■□ カタストロフィ □■
ヴァイパー、アルベリック、ロクス

 白い指先が美しい意匠のカードを鮮やかに操る。
指先でカードがくるりと踊り、翻り、また元に戻り――――白手袋に包まれた男の無骨な指が器用にカードをもてあそぶ。
青い蛇が絡みつくような独特の美しい意匠を施されたそれを、白い指は落とさず、ばら撒かず。たった一枚のカードを使った手遊び、しかし手の主は乾いた唇のまま、ひとつしかない目でどこを見ているのかわからないほど虚ろな眼差しのまま指先だけを動かしていた。
「ヴァイパー、首尾はどうだ?」
 ぼんやりと手遊びばかりしていた覇気のない隻眼の男に、男の声が問いかける。
急ごしらえの軍の駐屯地、その中の薄暗い部屋の中。ヴァイパーは彼には明らかに低い安い作りの椅子に浅く腰掛け片膝を立ててその上に腕を置いて、呼びかけに答える形で手遊びを止めて視線だけを声の聞こえた方に向けると、格式張った黒い軍服を着込んだ姿と外から差し込む強い逆光で影を落とす見慣れ始めた顔が見えた。
「…首尾?」
「なんだ、まだ行動を起こしていないのか。
 ごろつきだったお前がどうして今の立場にいるようになったかわかってないようだな」
 問いかけに問いかけで返したヴァイパーの言葉に、明らかに最初に問いかけた声は不快感を覚えたらしい。責めるような言葉と声色を隠そうともしないでぼんやりした様子ばかり見せながら腰すら上げようとしない民間人のような男を糾弾した。
「…わかってるさ、これでも。だが物事には流れってもんがある。
 手柄ばかり焦ってもしくじるだけだぜ、騎士団長殿。」
 けれどヴァイパーは臆する様子など微塵も見せずに「泣く子も黙るグローサインの騎士」にさらりとやり返した。
第一騎士団長アルベリック=クロイツフェルド。その肩書きはグローサイン帝国の騎士たちの頂点に立つということを意味しているが、しかしヴァイパーは敬わず、頭をたれず。あくまでも彼のままの不遜な物言いを変えようともしなかった。
ヴァイパーは言いながら指先でもてあそんでいたカードを器用に、今度はしっかりと指先に捉えて掌の中へ、そして自ら絵柄を確かめるように指先でまた捉えて裏返しアルベリックにカードの絵柄を見せ付ける。
「兵は神速を尊ぶのかもしれねえが、あいにくと俺はあんたの兵じゃないし、それ以前に騎士ですらない。
 魔女様は俺には俺のやり方があるってことで話はついてるが、あんたは違うってことか?」
 焦りを隠しきれずに他者の行動にまで口を出した傲慢な小心者に、ごろつき呼ばわりされたヴァイパーが目に鋭さを、語調に生気を取り戻し舌先三寸で堂々とやり返した。
彼が声の主に向けたカードの絵柄は皮肉なもので、白い刃のごとき風と美しい乙女の絵柄のカード――――「A whirlwind」、竜巻のカードだった。
「ば、馬鹿が! それを私に向けるな!!」
 ヴァイパーのカードにはなにやらいわくがあるらしく、アルベリックは絵柄を己に向けられただけで顔色を明らかに変えて手で振り払うような動作を見せた。そんな彼を見てヴァイパーは目を伏せて喉の奥で低く笑いをこぼしたけどそれを明らかにはしないで言葉を続ける。
「大丈夫だ、別にあんたにし返そうなんて思っちゃいねえよ。
 これでも立場はわきまえてるつもりだ、野良犬みてえ雇い主の一人に噛みつくような真似はしない。」
「それでもそのカードはセレニスが用意したものだろうが!
 あの女は何にどんなたくらみを施すかわかったものではない!」
「…っと肝っ玉の小せえ男だ。」
 最後の言葉はヴァイパーの独り言、低く小さく吐き捨てたこともあり、「肝っ玉の小さい男」の耳には入らずに薄闇に吸い込まれた。ヴァイパーは一度相手に絵柄を向けた己の悪魔のカードを鮮やかな指捌きで他のカードの中に戻し、立膝を崩して椅子に座り直す。
「あんたらに遅れず先走らず、探し物を手に入れればそれでいいんだろう?
 見ての通り俺はごろつきだ、あんたらみたいな力も何もない。そんな俺にご大層な仕事を依頼されたんだ、慎重になることがおかしいか?」
「慎重、か…臆病も言葉を変えればそれらしく聞こえるな。」
「…クロイツフェルド騎士団長、ご不満ならおまかせしますよ、エクレシア教国の次期教皇殿のお相手を。
 教皇殿は実に気が短くていらっしゃるから、片目のごろつきを相手にするのとは訳が違うでしょうねぇ。それにどうやら教皇殿は腕にそれなりの自信もおありのようだ、現にあなたの部下という肩書きの雑魚どもが何人も痛い目に遭わされている。」
 「ごろつき風情」のヴァイパーがカードをしまっただけで安心した様子で、アルベリックは先ほどの焦燥と怯えが嘘のように、尊大な態度を取り戻し再び椅子から腰を上げないヴァイパーを見下しつつ、彼にしては上出来な皮肉を叩きつけた。
だがヴァイパーはその見かけによらず饒舌で彼の舌鋒は苛烈で、のらりくらりとした言葉の調子からは想像もつかぬ上質な皮肉を、瞬時にさらりと切り返す。
「な、何が言いたいっ!!」
「大義名分掲げて女のケツを追い回すあんたに俺の仕事もまわしましょうかって言ってるのさ。
 俺は仕事は選ばないぜ? ロクスをからかうのをほどほどにすればいいだけの話だ、だが奴はああ見えてただの道楽もんじゃないから、相手するんだったら気をつけた方がいい。」
 低く、静かに、苛烈な舌戦を制して、ヴァイパーが喉の奥から抑えた笑い声を漏らした。クロイツフェルド騎士団長――――アルベリックは尊大な口調の割に実のない台詞を並べた末に「ごろつき」に言い負かされてあからさまに顔色に感情をあらわにし歯軋りをするんだけれど、どんなに己の語彙の中を探そうと、この「ごろつき風情」に過ぎないはずのこの男のにやけた顔を変えられそうな言葉が見つからなかった。
「それはそうと、あんたの天使様は見つかったかい?
 惚れた女の親父を手にかけただけじゃ飽き足らず、今度は親父の親友だった将軍殿まで親の七光りで動かしたんだろ?
 ずいぶんとご執心だが、俺の目にはあんたは体よくあしらわれてるようにしか見えないんだが。」
 しかしヴァイパーは優位に立とうと追い詰めず。いや興味そのものがなさそうに先ほどの舌戦から話題を変えて再び鋭く切り込んだ。
ヴァイパーはどういう心算か、立場的にずいぶんと上にいるだろうアルベリックをさらに挑発するようなこと、彼の所業の核心に触れるだけでなく、失敗の数々、生傷に塩をすり込みその上から叩くような言葉をその独特の口調で口にする。
彼が看破したとおり、この男は親の七光りとその腰に下げた呪われた剣の力でその立場にいるに過ぎなくて、外見は整った様子を見せてはいるが実はないどころか、一人の女に固執する偏執狂的性格を正当化する背景までも得てしまった厄介な男だった。
呪われた武具、という意味ではヴァイパーも同じ穴の狢に過ぎないけれど、少なくともヴァイパーは己が手にした悪魔のカードが災厄を招くことを、己の力ではなくカードの魔力だということを承知して使っている、そのことがアルベリックとは決定的に違っていた。
アルベリックは剣の切れ味を己の腕と勘違いしている。
「ごろつきの余計なおせっかいだが、あんたは引き際とか辛抱って言葉を覚えた方がいい。
 女は追いかけられると怖がったり気持ち悪がったり、理由を見つけちゃ逃げちまう生き物だ。あんたのレイラさんもあんたのしつっこい所がイヤで逃げた口なんじゃないのか?」
 「騎士団長アルベリックが、彼が決闘と称して殺した先の騎士団長のご息女である騎士レイラに甚く御執心」
そのことは帝国、騎士にに関わるものなら誰でも知っているほどの噂話。当然雇われて悪巧みに一枚噛んだヴァイパーも知っている。年齢の割に、しかも女性でありながら腕も立つし、聞く限り騎士としての心構えもしっかり心得ている――――レイラに関して伝え聞くことを総合すると、どう贔屓目に見てやってもアルベリックには過ぎた女性だということも容易に想像できた。
しかも狭量なことに騎士団長殿は己になびかぬ女性を捕らえた挙句投獄して牢屋越しに口説いたのだとか…どこまでも野暮な男。
ヴァイパーは呆れ果ててせせら笑ってやることすら面倒に感じていた。
「…特別な女性もいないごろつき風情がわかった口を利く……そろそろ身の程というものをわきまえてはどうだ。」
「おいおい、馬鹿にするなよ。これでもどうしようもなく惚れてる女ぐらいいるぜ。
 いるからあんたがなんでかまってもらえないかって理由がわかるんだ。」
 アルベリックは痛いところを歯に衣着せぬ物言いで責められて興が乗ってきたが、仕掛けた形になったヴァイパーは言い合いに飽きてしまったらしく、怒りをにじませ始めたアルベリックの様子など気に留めた風すらなくカードを上着のポケットに押し込んで椅子から立ち上がり光の差し込む方へと歩き出す。あっさりとすぐそばを通り過ぎられたこともアルベリックの神経を逆撫でしたけれど、この男はその見た目以上に口も達者で、言い返した言葉にかぶせられて、更にまぜっかえすだけの語彙を持たないアルベリックは悔しげな表情を見せることで精いっぱい。
「ろくに働かずにどこへいくつもりだ!」
「惚れた女の顔を見てくる。」
「何だと!? お前という男は、どこまで」
「俺の天使様は教皇猊下にくっついてるんだ。
 隙があったら一仕事してくるが、まあ期待はしないでくれ。俺は惚れた女の前じゃただの男に成り下がっちまって振り回されてばかりだからな、約束は出来ないんだ。」
 そして結局アルベリックはヴァイパーを止められず、ヴァイパーは薄暗い闇をあとにし太陽の下へと出るとそのまま光の向こうへと消えるように歩いて姿を消した。

 そう、彼の天使様に会うために。



「…なんかおまけがくっついてるなぁ。」

 ほぼ半日後。ヴァイパーはロクスを目の前にしながら、独り言のような台詞を口にしていた。
「また来たなしつっこい蛇野郎、いい加減僕の後を追い回すような真似はやめろ。」
「ああ違う違う、今日はお前の顔なんか見たかなかったよ。
 俺はなぁ、」
 何かあったのかそれともヴァイパーの来訪が原因そのものなのか、ロクスは不機嫌を隠そうともしないでやり返す。それはヴァイパーが少し前にアルベリック相手に繰り広げた殺伐とした掛け合いと似ているけれど、少なくともロクスの方が語彙は豊富な様子だった。
けれどヴァイパーの目的はロクスじゃなくて、彼は白手袋をしていない指先をロクスへ向けた、けれど――――
「…え!? 私…ですか?」
 ヴァイパーの指先が捉えたのはロクスではなくて、ロクスが背中に隠した幼い天使様だった。ヴァイパーはロクスの背中から様子を伺い顔だけ見せていた彼女を指差すと、人懐こい少年みたいな笑顔を浮かべて言葉を続けた。
「そうそう、私。
 お嬢さんとお話したいなぁって思ってぶらぶらほっつき歩いてたら、ホント偶然。
 俺のツキもたいしたもんだ。」
 偶然、というのは嘘だが、運任せ、ツキにまかせたのは嘘じゃない。
ロクスの天使が今日も彼とともにいるという確約はない、しかしヴァイパーはそれに賭けて見事に目当ての女性の顔を拝み声を聞いた。
この引きの強さが、明らかにアルベリックとは違う。
「シルマリルの後を追い回すのも や め ろ 。しつこい男は嫌われるぞ。」
「黙ってろよ お ま け 。俺はお嬢さんと話をして心を洗いたいんだ。」
「は? 心を洗うだと、どの口で今の台詞を言った?
 洗っても落ちないとわかりきってる汚れを洗い落とそうなんてお前もご苦労なことで。
 シルマリルは確かに強力な石鹸だろうがそれでも落とせない汚れもあるんだ、過信される方も可哀想だな。」
「だからおまけは黙ってろ。」
「残念だがこの本体とおまけじゃおまけの方が発言権があるんだ。
 というわけでとっとと帰れ。」
「お嬢さん、別に捕って食うつもりはないからちょっとお話しないか?」
「…無視するな。」
 ヴァイパーに切り返すだけの語彙も切り返しもないアルベリックとは違い、ロクスだとお互いに「ああ言えばこう言う」、翼を隠して人の姿を借りている幼い天使シルマリルは話の中心でありながら蚊帳の外に追いやられてロクスの背中の向こうからきょろきょろと様子を伺うばかり。
どうあっても己の天使をこの正体不明の男と関わらせたくないロクスが邪魔ばかりするから、ヴァイパーは彼をあえて無視してその向こうのシルマリルに笑顔をつけて伺いを立てたけれど、不意に話を振られたシルマリルは驚いて少しだけ身をすくめてしまった。
「はいはい残念でしたねお帰りはあちら!」
 シルマリルの仕草を勝手に「NO」と解釈したロクスが、野良犬を追い払うように細い手をひらひらさせるけれど、ヴァイパーはため息をつきながら額に降りた銀髪を指先でかき上げつつ仕方なしにロクスに伺いを立てた。
「…男として女のお嬢さんに真面目な話がしたいんだ。男心がわかるなら邪魔しないでくれないか、ロクス?」
「悪いな、僕はご婦人じゃないしお前の心境とやらもわからないから。」
 立場の優劣は常にあちらにこちらに傾いて、どっちが立場的に上なのかなど、このふたりだとなかなかつかめない。いつもなら腹の底が見えないヴァイパーを警戒していつも後手を踏むロクスも、手駒はわが掌中にありとなれば弱みを見せない程度、いやそれ以上の駆け引きは心得ている。
「あの…私でよければ、話を聞くだけでしたら。」
 だがこの話の中心に据えられたのはシルマリルで、その彼女が口を開いたことで男ふたりが乗せられた力の天秤は大きく傾いた。形勢不利に追いやられたロクスは明らかに驚きと焦りの色を端正な表情ににじませて、かたやロクスが取り付く島もないままに追い払おうとばかりしていたヴァイパーは「OK」をもらって満面の笑みをシルマリルに向ける。
「さすが。心優しく懐の深いお嬢さんならそう言ってくれると信じてたぜ。」
「話を聞くだけでしたら私にも出来ますから…。」
「シルマリル、やめろ。耳が腐るぞ。
 それとヴァイパー、とんでもないこと言ってみろ、…言わなきゃよかったって思わせてやる。」
「…過保護だな、お前。お嬢さんはお前が心配するほど頼りなくはないと思うぜ?」
「どう見たって世間知らずのガキだろうが。お前こそ彼女に夢見すぎてるぞ。」
「お前は過小評価しすぎだよ。」
「あのー…お話……」
 …またシルマリルは蚊帳の外へやられてしまった。
「どさくさにまぎれてシルマリルに何を言うつもりだ?
 告白するんだったらしっかり練って来いよー、僕を笑い死にさせるような面白台詞ならそれはそれで聞いてみたいところだが。」
「バーカ、お前じゃあるまいし。俺はカードと同じで決め台詞を連発しないようにしてるんだよ。
 お前がギャンブルに弱いのは普段から切り札惜しげもなく切りまくってるからだ。
 女相手に使いすぎて使いどころがわかんねえんだろ? まあ確かにお嬢さんみたいな極上の女相手にしくじる様子を拝んでみたいがな。」
「僕はガキに興味はない。ロリータ好きな変態様とは違って成熟した女性がいいんだよ。」
「俺の嗜好にとやかく言うなよ。お嬢さんに惚れたあたりこれでも見る目に自信は持ってるんだからさ。」

「ふたりともいいかげんにしてください!!」

 とうとう天使様の雷がふたりのろくでなし目がけて落ちた。
「ロクス、あなたの欠点は人の話に素直に耳を貸そうとしないところです!
 人の話は口を挟まずきちんと聞きなさい!」
「な、なんだよ急にそれっぽいこと言いやがってびっくりするじゃないか」
「それとクラレンス!」
「は、はい。」
「話の軸をきちんと決めてから話すようにしないと、聞く側はあなたが何を言いたいのかわからないまま話が終わりますよ!」
「…ごもっとも。耳に痛いぜ。」
 戯言ばかり繰り返して時間を浪費した罰がこれなら、おそらくろくでなしはまた今日みたいなことを繰り返すだろう。シルマリルの雷は的を射ているのだけれど、説得力も充分なんだけれど、迫力はまったくない。それでもその瞬間は確かに大きなろくでなしたちが小さな天使様に素直に従って小さくなりおとなしくなり…まるで男ふたり尻に敷かれてるみたいなこの構図。
「とにかく、クラレンス。」
「…はい。」
「私に話とは?」
「あ、ああ……」
 自分が黙っていてはいつまでたっても話が先に進まない、シルマリルのその判断は正しい。いつも穏やかでおとなしい彼女が珍しくその場を仕切りクラレンスに話の矛先を向ける。
ロクスは何を言うかわからない、爆弾みたいな男が何を言い出すのか――――無意識に身を強張らせ身構えてヴァイパーの言葉を待つ。
…その中身次第では、シルマリルの意向を無視してでもこの男を力ずくで黙らせるつもり。
「いやな、俺の知り合いに困った奴がいてな…」
 けれど、ロクスの心配は心配のままで終わった。
「その気がないどころか、まわりから見ればどー見ようと嫌われてるにもかかわらず、大義名分まで掲げてとあるお嬢さんを追い回し続けるしつっこいのがいてさぁ…今日もそれやめろって言ったんだけど聞いてもらえなかったんだ。
 そのくせ俺の働きが悪いだの何だのと俺に八つ当たりするんだ。これでもそれなりに働いてるのに。」
 クラレンスの話とはどうやらその立場に関する愚痴のようで、まさか自分たちに大きく関わるなどとは露ほども思っていないロクスとその天使、ふたりとも警戒心を解いて彼の言葉に耳を傾けた。
「あら、それは…大変でしたね、クラレンス。」
「ああ、それは確かに同情する。いるよな、そういう空気読めない奴。」
 善意でその大部分を構成されている本物の天使様の心配などは当然としても、ロクスも同じような言葉を口にすると思っていたのだろうか、クラレンスはいかにもほっとした、といった具合の大きなため息をひとつついた。
「ああ嬉しいぜ、同僚に理解されなくてもお前たち、特にお嬢さんが板ばさみで苦しんでる俺の苦労をわかってくれてホント報われる思いだ。
 やっぱ来てよかったなぁ、お嬢さんは俺の心の拠所だ。」
「…どさくさにまぎれて余計なことを言ってないか?」
 しかしシルマリルはともかく、ロクスは甘くない。関係のないことを口にすればすぐに切り込んでくる容赦のない彼の言葉を、クラレンスはいつもそうするみたいにさらりと聞き流す。
「いつも」と言う表現が不自然ではないくらいの頻度でクラレンスはロクスとその天使の行く道の先々に絡んでいて、特に愛らしい少女の姿を持つ天使様にはそれなり、いや彼の精いっぱいらしい愛想も見せたりしているからロクスは気が抜けなくて、
「シルマリルにわかってもらえて気がすんだらとっととどっか行け。
 ったく油断も隙もない…。」
話している間中、シルマリルを自分の前に出せずにいる。彼はまた手をひらひらさせてクラレンスを追い払う様子を見せつつぶつぶつと口の中でこぼすけれど、クラレンスはそれもまた聞こえないふりをする。
それは切り札が自分の掌中にあるからの行動で、カード勝負では僅差で勝ちを重ねるクラレンスも、この場面では切り札を握って放さないロクスを攻めあぐねていた。教皇になれないただひとりの教皇猊下は、そのお立場にふさわしく難攻不落の強さを誇る。
「でも、でもロクス、クラレンスだって」
「名前で呼んでやるなよもったいない。
 ほらほらお前もシルマリルの耳に愚痴入れられてすっきりしたことだろとっとと失せろ。」
「…ロクス。」
 けれどこの三すくみで、法則崩れにも、一番強いのは一番気も押しも弱そうな天使様。美麗で棘のあるロクスも、少々強面で不良上がりのクラレンスも、シルマリルが少し声の調子をひそめるだけでおとなしくなってしまうから滑稽ですらある。
ここは天使様の強さにつけ入らせてもらおうかと言う魂胆を隠そうともせずに、クラレンスがロクス相手には未来永劫見せることなどないだろう甘ったるい笑顔を浮かべてさもうれしそうに口を開く。
「その点俺は幸せ者だ、お嬢さんの性根が感動するぐらい素直なおかげで、あとから多少やりすぎた気がしても嫌われずにこうしてお話してくれる。」
「いいえクラレンス、あなたは自分で言うよりも私の気持ちなどを考えてくださっていると思っています。ただもう少し堅実に生きて欲しいとは思いますが…」
「それはちょっと無理かなあ。
 片目まで賭けの代償にしたろくでなしの悪にまっとうに生きろなんて言われても、生業になるもんがなきゃ食ってけないし。でもまあお嬢さんが俺と一緒に生きてくれるってんだったら命に代えても足洗って堅気になっても」
「…寝言はいい加減にしろ黙って聞いてりゃよくもまあべらべらべらべらと実のない嘘っぱちばかりこれ見よがしに並べやがって。
 正直の上にバカがつくシルマリルは騙せても、僕の耳まで騙し通せるなどと思うな。」
 シルマリルにちくりとやられたロクスがふてくされた様子で唇を結んでいる間、シルマリルとクラレンスは独特のテンポの会話を繰り広げる。片方は疑うことをしない天使で、片方は嘘かまことかの駆け引きを生業とするばくち打ち、ロクスは彼女の望むとおりに口を閉ざしてみたものの結局それをやり遂げることができずに、痛烈な当てこすりを早口でまくし立てるけれど、クラレンスのテンポは独特でおっとりしたシルマリルとも合わせることができるだけでなくロクス相手だろうと戸惑うことなどない。

「お前は同類だもんな、俺の魂胆が読めるってか?
 だがあいにくと本気だ。お嬢さんが俺だけの天使になってくれるんだったら、俺は喜んで今の立場から足を洗うぜ。」

 そんな台詞に合わせて、クラレンスの無骨だけど器用な指がシルマリルの丸いあごに触れ…ようとしたけれど、ロクスの細い手がそれを思い切り振り払った。そしてついでなのかなんなのか再びシルマリルを己の背中の向こうに隠す。
「…いい加減にしておかないか、シルマリルの前だろうと僕は暴力に訴えるぞ。」
「お前の女でもないのにか?」
「お前になびいてる節も見せてないだろうが。」
「今から振り向かせてみせるよ。」
「あー無理無理。時間の無駄だからやめとけ。」
「それは俺が決めることだろ。引っ込んでろよ出歯亀。」
 また「最初に戻る」を繰り返し始めた男ふたりの面つき合わせての殺伐とした軽口の応酬に、シルマリルが珍しいことに軽く腕を組むみたいにしつつ片手で頬を包みため息なんてついた。彼らは寄ると触るとこんな感じだから、気の長い天使様という背景を持つシルマリルでなければずっと早いうちにこんな表情を見せていることだろう。
そんな見たことのないシルマリルの、初めての表情に、クラレンスは一瞬切れ長の目を丸くして見せ器用な指を誘うみたいに軽く滑らかに動かして彼女の視線を己に引いた。
そんな男の様子を見たロクスが一瞬遅れて振り向くけれど、その時はすでにシルマリルは腕を解いてびっくりしていて――――それがまた愛らしくて、男ふたり彼女が人でないことを忘れて見とれてしまった。
「あ、あのっ」
 そして自分が美しいという自覚がほとんど、いやまったくないシルマリルは、いつもと同じに困惑するばかり。そんな彼女の美貌が男たちに困惑の連鎖を呼ぶ。
その表情だけでクラレンスはお手上げになるし、ロクスもまだ何か言おうと開いたままの口を所在無いまま閉じてふてくされるばかり。
嫌われてはこの緊張感ある絶妙な距離感を失ってしまうから、クラレンスはこのふたりに嫌われる境界線を越えないように気を張っている。
いつかは越える境界線だが、彼に残された時間は長くなくて、その時は少しでも遅い方がいい。
このふたりはクラレンスを現実世界につなぎとめている最後の楔。失う時は、ふたり一度に失ってしまうことがわかっているから、クラレンスは自ら飄々とした道化を演じる。
美しい他の男の天使様の存在に、クラレンスは未練を覚えるほどに引きずられてしまった。
 今まではなかったけれど、こうして談笑する時間がどれほど残されているだろうか?
友情と恋愛感情を今更与えられてももう遅い。クラレンスは自らの意思で悪魔に魂を売ってしまった。
何も知らないロクスとシルマリルはそれぞれの思惑を抱えながらもクラレンスに向き合い続ける。
誰も向き合ってくれなくなったアルベリックの歪みは、本人だけが気づかないまま恐ろしい速さで彼を侵食するのだろう。…自我をしっかりとつかんだまま自らの意思で歯車を狂わせるクラレンスと、自分の欲するものすべてをその指の間からすり抜けこぼし続けて狂気に蝕まれるアルベリック――――果たしてどちらが哀れなのだろう。
…どちらもさして変わりなく哀れなことを、クラレンスは知っている。

 しかし、今更もう戻れない。

2008/07/30

気づいていて自らの意思で破滅に向かうのと、気づかずに破滅に向かうことはどちらがましなんだろう?
悪魔に魂を売り渡してたあとに、手に入らなかったものを一度に手にした男の悲しい喜劇。
いつか必ず訪れる崩壊の序曲は少しでも遠い方がいい。

何でヴァイパー攻略できないんだ。そんなことをつらりと言ってしまうようになりました。
私もかなりヴァイパー好きみたいです。