■□ wisper □■
ロクス

 ただ、ただ広く。薄暗く。埃とカビ、乾いた空気。その中に潜む紙の匂い。
書庫というものはどこでも似たようなものらしく、薄暗くかび臭い陰気な空間なのだけれど、それに惹かれる人間もまた多い。
宗教の総本山である教皇庁も当たり前のように大きな書庫を持っていて、その中は申請さえすれば誰でも読めるものから僧籍にある者限定、そして禁書と呼ばれる高僧でもごく一部しか手にとることが許されない書物まで、ありとあらゆる書物を本棚に所狭しと並べている。
「しかし君らしいと言うかなんというか……禁書の記述を見たい、って言ったけど、さすがに今の僕じゃ禁書がある書庫には入れないんだ。
 それに君たちが見ても別に目新しいものはないと思うぞ。人間は君たちの手のひらの上で踊っているに過ぎないんだから。」
 棚に静かに並ぶぼろぼろの書物たち。その間に響く足音。
足音が止まったかと思えば、細く長い男の指がそれらに伸びた。
その声は、空間に響かない。
「そんなことはありません。天界の資料とはもう別の道を歩き始めているじゃありませんか。
 私の知らないことがたくさんあって、あなたはそれを見ることができる立場にあって……でも、天使のくせに少しずるい手ですね。」
 足音は、ひとつ。声は男と女。この場ではたったひとりにしか聞こえない少女の声は抑えていないけれど静かで、彼女の声に本に触れた男の細い指先が一瞬止まったけれど、一瞬後にその本を静かに引き出しぱらぱらと開いた。
「基本、女性はずるいもんだよ。君なんてまだまださ。
 しかし君もどこまで生真面目なんだか……僕の立場を使って禁書を見たい、って言われてもああやっぱり、ぐらいにしか思わなかったし。
 ああ、声は」
「あなた以外に私の声は聞こえません。」
「ならいいよ。悪いな、こそこそ話しかできなくて。」
 押し殺したみたいな、囁きのような男の声。それに答える声は女、少女。
彼女が小さな体ほどもある純白の翼をばさりと大きくはためかせると、その羽根の擦れ合う音がまるで歌うかのように彼の耳に聞こえた。
この上なく神々しい戦慄を内包するような、正反対に母の歌う子守唄のように限りなく優しげな、人のそれではない少女の声。人間を突き放しそうな声色を持ちながらも内包しているのは慈愛そのもので、けれど彼女は確固たる人間の人格を有しそれは心優しく美しくあどけない女性のそれで、男はその母性に引きずられて精神を裸にされてしまう。
今もそうで、男は優美な青年の姿を持ちながらもその表情はやわらかく微笑んでいて、薄闇にとけて黒く染まりそうな紫の眼差しは、開いた書物と文章をさす指先を見ながら、隣で興味津々の表情で書物を覗き込んでいる少女の姿の天使様に向いていた。
ゆるく波打つ銀色の髪は闇にとけるけれど彼の身を包む法衣は白く、ただ白く、闇になじむ色ではない。彼は声までも闇になじませつつ潜めて囁いて、時折ほんの一瞬だけ隣の彼女を盗み見ている。
 闇の中でほのかに光を放つ、水仙のような少女の姿の幼い天使。その背には体ほどもありそうな純白の翼が、同じように淡く光を放っている。髪に届く長さでそろえたやわらかな日差し色の髪と、澄んだ湖水、春の空のような青い瞳も優しげで、ヒトと同じ姿を持つ彼女は天使と言うより花の妖精といった風情ですらある。
「僕の高さじゃ読みにくそうだな、腰を下ろそうか?」
「いいんですか?」
「読むのは君だけど、本が宙に浮いてるのを誰かに見られたら困るだろ?」
「……ごめんなさい、面倒なわがまま言ったりして……」
「君のわがままはわがままにすらなってないって何度言ったっけ?
 妙な気を遣うな、ほら、隣に来て。」
「はい。」
 青年はその法衣があらわすとおり僧侶で、「禁書」と呼ばれ隠匿されている書物を手に取れることからも察することができそうなように、その中でも特権階級に位置している。肩書きは「教皇候補」、僧侶たちの頂点に座する資格をただひとり有している彼なのだけど、どこか自由奔放そうな物言いの通り「候補」の二文字がいつまでたっても取れずにいる。
彼は本から視線をはずし、足場として使われている横長の台の上に先に腰を下ろし、片手を彼女に差し出した。その手のひらの上に小さな手が乗ると、彼はそっとつかみ自分の隣へと少女の姿の天使を促し、人と天使が並んで腰を下ろして一冊の本を覗き込む。
すべてを潜めた声で口にする彼のかすれたみたいな囁き声には男性独特の色香が潜んでいるのだけれど、聞いているのは少女ではなく天使様だからそれが通用するはずがない。彼もそれを百も承知の上で天使様のわがままを受け入れている。
己の男で勝負できる相手ではないことはわかっている。
「この本は挿絵ばかりで君にはつまらないかな。」
「いいえ、私、絵本も好きなんです。
 ロクスはあまり絵本は好きじゃない、って言っていましたね。」
「おとぎ話とか童話の類はちょっとね……禁書の中で読んだのはほとんど歴史書やら表に出せない裏話を集めたようなのばかりだよ。
 君は嫌がるだろうが、拷問とか虐殺の記録とか、残酷な本も嫌いじゃない。」
「え………………」
「禁忌ほど触れたくなるものさ。もっとも読んだ後数日は悪夢が怖くてなかなか寝つけなくなってたけど、今はそれすらなくなったな。
 そういうのを読んでると、つくづく生きてる人間が一番恐ろしいって思うよ。」
「……………………。」
「っと、君に聞かせる話じゃなかったな。……そんな顔するなよ。」
 人間の裏側の話を親しい誰かに聞かされて、天使様の表情が不意に翳った。それに気づいた聞かせた当人は少しばつが悪そうに片手で前髪をかき乱し困った横顔を彼女に見せ、ため息をつきながら視線を泳がせ頬杖をつく。
「……こういう世界にいるからな。上っ面を真っ白に塗り固められたものが嘘っぱちだって知っておきたかった、って所……かな。
 人間は汚くて当たり前なんだ。」
「ロクス」
「……僕も例外じゃない、そう思いたかった。」
「でも、私は人が好きです。確かにあなたも不実でわがままでそれを隠すことがとても上手ですけれど、今は私に嘘をつくこともなくなったし、こうして私のわがままもかなえてくれるし……人の強みは変化できることだと思っています。
 汚いだけではない、……あなたから見れば甘い考えでしょうけれど。」
「君だけでもそう見ているだけで救われるよ。高い所から見下ろされてばかりじゃ嫌になる。」
 話すことを憚られる場に来ると、どうしてこうも会話が弾むのだろう?
それは皮肉というより他はなくて、お互いにらしくない精神論や種族観などをさらりと語れるのは、おそらくこの場所の持つ独特の空気のせいなのだろう。
「……あなたが読んでいた本、読みたい、って言ったら……呆れますか?」
「やめといた方がいい。君が卒倒しそうなものばかり読んでたからな。
 ご婦人が読んで面白いようなものは読んでないってことだけは自信を持って言い切れる。」
「私があなたの言うご婦人とは違うこと、忘れてませんか?」
「僕の言うご婦人が今の君と同じことを言うんだったら、別にほらどうぞ、って読んでた本を差し出すよ。君だから見せられない」
 彼は唐突なおねだりに困ったみたいな笑顔で答え、笑顔で断るのだけれど、今日は少しだけわがままな天使様は食い下がって引こうとしない。まるでじゃれあうような言葉の応酬を繰り広げかけたふたりだったけれど、別人の足音を聞きつけた青年が一方的に言葉を切った。

「珍しいなロクス、君がこんな所にいるなんて。」

「……アラン……君こそこんな所で見かけるとは思ってもみなかったよ。」
「まあな、その辺はお互い様だ。」
 近づいてきた足音と人影に、幼い天使が慌てて立ち上がりこそこそとロクスの向こうに身を隠すみたいに席を替えた。けれどふたり腰を下ろした台はせいぜいふたり分でしかなくて、そうなれば当然彼女は床に腰を下ろすのだけれど――――
「別に立たなくていいよ、読んでるんだったらそのまま」
「ちょうど腰が痛くなってきた頃合だったんだ。」
 ロクスは立ち上がり、席を入れ替えるみたいに彼女に場を譲った。それを見てさえぎった声の主もまた若い男で、当然のごとくロクスと同じに法衣を着ていた。
違うのは、その法衣の装飾。ロクスがアランと呼んだ若い僧侶は装飾も何もないすっきりした法衣を着ているけれど、ロクスは高貴な紫の上着にも、その下の真白い法衣にも金十字の刺繍をいくつも施してある。
「でもま、元気そうでほっとしたよ。
 君でも放逐されたのなら、家柄だけで枢機卿に収まってる僕らなんてひとたまりもないからな。君がいなくなってからは禁欲の生活さ。」
「……大体それが当たり前だろ。やりすぎりゃ誰だってお仕置きされるってこと。」
「まあそうだけど、清廉なる教皇庁なんて笑い話にもならないなんて、僕らの間じゃ暗黙の了解だし。」
「若いのは飲む打つ買うで、年取れば派閥と利権争いだからな。
 全能なる父とてん……使の勇者だった始祖エリアスが聞いたら泣くぞまったく。」
 どうやら彼らは年が近いらしく、もうひとりの彼もロクスと同類らしい。おおよそ教皇庁の中で僧侶同士交わされる会話とは思えない内容に、幼い天使様は困ったみたいなあきれたみたいな表情で彼らを見上げながら、今までロクスが座っていた場に腰を下ろした。
今まで読んでいた本はロクスの手に、することもない彼女はくるくるした愛らしい瞳で破戒僧ふたりの会話に耳を傾けるしかない。
「そういえばロクス、放逐されたらされたでまた噂になってるじゃないか。」
「何が? あいにくだけど僕は打って変わっておとなしくさせられてるよ。」
「嘘つくな、絶世の美女といつも一緒にいるって噂、お偉方の耳にも入ってるぞ。」
 彼の言葉に、ロクスが思い切り固まった。……そこにいるだけで女性が浮き足立つ、色男として名を馳せるロクスとしては実に光栄な噂話なのだけれど……じわっと感じた脂汗を無表情で隠しながら、ロクスがゆっくり、ゆー…っくりと、今まで自分が腰を下ろしていた場に視線を移す。
「……どんな女かとか、聞いたのか?」
「もちろん。見かけたって奴から、しっかりと。」
「金髪の、」
 日差し色の腰のない髪。
「そうそう。」
「背の低い」
 存在感の大きさに反比例していそうな身長。
「なんだ、やっぱり思い当たりあるのか?」
「まるで天使みたいな……」
 小さな体ほどもある純白の翼。
「あーあ。
 君はいいよ、容姿端麗、頭脳明晰。女が放っておかないもんなぁ。」
「……そいつは誤解だ。」
 羨まれているロクスだったけど、顔半分を片手で覆いながら大きな大きなため息を吐く。だって噂になってしまったお相手は人間の女性ではなくて、生真面目でお仕事と本が大好きな隣に座る天使様その人。
確かに翼をしまった彼女を連れて人前に出たことが何度もあるけれど、噂になるほど進展した仲ではない。ましてお偉方の耳に入っているなど、まだ色恋沙汰でもないのに濡れ衣を着せられては困る。
「誤解、って……ああ、いつかのお嬢様みたいな」
「それも誤解だ。そもそも僕は面倒な女を敬遠してることを君なら知ってるだろ?
 僕はこんな立場だし、お互いに本気になられちゃ困るけど火遊びだけ楽しみた――――痛っ!?」
「ロクス?」
 恐れ多くも天使様との仲を噂にされたロクスが慌てて弁解を口にするのだけれど、そのあまりにも不実な言葉の羅列に、ご機嫌急降下の天使様が立ち上がり、ロクスの耳朶を軽くつねっていた。穏やかで何事も会話で解決することから試みる彼女の実力行使は極めて珍しく、そのご立腹の度合いが伺える。
「と、とにかく! 少し前ならともかく今の僕は至っておとなしいもんだ。
 浮いた噂なんてないし、目撃談も嘘じゃなくても誤解だから真に受けないでくれ。
 あとご令嬢との噂こそ嘘っぱちだ。あれは彼女が一方的に噂を流して既成事実を作ろうとしただけで、第一もうどこかの奥方様になってる頃だろうが。」
 つねられた耳を押さえながら弁解するロクスは必死の様子なのだけれど、目の前の彼もごまかせたかどうか怪しい上に聞かされた天使様の疑惑も拭えたとは思いがたい。
普段の行いが跳ね返ってきたこの状況、身から出た錆とはいえ、もう少し手加減してもらいたい。
「今の僕は日々天使に祈りをささげてる毎日だよ。」
「……本気にされると思うか?」
「されなくてもそれが今の僕だ。」
「はいはい。でも君のことだ、祈りを捧げる天使様はガブリエル様みたいなお美しい女性の天使なんだろ?」
 完全に、ロクスが言い負かされた瞬間。
幼い天使が、実に珍しい光景を目の当たりにした。言われたら言い返すロクスが言葉につまり、しかし口をパクパクさせたりせずぐっとこらえた表情で平静を装うのだけれど、虚勢にもなっていない。
「そら、図星だ。しかしどの天使様だ?
 ガブリエル様だけじゃなくラツィエル様やレミエル様、天使様は人間とは比べ物にならないって言うしな。
 じゃあな、邪魔して悪かったよ。君の天使様によろしく。」
 やはり最後まで信じてはくれなかったらしい、彼は一方的にロクスをからかうと、もう飽きてしまったのか信じていない様子で別れの挨拶を口にしてロクスに背を向けた。
言葉に詰まったままのロクスは挨拶を返さなかったけれど彼は気にした様子を見せず、そのまま本棚の向こうの薄闇に消えてゆく。
「………………よろしくだってさ、天使様。」
「ロクス……あなたいったいどういう生活を送っていたのですかっ」
「終わったことを蒸し返すなよ。今を評価してくれ。」
 針の筵の時間がようやく過ぎ去った、しかし最近ようやく信頼を得始めた天使様との関係が揺らいだ。ロクスは悪友の一連の言葉に恨み骨髄で、けれどそれにこだわるより先に生真面目な天使様のご機嫌取りから始めないことにはまた厄介な話になりそう。
「言っておくが僕の浮いた話はそうたいしたものじゃないからな。言ったとおり厄介な関係は苦手なんだ、僧侶と良家の令嬢なんてとんでもない。」
「私に弁解しなくてもかまいませんよ。」
「かまわないとか言いながらへそを曲げるじゃないか。
 ったく素直にしてりゃ可愛いのに……。」
「可愛い可愛くないは役目に影響のないことです。」
「役目に影響はなくても僕のやる気には影響するんだ。」
 このふたりは性格が正反対ということもあり気が合う時と合わなくなった時の落差が激しくて、言い争いが始まると水掛け論のまますぐに平行線を描き始める。
「もう行こう、お互い本を読める気分じゃなくなったのにいつまでもここにいてもしょうがない。」
 しかしロクスは少し大人になったのか、今までが大人気なさすぎたのか。
言い争いを一方的に切り上げて本を閉じ、それを本棚のぽかっとあいた隙間に戻してまたひとつため息を吐いた。饒舌なロクスが不機嫌に黙り込めば、同じく不機嫌になった天使様はおしゃべりじゃないから会話が続かない。
そうして薄暗い空間に再び静寂が戻った。後に残る足音もしばらく響いた後、重厚な扉の閉まる音が最後、本たちは再び眠りにつく。

2008/11/16