■□ おねだり □■
×ロクス
大丈夫、今年は準備万端。
「これは野苺味のキャンディ、これはアップルパイ、こっちはかぼちゃのプリンで飲み物は紅茶に杏のジャムを用意した。
君が望むならチョコレートのタルトだってなんだって用意してやるぞ、なんたって年に一度のお菓子の日らしいからな。
ああ、甘いものに飽きたらサンドイッチもあるからな。君は小さいからしっかり食べなきゃダメだぞ?」
唖然とするシルマリルの前に丸いテーブルが用意され、山ほどのお菓子が並べられる。
それらはすべて美しくあどけなくキラキラと輝きをそれぞれ放ち甘い芳香を漂わせながら、それぞれ彼女に誘いをかける。
誘うのはお菓子の甘い香りと色鮮やかな輝きだけではなくて、それをいくつも用意する細い男の手が、何よりも雄弁に天使様を誘っていた。
正直な話、現在あまり気楽に構えてはいられない。シルマリルはさまざまな悲しい出来事を己の助力者、勇者たちとともに乗り越えて、そろそろ暗く長い長いトンネルの出口が、結末が見え始めた。
多分、壮大な冒険譚もそろそろ大詰め。そんな緊張ばかりの日々なのに……シルマリルがそーっと視線を上げると、目の前の彼は気楽な笑顔でシルマリルの前のテーブルに次から次へと甘いものばかりを並べ続けつつことさらに笑って見せた。
「あ、あのロクスっ、こんなにたくさんお菓子を用意してもらってもひとりではとても食べきれませんし、私には戒律もありますし」
「つまらないことを言うなよ。今日は年に一度の異界の祭の日なんだろ?」
端正な顔立ちの青年の甘すぎる笑顔は甘い通り越して迫力すらあって、シルマリルは慌てて我に返るといかにも生真面目な彼女らしい言葉を口にした。しかし彼は最後まで彼女の台詞を聞かずに取り合う素振りすら見せずにあっさりと却下する。
緊張した日々の最中だけど今日はとてもいい天気で、秋晴れの高い空が清々しい。
シルマリルだって石頭ではなくて、確かに戒律はあれども彼女の責務と人間との信頼関係とのすりあわせを図り、多少の戒律破りは大天使ラファエルの名において許されるようにはなっている。次々に、所狭しと並べられるお菓子たちを口にしても罰せられることはないのだけれど……
シルマリルが甘い香りの誘惑に揺れる。
しかし彼女はふるふるときつく目を閉じながら頭を振って必死で理性を保ち続ける。いや、彼女を誘うのはお菓子ではない。それを際限なく用意し続ける天使の勇者のロクス。
麗しき天使シルマリルの信頼だけではなく、その愛を勝ち得たただひとりの男が、愛しい彼女をひたすらに甘やかそうと構えていた。
「そ、それは確かにそうですけど……別にお菓子をたくさん食べる日ではなく、子どもがお化けの扮装をして『お菓子をくれなきゃいたずらしちゃうぞ』って言ってくるから大人がお菓子をあげるというだけで」
「じゃあ言えばいいだろ、『お菓子をくれなきゃいたずらするぞ』ってさ。」
「私はいたずらなんて……もしかしてロクス、あなた私をまた子ども扱いしてませんか?」
「べっつにぃ。さ、今日は祭だからせめて腹いっぱい甘いものを楽しんで気晴らししてくれ。」
彼は今朝突然天使様を呼びつけて、それを聞いたシルマリルが急いで駆けつけると、彼は色褪せ始めた薄紅色の薔薇が咲き残る庭園で待っていた。どうやら広く開放されている庭園らしく、そこかしこに丸いテーブルと椅子がいくつもあって、それらはほとんど人で埋まっている。
恋人同士もいるけれど、意外にも親子連れや女性同士の方が多いかもしれない。彼とシルマリルの方が目立っている。
彼女たち天使にお菓子つきのティータイムという慣習がないことをまるで知っているような自然さで、僧服に刻まれた金十字を重厚に光らせつつ、彼は珍しいことに手ずから紅茶をポットから注ぎ分けてシルマリルに差し出した。
飾り気のないカップとソーサーの白が、この薔薇園とテーブルの上のお菓子たちとは対照的で実にまぶしく映えている。
彼は天使に見出される前は僧侶でありながらずいぶんと浮名を流した色男でもあり、女性が何に心動かされるかを心得ているのだけれど、人間ではない天使様が何に揺れるかなんて知っているはずもなく、ロクスはいつも素朴な誘いしかかけられなくなってしまった。
今日だってもう終わる薔薇の季節を惜しみながらのお茶に誘うことぐらいしか思いつかなくて、今こうしている。
「子どもじゃなくても、ご婦人は甘いものに目がないものだ。
君が一心不乱に甘いものを楽しんでも子ども扱いなんてしないし、僕だってただからかいたくてこんな手の込んだことなんてするわけないよ。」
そう言いながら、カップを差し出した細く美しい男の手が、シルマリルの風に乱された腰のない日差し色の髪をそっと指先だけでかき分けた。大事な天使様を覗き込んでいるその表情は無意識なのだけれど、お菓子たちの誘惑よりもずっと甘い。
「最近いつも疲れたみたいな顔してるぞ。
君は美しい上に愛嬌も申し分ない恵まれた美人なんだから、へらへらしてなくてもいいからたまには笑った顔を見たい。」
きっかけは一年前に遡る。
まだ情勢がそれほど揺れていなかった頃、シルマリルが思い出したみたいに異界の祭の話をしてくれたのが今日のこれにつながっている。異界の聖人にまつわる話と子どもたちの無邪気な祭がつながっていることが不思議だったけれど、彼女は人間ではなく人間よりずっと多くのことを知っている存在だから、彼はその話を微塵も疑わずに、鮮明に覚えていて、先日思い出して準備を整えて理由を作ってようやく誘いの声を今朝かけたのだった。
火遊びばかりだった不実な男が天使様に恋をした。そして激しく揺れた日々を駆け抜けて燃え上がるような、しかし静かな絶えない炎へと恋心が姿を変えた。ロクスは不実な過去だけでなくみっともない素顔もすべて許し続けた心優しい天使様の慈愛を博愛だとばかり思い続けてなかなか素直になれなかったけれど、天使シルマリルにも人格が、自我があった。
「……あなたって、本当に女性には甘いのですね……。」
シルマリルの頬がほんのり染まっている。
純粋で生真面目な、色恋沙汰にはとんと疎い少女。そのくせ情が深く他人の痛みまでも自分のものにして抱え込んでしまう。未熟な自分を情けなく思っているから、他人の過ちはあっさりと許してしまうお人よし。
そんな彼女に寄りかかり頼りにしいつしか拠所に変えて、ロクスは彼女だけに跪く勇者になった。
そして勇者であると同時に、男としてすべてを打ち明けた。
彼女が望むすべてを己の手でかなえたいと望み、彼女のためならば己の存在すべてすら投げ出せるほどに思いつめてしまった。
「君に喜んで欲しいからな、手を抜きたくても抜けないんだ。」
「あなたはいい加減に見えて陰で努力している人ですからね……って、え??」
そう、シルマリルはロクスにとって特別、唯一。言葉の裏に隠した特別扱いに少し遅れて気づいたシルマリルが固まり、直後耳まで紅くなった様子をロクスはニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべながら眺めている。
「こんなこと言うとまた君は怒るかもしれないけど、僕は後腐れのない遊び好きな男だったんだ。だから手の抜きどころがわからなくてな。」
その言葉はたぶん半分は本気なのだろうけれど、おそらくもう半分は、疑うことをしないシルマリルをからかっているだけ。突き放す時の突き放し方も、甘やかす時の甘やかし方も、ロクスは本気になった相手には手加減をしないらしい。
本気で好きになってしまったあどけない少女を、手加減一切なしで甘やかして楽しんでいる。
甘え下手というより甘えるという思考が欠落しているシルマリルは、こんなことをされるとどうすればいいのか、どんなことを言えばいいのか、どんな顔をすればいいのかわからなくて結局困ってしまう。
しかしロクスはそんな困り顔が好きだったりするからもう仕方がない。末期的。
シルマリルの見せる表情は困っているというよりも戸惑っていて、小柄な彼女が見せる上目遣いに世の男性と同じにひたすらに酔わされてばかり。
「――――さ、今日だけはお役目を忘れて一緒にいてくれ。」
「……一人で食べきれる量ではありません……。」
「少しならつきあうよ。……と言っても僕は君もよく知ってるとおり飲む方が得意だからな、戦力にもならないだろうけど。」
まずは自分が楽しみたいわがままな男。つらっと自分勝手な台詞を吐きながらでれっと甘ったるく笑うロクスに怒っても仕方がないことはシルマリルが一番わかっている。
怒った顔を見せても彼はうまくからかうだけだし、本気で怒ると黙り込むばかり。
シルマリルはあきらめながらフォークを手に取り、山ほど待ち構えている甘いものの群れに向き合った。その向こうにはたった今差し向かいに腰を下ろし、感想を待ちわびているロクスの笑顔が見えている。
どこにも、逃げ場なし。
「……翼をしまった君は、本当に小さいんだな…………。」
微笑みながら。頬杖をつきながら。物憂げにぽつりとこぼした声はやっとシルマリルに聞こえるぐらいにひそやかだけど、その中身は特別意味があるものではないのだけれど、カップを両手で包みながらシルマリルはロクスを見るばかり。
彼にとって平凡極まりない色恋沙汰というものは特別らしく、それに振り回される自分にいろいろ思いながら年齢相応に楽しんでいるらしい。
激動を連れて来たはずのシルマリルなのに、間違いなく彼の運命だったのに、その性格は温厚で仕草は人間の少女と変わりない。
違うのは、人間の男としては並外れて美形ともてはやされるロクスの容姿には引きずられないこと。
ロクスの、人間風情の美しさなどたいしたことないと思わせるほどに天使様はお美しい。
「……来年も」
「え?」
「こうして君と薔薇の終わりを楽しむためにも、明日からがんばらないとな……。」
「……そうですね。」
冒険譚の終わりももう間近。1000年前、天使様は聖女の思いを置き去りにして天へと舞い上がった。けれどシルマリルはロクスの恋心を受け入れただけではなくて、ここに残りたいと望むほどこの箱庭世界を愛している。
約束を違えないのがシルマリルの誠実さで、それを拠所にしてロクスは日々を戦い続けてきた。
1000年前のエリアスと同じに、天使の勇者としてロクスはすべてを賭して戦い続ける。
1000年前と違うのは、ひとりの男として愛する女性の望みをかなえるために己のすべてをもって物語に幕を引こうとしている。
冬になる前に、物語を描き終わるために。
2008/11/17
ハロウィンあわせで書いていたのですが、間に合わなかったので少し手を加えてみました。