■□ sasanqua □■
×ロクス、アイリーン
キス表現あり
差し出された手鏡の中に知らなかった自分がいた。
「ほーら、やっぱり似合ってる。
シルマリルは美人なんだから少しはそれっぽくしないともったいないの。」
その台詞を聞きながら唇に触れる別の体温が、天使様に不思議な感覚をもたらす。
自分が映りこんでいた手鏡はすぐに目の前から奪われて、代わりに現れたのは同じ髪の色同じ瞳の色のあどけない姿の少女。奇遇にも背格好も、髪型までもが美しすぎる天使様によく似ている。
後姿だけなら区別をつけられる人間は少ないだろうなんて彼女らを見た人間に思わせてしまいそうなほどに似ている二人だけど、正面から見たらまるで似ていないのが不思議ですらある。
「少し口あけて。口紅はちゃんとぬらないとだらしなく見えたりするからね。」
そう言いながら天使様の唇に触れる丸い指先は鮮やかな紅色。肩にかかるくらいの金の髪と蒼い瞳の快活そうな少女、いや子どもと言えそうなほどあどけない姿かたちを持つ少女が美しすぎる天使様のあごを紅色に染まらない指先でわずかに上を向かせて丁寧に、丹念にやわらかそうな形の唇に紅を乗せ唇の形を作り続ける。
活発そうな、少し意地悪に表せば気が強そうな性格が、印象的な丸い目をはじめとした彼女の表情だけでなく、動きやすそうな服装に現れている。
かたや紅を差される金の髪蒼い瞳の少女はまるで正反対のたおやかさ。同じ金の髪でもその色合いは春目前の少しだけくすんだ日差しの色合いに似ていて、優しい陽だまりと同じにその髪の腰がなさそうでやわらかい。
けれどその表情は並外れて美しくあれども同じに少女の幼さ、あどけなさで強く、強く女の魅力を押さえ込まれている。
なのに唇に差す紅は大人の女性の象徴みたいなもので、少女の指で乗せられてゆく艶かしい紅がアンバランスな魅力を醸し出している。
ふたりを花にたとえれば快活な少女はさながら夏の空の下のひまわり、たおやかな少女の姿の天使様は水辺にそっと咲く水仙。似ている姿かたちを持ちながらまるで対極にいる少女がふたりで少々妖しげですらある戯れに興じている。
かたや人間、かたや天使、ふたりの立場は天と地ほどの差があるけれど、埋められない溝があるのだけれど、お互いにお互いを信じ慕い愛しているのは間違いない。
心が近くにある、寄り添っているだろうことは誰が見ても疑う余地すらない。
「それにしても、あなたって本当キレイね、シルマリル。」
「……似合いますか?」
「とっても!
ねえ、私にも同じ色……似合うかな?」
「ええ、きっと。
ぬってみませんか?」
「うん。……上手にやってね。」
「……丁寧にしますから、時間くださいね?」
そして天使様はお返しに姿かたちの似た少女に同じ紅を差す。
それは他愛もない少女たちの戯れ、崩れ行く世界の黄昏時の刹那の一瞬。
厳しすぎる現実から目をそらすかのようなやり取りだけど、ふたりの少女は明日からをさらに耐えるためこの日を戯れで浪費する。
少女の幸福を望めぬ世界を駆け抜けるために小さな手のひらで救い上げるために、たった一日だけ背伸びして女として今できる精いっぱいを費やして表情だけを華やかに彩る。
明日からはまた女を忘れるしかない。
季節としては吐いた息が白くなる。しかし本来違う次元に存在している天使様に人間と同じ感覚はない。
どんなに寒かろうと美しい線を持つ腕もあらわ、天使によっては胸だけ覆い腰もあらわな者もいるけれど、箱庭世界アルカヤに降りた幼い守護天使は腕と首から胸元以外は慎ましやかに覆い隠している。
宙に舞う存在感の大きさからは想像つかぬほど彼女は小柄で折れそうなのだけれど、その折れそうな体に、細すぎる頼りない両肩にひとつの世界の命運を乗せられている。
その美しい天使が、天に帰らずにアルカヤで日々をすごしている。夜の帳が下りた今も小さな小さな星のようなきらめきを振りまきつつ、別の勇者の下へと舞い降りた。
「こんばんは、ロクス。今お邪魔ではありませんか?」
昼間は同性、夜は異性。逆にすればいいのに、あどけない天使様に人間の慣例など無意味でしかない。
昼間の大都市から天使様は純白の翼を羽ばたかせて辺境の寒村へ、そこにいたのは美しすぎる人間の青年。
美しい外見を無駄遣いばかりしていたろくでなしの破戒僧がいつもと同じに暗い空を見上げると、いつもと同じに長い衣の裾を神々しく艶かしくほのかに光らせている少女の姿の天使様が、今まさに舞い降りようと星と純白の羽を舞い躍らせていた。
彼女の羽ばたきが起こす微風、それは微かなはずなのに抗えぬ強さを持っていて雪の中に静かに咲いている真白いサザンカの花びらまでももぎ取り散らして舞い上げて、彼女の来訪を常に心待ちにしている彼の緩く波打つシルクグレイの前髪を揺らし視界を開き彼の支配者の御姿を焼きつけるのだけれど、見上げる紫の瞳は顔を見せない美しい天使の表情を、期待を込めつつ見上げている。
そう。地上に降り立った瞬間の冒しがたい美しさと威圧感は天使として人の上に君臨するに足りる迫力すら孕んでいるから、僧侶でありながら女を値踏みしてばかりいたろくでなしは己の天使のご尊顔を拝む瞬間が好きで仕方がない。
ろくでなしが恭しく手を差し出すと、小さな手があたたかいそれにそっと乗る。大きいけれど線の細い男の手が淑女を迎える垢抜けた所作で未来の淑女を迎えるべく小さな手を包み込んだ瞬間、純白の翼が左右に大きく開いて爪先を大地につけた天使様が伏目がちな憂い顔を不埒な男に見せつけた。
しかし彼女が目を上げ男の紫の視線を捉えると、威圧感はたちまち愛らしさと言う正反対の印象を与えるからすれっからしは振り回されてばかりいる。
「雪が白くて美しいですね。」
他愛のない、挨拶程度の言葉を口にする少女の表情は微笑んでいる。けれど男の視線は一箇所に釘付け。
いつもの彼女とは違う唇の紅に釘付け。
紅を差すどころか己の魅力に無頓着で罪作りな少女が、意識したのか誰かに施されたのか唇に紅を差している。
それはまた別の罪を男の意識に植えつけることを彼女は知らない。
「寒いでしょうから、用がすんだらすぐに帰りますね」
赤い唇が笑いの形を持った瞬間、あどけない声が突然遮られた。
ろくでなし、不埒極まる人間風情。美麗で柔和ですらある外見や立ち居振る舞いからは想像もできないほど中身が荒んでいる破戒僧は、畏れ多くも天使様を想い恋焦がれその清らかなる唇をいただいた存在で、それを踏み台に調子に乗ったのかそれとも衝動的、本能的か、見かけだけならあどけない少女の天使様の唇を唐突に奪い男の獣性を剥き出しにするかのごとく小娘を捕らえ抱きすくめる。せっかく昼間綺麗に艶かしく美しく唇に乗せられた紅はあっけなく線を消され可憐な唇からはみ出し色あせて――――それでも男の衝動は止まらなくて、大の男が、女に不自由してなさそうな容姿の青年が貪るみたいに何度も何度も顎の角度を変え小娘の唇を奪いつくし我を失い堕ちてゆく。
堕ちた聖者をさらに深みに落とすのは、予想などできようはずなどない天使様だった。
唇を奪われた天使様は不遜極まりない人間風情に天罰の雷でも落とすかと思いきや、恋する少女より従順で。
美しい青年に迫られ押し切られてついに陥落した少女と同じに男の腕の中で抗わず、なすがままに身を任せていて……
「……台無しになっちまったな。でも君に紅い唇は早すぎる。」
男の唇で、可憐な形持つ唇だけでなくそのまわりまで紅で激しく汚された苦しげな少女の表情は卑猥ですらある。少女の小さな体を捕らえていた長い男の強すぎる腕がようやく解かれ大きな手は火照る頬を包み込み、潤む蒼い瞳に絡みつくような突き刺すような紫の眼差しはその気になった男の攻撃性を隠そうともしない。
天使と人間と言う相容れぬ存在でありながら二本の糸は交差してしまい縺れてもう解けない。
蹂躙しつくすかのごとく喰らい尽くすかのごとく貪った男の唇も当然同じ紅で染め上げられて、男はそれを拭おうともしない。
口元を紅にまみれさせつつ青年は妖艶に笑うばかり。
「紅い唇は男を誘ってるって勘違いさせることを覚えとくといい。」
「っ」
「それとも……綺麗に紅が取れるまで拭ってやろうか? ……さっきと同じに。」
日差し色の髪を指に絡めつつ小さな顔を、火照る頬を大きな手で包んだままさらに艶かしく、妖しげに、誘惑の声と表情でさらに踏み込んだ男は不敵に笑いながらも、打って変わって紳士の振る舞いを覗かせながら、まずは己の口元にべっとりと擦りつけた紅を手の甲で拭い、続けて天使様の紅は指先で拭う。――――唇のそれだけはそのままに。
「僕に同じ色はさすがに似合わないな。」
そっと触れただけの初めての唇の感触など吹き飛ぶほどの激しさで、同じ男が天使の記憶を上書きしてしまった。
彼が天使の愛した男。
美麗で柔和で激しく不遜な若い破戒僧。
激しすぎる口づけの後、男の指先がすぐそばのサザンカの花に伸び、たった今少女の姿の天使の唇を奪ったと同じに咲きかけのそれを手折り、花芯の黄色をそっと抱く真白い花を、闇の中でもほのかに光を放つ日差し色の髪にそっと差しその手でもう一度腰のない髪をそっとすいた。
やわらかすぎる髪は男の指に従い流れるような光を放ちながら、離れる彼の指を惜しむかのように毛先が遊び揺れてなにごともなかったようにいつもの形に戻る。
白いサザンカの花言葉は「愛嬌」、そして「理想の恋」。彼の天使は寒くなるばかりの季節に咲くサザンカに、そして寒いばかりの季節に花開く小さな水仙に似ている。高みに座するばかりではない愛嬌がひねくれた男を魅入り、彼はようやく恋らしい恋に囚われた。
痛みも甘さも苦味もすべて与える小さな天使様に、美しすぎる人間の男は屈服させられ虜にされた。
そして花の顔が損なわれ目元に傷を刻まれても変わらずに微笑む天使に、人間は強く女を感じすべてを裸にされた。
「他の男に見せてないだろうな?」
「あ……あなた、が、最初……です」
「じゃあしっかり拭っておこう。もっとも、さっきの口紅で汚れた様子を見せつけて思い知らせるってのもいいけど、それじゃきっと君を困らせるだろうし。」
至近距離で聞くかすれた声で耳元をくすぐられて天使様は今の唇よりも頬を赤らめた。彼女が愛した男は人間の激情を温厚で警戒心薄い子どもに知らしめ見せつけて彼女を束縛する。
矮小なる人間風情が、幼いとはいえ天使様を己の存在に縛りつけ手放さない。
天使様は人間に振り回され囚われて強く引きずられる。
ほのかに光を放ち続ける天使様の髪に差された闇に溶けないサザンカの花が冷たい風に揺れる。
2009/02/24