■□ 並木道 □■
×ロクス
ちょっとだけED後
つむじ風が冷たい季節になった。
石畳、土ぼこり舞う地面、草を踏みしめただけの道、それらが黄色に赤に彩られる季節は短くて、駆け足ですべてが白く染まる季節がやってくる。
巡礼者と観光客、その中に聖職者や市民が行き交うアララスの、大聖堂に通じている大通りの石畳も例外ではなく、一面たんぽぽ色に染まっていた。
聖都アララス。聖なる都。宗教国家エクレシアの首都で、1000年の間宗教の総本山である教皇庁が座する場として並々ならぬ栄華を謳歌してきた。そこには大きな宗教関連施設がひしめき合い、人が集まる場として大きな流通が生まれて商業的価値もかなりのものを有するようになり、そして宗教と美術は切り離せない密接な関わりを持つ流れから芸術的な場所としての価値もある。
大小の聖堂を飾る壁画もステンドグラス群ももはや価値などつけられなくて、現在も有名な聖者の名を冠した聖堂の周囲にはイーゼルを立てて絵筆を取る画家たちの姿も多い。
それは、見慣れた光景。紫の瞳はそんなアララスの姿を23年間ずっと見続けてきた。
去年までは変化にさしたる意味などなくて、四季の移り変わりに意味などなくて、大聖堂に通じる大通りが自分の誕生日を過ぎた頃からたんぽぽと同じ鮮やかな黄色に染まることを、もしかしたら初めて気づいたかもしれない。
己の世界がどれほど色褪せていたのかを気づかされることが増えた紫の視線の先には大聖堂とそれまでつながるたんぽぽ色の道と、黄色と戯れる日差し色の髪が鮮やかに存在している。神様が降りる場に通じる道で遊ぶなんて罰当たりな、と思う向きもあるかもしれないけれど、日差し色の髪の少女はまるで天使のようで、黄色い落ち葉を踏みしめ戯れる彼女に目を奪われる者は山ほどいても誰一人とがめなかった――――ただひとりを除いては。
「……よく飽きないな。子どもじゃあるまいし、さっきからずーっと小一時間は落ち葉踏んで跳ねて撒き散らしてとそれの繰り返しでよく飽きないもんだ。」
その声が自分に向けられたものだとすぐに気づいたのだろう、日差し色の髪がひときわ大きく舞い声の聞こえた方を振り返る。振り向いた小柄な少女は人ではないかもと疑惑を残しそうなほどに美しすぎて、蒼い瞳がくるんと動く様が愛らしいのだけど、そんなこと意にも介してない声の調子で続けながら、紫の瞳を持つ銀の髪の青年は彼女に歩み寄った。
「あとは枯れちまうだけのこんな景色なんか、天界のきらびやかな風景とは比べようもないんじゃないのか? そんな所で暮らしてる君がそこまで面白がる理由がわからないよ。」
ゆるく波打つ銀の髪が木枯らしに弄ばれて、彼は視界のそこここで舞い踊る前髪に邪魔そうに視線を動かすとそれを片手で押さえた。柔和な印象を見たものに抱かせるどこか優しげな顔立ちに紫の瞳だけがどこか鋭さというか荒さに似た何かを隠しているけれど、一見しただけでそれを見抜けるものはいないだろう。
いわゆる美青年と言う容姿の青年なのだけど、惜しむらくと言うべきか彼はこの木枯らし吹く都会の大通りの中でも風の冷たさに肩をすくめる必要もないほどに厚いらしい紫色の金十字の刺繍煌く上着と、その下の真白い法衣で身を包んでいる。
しかしここは聖都アララスで、簡素なもの豪奢なもの問わず法衣を纏った男性は老若問わずいくらでもいる。そういう意味では彼は目立ちはしても別段不自然でも珍しくもなかった。
「天界にはないから素敵なんです。あなたたちの知るとおり、天界は常緑の楽園だから植物が枯れることはなくて。
地上の植物たちは役目を終えた後でも綺麗な色を残すことを本では読んで知っていましたけど、見るのは初めてなんです。」
「ああ、なるほど。見たことなくて物珍しい、か。」
「私、アララスって大好きです。」
「全能なる神へ人々が祈りを捧げる場、として?」
「またそういう物言いをする……あなたが育った町なのでしょう?」
「育った町だから、ありがたみがわからない。そういうことさ――――わっ!?」
自分に向けて叩かれた憎まれ口に似た軽口に、彼女は言い返せなかったのか言い返しても埒が明かないと思ったのか、自分が先に言った台詞をそっくりそのまま悪い解釈で言い返されて、彼女は少し怒った顔で身を屈め足元に積もっていた黄色たち――――銀杏並木の落ち葉を両手で彼に向かって跳ねかけた。
「この……!」
「少し飲みすぎなんじゃないんですか、ロクス?」
「飲みすぎ関係あるかこのバカ!!」
「あ、そうですね。
この風景を23年も見続けててなんとも思わないんだったら確かに飲みすぎなんて関係ありませんね?」
「天使のクセに嫌味で返すな!
……ったく顔は愛嬌いっぱいのくせに結構キッツい性格してやがる…………。」
彼は銀の髪に広い肩に何枚も落ち葉を乗せたままさらに憎まれ口を叩いたけれど、言い返すというほどの強さはなかったらしく彼女は微笑みで受け流した。
その小さな手には銀杏の葉が一枚摘まれている。
彼女にしては珍しいいたずららしく、彼はあどけないいたずらにそれ以上目くじらを立てずに男性にしては細く線が美しい手で黄色い落ち葉を払いつつ、改めて美しすぎる少女を頭のてっぺんから爪先まで一通り眺めた。
「しかし町娘と同じ服を着ても同じに見えないってある意味すごいな。」
彼の言葉は嘘でもおべんちゃらでもなくて、美しすぎる彼女を服がさらに引き立てていると言うわけではない。町娘がこの時期に着るような綿花のセーターと少し厚手の上着、鮮やかなチェックの長いスカートと足元はしっかりした編み上げ靴。ここは「聖都」アララスで、町を歩いている娘たちの方がもう少し華やかかもしれないほどに地味な服装。
町娘と違うのは、彼女は相当小柄なようで、セーターの袖はあまり小さな手は指先が見えるぐらいまで隠れてしまい、長すぎるほどの丈のスカートはおそらくどこにでもいるだろう少女ならば少し長いくらいのものに違いない。それが顕著なのは青年のそばまで彼女が戻ってきたからで、彼もそのどこか中性的ですら、優美ですらある柔和な顔立ちの割に背はすらりと高く肩もしっかりしている様子で、そのことが彼女の小柄さを際立たせていた。
「ありがとうございますロクス、あなたに服を用意してもらったの、これでえー……と……」
「4着目。
君は元がいいから何でも似合うし、プレゼントするのも結構楽しませてもらってるよ。」
「ラツィエル様やレミエル様にお願いするとどうしても豪華なドレスやワンピースになってしまって、結局悪目立ちする気がしてならなくって……」
「大天使様の着せ替え人形、か。君もいろいろと大変なんだな。」
「天界」「大天使様」――――彼女の口から、時に彼も口にする言葉の端々から出てくる単語は、いくらここが神に祈るための場所と言っても、少々現実離れしすぎている。
それも当然で、
「でも、大天使ラツィエルも四大天使ラファエルの名も、僕にはまったく実感がない。
天使シルマリルの方が僕にはよっぽど現実だよ、こうして目の前にいて落ち葉踏んで遊んだ挙句にそれを僕に投げつけるんだからな。」
そう。彼女は天使シルマリル。危機に瀕した事にまだ気づかない人々が暮らす大地アルカヤに、四大天使ラファエルの命を受け舞い降りた純白の翼が美しい慈愛の乙女。
彼女の慈愛は僧侶ロクスが頭ごなしに否定し奇麗事と嘯く現実味のない優しさではなくて、文字通り無意識のうちにわが身を削ってまでも体現されていて、優しいことも生易しい話ではない、と少々中身の歪んだ聖職者の青年だけど彼女の優しさと存在意義だけは認めるようになった。
戦う力を持たない彼女に代わり、ロクスが天使の剣となってもう少しで一年が経とうとしている。聖職者でありながら己に襲い掛かってきた者に対しては容赦のない戦いぶりを見せ、それが剣と言う鉄の塊を手にした騎士であろうと人ならざる脅威であろうと一切の区別の差別もせずに叩きのめせる力を持つ彼は祈るばかりの僧侶ではなくて、いずれこの聖徒すべてを、エクレシアと言う国家すらも背負わされる資格をただ一人有する存在――――「教皇候補」。
……いつまでも「候補」の二文字が取れないのはご愛嬌。
大きすぎる重圧と、半面、保身に走り私腹を肥やすことを趣味とし体裁だけは一部の隙もなく整えた無責任な聖職者たちに対する反発と絶望が彼を背徳と放蕩に走らせて、今となっては取り返しがつかぬほどに彼は汚れてしまっていた。
遊びを遊びと割り切れる女たちと流した浮名、一部の信者にとって血と汗とも言える布施だろうと区別せずに浪費し続け、足りなくなればその優れた容姿と決して逃れられぬ立場を利用し金を借りて、ついに聖徒から放逐されることとなった。
「まあでも、少々お転婆なくらい許せないでもないし。
僕を選んだのが愛嬌も隙もそこそこにある君だったから、君が天使という現実離れした存在だろうと僕らはうまくいってるんだろう。
勧誘だってあまりにもいっぱいいっぱいだった君が不憫だったからうなずいたんだし。
年明け早々二日酔いで頭が痛い朝っぱらから取り澄ました野郎なんかが『お前は今日から天使の勇者だ』なんて言って来たら寝言は寝てからにしろ、って追い返しただろうからな。」
そう。彼にとって天使の降臨は「新しい肩書き」「暇つぶし」だった。
放蕩が災いして逃れられぬ教皇候補の肩書きを封じられて一介の僧侶となったと思う間もなく、今度は人間ではなく、明らかに美しさからして次元が違う上位の存在の天使様が、剣を持たない彼女の剣として自分を選んだなんて、そんな劇的な展開なんて大衆文芸でもあまりにも荒唐無稽すぎてあるものじゃなさそう。それでも彼女の言葉はすべて本当で、こんなに嘘のない存在なんて彼には初めてで、最初は猜疑心と好奇心から始まったのだけど
「君は時々天使だってことを忘れるほど子どもっぽい。……並外れた美人なのに、それに気づいた様子も承知の上で振舞ってる節もこれっぽっちもない。
今日だってそうだ、たってのお願いがあるって僕に珍しくねだったと思ったら、その中身はこれだもんなぁ。」
「だ、だって……天界から戻ってきてる途中空から見たアララスがとっても綺麗でどうしても見たくなって……」
「はいはい。君の頭の中の歳は子どもなんだって思うようにしたから気にしなくてもいいよ。
けど、これもあとひと月もしないうちに真っ白になるだけだぞ?
君だって覚えてるだろ、年明けの真っ白なアララスを。辺境が近いからアララスは夏の暑さからは想像できないほど寒いぞ。」
「雪も好きですよ。太陽が出るとキラキラ光って綺麗なんですよね。」
「……はいはい。
僕は寒いのは嫌いなんだけどなー。」
今となってはどういう事情か離れられない微妙な関係が続いている。
恋多き男の彼にとって天使様は恋の相手ではないし、天使様に至っては論外。
それなのにお互い相手のそばは心地よくてよく一緒に行動している。
時にはお互いに他愛もないわがままを口にしてそれにつきあう関係が、もうそろそろ一年を迎えようとしている。
生真面目すぎる天使様とすれっからしの破戒僧、お互いに相手のどこがいいのかなど説明できなくても一緒にいることが心地よくて、ただ一緒にいるだけの時間を無為に重ねることが少しずつ増えてきた。
まるで無為な時間を重ねてなにかの意味を見出そうとしているかのように、ふたりはじゃれあうみたいに寄り添い続ける。
それから2回の冬が過ぎて。
「今年ももう終わりなんだな。」
両腕いっぱいに紙袋を抱えている教皇候補と。
「今年も綺麗な黄色に染まりましたねー。」
細い肩をショールで包んだ美しすぎる天使様が。
「君はこの通りが大好きだもんなぁ。毎日毎日買い物と言いながら散歩するほどに。」
「か、買い物は嘘じゃないってわかったでしょう?今日のそれだって今晩あなたのおなかに入るものなんだし」
「……いつもならパンは自分で焼いてるじゃないか。
相変わらず嘘はつけないわ言い訳はへったくそだわと成長しないな。」
かつてと同じに並んで歩いている。
「僕は君の作る食事が好きだから、正直パンを買うとか言って散歩に出る口実にするくらいなら、パンを買わずに正直ーにそのお散歩に誘ってくれた方がいいんだけど。」
足元でつむじ風に踊る銀杏の葉はずいぶんまばらになってしまった。
銀杏の木の本数が減ってしまった。
「毎日役目は真面目にこなしてるし、酒も量が減ったし贅沢したいとも思わなくなったんだから、君の作る食事が楽しみだって言うささやかな楽しみくらい気がすむまで味わわせて欲しいんだけどなぁ。」
教皇候補も面差しが様変わりした。右目に刻まれた傷跡が、優美で中性的ですらあった彼を明らかに男性として見せるようになっていた。
それに――――左手の薬指に銀の輪が光っている。
聖職者は妻帯できない戒律があるはずなのに、彼の指輪は誓いの証に他ならない場所で光っている。
「味気ない聖職者の暮らしだろうと君さえいればそれでいいって思えるほどの楽しみなんだ。そして君もそれをかなえてくれたし、教皇庁の古だぬきどもも僕を選んだ君の慧眼には結局逆らえなかった。」
「あなたったら……」
「矮小なる人間風情が天使様を手に入れるためには自分自身を引き換えにするぐらいの覚悟が必要なんだ。でも僕はそれでも今幸せだって思ってる。
……君と僕と、生き残った僧侶たちでアララスを復興できるってこと、前の僕ならくだらない面倒だって思ったことだろうけど、人間って変われるもんだなぁ。2年前の僕はまさか自分が2年も経たないうちに僧侶のくせに妻帯しちまうなんてこれっぽっちも思わなかっただろうな。
しかも妻に選んだ女はどういうわけか」
「知ってる女性の中で一番子どもっぽかった。」
「けど一番美しくて誰よりも優しい女性だ。
……それにしても、2年前の話は君の勝ちだ。確かにこの通りの美しさは戦火に焼かれて並木の本数が減っても色褪せない。」
かつて天使様だった彼女の左手にも、同じ誓いの指輪が光る。
大それたことに破戒僧は最後のわがままとばかりに、天使様その人に恋焦がれ彼女を我が物にと願い強く強く望み描いた。それが彼の力となり天使様の願いはかない、そして誠実な天使様は戒律も種族の差もなにもかもを乗り越えて飛び越えて激動を駆け抜けて天へ翼を返し小さな女性になった。
彼女は彼女のままで自分の望みをかなえてくれた彼への気持ちが愛情に変わり、彼を男性として受け入れた。
「……この並木から拾った銀杏の実を苗にしてここに戻すまでにはまだ時間がかかるけど、君が大好きな並木道がいつか戻るようがんばらないとな。
もっともその頃は僕も君ももういないだろうけど……。」
「ロクス。」
「ん?」
「私はこの通りが大好きです。でも今考えたら、一緒に歩く誰かがいるから好きになったんだと思います。そしてあなたは秋も終わりが近くなると、毎日の話なのにつきあってくれて……今ではあなたと歩くこの道だから好きです。」
「……ありがとう。」
素直すぎる彼女の言葉は時に男の胸を鋭く貫くかつての個性はそのままで、素直すぎる彼女の言葉は男には甘く響いて余韻を残す。
しかし今それを耳にし照れくさいあまりにうつむく男はたったひとり。
重い戒律を背負う男は、聖職者である前にひとりの男であることを選んだ。
彼はか細い、小さな彼女を守りたい男の望みを最も重く見た。
「来年は」
2年前と同じに日差し色の髪が木枯らしに舞う。
彼女は一緒に舞い上がった黄色を愛しげに見上げながら、髪を押さえて言葉を続けた。
「ここの黄色が今年より濃くなるんですね。」
「ああ。
2年前の僕なら舞い踊る銀杏と共にぜひ一曲、なーんてカッコつけたところだけど――――君と真面目にやってたせいで簡単な踊りもすっかり忘れてしまった。
この調子なら口説き文句すら忘れちまったかな。」
「忘れてもあなたはあなたです。私はずーっと一緒にいます。」
愛らしい声で。てらいもなく微笑みながら言い切る彼女だけど、男は違う。
すぐに返事が返せずにうつむき照れ笑いでごまかすぐらいしかできない。
あれだけ饒舌で遊び上手だった男なのに、口説き文句を全部忘れることで一番大切な存在を手放さずに手に入れた。
2年前と同じように歩きながら、明らかに2年前とは変わってしまった。
愛してるなんて言えなくなってしまったけどその気持ちは今が一番強くなった。
2008/12/06