■□ 狭間 □■
×ヴァイパー、ロクス

 …困った。右も左もわからない。
シルマリルは右見て。左見て。そしてうなだれてため息をついた。がんばっているシルマリルに、とラファエルが美しいクロスをくれたから、彼女は少しの間考えて、それがもっとも似合う男の元へと舞い降りたのだけど――――勇者たちの私生活すべてを把握しない、監視が目的ではないシルマリルの配慮が裏目に出た。
十字を身につけて似合うと言えばやはり僧侶、シルマリルは己の勇者である僧侶のロクスに、ラファエルから授けられた美しい十字を渡すと決めて人界に舞い降りた。ロクスはこの町のどこかにいるはずなのだけれど、どこにいるのか詳しいことまではわからない。
彼と言えばやはり酒場だろうか、でもまだ日も高いし昼間から飲んだくれるほどの道楽者でもないし…どうするにしても、酒場も宿屋もどこにあるかわからない。
シルマリルは考え込むあまり口もとに丸めた手をやった。それはあどけない子どもが見せる仕草で、美しい少女の姿を持つシルマリルには不似合いのはず。けれどおそらく子の場にロクスがいたら苦笑いなんてすることだろう。彼に言わせればシルマリルは美しいだけの子ども、女性として見ることはできないらしい。
 それにしても…舞い降りた場所の空気の悪いことと言ったら。右を見て左を見て陰鬱な気分に襲われる、シルマリルが舞い降りたのは小さな町の貧民街だった。
今にも崩れて大事になりそうなあばら屋と力のない視線を持つ人々、澱んだ空気。
この町の入り口に入ってすぐに開ける牧歌的な小さな広場とは対照的なこの場の雰囲気に、シルマリルは今は為す術もなく辺りを見回すばかりだった。
 このまま帰ろうか? …本音を言ってしまえば、ずいぶん迷ってしまって時間を無駄にしたからロクスに会ってきちんと手渡して帰りたい。
純情可憐な天使様のシルマリルなんだけど中身はどうしてどうして実に有能で、それを宝の持ち腐れにしないだけの生真面目さも持ち合わせている。しかし天使としての楚々とした振る舞いの中に見え隠れする少女のような裸の彼女を、ロクスは引き寄せず、手放さず。
シルマリルは矮小なる人間ごときに子ども扱いされてばかりなのだけど、最近ではロクスの軽口を都合よく聞かなかったことにしたり端折ったりとずいぶんうまくつきあうようになった。
 しかし時間は非常に貴重なのは誰でもそうで、このまま右往左往しているわけにも行かなくて、彼女には大きな責務があって、今こうしてここにいるのも、まずは彼女の役目ありき。天使シルマリルの勇者ロクスへ、ラファエルより授かりし十字を届ける――――いずれ教国の象徴、教皇の座に昇る見目麗しい青年に、その尽きぬ輝き持つ十字はさぞ似合うことだろう。彼がシルマリルの目の前でそれを首にかける様を見届けるまでは帰るに帰れない。シルマリルは意を決してとことこと薄暗い貧民街のさらに細い路地へと入っていった。
そしてすぐにとことことそこから出てきた、引っ込んですぐに出てきたシルマリルの背には、彼女の象徴でもある純白の翼はなかった。
 帰るつもりはないらしく、どうしてもロクスに逢いたいのかそれとも早く聖なる加護授かりし十字を彼に渡して力に変えたいのか、彼女の選択は「道を聞く」。
しかし彼女の勇者など限られた人間以外に彼女の姿は見えないから、人間の姿を借りるしかない。
 そして彼女が姿を現した瞬間、路地にたむろしていた一団が目の色を変えた。
それは目つきの悪い少年や青年の一団で、シルマリルを眺め指さしてニヤニヤといやらしい笑いを浮かべている。そんな彼らの様子を見てシルマリルが軽率な自分の行動に気がついた、ロクスが何度も「自分が美しいことを自覚しろ」と言い続けた、釘を刺し続けた懸念が現実となる。

「これまた珍しい所で会うな。
 美人がこんなとこをふらふらしてちゃ危ないぜ。」

 しかし柄の悪い一団はシルマリルにちょっかいを出すには至らなかった。
彼女の小さな肩を叩いた大きな手、低い声。その口ぶりから天使様のお知り合いなのだろうけど、それにしてはずいぶんと柄がよろしくない。
「クラレンス!?」
 その声に覚えのあるシルマリルが素っ頓狂に彼の名を呼ぶと、不良たちはまるで喧嘩に負けた犬のように顔色を変えて彼らに背を向けた。それに追い打ちをかける、駄目押しとばかりにヴァイパー…クラレンス=ランゲラックのひとつしかない目が同類らしき不良たちを一瞥した。
 クラレンス=ランゲラック。通り名は『ヴァイパー』。毒蛇などと不穏な通り名を持つ隻眼のギャンブラーは、ロクスと行動を共にしているとよく関りあいになる。どこまで本気なのかと言った具合の飄々とした台詞回しの男なのだけど、なんでもロクスのことを気に入っているようで、そしてごく限られた人間にしか見えていないはずのシルマリルの姿が見えている。
シルマリルが見えているだけじゃなくて、クラレンスは彼女のことをそれは気に入っているらしく、ロクスといる時のようなささくれ立った嫌な笑みを、彼女の前では少年のような悪戯っぽいそれに変える。
そして今日もシルマリルの危機に絶妙のタイミングで現れた、しかし彼も不意にシルマリルに出会ったらしく笑みはまだ見せていない。
「町は小さいがスラムの性質の悪さは俺が補償していいほどだ。
 悪いことは言わない、お嬢さんはロクスの隣に帰りな。比べりゃあっちの方が幾分ましだ。」
 ロクスとはまた違った性質の悪い男。どちらも共通しているのは、シルマリルの前では紳士でいること。ロクスもシルマリル相手には色々容赦はないけれど、洒落にならないようなことは一切しない。
このクラレンスに至ってはその悪そうな見かけによらずシルマリルに優しく実に紳士的な距離を保ち続けている。今も肩を叩いて彼女が振り返るとあっさりと手を離してシルマリルを見下ろした。
小柄で美しい少女のシルマリルと、長身で肩幅もあるクラレンスは、彼女とロクスとはまた別の意味で並んでいると絵になるふたりだった。クラレンスは強面と言うか近寄りがたい雰囲気を持っているんだけど目鼻立ちは整っていて男っぽい顔立ちで、いかにも女性的なシルマリルとはある意味似合いのふたりにも見えた。
「あー…その、ロクスがー…どこにいるか、わからなくて……」
「はぐれたのか?」
「いえ、私が彼の居場所を確認しないで会いに来たせいで…。」
「ふん、うらやましい話で。
 まあいい、ロクスがどこにいるかわからないのなら、ここから出るまで俺から離れるんじゃないぞ。これでもこの町じゃそれなりの顔でな、俺が隣にいてお嬢さんに手を出そうなんて考えるヤツはまずいないだろ。」
 先ほどの不良たちの態度の理由はそれで、帝国と六王国領の境目にあるこの町はヴァイパーのふたつ名を戴くクラレンスの縄張りみたいなもの。この町で「ヴァイパー」の隣にいる女を、彼を通り名ではなく「クラレンス」と呼ぶ女をどうこうしようなどと思う者などいない。
クラレンスは彼の外見には似合いの、しかし彼と彼女の関係としては珍しいことに大きな手でシルマリルの肩を抱くなんて動作を見せた。
ただそうしたいと言う訳ではなくて、そうすることで、自分の存在感でシルマリルを守れる、だからそうしただけの話に過ぎない。
「それにしても……」
 ひとりではないと言うことは天使だろうと心強いらしい。シルマリルは顔見知りと言える仲になりつつあるクラレンスに声をかけられたことで余裕が生まれ彼の不埒な行動に安堵なんて覚えながらてやっとあたりを改めて見渡した。そしてようやく思い出した荒んだ重苦しいここの現実に、彼女は思わず眉を歪めた。
「スラムは初めてなんだろ?」
「え?」
「貧乏と酒と薬、抜け出せない袋小路……当たり前だが人としての心なんてもんはすり減ってそのうちなくなっちまう。
 これが現実さ。ここだけの話じゃない、あちこちに神のご加護も届かない連中があふれてる。」
 クラレンスは彼女の言葉の続きが読めたらしく、怖いほどに的確な問いをシルマリルに投げかけた。そしてこの空気を知る男がやりきれない現実と言うものを語りだす。
自分もその中にいるひとりであるクラレンスがひとつしかない目で狭い空と薄暗い空間を交互に見、笑みを消さずに当たり前のようにさらりと口にした言葉に、シルマリルが耳を疑う。
彼はこの状況をまるで己の日常のように口にした。名前以外素性のわからない青年だけどシルマリルにはなぜか優しくて、なぜか天使である彼女の姿が見えていて、シルマリルはいろんなことを疑いながらも彼を警戒できずにいる。
今だって困り果てていたシルマリルに大きな手をさしのべてくれた、不良たちに目をつけられた天使様に危害が及ぶ前に隣に立ち小さな肩を抱いてその存在で守っている。
「…クラレンス、あなたも……?」
「ん? いいや、俺はただの不良上がりだ。
 悪い遊びを繰り返してるうちに顔が売れただけだ、あんたに心配してもらえるような男じゃない。」
 言いながら彼は少年のように明るく笑う。その言葉と笑顔の食い違い、違和感がシルマリルには悲しかった。
「…まああんたはこんな俺でもそんな顔をしながら心配してくれるからな。
 好みの美人だから男の下心で守ってやろうなんて思っちまうけど、あんた相手だとそれ以前の話なんだよなぁ。
 こんな俺を心配してくれるのは、この世界の中で多分あんたひとりぐらいだろう。」
「クラレンス?」
「さて…と。この時間なら酒場は開いてないし、宿を当たった方が早いだろう。
 恋敵のもとにあんたを届けなきゃいけないなんて癪だが、ロクスは離れてる時間を楽しめる余裕なんてなさそうだ。
 ヤツは気も短いしお嬢さんには甘ったれてるから、このことがばれたら俺じゃなくてあんたに八つ当たりなんてするだろうな。
 手放したくなくてもあんたを困らせたくはない。」
 悲しげなシルマリルとは正反対にクラレンスは思いがけず彼女に逢えたことが嬉しいのだろう、独特の口調で暗い話を明るく語り、それもさっさと切り上げてシルマリルの目的を遂げさせるべく顔を上げた。
「――――っと。」
 だが、貧民街を後にしようとしたふたりだったけど、突然クラレンスが片腕を伸ばしてシルマリルを止めた。
彼の顔が向いている方にシルマリルが目を向けると、昼日中から酔っぱらっている様子の男が、片手にナイフなんて携えながらふらふらとおぼつかない足取りで歩いているのが見えた。
こういう空気に慣れているクラレンスは無意識のうちにシルマリルをかばう形で立っている。
「ああ言うのも日常茶飯事だ。用心しろよ、あの男は酔っぱらってるのには違いないが、酒じゃなくて薬だ。」
「え!?」
「シッ! 刺激するな、暴れ出すぞ。」
 低く声をひそめてクラレンスが言うが早いかそれとも向こうが先か、クラレンスの読み通りに男は奇声を挙げながら手にしたナイフを振り回し始めた。クラレンスのひとにらみでシルマリルから目を逸らした腰抜けの不良たちはその男を面倒そうな鬱陶しそうな眼差しで一瞥してさっさと逃げていったけど、その見掛け通りに剛胆なクラレンスは刺激せぬようにとその場から動かないことで却って目立ってしまった。
片目しかない体格のいい目立つ若い男が、この世の者とは思えぬほどの美少女を背中に隠している様子は嫌でも目立ってしまって、男は路地にちらほらいる人間の中からクラレンスとその後ろに隠れているシルマリルを標的に選んだ。シルマリルは何がなんだかわからなくて、クラレンスはこういう場面を山ほど体験してきているから別段驚くほどのものではなくて、そんな様子が却ってふたりを目立たせてしまっていた。
 こんな場面に慣れすぎてるクラレンスは自分たちが狙われたことをすぐに察したが、自分ひとりではなくてこんな場面など縁のないシルマリルを後ろに隠しているから下手なことは出来ない。いつも笑みの形に唇を歪ませている男が笑みを消してシルマリルが動くのを止めた腕で彼女をかばいながら男と距離を取り続けるんだけど、そうすると男も彼を標的と定めて追いかけてくる。
 そして男が唐突に動き出した。意味のない奇声を挙げながらナイフを持った手を振り上げてついにクラレンスに襲いかかった。狙われたクラレンスは驚いた様子もなくシルマリルを軽く突き飛ばしてこの場から離れさせ、男の標的を自分ひとりにする。
突き飛ばされることで危険から逃がされたシルマリルはよろめきながらクラレンスを振り返り、何か言おうとしたが、一瞬自分を見やったクラレンスの視線に唇を、踏みだそうとしたつま先を止められた。
…不慣れすぎる自分の感情だけで行動してはいけない。自分が悲鳴を挙げたりしてはクラレンスをさらなる危機に晒すかもしれないし、彼がおとりを買って出たのにそれを無駄にしてしまう。
シルマリルに出来ることと言ったら、何か言いたくても言えないふるえる唇のままでクラレンスを見守ることだけ。万能なはずの天使様が、ただの少女のように慌て怯えている。
それをかばい守るのは彼女の勇者ではなくて、隻眼の大柄な不良青年。その外見にそぐわぬことに美しくも幼すぎる天使様を、己の経験で守ろうと鈍い光を放つ鋭いナイフの前に身を置いた。刃傷沙汰だというのにこの場は不自然にも静かなのは、おそらくこれが日常だから。
クラレンスの言葉の通り、これが日常だからに他ならない。
いつものこと過ぎて、己にその切っ先が向かない限りだれも気に留めない。
 シルマリルはとうとう体までふるえ始めた。彼女の知識の中に、こんな日常などない。
クラレンスは身構えることすらしない。身構えることで敵意を表に出すことを避けている。片手を腰に、もう片手はぶらりと下げたままで、男が動き距離をつめると彼も軽い足さばきでつめる前の距離を取り直す。そうしながらも彼は男とシルマリルの距離を開け続け、今はか弱い女のシルマリルを守りつつ相手の隙をうかがい続ける。
「―――――クラレンスっ!!」
 とうとうシルマリルの金切り声が空気を裂いた。男が突然クラレンスに襲いかかり、闇雲に振り回されたナイフの切っ先が、クラレンスの左掌をかすめてぱっくりと赤く口を開いた。当然わずかとはいえ血飛沫が舞い、クラレンスが切りつけられた瞬間にシルマリルが思わず挙げてしまった金切り声が彼の耳にも届いたけれど、彼はあいかわらず、己の掌が切り裂かれたというのに顔色ひとつ変えずに、右手をわずかに振り上げた。
「フンッ」
 聞こえないほどに低い声とともに、クラレンスが襲いかかったことで体勢を崩した男の首めがけて手刀を振り下ろす。隻眼でも喧嘩慣れした男の体に刻まれた経験がものを言い、ナイフが石畳に乾いた音をたてて転がり、直後手刀を叩き込まれた男が悲鳴を挙げる暇ももらえずにその場に倒れる。ロクスよりも長身の男から繰り出された攻撃は相応の威力を持っていた、「ケンカは弱いんだ」などとロクスに言ったあの言葉とはまるで違うクラレンスの立ち回りに驚くよりも先に、男の手からナイフが離れた次の瞬間に彼女は自分を守り果せたクラレンスのもとへと駆け出していた。
「クラレンス、クラレンス! 手を、掌を!!」
 その呼びかけはもはや悲鳴で、言われたことでやっと気がついたかのような他人事みたいな表情でクラレンスが己の切りつけられた掌を見る。しかしやはり彼はそれで顔色ひとつ変えずに鮮血滴る掌から視線を外し今にも泣き出しそうなシルマリルを見た。
クラレンスは己の無事…ではなく、守ると口に出して約束したシルマリルに何事もなかったことに少しだけ安堵して、思わずその場に疲れ果てた顔で座り込み大きく息を吐いた。
『心配される心地よさ』、シルマリルの狼狽ぶりとは打って変わった様子で、切りつけられた当事者のクラレンスは笑いながら掌から赤い血を滴らせながらも無事な方の手で、先ほど男を落とした手で、駆け寄りともに地べたに跪いたシルマリルの頬に触れる。
「お嬢さんに大事なくてよかった、万が一なんてあっちゃあいけねえ。」
「手を、手を見せてください! こんなに血が……!!」
「あ? ああ、そんなに騒ぐなよ。たぶんそんなに傷は深くない。」
「そんな他人事みたいに言わないで下さい!血を…血を止めないと」
 いつも心配する側の彼女はおそらく気づかないんだけれど、彼女は知らないけれど普段は無気力でぼんやりしてばかりのクラレンスに、シルマリルと言う女は惜しげもなく心配と言う形の配慮をくれて、皮肉にもそれが彼を彼女につなぎとめる。確かにシルマリルは美しいしクラレンスの好みのタイプの女性なんだけど、そこにあるのは、彼がシルマリルに関わってくるのにはもっと深い理由が存在している。
今もシルマリルはひと通りおろおろしたかと思うと、今日彼女の服の腰に、リボンのように巻かれていた美しい布の幅広のベルトに手をかけて躊躇なく解いて――――
「お、おいお嬢さん?」
 シルマリルはそれを解いてしまうと2、3回縦に折って厚みを出して血の乾き始めたクラレンスの手を取った。
「いいよ、そこまでしてもらうケガじゃねえって。
 血の染みは一度ついたら取れないんだ、きれいなリボンが台無しになっちまう。」
 シルマリルはクラレンスの静止を聞かず、聞く耳を持たない彼女から手を外そうとする彼の手をきゅっと強く握ってつかまえて、真っ白なそれをまだ血のにじみ出ている傷口に当てた。そして不慣れな手つきでぐるぐると巻きつける。
「ごめんなさい…痛かったでしょう?」
 言いながら、シルマリルは青い瞳を涙で揺らしていた。彼女の表情にクラレンスが己が揺らぐ感覚を、眩暈にも似た感覚を思い出す。
遥か昔に捨ててしまった、もう思い出すこともないだろうと忘れ去ってしまった胸を刺すあの感覚を、シルマリルと言う美しい少女のような存在はおせっかいにもたたき起こす。それが興味深くてクラレンスは隙をうかがい続けているんだけれど…

 この女はどうあがこうと手に入らない。

 そのことを不意に思い出したクラレンスはあの唇に張りつく笑みを取り戻した。彼のひとつしかない目には、今は見えないけれどシルマリルが背に広げている純白の翼までも見えている。まるで鏡像のようなロクスに舞い降りた天使様、しかし彼女はクラレンスの元には舞い降りていない。それでもこのお慈悲は――――クラレンスから見れば、罪でしかない。
天使様の分け隔てないお慈悲は、悪魔に魂を売り渡した男すらも魅入るほどに強くそして容赦ない。悪魔に魂を売ったあとに天使様は舞い降りた、悪魔との契約のおかげで彼女の姿が見えるこの皮肉。
悪魔が与えた力のおかげで、クラレンスは今こうしてシルマリルとの接点をつかむことができ関わり続けている。…後悔など、していない。
どうせ先がないケチな博徒風情の自分が人並みの感情を取り戻しつつある現状は歯がゆいけれど、小悪党のことなんて誰も覚えていてくれそうになかったのに…たぶん、彼女ならずっと覚えているのだろう。
クラレンス=ランゲラックという男がいたことを、多分彼女はどんな未来に向かおうと忘れずにいてくれるだろう。今までのつけがまわりまわって自分に返って来てクラレンスはもう長くない。すべてにあきらめたつもりでいたけれど、彼女が視界に入っている間はそのことさえも忘れてしまえる。
掌の痛みなどどうでもいいほどに目の前の美しすぎる善なる存在のお慈悲で体という器が満たされてしまい…それが、クラレンスには激しい毒のように甘美だった。
毒蛇が毒に当てられた、それは悲劇を通り越して笑い話にしかならない。
 にやつくクラレンスとは対照的に、真白いリボンが赤く染まり行く様を見てシルマリルはとうとう涙をこぼした。

「…連れが世話になったみたいだな。」

 その声と同時に、ふたりの上に影が落ちた。
「怪我をしたんだったら治療費代わりに手当てできるが、どうする?
 シルマリルを助けてもらった借りは返さないとあんまりだろ。」
 どこかで騒ぎを聞きつけたらしく、ロクスが濃い影を落としながら歩み寄ってきた。
荒みきった貧民街と言えど僧侶は特別で、高位の者しかまとえない紫色の法衣と同じ色の金十字光るベレー帽の前に、なによりその僧侶らしからぬ鋭い紫水晶の目にごろつきたちもひるんでいる。
あれだけ探し回っていた彼からやってきたのを見てシルマリルは嬉しいはずなのに、大粒の涙は急に止まらなくて、困惑を隠しきれない様が、クラレンスの目にはやはり愛らしく映った。
「…よぉ、遅かったな。もう出番ないぜ。」
「別に役どころがほしかったわけじゃない。
 どうするんだ、それぐらいなら時間はかからないし痕も残らない。
 僕の名を知ってるぐらいなら、僕がどんな人間かも知っているんだろ?」
 この町で顔の不良上がりの博徒と、目つきが悪い高位の僧侶――――あまりにも対照的な男たちなんだけど、まとう空気はどちらも同じ。クラレンスの強がりの軽口にロクスも軽口で返しているが、おそらく今まで彼が装い続けた仮面を今もかぶっているのだろう、彼の紫の目も声色も計り知れないほどに感情が読めなかった。
「まあな。でも貸したつもりはないから安心しろ。
 むしろお嬢さんの真っ白なリボンを汚しちまってどうしようかって思ってるところだ。」
「…だとさ。どうする、シルマリル?…って泣くなよ。
 死んだり命にかかわる大怪我したわけじゃないだろ。こいつが望むんだったら僕が治療してやれるからもう泣くんじゃない。」
「お嬢さん、そいつの言うとおりだ、あんたが泣くことなんてこれっぽっちもないよ。
 俺がいてあんたに何かある方がよっぽど恥ずかしい。」
 しかし悪党ふたりは存外純情なようで、小娘がべそかいているだけで慌てた様子、困った表情を隠しきれない。ロクスは眉根を寄せて声の強さを和らげた、クラレンスも両手をひらひらさせて「平気だ」と言うかわりにおどけて見せる。
シルマリルは無力な自分が悔しいのに加え、やっと探し回っていた相手のロクスが現れたことで気持ちの糸がふっつりと切れてしまい、一度あふれた涙が止まらない。
ささくれ立った悪党の美青年ふたりがこの場にいて、小娘ひとり泣き止まないだけで困り果てている様子は平和ですらあった。
「…しかしまいったな、僕は怪我は治せるが血で汚れたリボンを元には戻せない。
 ヴァイパー、どうするつもりだったんだ?」
「でかい街でお嬢さんに似合いそうなリボンを物色するつもりだったが…どっちにしてもこれはさすがに返せねえよ。
 俺はごろつき相手にするのは平気だが女が泣いてるのは苦手なんだ。」
「安心しろ、僕もだ。」
「ったく役に立たねえ女たらしだ。本当お前って男は顔だけなんだな。」
「ま、これでも一応それなりの僧侶なんだけどお前には縁のない世界だからな。突っ込むのはやめとこう。
 シルマリルに免じて今日は勘弁してやるよ。」
「そうしてくれ。俺もお嬢さんが泣いてるから気が気じゃねえ。」
 男同士なら容赦ないやり取りもできるんだけど、ふたりともシルマリルには触れることさえ躊躇している。ロクスは所在無いなりにとりあえず彼女の涙の原因と勝手に推測したクラレンスの手のひらの怪我を何とかすべく白い手袋をはずそうとしたけれど、クラレンスはそれを無事な方の手をひらりと振って拒んだ。
「いいって言ったろ。名誉の負傷だ。
 お嬢さんを守ったって勲章にするから気にするな。」
 やはりクラレンスは何かと理由を作ってロクスの手を拒んだ。
彼に友情めいたものを感じながらも一線を越えない、そんな微妙な立ち位置にいる男。
その飄々としてつかみ所のない振る舞いがシルマリルを、時にロクスさえも戸惑わせ迷わせる。
「…いいんだな、そのままだとうっすらだが痕が残るぞ。
 僕としてはそれをそのままにしておくとシルマリルがいつまでも気に病みそうだからとっとと片付けたいところだけど…まあお前の気持ちがわからないでもない。」
 ただ泣くばかりのシルマリルと違い男としてクラレンスの気持ちがわからないでもないロクスは、あえて強い態度に出ずに言いながら目を伏せた。
「言ったじゃねえか、貸したつもりはない、って。
 とはいえ俺じゃお嬢さんを泣き止ませられそうにない、悔しいがお前に譲るよ。
 さっさとどっか行っちまえ、色男。」
「言われなくてもそのつもりだ、お前の怪我が見えてる限りシルマリルは落ち着かない。」
 クラレンスとのやり取りはそこまで、ロクスは何を思ったのか、微笑むとしゃがみこんだままなかなか泣き止もうとしないシルマリルの頭をそっと撫でた。
「悪かったな、ここまで来たってことは僕に何か用があったんだろ?
 ヴァイパーはあの通り治してほしくないんだと。何があったか訊かずにおくが、君のせいじゃなさそうだ。」
「でもロクス」
「今日は余計なお世話、って言葉を覚えてから帰ろうな?
 君は心配性でおせっかいが過ぎるぞ。」
「……ごめんなさい。」
 これ以上この場にい続けてはシルマリルの涙を止められようはずもない、ロクスのその判断は正しくて、彼がちくりとやったひと言にさえ彼女はうつむき涙をこぼす始末。
ロクスは帽子をわずかに後ろにずらして目を閉じ大きなため息をつき、そしてまだ立ち上がらない、いや立ち上がれずにいるシルマリルの腕を取り力ずくで引き起こした。
善意のかたまりのシルマリルはクラレンスの掌の怪我は自分をかばった結果のものだと強く思い込んでいて、ロクスの上っ面だけ説得力を持つ言葉ではどうにもできそうにない。
まるで人間の子どものように扱われているというのにシルマリルはなすがままで、ロクスに力ずくで立ち上がらせられたのに、石畳に座ったまま不敵に微笑むクラレンスから視線をはずせずにいる。しかしクラレンスも立ち上がると膝の辺りを2、3度はたいて砂埃を落と――――そうとして、改めてシルマリルに笑いかけた。
「びっくりしすぎて用件、忘れるんじゃないぞ。」
「用件?」
「ホントうらやましいな色男、お嬢さんはお前に大事な用があったに違いない。
 怒らずに聞いてやるんだぜ。」
「…怒る気なんて当の昔に失せてる。
 じゃ、行くからな。」
 泣きやまないシルマリルの代わりに答えたロクスはその言葉の通りにクラレンスに背を向けて、動こうとしないシルマリルの背中に腕を回して文字通り力ずくでそこにも背を向けた。
男っぽい男前から美しい容姿を持つ青年の腕に、幼いが美しすぎる少女のような天使が抱かれて後ろ髪を引かれながらそこを後にする。シルマリルに立ち止まることを許さないほどに、ロクスの腕はその立場の割に細いが強かった。



 シルマリルはなかなか泣き止まない。
善なる存在ばかり、むしろ悪人や俗物などいないだろう天界で純粋培養された彼女らしいといえばらしいのだけど、それにしても…
「…シルマリル、もうそろそろ泣き止んでくれないか。
 まわりの僕を見る目が痛くてしょうがない。」
 周囲のロクスを見る目が、誇張ではなく痛い。高位の僧侶のような高貴な紫の法衣をまとう美麗ですらある男が泣き止もうとしない美しすぎるがあどけない少女をつれて立ち止まっている様子を誰もが怪訝そうに眺めながら、しかし何も言わずに通り過ぎてゆく。
やましいことは何もなくても、ロクスはいたたまれなくて極力声の調子を穏やかにしてシルマリルをなだめ透かす手に出た。
「…め、ん…っさ、い……」
「そんなにびっくりしたのか、無理もないが…ほら、美人が台無しだ。」
 不実な唇が穏やかに微笑んで。シルマリルが見慣れ始めたその表情に涙すら止まる勢いで固まった。
一瞬だろうと涙を止めたシルマリルの真ん丸い目に、ロクスが今度は屈託のない笑顔を向けてもう一度彼女の小さな頭を撫でる。そうされたシルマリルはというと――――咄嗟なのだろう、小さな両手で自分の頭を隠しロクスの手を遮った。
「やっと落ち着いたか。しかし驚いたな、天使は多少のことで驚かないというか鈍そうだとばかり思っていたのに。」
「…………………………。」
「クラレンスのことなら君が気に病むようなことじゃない。
 男なんて大なり小なりあんなもんだ。あいつが本気で君を意識してるんだったら、君の前でいいカッコしたかっただけの話さ。中途半端に格好つけることほどみっともないものもないからな。」
「でもっ」
「天使で、しかも女性の君には理解しようのない話だ。これ以上突っ込まれても僕だって説明できない。」
「でも…私がもっとしっかりしていたら……」
「…どんなことがあったか想像はつくが、僕の想像が当たっていたとしてそんな場面で平然としているような豪胆な女性は僕は遠慮したい。
 ヴァイパーじゃないが、君もずいぶんと可愛いところがある。」
 最後目を伏せつつ言いながら無意識に笑ったロクスの表情は晴れやかなのにどこか言いようのない色香を含んでいて、からかわれたにもかかわらずシルマリルはきょとんと彼を見上げるばかり。
男性が女性のどんな様子に気持ちなんかをくすぐられるのかなど、女性の、しかも天使のシルマリルにわかるはずもなくて、しかしロクスは人間の男性で、クラレンスとシルマリル、どっちの気持ちを理解できるかという話ならばやはり同じ人間の男性のクラレンスだった。
相当に怖い目に遭ってぼろぼろと人目もなく泣いてばかりのシルマリルは、ロクスの目から見ても可愛いのだけれど…天使を「可愛い」などと思うロクスもロクスだが、人間ごときにそう思わせるシルマリルの威厳のなさもある意味考え物かもしれない。
だがとりあえずロクスは怒る気をなくしてしまっていて、彼の当座の問題は泣き止まない幼い天使様のご機嫌取り。
それも何とかうまくいったところで、さて、本題に入ろうか。
「…で、そんな目に遭っても僕を束縛しようとしない心の広い君が、僕に何の用があったんだ?」
 いつもの天使様がようやく戻り始めた様子を見て、ロクスがいつもの彼らしく皮肉を込めた口調でやっと本題を切り出した。言われたシルマリルはというと、…言われるまではすっかり忘れていた。そして彼女もいつものようにおっとりしているようなあっぷあっぷしているようなと言った不思議な様子を見せながら…

「実はですねロクス、ラファエル様が私の勇者にと素晴らしいクロスを下さったのです。
 クロスが最も似合うといえばやはりあなたですし――――」

 …なんとも平和というかお人よしというか彼女らしい来訪の理由にロクスが再びあきれ果てたのは、言うまでもなかった。


2008/06/30

ゲーム中では「訪問」を選べばすぐ勇者に会えますが、まぬーが服着て飛んでるウチのシル子ならこのくらいのあほはやってくれそうです。
挙句セヴンのヴァイパーにかばわれて、まったくどうしようもないまぬーな飛行物体。
でもセヴン中唯一操られているというより自分の意思を表に出して行動しているヴァイパーだと、女天使を気に入りさえすれば助けてくれそうな、そんな感じがします。
ケンカも弱いというより(病気で)体が言うこと利かないだけ、街の不良あがりらしいので病んでさえいなきゃ強そうです。

ロクスもあんななりだけどケンカは強そうかも。
初期値だと攻撃力は一番高かったんじゃないでしょうか。
なんて僧侶なんだか。