■□ 賭博師の憂鬱 □■
×ヴァイパー、×ロクス

「博打なんてもんはな、はったりがものを言うんだよ。」

 そう低く言いながら男の無骨な指が使い込まれたカードをくるりと翻す。
「いかさまでもしないことには思うような役なんて作れやしない。引きに頼るにもそれだって波がある。
 つまりは、あとは心理操作さ。相手を追い込んで自滅させるなり降りさせるなり、勝負を捨てさせるのが大半だな。
 たまには引きが強くていい役が来ることもあるけどそうそう恵まれるわけじゃなし、相手を押し切る心臓の強さがものを言う…ってところだな。」
 声の主は鋭くカードを射抜く眼差しで、緊張感を切らさずにテーブルにカードを伏せて並べる。その眼差しは本当にカードを貫きそうなほどに強いのだけど、右目は眼帯で隠されている。
一枚、そして一枚と裏返されたカードの山から取られたそれらがあどけない少女と差し向かいの隻眼のギャンブラーの前に並べられてゆくけれど、当然のことながら表に返すとそれらはまったくばらばら、絵柄も数字もつながりなど何もない――――はずなのに、少女シルマリルの前のカードだけ、数字が同じ組み合わせが一組できていた。
「…とまあこうして並べた限り、どう見ても俺の方が分が悪い。
 お嬢さんはすでにワンペアできてるんだから、ブタの俺よりもずっと有利だ。」
「…ブタ???」
「役なし、って意味さ。全部取っ替えても役ができる可能性は低いし、何か手元に残すにしても選びようもなし。
 ロクスならこの時点で勝負を投げるな。あいつはあきらめは悪いが潔すぎる。」
「じゃあ、クラレンスはどうするんですか?」
「俺なら勝つために揺さぶりをかけるよ。
 当然カードの交換もするが、同時に役ができてるふりもする。
 勝負は役の大小じゃない、どっちが勝負から先に降りるか、だ。
 何かを賭けてそれを読み合うが博打だが、まあロクスだと俺もお嬢さんもまず相手にならないだろう。俺はこれで生きてるし、お嬢さんにいたっては恐ろしいまでの引きの強さがある。」
「???」
「さっきから何度かこうしているが、お嬢さんの手札には何かしらの役ができてるんだ。…ったくうらやましい、神様に愛されてるってこういうことを言うんだろうなぁ。」
 薄暗い酒場のすみでの講釈、中身は博打のいろはについて。
講師はばくち打ちで教わるのは少女の姿を借りた天使様で――――天使様はなにがなんだか、みたいな顔ばかりしていて首をひねるばかりで、理解できるとはあまり期待していなかった隻眼のばくち打ちもまさかこれほど純粋無垢とは想像を遥かに上回られて、鼻でため息をつくしかできない。
「…ま、お嬢さんは駆け引きとか何とか考える必要はなさそうだな。賭けで生きてゆくつもりがないんだったらその引きの強さだけにしといてくれ。
 駆け引きとか何とかは凡人の技だよ。そうでもしねえと勝てない凡人のな。」
 不公平とはこのことだ、なんてクラレンスはもはや諦めの域に達している。
目の前の彼女に言った言葉は嘘ではなくて、無作為に、仕込みなしのいかさまなしなのに彼女に何度カードを配ってもすでにその中で小役ができている。ばくち打ちとしては喉から手が出るほどの能力だというのに、それを与えられたのは博打も何もないあどけない少女だなんて…大きな男の手が絵柄の見えるカードを伏せてすべて集め、ひとまとめにしてまた鮮やかな手さばきでそれらをシャッフルする。
まるで踊るみたいなカードの動きとそれを操る男の手にシルマリルの丸い瞳は釘付けで、役の説明などにはまったく興味を示さなかった様子とは正反対で、ばくち打ちとしてクラレンスは少々胸中複雑なものがあった。
博打の腕よりカード捌きを注視されるなんて思ってもみなかった。
「とまあどんなに講釈たれようと、博打は運がすべてだ。多少駆け引きを心得ている俺がどうあがこうとお嬢さんには勝てっこない。
 お嬢さんに揺さぶりをかけてみたところで、あんたの純粋さならあんまり通じるとは思えないし、逆に俺が自滅する可能性だって低くない。
 いかさまにでも頼らねえ限り、俺とあんたじゃ格が違いすぎるよ。」
 そう言いながらクラレンスは脚を組み替えてその場に配ったカードをことさら念入りにシャッフルしたが、それを己のそばに置きそれ以上配ろうとはしなかった。
自分で言ったとおり、何度配ろうと結果は同じ、ひとつしかなかろうとその目には見えている。
 目の前の博打も何も知らぬ少女の姿の天使様はお強い。
片目をなくし一度自分を捨てることでクラレンスは常人では手に入れられぬなにかを手にしたが、それでも、人間の姿を持ちながら人間ではない目の前の少女にはおそらく及ばない。
「挑むな関わるな」、常人離れした勝負強さと勘がそう彼に告げている。
だって当たり前、彼女は引きの強い少女ではない。彼女は気づかれてないと思っているだろうがクラレンスは当の昔、思惑を抱えて放蕩に耽る教皇候補殿に近づいたあの夜に彼女の姿も目にした瞬間に、その背に広がるだろう純白の翼までも見えていた。
しかしそれを表に出さぬのは簡単な話で、クラレンスにとってそれは予測できていて、その上で彼には目的があったから。
それを遂げるには気づかぬふりをしつつ隙をうかがうより他にはない。
けれど同時に彼女に男として興味を持ってしまったから、関わらずにはいられなかった。
「それにしても、あいつは素人以下のお嬢さんにカードで負けておきながらまだ未練たらたらなのか?」
「え?」
「街中でお嬢さんに腕つかまれた時は、こないだの礼にデートでもしてくれるのかーなんて期待したのになぁ。」
 話を急に切り替え派手に落胆して見せたクラレンスの言葉にシルマリルが小さくなる。
「ご、ごめんなさい…でもギャンブルのことなんて誰に訊けばいいのかわからなかったから……」
 つい先日、「飲む打つ買うの借金王」「不良僧侶」などと揶揄されるロクスを案じるあまり、シルマリルは天使という立場でありながら体を張って彼の博打の弱さを突きつけるためにかなりの無茶をした。諭すにしても未熟で戦う力すら持ち合わせていない彼女が、彼女の代わりに実際に力を行使する立場にあるロクスの私生活に口を挟んでも、逆に口が達者な彼にやり込められて泣かされそうになるだけ。
それでなくてもあどけない少女の姿を持つシルマリルのことをロクスという破戒僧の青年は間違いなくなめていて、表向きは紳士として接してくれるが、ふたりだけになればとたんに己の信仰の対象でもある天使を天使として敬う素振りすら見せない。
 だから、あとは体を張るしかなかった。
とりあえずと天使シルマリルの勇者、神の尖兵という立場に立ったあともロクスは放蕩する生活を変えなくて、酒場では女をはべらせ容姿に物を言わせて口説いては朝帰り、それをしなかったら弱いくせに博打三昧。
それなりに、彼なりに放蕩には理由がある様子なのはシルマリルも感じたけれど、そんなの子どもの反抗期と大差なくて、少なくとも23歳の青年の取る行動ではない。
分別がなさそうなわけでもないのに、分別がないように振舞う男の裏に何があるのか、シルマリルはまだ知らないし彼も見せようとしない。けれどそのままにしておけるはずもない。
シルマリルという天使はとにかく心配性でどうしようもない。
 そこで頼ったのが、目の前のばくち打ちの青年だった。
彼女よりもロクスと縁深い隻眼のばくち打ちヴァイパー――――クラレンス=ランゲラック。
目の前の彼はシルマリルに明らかに興味を持ち、その口ぶりはどこまで本気なのかわからないけれど、言葉だけなら彼女に並々ならぬ好意を寄せていることになる。
隻眼のばくち打ちの青年は、シルマリルと直接のかかわりを持つ彼女の勇者や何かしらの力持つ者にしか見えないシルマリルの姿かたちを知っている。ロクスの不実な言葉と同じに彼女を美人だと言い切り「お嬢さん」なんて呼びかける。
シルマリルは少々強面の顔を少年みたいにくずして笑いかける彼に、正体がわからない不安とあからさまに向けられる好意の両方を感じていた。
つまりは「嫌いじゃない」。
 ロクスは賭けの代償としてうますぎる話を持ちかけたヴァイパーに明らかな疑惑を抱えて警戒を露にしているけれど、素直すぎるシルマリルはクラレンスを信じることから始めた。
人がよすぎる彼女があっさりと胡散臭い男の戯言に付き合う様子がロクスの神経をさらに逆撫でしていることを、クラレンスでさえ気づいていて逆手にとって行動していることを、彼女だけが気づいていなかった。
「まあ判断としちゃ間違っちゃいないな。
 確かに俺はばくち打ちだ、博打のことならばくち打ちに訊くのが一番だし。
 しかし今さら改めて博打のことを教わってどうするつもりだ?
 悪いことは言わないが、お嬢さんが博打を打つのはやめとけ。あんたは純粋な存在だから価値があるんだ、自分から汚れるような真似するなよ。
 ロクスはともかく俺は悲しいし胸だって痛む。」
「ロクスから仕掛けることはなくなっても、挑んでくる人はいるかもしれないから」
「あんな弱いの負かしても勲章どころか陰口叩かれるだけだ。
 もっともあいつにいつか勝負を、って言った俺が言えた義理じゃないけどな。
 ただ俺の場合は女たらしのあいつに一矢報いたいと言うか、本当エクレシアの女ってのは俺に見向きもしてくれないんだ。なにかっつうとロクス、ロクスってな。」
「…まあ、容姿は確かに優れていますからね。
 でも一緒にいると心配で仕方がなくて気疲れするんですけど……」
「今一番鼻っ柱叩き折ってやりたいって思うのはそこだ。
 俺なら酒場女を両腕いっぱいに抱えるよりお嬢さんをはべらせたいのにあいつは何を考えるのか。」
「…とんでもないこと言いませんでした?」
 シルマリルの懸念はまるで的外れではない。ロクスは少し前に少女の姿を借りた幼い天使にプライドをずたずたにされる勢いで彼女と彼女に入れ知恵をしたクラレンスにカードで逆転負けなどという屈辱的な敗北を味わわされて、自ら博打に興じる気力は失ったけれど、博打好きな風評はそう簡単に消えるものではない。
現在ただひとり宗教国家の頂点に座する資格を持つロクスから何かを巻き上げようとたくらむ輩は引きも切らない。今のところは取りつく島もなく追い返してはいるようだが、酒が入ると少々意思が弱くなるというか場の空気にうまく乗って乗せられてしまうロクスの性格を把握してしまったシルマリルの心配事は尽きそうになかった。
それで知識を得たかったのだが、彼女が頼った青年もロクスから何かを巻き上げようとしているひとりだったりする。
今は休戦状態の様子だけれど、いつやりあうのかは見当もつかない。
だけどシルマリルの勇者たちに博打について訊けそうな者もいない。
当然彼女の本来座する世界に、博打の手引書などあろうはずもない。
…シルマリルはいつも手探り体当たりで行動するしかない。
「でもしがないばくち打ちの俺がお嬢さんに教えることがあったってのはまあ光栄かな。俺みたいなろくでなし、普通ならあんたみたいな住む世界の違う女と縁なんてないことだし。
 未来の教皇猊下ならともかく、不良上がりのばくち打ち、じゃあなあ。」
 それでもクラレンスはシルマリル相手にはロクスと渡り合う時のように意地悪ではなくて、彼女が欲したことをあっさりと教えてはくれた。彼には彼の思惑が当然あるけれど、今のところはシルマリルに意地悪をするつもりも必然性もないらしく、シルマリルも彼の言葉に腑に落ちないものを感じながらも悪意がないから取り立てて警戒などせずにいる。
もしかしたら、シルマリルの扱いに関してならば、口は悪いがロクスよりも紳士的かもしれない。
「クラレンス、そんな風に自分を言うものでは」
「ああごめん、そんなつもりじゃない。あんたがあまりにもまぶしくてさ。」
 その言い回しは、シルマリルがただの少女なら喜ぶのは間違いない。
けれど彼女は人間の少女ではなくて天使という人ならざるもので、そしてクラレンスはどこまでが本気かわからない。その辺はここにいないロクスの方が少しだけ誠実かもしれない、クラレンスと同じようにシルマリルの容姿を手放しでほめるけれど、少なくともロクスはシルマリルの美貌は最初から否定などしないで認めている。
彼女の背景を最初から知っているから、天使という人間でない存在の背景を他の者より知っているから、人間の女を相手にするような駆け引きは捨てている。
美しくて当たり前なのだからその美貌を認めている。
『守備範囲外だけど。』
…いつも余計な一言をつけながら、ロクスもシルマリルの美貌を褒めちぎる。
結局このふたりは似たもの同士なのだろう、シルマリルはいつも同じ結論にしか至れずにいる。
ろくでなしふたりの思惑なんて、純粋培養の天使様に図れるはずなどなかった。
「挑まれた時に場を降りさせる手を捜してる、そのためには博打のことも知っておきたい。…ってところか?」
「…できるかどうか、と言う話ではありますけれど、知らないよりは少しでも知っておいた方がいざという時の役に立ちますから。」
「意志の弱い男と関わると大変だな。
 どうだお嬢さん、そんな苦労しないですむ俺に乗り換えないか?」
 また彼女が知るいつもの彼の言葉を繰り返されて、シルマリルは明らかにあきれながらため息をついた。ヴァイパー、いやクラレンスという青年はいつもこうで、あからさまな言葉を口にするけれど、その中に真実味はない。
人間の女性ならいざ知らず、程度の差はあれども人間の本質を見抜く能力を持ち合わせる天使にはクラレンスの言葉が空っぽだと言うことなど察するまでもなく感じられて、しかし彼はそれがさも本心から来ているかのように振舞ってばかりいる。
その向こうの彼の思惑が謎めいているからシルマリルは困惑するんだけれど、今の彼はだますなどの危害を加えるつもりがないことだけは感じられて、加えて彼が自分に対し好意を抱いていることだけは伝わってくるから、彼女は彼を無碍に扱えない。
今度もクラレンスの口説き文句の体裁を借りた戯れの言葉をシルマリルは聞かなかったことにした。

「…また人の連れを口説いてやがる。
 いい加減にしろヴァイパー、用があるなら僕に直接言え。」

 シルマリルは聞き流せるが、同じくクラレンスが深く関わる彼女の勇者殿はその外見とは裏腹に実に大人気ない。どこでかぎつけたかシルマリルの被使役者・天使の勇者のロクスが怒りも不快感も隠そうともしないでふたりがいた薄暗い昼間の酒場に乗り込んできた。
しかし彼の解釈には一部誤解と偏見とがあって、クラレンスはいつもと同じにふてぶてしく一つしかない目をロクスに向けただけだったけれど、誤解からクラレンスが悪者にされた状況に耐えられないシルマリルは、ロクスを振り返ったまま席を立った。
「違いますロクス、今日は私からクラレンスに教えて欲しいことがあって、彼は応じてくれただけです。」
「君は黙ってろ。
 何が目的か知らないし聞きたくもないが、こいつは僕らの隙をうかがってるんだ。
 そのためなら君を舌先三寸で丸め込むことを躊躇なんてしない、そんな奴だ。」
「おー…僕ら、か。本当お前って奴はむかつくほど女のツボを押さえまくってるな。
 俺なんざ考え及ばなくて悔しくて二の句も出ねえよ。」
「今はそんなことを問題にしてるわけじゃないってお前ならわかってるだろ?
 僕は男相手には遠慮なく実力に訴えるぞ。」
「おぉ怖ッ。言ったろ、俺は喧嘩は弱ぇんだ。楯突くつもりはないよ。
 でもお嬢さんはお前のことを心配するあまりその豊かな胸を痛めていらっしゃる。」
「シルマリルの乳がでかいことなんざ今に始まったことか!
 どうやら本気で殴ってもよさそうだな、俺は遠慮なんて知らないししないからな。」
「あ、待てロクス俺らどっちもヤバい」

「いいかげんにしてください!
 ひ、ひ、人の身体的特徴をあげつらってあなたたちは…あなたたちは!!」

 ロクスとクラレンスがそろえば始まるのはギャンブルか苛烈な舌戦か。今回は後者だったが、どちらも口を滑らせて――――自分たちのうっかりに先に気づいたのはクラレンスだったけれどそれでも遅かった、シルマリルは立ち上がりふたりを何度も交互に見て怒ったけれど、その表情は羞恥心で真っ赤に染まり青い瞳は涙目で、最後の方は泣き出しそうに唇を噛んだ。
「お、お嬢さん、口が滑ったのは謝るよ。でも男からしたら褒め言葉だし」
「…今さらそんなに怒ることじゃないだろ。世の中には胸が薄いことを嘆くご婦人もいるのに贅沢だぞ。」
「おい、少しは考えて物言え。でかいんだったらでかいなりの悩みもあるだろうが。」
「それでも小さくしたいなんて思わないだろう?」

「こんな風に言われるのなら小さくしたいですぅ!」

 …ロクスのあまりにもあまりな言葉に、とうとう天使様が子どもみたいに泣き出してしまった。
「大きいとか小さいとか気にしたことなかったのに!
 どーしてどーしてこんなに言われなきゃならないんですかぁ!!」
「あ、い、いやあのな、俺にしてみればお嬢さんの胸の大きさとか気にする以前の話であんたはあんたな訳だし」
「それなりに中身がありゃ多少似合わない服でも見栄えがするだろ。
 欠点じゃなく利点なのに泣く奴があるか。」
「てめえは黙ってろ、話がややこしくなる。」
「先に乳の話を振ったのはお前だ。」
「…そりゃ悪かったと思ってるよ。
 お嬢さんがこんなに気にしてたんだったらいくらでも謝るし次から絶対に言わないと約束する。」
「次があるとか思ってるのか、あつかましいにも程がある!」
「お前は黙って頭下げろ。
 傷をでかくしたのは間違いなくお前なんだぞ。」
「もー帰るぅ!!」
「お嬢さんちょっと待った! 俺のためにももうちょい我慢してくれ!!」
 大人気ないろくでなしふたりにからかわれ、天使のはずのシルマリルが泣きわめき子どもみたいな駄々を口にする。己の天使が自分からなにか巻き上げようとたくらんでいそうな男を頼ったことが許せないロクスはそんな彼女に優しい言葉のひとつもかけなくて、シルマリルの号泣ぶりを鼻でせせら笑う始末。
子どもみたいな意外な一面を見せた彼女を図らずも慰めるだけの口実を手にしたクラレンスだけど、その嘆きようがかわいそうで良心が痛むあたり、シルマリルの人を見る目もあながち節穴ではなかったりする。
「今帰られちゃ気になってしょうがねえ。帰るんだったら泣き止んでからにしてくれよ。」
「…っとにあつかましいな、お前って男は。
 俺の知り合いに色目使うなッてってんだろうが。」
「お前、顔がよくて女には優しいって評判だからもててるんだろうが。
 お嬢さんはどっから見ても極上じゃねえか、多少幼かろうと将来性ってのを買って優しくしてやれないのかよ?」
「へぇ、だからお前が優しくしてやるってか?
 いいかげんにしろ、人の事情にいちいち首突っ込んでくるな!」
「それ抜きでも不憫なんだって。
 こんなに泣かされちゃ誰だってかばいたくもなるさ。」
 「ヴァイパー」が悪事を企んでいるだろうと言うロクスの憶測はあながち的外れではないけれど、「クラレンス」としてはまだその時でもないことだし好敵手の天使様に興味があることは嘘ではないし、自分を頼ってくる少女が無体な物言いで泣かされることには反感も覚える。コンプレックスをつつかれいじめられてべそべそと泣き止まないシルマリルの肩を、クラレンスは大きな手で包み支えてかばうんだけど、そうすればするほどロクスは機嫌を悪くして舌鋒を苛烈に、下司にする。

「シルマリル! いつまでべそべそ泣いてるつもりだ!!
 僕を必要としてるんだったらとっとと泣き止んで一緒に来い!!」
 そして本性を現したエゴイスト、悪びれる様子もなく天使だろう少女を束縛ではなく支配の言葉で一喝してにらみつける。

「…行くのか、お嬢さん?」
 クラレンスの問いかけに、シルマリルは小さくうなずいた。そして己の下僕に等しいはずの男の言葉に従いクラレンスの元を離れる。
「あー…まあ俺が口出すこっちゃないが、ロクス。」
「あぁん? まだなんかあるのか?」
「あんまりいじめてやるなよ。
 おふざけがすぎるとそのうち俺が手なずけてもらっちまうぞ?」
「言ってろ。」
 珍しく善人らしい言葉でいさめたクラレンスの言葉を軽くいなし、ロクスはおとなしく自分の言葉に従いようやく戻ってきたシルマリルの手を引くことすらしないで一瞥した。
さっきの自信に満ちた命令には根拠があるロクスは、クラレンスの戯言に織り交ぜた牽制をあっさりと受け流した。そう、シルマリルはロクスを必要としていることは間違いなくて、誰かを代わりにできない事情も彼はずるいことに察している。
必要とされているのは自分、なのに何を思うのかシルマリルは別の男を頼っていた――――そのことがロクスを逆上させた。
基本的にロクスは女の事情を察することをしなくて、柔和な微笑と執着しない鮮やかな引き際で優しい男と女に思わせるけれど、その実とても残酷かつ自分本位な男に過ぎない。
執着した女が絡めば、こんなに激しい様子も見せる。
 けれど男の事情に同性ならではの理解を示しつつも、クラレンスはやっぱり連れて行かれたシルマリルが不憫で心配で、再び椅子に腰を下ろして頬杖をつきため息をひとつ漏らした。
自分にこんな感情が残っていたことに驚くのと同時に、世の中とはつくづく思うようにことが運ばないと言う普遍の現実がただただ恨めしい。
あの男が彼女が絡むと柔和な体裁をかなぐり捨てるのと同じに、おそらく自分が逆の立場なら、真逆の行動で同じことをするのだろう。
 クラレンスの指が、カードの山を美しく崩す。
今さら欲しいものが現れたけど、きっと手に入らないだろうことをこのろくでなしは気づいている。

2008/08/14