■□ 真珠星 □■
×ロクス  友好高状態

「あの赤い星が僕の星だ。
 さそり座で一番大きな星だよ。」
 しなやかな男の指が星降る天を指差す。その指が指し示す先には赤く大きな星が、陽炎の向こうにあるかのごとくゆらゆらと瞬いていた。
「星座や神話などは子どもだましにすぎないって思ってはいるが、僕は自分の星座なんかにまつわる話は気に入ってるんだ。
 子どもや女性が好きそうな甘ったるい話が多いが、僕が背負うさそり座は巨人すらもその毒針で殺すほどだったと神話が残されている。
 まったく根拠はないが、僕の性格のきつさはそこから来ているのかも知れないな。」
 そう言ってロクスは天を指していた指を下ろし、隣でおとなしく話を聞いていたシルマリルに微笑んだ。その微笑みは彼が気まぐれに見せる子どものようなそれで、話を聞いているシルマリルは半分ほど狐につままれたような感覚がどうしてもぬぐえずにいた。
 月は出ていないが今は深夜といえる時間帯で、当然ロクスも無防備な寝間着姿。
ロクスといえば深夜にうっかり訪ねたらそれはもう大変で、不機嫌さを隠そうともせずに信仰の対象であるはずの天使に暴言を吐いては追い払う。天界では時間の概念がほとんどなくて、シルマリルも数回ばかりうっかりをやらかしてようやく学習して問題の時間を避けるようになった。
けれど久々にやらかしたうっかり、寝間着姿のロクスの姿を見るなりシルマリルの顔色がさあー…と青ざめたけど、彼は意外な台詞とともに時間も考えない不躾な天使様の来訪を受け入れた。

『ちょうどよかった、寝つきが悪かったんだ。
 どうせこんな時間に来るってことは暇なんだろ、人の寝入り端を襲撃した代償として眠くなるまでの与太話につきあえ。』

 …そして今に至る。
ロクスは一見礼節をわきまえた優美な青年に見えるがその実裏がある男で、シルマリルは人間の女性でなく天使という人ならざる信仰の対象としてこの男の下へと舞い降りた不運、どうせ裏まで見通されてると開き直ったロクスの裏の裏まで見せられて、見せ掛けだけだろうと淑女に対する態度を取られたことなど久しくなかった。
しかし彼はその手の持つ資質を見出され教会に引き取られて以降、いずれ教皇の座に上がる唯一の存在として教皇庁の持てるだろう最高の教育を施されていて、天使の学び舎であるアカデミアを首席で卒業しその小さな体にすぎた責務を負わされたシルマリルに負けず劣らず、彼の放蕩ぶりからは意外なほどに博識でもあった。興味のあるなしで多少のむらはあれども、基本的に頭の回転は速い方で物覚えだって悪くはない。
一度訪れた集落ならばどこに何があるかぐらいはきちんと覚えているから、二度三度訪問した時の無駄がまったくなかったことを今さらのようにシルマリルは思い出していた。
「しかし今夜は星がすごいな。新月だから星明りがずいぶん明るい。」
 寝苦しい夜の与太話に彼が選んだのは夜空に描き出された数々の神話の絵巻で、いろいろと身構えているシルマリルがおとなしく話を聞いていることで気をよくしたのだろうか、今夜のロクスは寝つけないと言った割に上機嫌に見えた。
「星座とか神話は好きみたいですね。」
「ん? ああ…好きと言うのとはちょっと違うかもな。単純に僕の守護星座が語られている逸話が好きなだけだと思う。
 知識だけは嫌がろうと詰めこまれたからその名残にすぎないよ。」
 ほめられて嫌な気ではないのは誰でも同じ、ロクスは自らをそう揶揄しつつも紫水晶の目をのぞかれまいと視線を伏せ、しかし唇の端に隠しきれない照れをわずかにのぞかせながらそう言った。
シルマリルが静かに1問いかけるとロクスは微笑みなんて添えつつその返答を2にも3にもして返していて、どこから見ても寝苦しくて寝つけない男のそれではない。確かに気温も湿度も高くて寝苦しいといわれれば説得力はあるんだけれど、彼の様子がそうは見せない。
「君はこういう話は興味ないのか?」
「いいえ、アカデミア…私たちの学び舎で教わりますので知っています。
 それに、私も「女子ども」ですよ? 夢も毒もある物語は嫌いではありません。」
「…そういう意味で言ったんじゃないんだけどな。気に障ったら謝るよ。」
「言ってみただけですから気にしないでください。」
 上機嫌のあまりつい口を滑らせたロクスに、シルマリルがちくりとやり返しながらふわりとした微笑を見せた。
シルマリルも上機嫌を隠そうとせずに微笑むのは単純な話で、隣で神話と星座の話なんて子どものような目で語るすれた大人の人間風情にほのかな想いを抱いているから。彼は複雑な男で、いずれ教皇という座に上るにふさわしい優美かつ繊細な容姿を持っているにもかかわらず中身はすれっからしで相当の破戒僧で、そうかと思えば今みたいにどこか少年っぽい空気を漂わせながらあどけない話をしてみたり、シルマリルを粗雑に扱ってみたり天使としてではなくひとりの女性として心配してくれたり――――彼の多面性にとらわれたが最後、シルマリルは本来ならば抱いてはならぬ淡い恋心と役目の狭間で泣きそうになることもある。
「でも、今夜はかなり寝苦しいみたいですね。
 寝入り端の訪問を拒絶するあなたがこんな話をしてくれるなんて…」
「ん? ああ…君は話し相手にはうってつけだからな。
 静かにうんうんっていい調子でうなずきながら聞いてるから、話す方は気分よく話せる。ただでさえ寝苦しくて寝返りばかりだったからな、君には災難だろうけど非常識な時間に訪ねてきた罰だと思ってあきらめてくれ。」
 それは照れ隠しなのだろうか? ロクスは少し戸惑ったような笑みを一瞬だけ見せた。そして続くのはいつもの軽口なんだけど、そんなものだろうとほのかに想う男から自分だけに与えられた何かに舞い上がるのは、人間の少女も幼い天使様も大差はないらしい。
シルマリルはどう返事をすればいいのかわからなくて、ただふるふるとゆっくり首を横に振ると、夜の闇の中でもはっきりと彼女の表情がわかるくらいの光を放ちながら改めて微笑んだ。
天使とは不思議な存在で、神々しくも重苦しい金と憂鬱になりそうなまでに鮮やかですらある青を主体に、宗教画に描かれているのは晴天と白雲の元で神々しいみ姿を現しているものばかりなのだけれど、その美しさは闇の中でこそ輝きを増す。
天使はそれぞれに色を持つらしいことをロクスはシルマリルの降臨で知った、彼女はその気性を表すみたいな淡くやわらかな光を闇の中で放つ存在で、確かに鮮烈な強さはないけれど、頼りないことこの上ないんだけれど――――
「…その分僕が強けりゃそれでいいか。」
「え?」
「いや、こっちの話。」
 見かけの割に中身は猛々しくすらあるロクスは、このか弱くも美しすぎる少女の姿を持つ天使様を気に入って、…いや、それ以上の感情を抱いている。
教皇庁のお歴々とは違い、シルマリルは幼い己を自覚しているからか、相手のあるがままを受け入れる包容力がある。いつしかロクスは彼女の前で装うことをやめたんだけど、そうすると当然みっともない部分なんかも見せることもあって、彼女がそばにいる緊張感が、なぜか心地よいのだけれど…しかしそんな内心を表に出さぬようにと日々彼なりに堪えている。
いつか天に帰る存在に想いを寄せる愚かしさをこの男は気づいている。
けれど…シルマリルが戦う術を持たぬ存在である限り、己という彼女の剣は必要とされることも知っている。
「…願わくば、ガイアのさそりであるように、か……。」
 ロクスの呟きが星降る闇に吸い込まれそう、だけど吸い込まれることなくそこに残ってとどまった。
己が背負う星座は、女神に必要とされその毒針を遥かに大きな巨人に突き立てた。僧侶たるロクスは殺生をきつく戒められているけれど、今さら取り繕うことが馬鹿馬鹿しいほどの放蕩を繰り返した破戒僧で、取り繕えない虚を守るために今さら戒律など守れようはずもない。
天使シルマリルの剣でありたいと望んだ瞬間から、命を奪い刈り取る罪にまみれる覚悟は決めた。いやもっと単純、好きな女性の望みをかなえる力を与えられたのだから、くだらない躊躇なんてしない。それだけ。
「…でも…あなたの憧れに水をさすようで悪い気もしますが、さそり座のさそりはその強力な一撃ゆえに常に弓で狙われている、という話もあります。」
「…野暮なあたりも君ならでは、か。少しはひたらせてくれよ。」
「ご、ごめんなさい。」
 けれど、シルマリルはそんな気性のきついロクスをいつも心配してばかりいる。
ロクスは無用な争いを呼びかねない強すぎる我と内包した猛々しいほどの攻撃性を、正反対の属性を持つ優美な物腰と柔和な笑顔で包み隠している。それが表に出た時たいてい大事になるから彼女は気が気ではなくて目が放せなくて、ふたりの関係はまるで心配性の姉と素直になれない弟のような奇妙な距離感を保っていた。
それでも、ロクスは見かけだけだろうと己の方が年嵩だと言うおかしな自負もあって、よけいにシルマリルにきつく当たってしまうという側面はあるだろう。しかし今夜はそれすら忘れるほどどちらも上機嫌で、ロクスはシルマリルがつい口を滑らせたことをさらりと受け流した。
 自分と重ね合わせているうちに気に入った逸話は神話の中の話だから、血腥い割にどこか美化していた。ロクスのあどけない憧れに水をさした、いやかけたシルマリルの野暮な一言にロクスが興醒めした台詞を口にするんだけれど、
「そういえば君は9月の11日生まれだったな。」
「はい。処女宮です。」
「ああ、くだらないこじつけかもしれないが、いかにも君らしいと思ったんだ。
 意外に有能だけど謙虚で頭もやわらかい、けど気難しい。」
 かつての憧れに水をさされて憮然とした顔を見せたロクスだけど、すぐに彼の詰めこまれたらしい知識の中から優秀な天使様を相手にしても一歩も引かずにやり返した。
やられてしまったシルマリルは素直な気性らしく憮然ともしないで、ただ唇をわずかに尖らせる様子だけ見せて口の中でもごもごとつぶやいた。
「…有能はともかく、ほかの事は言われると思いました。」
「君は間違いなく有能だよ、それは胸張って威張ってていいと思うけどな。
 それに、名だたる女神たちが神話に語られる際にかかわりを持つ星座だ、それにふさわしいほど君は気高く美しい。
 君は天使じゃなく女神なのかもな。」
 昼間の喧騒の中ならば聞きそびれてしまうか細いひとりごとも、今は虫だけが静かに鳴いている寝苦しい夜で――――ただでさえ絶世の美女になるだろう幼い天使様のふてくされた横顔が愛らしくて、ロクスはお世辞なのか何なのかといった具合の微妙な台詞を口にした。
「そ、そんな! 私はあくまでもみ使いにすぎません、同列に語られるなんて」
「…手放しでほめてやったのに。
 ま、僕のたわ言と変わりないくらいの与太話だとでも思ってればいい。
 君はおとめ座の由来になったアストライアと似た位置取りにいるな。」
「ででですからそんな畏れ多いぃ」
「…与太話だから聞き流せって言ってるのにこいつは……。」
 ロクスからすれば、天使と言うだけで人間がどうあがこうと越えられぬ高みにいる存在だから、感覚的には女神だろうと女天使だろうと大差はない。少々女天使の方が位が下か、と言う漠然とした階級はあるけれど人間が手を伸ばして追いつき追い越せる存在ではないことだけはわかっているつもり。
だけど時に忘れそうになる…美しい少女の姿と人格に、ただの人間の男の顔で向きあう時がある。
本来ならばそれすら人間ごときが許される行為ではないはずなのに、シルマリルと言う幼い天使は意識的か無意識かさらりと流してしまうから男は勘違いばかりを繰り返す。
さそりがオリオンをその毒で殺したように、いっそ一思いに、などと思ってしまうことがある。
優しい天使がそれをできるはずなどないことも知っているのに、無理ばかりを望み追い詰められつつある自分をロクスは自覚している。
神々が人間を見限り天に帰る中で、アストライアだけが最後まで地上に残った神話――――それをいい歳の大人が無邪気に信じている。
隣でおとなしく話を聞いている慈悲深く心優しい天使に神話を重ねて「天に戻って欲しくない」と願う愚かな男。
自分自身を口に出さずに揶揄しているけど、かなわぬ妄想に過ぎないそれを誰よりも強く願っているのは誰でもない彼自身。全能なる神が地上に落とした真珠星を返したくなくて、しかし星をその掌中に収めることなどできるはずもない。
 己の内なる澱を今口に出せばシルマリルは是とも非とも言えずに困ることぐらい目に見えているから、ロクスは口に出さずに唇を笑みの形にして見せた。
そうすることで自分さえもだまそうとする、そうするよりほかに道がない。
助力を求めたのは確かに彼女の方だけれど、今ではロクスがシルマリルと言う天使の存在に依存している。ひねくれてまともな恋心すら覚えがない男だから、今の己が恋の最中にいるのかただ依存して現実から目をそらしているのかすらもわからずにいる。

 アストライアと同じに天に戻らず、そばにいて欲しいなどとは口が裂けても言えない、望めない。

「…もう、寝るよ。」
「え?」
「なんだか疲れた……」
 いつも抱えきれないなにかを抱えて鬱屈と過ごしている青年が、心の底から疲れきったみたいにため息と共に吐き出した言葉に、シルマリルが驚きを隠しきれずに隣をわずかに見上げる。彼はシルマリルをその場に残し自分だけ立ち上がると、いたたまれないような様子を見せて背を向けたけど
「ロクス」
 シルマリルの呼びかけで簡単に足を止めるあたり、わかりやすいと言えばわかりやすい。
「神話の女神アストライアも、最後は人間を見捨て天に帰ったと語られています。
 でも私は女神ではなく、神の代行者にすぎません。全能なる父がラファエル様を通し私にこの世界を守るようにと望まれたのですから、私は自分の意思だけで天に帰るようなことは許されていません。
 それに」
「…それに?」
「父の意向を無視しないのと同じに、あなた方が私にくれた気持ちも当然だなんて思っていません。
 ロクス、あなたは私の唐突な申し出を笑って受け入れてくれましたよね?
 あなたには最後まで拒否する権利があったのに、あなたはあの時うなずいてくれた…それまでの私がどんなに心細かったか、あなたをはじめとする勇者たちの言葉がどれほど心強かったか、私はそれを忘れたことなどありません。」
 …毒持つさそり座の男が、言葉の毒にやられてしまった。
清冽ですらある乙女の優しい言葉は、さそりの毒針よりも強くて逃れられない。
「…なんて言ったら、あなた方に重荷になってしまいますね。
 でも、私をあまり特別に思わないでもらえるとうれしいのですが…明日もがんばりましょう、ロクス。」
「……おやすみ。」
「おやすみなさい。」
 言葉の毒はゆっくりと、確実にロクスの精神を蝕んでゆく。その毒はさそり自身がその身に隠している毒なのかもしれない。
口ばかり達者な男なのに挨拶しか返せずに、ロクスはシルマリルの顔すら見ることもできずに唇を噛んでその場をあとにする。
 彼女は「勝手に帰ることはない」と言った、しかし残酷なのは「いつか帰る」現実。
地に落とされた物言う真珠星は、置き去りにされる思いの痛みを気づかないまま微笑んでばかりいる。


2008/08/23

…あれ? フツー星座の話ってロマンチックかつ乙女チックで甘口になるだろうに。
どこでどう間違ったのか見当もつかないあたりが自分ちょっと終わってるかもと思った晩夏の夜。
アンタレスの赤が映える時期でもあります。