたいと望んでしまう。
俺にできることならば、彼女の望みすべてをこの手でかなえたいなどと無理なことまで考えるようになった。
――――これは愛なんだろうか? 俺にはこの気持ちが束縛にしか思えない。
俺はこんなに一途な男だったのか…今でも不安だ。
「……ロクス」
「行こうか、シルマリル。」
 そして俺はごまかし笑いじゃなく、ただ唇を笑顔の形に変えた表情しか見せられない。それも笑顔なんだろうけど嘘の笑みには違いなくて、しかしそんな顔しかできないんだから仕方がない。
シルマリルは今も心配そうに俺を見上げたままでいる。

 自分で自分の感情をもてあますなんて今までずっとそうだったけど、自分がわからなくなる恐怖はそれを簡単に上回る。

俺が俺でなくなっても、シルマリルは受け入れてくれるのだろうか?
いつかこの手で彼女を壊しそうな危うい激情はすでに恋ではないように思えて仕方がなくて、けれど俺の中にはシルマリルと距離をとるという選択肢はない。
僧侶なら僧侶らしく信仰心だけでいられればどんなに楽だったことだろう?
俺は天使に恋をしてしまった。

 息をすることすら苦しい恋なんて知りたくもなかった。

2008/07/30

恋も知らずに享楽的に生きてきた男にとって、初めてのそれは経験がない分息苦しいものだと思います。