■□ 双方向 □■
×ロクス、ヴァイパー    イベント「毒蛇の誘い」直後

 鏡の中の己の姿をまじまじと見つめてみる。
見慣れた顔、見慣れた銀の髪、鏡の中にいるのは当然いつもの自分だけれど――――鏡の中にいるのは銀の髪紫の瞳の見目麗しい青年、それが二十数年の間つきあってきた、見慣れた自分自身の姿。
自分自身顔に自信は充分にあった。けれど…男性にしては細い手が、鏡の中にいる己の左目、彼自身なら右目に触れた。
直に触れたのではなくて、鏡に手を伸ばし目元に触れて…初めて見るものが、自分の顔に刻みつけられた。
「…こりゃずいぶん目立つな。シルマリルが泣き叫ぶ訳だ。」
 くっきりと縦に走る目立つ傷。顔が自慢の女たらしの花の顔に傷が刻まれた。
つけられたその時はよく覚えている、普段は長い前髪で目元は隠れるが指先でかき上げたり、いや風に軽い前髪が流されただけでそれは見る者をぎょっとさせることだろう。
鏡の中の顔は、傷を刻まれても遜色ない類の容姿ではない。美しく柔和に整っているからこそ価値がある、そんな顔立ち。
彼自身それを売り物にしてきた節は多分にある。
 彼がこの傷を見るのは正真正銘今が初めてで、それもそのはず、刻まれたのは昼の話だった。彼は「癒しの手」なる他者を癒すことのできる異質を持って生まれた男だけれど、皮肉なことに自分を癒すことはできない。当然他者の治癒に頼るか自己治癒能力頼みになるけど、いくら彼が特殊な人間と言っても、半日も経ってない夜に生傷を傷跡にできるはずがなかった。
 指先で傷に触れて思い出すのは、泣き止まぬ麗しい少女の姿の天使様。
人のそれを基準にするなどおこがましいほどに美しすぎる少女の姿の天使様が、彼の顔に刻まれた傷を見て、美しいご尊顔をくしゃくしゃにしてまるで幼子のように泣いてばかりいた。彼が慰めの言葉をどれほど口にしようと彼女は「いやいや」をするように首を横に振り、ただひたすらに泣いていた。
あの罪悪感は、当分消すことができないだろう。
 彼の顔に傷を刻まれた時、その場にいたのは彼と傷をつけた相手ともうひとり、見目麗しい天使様。天使という人が触れることあたわぬ存在がその場にいたのだけれど、実に俗っぽいことに傷を刻まれた彼とその相手、ふたりの青年はとある宝物を奪い合い、互いに己の命を賭けての体を張った大博打を打った。…天使を見届け人に立ててまですることではない。
天使様は彼らふたりがぶつかればどちらかが命を落とすことになりかねない、無事ではすむはずがないと彼女の勇者と称した下僕の男に付き従ったけれど、彼女だけが知らない事実、暗黙の了解が男ふたりの間にあった。
実感がないほど大それたことに、世界を揺るがす可能性を秘めた宝物を奪った賭博師と、それを己が手に、そしてあるべき場所へと戻すために暴力さえも辞さない僧侶。
ふたりはひとつの宝物を奪い合うと同時に、ひとりの女も奪い合っていた。
人間の男ふたりが、恐れ知らず、命知らずにも少女の姿の天使様を水面下で奪い合っていた。
「…シルマリルを守った勲章か、それとも天使を欲しがった人間への天罰か…やれやれ、こいつは残るな。
 シルマリルが俺の顔を見るたび思い出して泣かなきゃいいが。」
 やわらかく波打つ銀の髪を細い手でかき上げながら、彼は改めて自分に刻まれた傷を眺めるが、そう大げさではないにしろ目と言う印象的な部位をまたぐ大きさで刻まれたそれはさすがに目立つ。場所が場所だったが大事には至らず、しかしくっきりと刻まれた傷は見る者に深読みさせることだろう。
傷痕ですんで幸いか、それとも花の顔に傷が入るなど運が悪い、と言うべきか。
以前の彼ならそんなことを思うのだろうけど、今の彼はたったひとりの嘆きばかりを憂いてため息ばかりを繰り返す。
彼の美しい天使を泣かせてしまったことがどうにもこうにも引っかかってぬぐえない。
 真新しい傷が生傷でなくなったのは簡単な話で、動揺大きな幼い天使が小さな奇跡をその祈りで発露させたから。彼の異質は彼自身には発揮されないが、天使様はそれが心配だったから彼の個人的な勝負に同行し、結果彼女の懸念は現実となりその祈りが役に立った。
当然眺めていて気分のいいものではなくて、彼はすぐに前髪から指を離しまた鏡の中の自分を見つめる。
 自分の顔を見ているが、思い出すのは別の顔。涙で頬を真っ赤にした彼の天使の泣き顔ばかり。

『ロクス、ロクスどうしましょう…傷が治りません……私何の役にも立ってない……!』

 避けられぬ対立と奪い合いの構図と耐え切れぬ喪失、そして彼の負った手傷。美しく心優しい天使様の胸の内の荒れようは想像すらできない。祈ろうにもすべてが乱れて集中できなくて、彼女はいつものとおり、思うとおりにできない「ふがいない自分」を泣きながら責めるばかり。その頼りない外見を裏切るように有能な彼女が混乱した様子で、それでも手傷を負った己の勇者をいつもそうするように癒そうとするが、乱れきった胸の内でなにができるはずもない。
ことあるごとにべそをかかせた意地悪な自分だけど、本音を言えばもう泣かせたくはないとようやく自分で認め受け入れた。なのにそう決めた頃から、皮肉にも彼女の涙を誘うような出来事ばかりが自分たちを襲い続ける。
その際たるものが今日の昼間の激闘で、
「…ヤツを葬ってやらなかったのはさすがに大人気なかったか。
 僧侶の俺が、とんだ失態だ。」
 誰に聞かせるでもなくつぶやいた、その内容にそぐわぬ軽口が語ったとおり彼は生き残り、終始奪い合う関係だった彼の相手の賭博師は――――25年の短い生涯を、彼らの目の前で閉じた。
「人殺しの坊主、か…さすがに天使の勇者じゃいられないかもなぁ。」
 それは軽口ではない。自嘲。
実際のところは彼が手を下したわけではないのだけれど、そのような些事、屁理屈など問題ではない。声と唇は笑っていたが、それは虚勢にもなりきれずに彼の端正な表情が明らかな歪みを見せた。
「シルマリルも何度泣かせたかわからないし…ここまで来て見捨てられるか……ざまあない…………!!」
 憎かったから殺したわけではない。
当然己の義務などと大それた大義名分を人間の命以上に重んじるわけもない。
賭博師の彼は病魔に蝕まれ、最期の望みに己を疎んじ死に至らしめる絶望をくれた世界の崩壊と、その世界の中で唯一彼にただ優しかったあどけない天使様を選び渇望した。
しかし彼は悪魔に魂を売り渡し力を手にした後に彼の運命と巡りあってしまった。美しい天使の名はシルマリル、大天使ラファエル直属、アルカヤの守護者、そして教皇候補ロクス=ラス=フロレスの天使。
…彼が付け入る隙は、どこにもなかった。
 堕天使の7人の尖兵『セヴン』のひとり・クラレンス=ランゲラックの望みはただひとつ、世界の崩壊を、終焉をそのひとつしかない目で見届けること。
それ以外のことを望み彼も相応に苦しんだのだろう、最期はいかにも彼らしい不器用な配慮などをシルマリルにだけ見せながら瞼を閉じた。
最初から思惑を抱えて近づいてきた悪党が死んでも泣くな、さっさと忘れてしまえと言わんばかりに小悪党を貫いて死んだ。けれど本質を見抜く存在は、彼を通り名の『ヴァイパー』ではなく本来の名で呼ぶほどに親愛の情を抱いていて、すぐには彼の死を受け入れられなくて、…ヴァイパーと相対し続けたロクスは初めて女に手を上げた。
不遜なことに人に近い状態に受肉した天使の鳩尾に一撃入れて、ひたすらに動転し身も世もなく泣くばかりの天使を力ずくで眠らせた。
そうしないことには彼女が持たないと思った。
 クラレンスがロクスの天使を欲したのと同じに、今のロクスはただシルマリルの笑顔が見たくて、彼女が笑ってくれるのならその理由などなんでもよくて、…だから、自らあえて神の尖兵となった。
心情としては天使シルマリルの尖兵。己と彼女のためだけに戦うわがままで自己中心的な勇者殿。
しかし、天使シルマリルの望みは彼女が守護を命ぜられし狭き世界「アルカヤ」の平穏だから、その尖兵として戦うことも辞さない僧侶たちの頂点に立つはずの男は、文字通り「勇者」だった。
彼がその肩書きを欲していないだけの話に過ぎない。
 天使シルマリルが抱える慈愛は、彼女自身をすり減らし追い詰める。
他人などどうでも、どうなってもかまわない、それより自分を愛し大事にして欲しいなどと望むようになったロクスにとって、彼女の博愛が恨めしく疎ましいことがたびたびあった。
「……シルマリル…………」
 奇妙な友情めいた何かを感じつつあった顔見知りに、間接的とはいえ手を下してしまった。彼はもしかしたら自分だったかもしれない。
彼の中で形を成そうとしていたが彼自身がそれを許さなかった恐怖が、今はっきりと形を持ちロクスを侵食してゆく。すがるものはたったひとつ、彼の拠所となった幼い天使様。
ロクスは口の中で彼女の名をつぶやくと、あとは言葉にならぬ噛み殺した嗚咽をひたすらに堪えうつむいて鏡を叩きそのまま葛折れるかのように背中を丸めた。
彼の足元に、ぱたぱたと涙がいくつもこぼれて落ちる。
情けなくもその名を呼び縋り泣き崩れてしまうほどに彼が愛してしまったのは、人ならざる存在。恋焦がれようと手の届かない女。
ひとりの男の死がそれぞれの弱さや脆さを図らずも露呈することとなった。彼はそれすら狙っていたのか、彼ではないロクスにはわからない。

 人がどれほど死のうと夜はいつもと変わりなく、ただ当事者たちには残酷なまでに緩慢に更けてゆく。



 しかし、どれほど泣いても恐怖に震えてもどうしようもないことをロクスは醒めた頭で理解していた。程なく涙は止まり、顔をよく洗って何事もなかった顔で、今夜の己の寝床、宿の部屋の扉を静かに開ける。
 不謹慎だろうが、自分は幸せだと思うようになった。戦いの最中命を落とすこともなく、ほぼ毎夜のように寝心地は悪くないベッドで横になれることは幸せなのだと、らしくないことを思うようになった。
特に今夜はそれが強い、おそらくヴァイパーの死がそう思わせているのだろう――――彼は生育環境のせいか複雑な性格で乖離しかかっていて、血気盛んな面を見せたかと思うと恐ろしいほどに冷静になったり壊れそうな繊細さを見せたりと、瞬間ごとに感情が違うなど珍しいことではない。
 ただ、今夜はベッドで休むのは諦めている。いつもなら彼が横たわるベッドに、今夜は自ら力ずくで眠らせた天使様を横にさせた。
彼女はやはり相当消耗してしまったらしく、ロクスが殴って失神させたのがまだ明るいうちだったと言うのに、夜も更けて物音が聞こえなくなっても彼女が目覚める気配はなかった。…無理もない、シルマリルは天使の彼女をひとりの少女のように扱い少年みたいな笑顔を見せていたヴァイパー…クラレンスをよく気にかけていた。
口は悪いが紳士的な所、どこか体の具合が悪そうなこと、自分に優しくしてくれるのだから他者にできないはずがないことなどを、不機嫌な横顔を見せるロクスに語るほどの親近感はあったらしい。
それだけにクラレンスの変貌と彼の死は、ロクスより彼女の痛手になった。純白の翼をしまいもせず中途半端に広げたまま横向きに横たわっている彼女は、寝返りなど動いた気配すらない。
ロクスがベッドに横たえそのまま毛布をかけたのと同じ体勢で、彼女はひたすらに眠り続ける。
気力で己の存在と受肉を保っているらしい天使様は、ねじが切れた人形のように動かないし目を覚まさない。他の男のことで消耗してしまうなどいつものロクスなら許すはずもないが、今はただ、少しでも、たとえ気休め程度でも、目覚めたその時彼女の心痛が軽くなっているよう祈るばかり。
 ロクスは迷うことなく彼女のベッドへ、その枕元へと歩み寄り寝顔を覗き込んで小さな頭をそっと撫でた。この状況で下心や駆け引きが掻き消えてしまった自分も信じられないけれど、それよりもなによりも、今はただ彼女を癒せる眠りであって欲しい。
天使だからという、それだけで飛べないほどの重荷を負わされる必要などないはず。
…彼女の寝顔を妨げるものはこの手で片付ける。ヴァイパーは彼の誇りを踏みにじっただけでなく、シルマリルを困らせ泣かせた。
ただ一生懸命なだけの彼女に傷を負わせた、そのことがロクスの怒りに火をつけた。
「…………ん?」
 シルマリルを包みあたためている毛布から、橙の何かが見えている。ロクスが不審に思いわずかに毛布をずらすと――――シルマリルが大事にその手で包んでいたのは、古ぼけたぼろぼろのカードだった。
それを見るなりロクスの眉間にくっきりと皺が寄り細い眉が釣り上がる。今日の流れとこの状況、死んだばくち打ち、悲しみが頂点に達し我を失った天使様、彼女が気を失いそのまま眠りの淵を彷徨う間も胸に抱いている古ぼけたカード…それはおそらく、クラレンスの形見。
あの男のことだから、ロクスのあずかり知らぬところで彼女と他愛ない約束をしている可能性は充分にあるから、蚊帳の外に追いやられた男は不機嫌になる。けれど愛しい天使、あどけない少女があどけない約束を交わしそれを遂げたことまで責められまい。
天使シルマリルは、そうやって己の背負うものを増やしてばかりいる。
たったひとりだけをまっすぐ見つめて存在していればその苦しみも知らずにすむのに、彼女の優しさはその身をすり減らしてまで注がれるからロクスはただ悔しくて仕方がない。
彼女だけを見るようになった男の一途な独占欲は、女の博愛主義とは対極にある。おそらく彼女が彼女である限り、ロクスがその慈愛を独占する日は永遠に来ない。
こんな状況だろうと色恋沙汰に生きる自分に、彼は気づかない。
 ロクスは小さな頭から手を離し背筋を伸ばし、ため息のような深呼吸をひとつだけ吐き出した。彼もわずかずつ変化していて、女抜きでは語れぬ放蕩の人生、しかしその女がたったひとりに定まった。
定まった以上、シルマリルの博愛は彼女の性格、割り切るより他はない。
否定したところで彼女が変わるなどと言う期待は抱くだけ無駄でしかない。
…彼女の変化を待つより己を変化させた方が建設的。人間の女ではないシルマリルに人間の駆け引きを持ちかけるなど愚かしい、呆れつつ許すことを、彼は彼女で覚えた。
無邪気に笑われては許すより他はなかったから、今もその延長上、
「…優しすぎて泣いてばかりじゃ、流した涙の分縮んぢまうぞ。
 ただでさえ小さな君が干からびたらどうするんだか。」
他の男のことばかり、眠った後も思い嘆く彼女を、その軽口で許すしかない。
生きて残された自分には、ヴァイパーが望んでも手に入れられなかった「その先」がある。まだシルマリルと一緒にいられる可能性は残っている。
たとえロクスが手を下しヴァイパーが死んだとしても、彼女はロクスを肯定する。クラレンスがヴァイパーとして破滅を望んだことを見抜けないほどシルマリルは無能ではない。
ロクスの暴力は避けることできぬ必然だったことに気づかぬ彼女ではない。
 クラレンスの形見を胸に抱き眠るシルマリルを見下ろしながら、ロクスは微笑んでいた。
こんな女に惚れた弱み、今さらどう言ってみても地団駄踏んでもしょうがない。あれだけ彼の中を渦巻き涙さえ流させたほどの恐怖が確かにあったのに、天使様、いやシルマリルは眠っていようとそれを和らげる。ロクスは静かに、ゆっくりとその場に座り片膝をついて今にも泣き出しそうな張りつめたままの寝顔を覗き込んだ。
そこにいるのはやわらかく渦巻く金の髪が美しい、少女の姿の天使様。瞼が開けばその向こうの瞳は高い秋の空の青。けれど今夜は少し赤いかもしれない。
シルマリルの瞼は泣き腫らした余韻でまだ赤みと腫れが残っている。
 ロクスの手が再び日差し色の髪を撫で、シルマリルの腫れぼったい頬にかかっていた髪をそっとかき上げ静かに、静かに。
一瞬にも満たぬ瞬きの間だけ唇を合わせた。
「…いつまでも泣かないで、俺に殴られたことを根に持ついつもの君で飛び起きてくれよ。
 じゃ、おやすみシルマリル。」
 その声は愛しいひとへの囁きというより、もっと深くそして優しい。おやすみと囁き美しい金の髪にもう一度そっとキスをして、ロクスは立ち上がり足音を殺し少し離れたソファへと足を向ける。
 宿にひとつだけ残っていた明かりも消えた。
ロクスはあたたかい寝床を天使様ではなく彼の愛しい少女に今夜だけ貸し、己は予備の毛布と自分の上着だけで、寝るには少々手狭なソファで休む。
不埒な人間風情は愛しい天使の寝込みを襲い唇をいただいただけで満足し少しだけ心を軽くして、まずは今日死んでいったばくち打ちのことに耐えるべくそっと目を閉じた。
彼女がひとりの男の死に耐え切れなかったのと同じに、ロクスもヴァイパーの死にやりきれなくぬぐえない不快感を消せずにいる。今まではシルマリルの存在に精神的に縋りもたれかかって凌いで来たけれどそれももう限界で、彼女を慰めるふりをしつつ実は己を保つためにロクスはひどく優しげな声をかけつつ不埒な行動に出た。
後に残るのは夜の静寂、もう虫も鳴かぬ季節になった。


 虫も鳴かぬ静寂の中、明かりの消えた部屋に満ちる星明りが、同じ質の青が動いたことを映し出す。
明かりが消えロクスの気配が薄くなった頃を見計らい、腫れぼったい瞼の向こうの青い瞳が姿を現し、ゆっくりと星明りを頼りに何かを探すように動き出す。
 起きたのではない、…ずっと、起きていた。ただ目が開かなかっただけ。
狸寝入りと言われればそれまでだけど、シルマリルは髪を撫でる大きな手が心地よくてそのまままた眠れるかと思ったけれど結局眠れずに、しかし瞼はどうしようもなく重くとうとう開かなかった。
今やっと開いた理由はわからない。
ヴァイパー、いや彼女にとってはクラレンス…彼の死は、張り詰め続けた、張り詰めすぎていた天使様の精神を壊してしまう衝撃を持ち彼女に襲いかかった。己の被使役者、天使の勇者のロクスが彼の中にあったのだろう言葉すべてを並べ立てる勢いで彼女を慰めても破裂した何かが元に戻るはずもなく、そのまま壊れてしまうかと思ったら……
 シルマリルが丸い指先を片手だけ大事に胸に抱いたカードから外し、己の唇をなぞった。
一瞬だけの優しいキスに下心があっても、今は許せてしまう。自分が人間の少女なら、少々意地悪でも強く頼りになるロクスに縋り己を保つ理由にできるのだろう。
胸に抱いたカードにはもう縋れないことを、シルマリルは知っている。
悪として憎むには、クラレンスは彼にも彼女にもロクスにも正直で、シルマリルに優しすぎた。彼は彼のままで死んでいった。
その振る舞いには、彼なりのポリシーが間違いなく隠れている。
 けれど。もうクラレンスの、ヴァイパーの通り名を呼んではいけない。
自分は縋る側ではなく救う側の存在。それだけの傲慢な理由でどれだけの犠牲を踏みつけにしたかわからぬシルマリルではない。ロクスが、彼女の勇者たちが屠った不浄の者共にも生きる権利とひとつしかない命はある。
踏みにじった側としての義務があることを彼女は自分に何度言い聞かせたかわからない。
 シルマリルは小さく、ごく小さくすんとしゃくり上げた。…クラレンスの形見となった古ぼけたカードを、無意識に胸に押し当てながら――――


 シルマリルがしゃくり上げたその瞬間、星闇の中で音もなく瞼が開いて紫の瞳がどこを見るでもなく闇を眺めた。けれどすぐに閉じて、再び静寂が少し冷たい空気とともに満ちてゆく。


2008/09/21

思い切りネタバレというか「毒蛇の誘い」をネタに、その晩と言う時間軸で書いてみました。
私の書く天使と毒蛇はゲーム中のそれより距離が非常に近く、創作し始める前から「ヴァイパー攻略できないかなあ!!」とかわめいていた身としては、親密な異性が好きな男の手で命を縮められたのだったら、ひとりの女として身も世もなく天使様には泣いて取り乱して欲しいと申しますか。
単純な話ロクスと女天使とヴァイパーは黄金率というか絶妙なバランスで成り立つ三角関係であって欲しかったりいたします。

相手が寝てるから本音をつぶやくロクスと。
それを聞いてないようで聞いていた(起きていたけど瞼が開かなかった)シルマリル。
そこになにがあるのかなど、私が自分で語るとなったらうまいこと表せないのですが、そこはそれ、読み物として読めるものの中で何かしらおぼろげでも描けていればと思っています。