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×ロクス、レミエル



「これにします。」
 彼女が選んだのは、1冊の分厚い本だった。滑らかな光沢を持つ黒いショートブーツがはじく光もずいぶん強くなって、朝から過ぎた時間を時計より言葉より雄弁に物語る。
「……本当にそれでいいのですか?」
 答えたのも女の声だった。透けるような薄緑の羽根とシルクより滑らかな衣がやわらかく光を吸い込む様は、まさに神の慈愛を表現しているかのよう。
「え……いけませんか?」
「いけなくはありませんけど……」
 ここはエミリア宮、慈愛の天使レミエルが座する場所。天使の博愛が形を持ったモノたちが生まれいずる場所。
数々のモノたちが碧玉のごとき色を持つ球体の中で息づき整然と並び開放の時を待っている。
そこへ地上で言えば今朝早く、唐突に幼い天使が訪れて、今は昼前だろうか? 朝早くからあれこれと物色していた幼い天使が満面の笑顔で振り向きつつ手にしているのは、その笑顔を見事に裏切るような、背で人を殴れば大事になりそうなほど分厚い本だった。
「ありがとうございますレミエル様。それでは失礼します。」
 どうやら彼女はお急ぎらしく、あきれたような怪訝そうなレミエルの声色も表情も目に入ってない様子で小さな頭を下げるとほぼ同時に踵を返して、珍しいことに小走りでエミリア宮をあとにすべく先を急ぐ。感情の起伏が緩やかで優しげな面差しのとおり少々のんびり屋の幼い天使なのだけれど、彼女でも急ぐようなことがあるらしい。
けれど彼女が選んだ本の中身を考えると……レミエルはやっぱりため息しか出なかった。

「勇者へのプレゼントに精霊の絵本を選んで……あの子はとても気に入っていても、人間たちには子どもの寓話でしょうに。」

 幼い天使シルマリルは、美しい挿絵とわかりやすい文章で綴られている精霊の寓話の本を胸に抱いて、まるで人間の少女のような愛らしい服で身を包み、人間の暮らす大地アルカヤへと舞い降りる。
天使の衣は自分の椅子にかけてきた。



 その日、教皇候補は朝から機嫌が悪かった。
深酒が過ぎて二日酔いの上、ここ数日彼の上役みたいな存在の天使様もご無沙汰で。
それでもいかつい様相の絨毯に乗った妖精さんがつけられていたのだけれど、別の勇者殿の所でなにやらあったのか彼も昨日から姿を見せない。
文字通りの一人きり、ほったらかし。
天使の勇者という肩書きを背負わされてまもなくはそれでも別によかったのだけれど、最近は少しは真面目に彼女のご期待に応えてきたつもり。それなのに今の仕打ち。
当然自分の中にしまっておくつもりではあるけれど、昨夜は女にほったらかされての自棄酒……というのも否定できない。
 一応彼女からの頼みごとを受けて遠方の町へ移動中で、少しでも目的地に近づいて自分に寄せられた分の期待には応えたい。けれど二日酔いで残る酒が今日は毒に姿を変えた、どうにも足が動くのを嫌がって、歩きやすい街道を少し歩いては休んで、の繰り返しだった。
そして今はもう何度目かわからない休憩時間で、彼は手ごろな岩を見つけそれに腰を下ろしため息をつきながら雲ひとつない秋晴れの空を見上げた。
 視界のふちを囲むシルクグレイの長い前髪が、歩いていなくても揺れている。
今の顔色は相当ひどいものだろうと想像もつく。女たちから花の顔なんてもてはやされたことも今お目当ての女相手に役に立たなくて、女を前にしているのに微笑まなくなってしばらくたつ。
愛らしい少女の姿の天使様には媚びた笑顔など通じない。彼女が心動かし微笑み返すのは、下心を取り払った裸の感情の前でのみ。
今日は普通なら特別な日なのだけれど、彼の中でそれの意味が薄れて久しい。冬の入り口、秋の終わり、色褪せ始めるさびしい季節。風はもうめっきり冬の気温だけど、昼間はまだ暖かい。
この季節としては貴重でもあろう暖かい日差しを浴びていると、特に用がなければ惰眠を貪りたい、今日はそんな天気だった。
「やれやれ……彼女に毒されてるな。」
 暖かい日差しの下で頬杖をつきながら思い出すのは、あどけない少女の姿をした美しい天使様のまぶしい笑顔。やわらかな腰のない日差し色の髪がゆるい曲線を描き彼女の丸い頬を包み小さな肩に触れるか触れないかのあたりで毛先があどけなく揺れていて、その奥の瞳の色はもう少し前の、夏の終わり、秋の始まりの鮮やかで深い空色。
薄紅色の花びらのような唇がほころべば、男の口元もどうしてもゆるんでしまう。
人ではない彼女の並外れた美貌……に魅せられた、と小難しいことではなく、邪気のない少女のまぶしい笑顔に男が揺れるのは当然の話。ましてそういう年頃、しかも女たらしの彼だから、彼女が己になびかないこともありその記憶は鮮やかに焼きつけられている。
 彼女は教皇候補という人界でも相応の立場にある青年を言葉ひとつで操る天使様にしては不必要に美しく愛らしく、男はその外見にころっとだまされてしまう。
教皇という禁欲が服を着て歩いている存在のはずの男の中身はすれっからしの性悪で、おまけに天使様の神々しさより少女の愛らしさに口元をゆるめてしまうような女にだらしない男として有名で、それを悪びれる素振りすら見せない性質の悪い男でもある。
彼は女どころか人のいない街道脇でひと休み、仰々しい金十字の杖を自分のそばに置いてもう何度目かわからないため息をまたついた。

「……久しぶりだな、さぼりか?」

 そんな少しさびしそうな男の前にひらひらと純白が彼の視界に舞い降りた時、彼は立ち上がらず視線だけ動かし唇を歪めるみたいに笑って軽口のような皮肉のような言葉を口にした。紫水晶の視線の先には彼の幼い天使様が舞い降りていて、いきなりの挨拶に不必要に美しく不必要なまでに生真面目な彼女は出鼻をくじかれた様子で鼻白んだ。
「ま、勇者は複数いても君はひとりだしな。
 とりあえず依頼は受けてもあんまり態度のよろしくない女たらしとそりが合わないってのはわからないじゃない。」
 会いたかったはずなのにいざ顔を見ればいじめるような口調でいじめるような言葉を口にしてしまう素直になれない青年は今日もある意味いつもどおりで、鼻白んだ彼女の表情に答えの代わりに謝罪の代わりにため息ひとつ、それでもなかなか謝ったりしない嫌な男。
そんな自分の態度が生真面目な天使様のお気に召さないだろうなんて勝手に理由を作って、彼は何も変わらずに。
態度だけを変えてゆく。
「そ……そんな理由でこなかったわけではないのですけど……」
「突っ込まないでおいてやるからさっさと用件を言ってくれ。ただでさえ二日酔いで頭が痛くて仕方がないんだ、今日は機嫌が悪いぞ。」
「具合がよくないのですか? 無理しないで休んでくださいっ」
「……大声出すな、頭に響く。」
 いかにも不機嫌そうに頭を抱えた彼の動作にシルマリルは慌てて口元を押さえ、おずおずと己の勇者殿の顔を改めて覗き込む。好奇心の塊の子どものような彼女の仕草をどう思うのか、彼はまた目だけで彼女を一瞥しすぐに視線をはずした。
「……今日は」
「は、はいっ!?」
「ずいぶんと可愛い格好をしてるじゃないか。このあと誰に会いに行くのやら。」
 静かにしていれば彼の神経を逆撫でしないらしく、今は娯楽の少ない彼の数少ない娯楽、幼い天使をからかういつもの悪い癖が彼の視線から言葉から投げかけられる。
 おべっかが通じる相手ではないから、彼が彼女の容姿をほめる時、そこに嘘はない。
天使様はまるで今からお嫁に行く、素朴な村の若い女性みたいな質素だけど愛らしくけれど手のかかった装飾が施されている足首まで隠れるワンピースで身を包み、けれど足元は動物の毛皮など何かの犠牲の上で作られるものではなく、夜の闇よりずっと深い黒が強い光沢を放つ不思議な素材の短めのブーツ。対する教皇候補殿はいつもと変わりない白い法衣に紫の上着で、明らかに見劣りしていることを誰でもなく彼自身が感じていた。
しかし、いつも長い衣で足元なんて見えない見せない彼女のそういういでたちを、彼は嫌いではない。
「素肌が見えないのは相変わらずだが、いつもの色気もそっけもないずるずるよりずいぶん可愛い服着てるじゃないか。意外とブーツも似合ってるし。」
「え?」
「君にそういう服を着させるなんて、さては男か?
 ……この僕をご機嫌取り程度に扱って飛び越えて、誰の所へ行くんだ?
 聞かせてくれても罰は当たらないだろ?」
 二週間以上の時間のずれを彼女はいつも気づかなくて、それが天使と人との境界線を彼には強く感じさせ、彼女はただ戸惑うばかり。
自分になど興味がないだろう彼からの質問攻めに明らかな困惑を表に出し、彼女のそんな表情を見て彼は自分が何をしているかにようやく気づいて開いたままの口をそのままに、言葉だけを喉の奥へとしまいこむ。
……そう、言葉だけなら、まるで嫉妬しているかのよう。いつもと違うかわいらしい服を着て久しぶりに姿を現した彼女の影に勝手に別の男の幻覚を見て、ひとり勝手にやきもちを焼いているみたいな野暮な物言いは、彼が最も嫌う男像のひとつでもある。
それなのに、幼い天使様はそんな生臭い男の本音をいとも簡単に、しかし無意識に引きずり出してくれるから、彼は彼女を必要以上に子ども扱いしてしまう。
ひとりの女性と認めてしまえば、何かが崩れて戻らなくなりそう。
「…………は…………」
「?」
「あなたに会う以外の予定なんて……ありません…………確かにセシアやルディエールのことがとても忙しくて大変で気がついたらずいぶんあなたのことをほうっておいたみたいになってしまってましたけど」
「……ふん、やっぱり男か。しかもレグランスの王弟殿下とはね。
 これまたずいぶんと大物を捕まえたことで。」
「ロクス!どうしてっ」
「帰れ。言ったろ、二日酔いで頭が痛い。
 お前と言い争うくらいなら次の町の宿を目指してさっさと横になりたいんだ。」
 その花びらみたいな唇から出たのは男と女の名前だったけれど、男の名前だけが彼の耳に入ったらしい。女たらしは自分以外の男の影にたちまち不機嫌になり、己になびくことのない女に振りまく愛想などないと言わんばかりに取りつく島もない言葉を口にする。
当然そんなつもりもなくそんな経験すらない天使様は困惑しきりで、駄目押しとばかりに追い返す言葉を投げつけられて彼女が見せた表情は――――
「……泣く3秒前の顔見せるなんて、やるようになったな。
 でもな、なめられちゃ困る。他の連中はともかくそれが僕に通じるなんて思うなよ。」
 眉目秀麗な青年が浮かべた、猛毒を含ませた挑戦的で妖艶な笑顔はすでに笑顔ではない。挑戦、誘惑、軽蔑、その手の感情は天使様には息苦しい。
押しも気も弱いなりに泣き落としを仕掛けてきたなんて言われて泣くような天使様ではないらしく、半べその表情からきゅっと唇を噛んでこみ上げた感情全部をこらえて、彼女は顔を上げた。
「通じるもなにも、泣き落としであなたたちに当たろうなんて思ってませんから。」
「それは殊勝な心がけで。」
「ロクス、今日はあなたに用があるんです。」
「じゃあとっとと済ませて帰ってくれ。」

「あなたの誕生日を祝いに来ました。
 23歳の誕生日、おめでとうございます、ロクス。」

 泣き出しそうな不思議な仏頂面なのに祝いの言葉なんて切り出した彼女の用件のささやかなことと言ったら。
今の今まで毒気の満ち溢れた笑みを浮かべていた男から一瞬ですべての毒が失われた、まず言葉で祝われたはずのロクスは、何を言われたのかわからない様子でぽかんと泣きそうな天使を見ている。
「あなたが好きなものは私には用意できないものばかりですけど、せめて寝つきの悪い夜の気晴らしにと思って、これを持って来ました。」
「あ、ああ……ありがとう。」
「じゃあ、お邪魔みたいですから」
 そこまで言って彼女は背を向けた、……声が、ゆれている。
シルマリルはそこから先を言わずに、もしかしたら言えずに、立ち去るべく爪先を動かそうとしたけれど
「あー当てこすりを真に受けるなよ。これじゃ僕が悪者じゃないか……。」
 彼はあわてて立ち上がり、小さな手をつかみ引き止める。
痛烈な皮肉を込めた笑みで帰れと言ったりまるで少年みたいな顔で引き止めてみたりと忙しい男で、引き止められた純粋すぎるお子様は戸惑ってばかり。
案の定彼女は青い瞳を涙で揺らしていて、そんな表情は女の特権、男のロクスはずるいと思う。思ってみても今までは含み笑いで受け流してきたけれど――――長い人差し指が小柄な天使様の目許に伸び、浮かんだだけで落ちなかった涙を気の早いことにそっとぬぐった。
当然そんなことをされ慣れてない彼女はびくんと大げさなほどに体をはねさせ大きく後ずさる。
「――――――あっ!?」
 小さな体ががくんと傾いた。
ロクスが咄嗟に涙をぬぐった腕を下げ細い腕をつかみ彼女が倒れないよう捕らえつつ足元に目をやると、軍靴の形に似たブーツの細い紐が千切れていた。
急いで立ち去ろうとしたことで彼女はつまずきかけたけれど、普通に歩く分にはさしたる影響はないだろう。けれど……。
「こんな細い紐を靴紐にする奴があるか。」
 ロクスは言いながら彼女の足元にしゃがみこんだ。
「とりあえず脱いで。」
「え」
「紐を結ぶぐらいしかしてやれないけど……ああ、僕の肩にでも手を置いて片足で立っててくれ。」
 小さな足から丁寧に靴を脱がせつつ、ロクスが天邪鬼に優しい言葉を口にする。
彼女の来訪当初の仏頂面や機嫌を損ねた毒のある笑みはどこへやら、性格の歪んだ男なんだけど普通の男と同じ思いやりも持ち合わせているらしい。シルマリルから靴を脱がせると切れた紐を靴から手早く解いて解けないよう細い指が器用に結んでいる間、彼女は言われたとおりおとなしくロクスの肩に手を置いて片足で立っている。
「今度から紐靴を履く時はもうひと回り太い紐を使えよ。いくら君の足が小さくても、こんな糸に毛が生えたみたいな紐が靴紐になんてなるはずないだろう。
 ずいぶん可愛い格好で来たから許してやれるけど、いつものずるずる……ならこんな靴なんて履かないか。それにしても、本当に小さな足だな。」
「……見てのとおり……ですから……」
「君が地面に足をつけて立っているのを初めて見た時はびっくりしたよ、少女通り越して子どもみたいでさ。
 ――――これでよし、結び目は隠したから当座は大丈夫だろうけど、帰ったら覚えてるうちに紐を取り替えろよ。」
「ありがとうございます、ロクス。」
「どういたしまして。」
 お互いに出会った頃の話なんてできるくらいの時間をつきあい続けている。
時間の概念が人間とは違うシルマリルに実感はないのだけれど、ロクスはひとりの女と半年以上、飽きもせず顔をつき合わせている記憶がほとんどないから、時に度を過ぎたわがままや情けない顔も見せてしまいそれで男のプライドを傷つけられることも増えて媚びた優しさを向けることさえ忘れてしまうのだけれど、少しぼんやりした彼女は良くも悪くも細かいことにとらわれない大雑把さがあってずいぶん救われている。
「……で、その胸に大事に抱えている本はもしかしたら僕への贈り物か?」
「あ、はい! 包みもしないでごめんなさい、私の大好きな本なのですけど、見ているだけで時間を忘れてしまうくらい挿絵が綺麗なんです。」
「どれどれ……って、これ絵本じゃないか。」
「嫌いですか?」
「好きとか嫌いとかじゃないだろ……まあ君らしいといえば君らしい。
 どうもありがと、眠れない夜のお供にするよ。
 できたら優しく読んでくれると嬉しいんだけどな。」
「その時は呼んでください。」
「……真に受けるかよ……でもまあ、ご機嫌が持ち直したみたいでほっとしたよ。
 美人はどんな顔でも絵になるけど、君はのほほんと笑っているのが一番似合ってる。」
 ロクスの軽口はひどい言い様なんだけれどそこには確かに親愛の情が潜んでいて、感情はあれどもごまかしが効かない天使様は、彼が隠そうとしているあたりに気づいてはひどい物言いを受け流してまぶしく微笑む。
色っぽい意味で誘いをかけたのにその純粋さゆえに受け流した美しい天使様、口説こうと口説こうと気づいてもらえないんだったらもう押し倒すしかないのかもしれない。
そんな大それたことを思いつつ、ロクスは唇を笑みの形に変えた。
とりあえず笑い感情を追いつかせる笑顔もあることを、彼はシルマリルの降臨で知った。
「絵本は好きなのか?」
「はい。いろんな本を読みましたけど、挿絵が綺麗だとそれを眺めているだけで飽きないんです。」
「それなら絵画も好きそうだな。
 今度アララスの教会でも巡るか? 壁画や絵画、ステンドグラス、綺麗なものが選り取りみどりだ。」
「はい、ぜひ!」
 その気持ちがよくなるはきはきした返事を聞かされると背筋が伸びる思いがするのは、ロクスが性根が曲がりそうな生活を続けていたからかもしれない。受け取った本をぱらぱらと指先で弄ぶたびに色とりどりの挿絵が美しく視界に飛び込んできて、寓話の類がどちらかといえば嫌いなロクスだけど、確かに眺めているだけで充分楽しめそうなほどの挿絵に好き嫌いをとりあえず棚上げするかという気にさせられる。
何より、違う世界の住人のはずの天使様だけど、世間知らずの反面多少のことを許せるほどの無邪気さに最近では救われることも増えてきたから、
「今度は半月以上もほったらかさないでくれよ。君としちゃ僕みたいな不実な男は好きになれないかもしれないけど、僕は君の無邪気さにずいぶん救われてるんだから。」
 大きな手が、小さな頭をそっと撫でた。ぽんぽんとまるで子どもをあやすかのような動作にシルマリルが一瞬あっけにとられ、わずかに、彼女しか気づかないくらいわずかに頬を染めたことを、ロクスは気づかない。
「嫌ってなどいない」と言う単純な言葉が喉に引っかかる息苦しさにシルマリルが顔を上げるんだけど、なぜだろう言葉にならない。
声にならない。
「他に約束がないなら、少し一緒に歩かないか?
 一人でとぼとぼ歩いてると、いつまでたっても次の町につかない気がして余計に気が滅入るんだ。」
「は……い。
 あのっ、セシアの問題もルディエールのことも落ち着きました、だからしばらくは一緒にいたいんですけどっ」
「じゃあ空白の半月を埋めるためにおしゃべりに興じるか。
 ああでも夜は開放してくれよ、酒もほどほどでやめるようにするから。」
「そういえば、二日酔い、って……ロクス、お酒はたしなむぐらいが一番楽しいと人生の先輩のフェインも言ってました」
「そこまで。他の男の名前を出すな。」
「そんな話をしてくれたのがフェインというだけの話ですっ!!
 それにルディエールのことだってあなたは勝手に誤解して」
「目の前にいる女から他の男の名前を聞きたくないんだ。
 目の前にこの僕がいるんだからな、そこのところ少しは気を使え。」
 実はと言うと、ロクスの二日酔いはふっと忘れてしまうほど軽くはなっている。しかし同じ症状の経験がないシルマリルは思い出すといつもと同じにお説教を切り出したのだけど、ロクスは男の名を口に出すなと別の問題に摩り替えつつそれを何度も遮る。
そしてロクスは人差し指を彼女に突きつけ唇に触れそうで、しかし触れない近さで彼女のお小言を止めて人を食った微笑を浮かべた。天使のお小言を止めた手が地面に置いたままの金十字の杖を拾い、今度ははっきりと笑いかけて、今度はもう休憩をしない心積もりでまた歩き出す。
連れができたから、きっとひとりの道行きよりも歩けるだろうことを彼は経験から知っている。
当たり前の話だけど、歩かないことには目的地に着かないことを彼は知っているからまた歩き出す。

2008/11/09

ずいぶん遅くなりましたが、祝・誕生日。