■□ 渡ル月ノ橋 □■
×ヴァイパー

 打ちしおれた水仙の成れの果てが夜露にふるえて濡れている。
浅く緩い流れのほとりに群れる水仙は盛りを終えて頭を垂れて、愛らしい花は見る影もなく、後は役目を終えて散るばかり。水仙に代わり咲き誇るのは闇にとける紫色の小さな花で、主役の座を追いやられた水仙の姿はあわれですらある。
 流れに渡された橋の上でも、水仙が一輪しおれている。川面で揺れる大きな月の中で咲き誇るそれは人の少女の姿を持ちながらも、その背には大きな純白の翼を持ち、自身がほのかに光を放つ。
しおれ腐り行く花たちとは違い、翼持つ少女は今まさに花盛りの風情だった。しかし彼女はもう盛りを終えた水仙と同じに頭を垂れて手すりのない橋に腰を下ろして足をぶらりと投げ出して、足だけでなくいろんなものを投げ出してしまいそう。春ならではの優しい風が水面を撫でて吹き抜けるから気温は寒いほどで、寒々しい風が金の髪を撫でるから彼女は今にも泣き出しそうだった。
 月が渡る橋の上で季節はずれの水仙が揺れている。それは鏡合わせのように揺れる水鏡に映っていて、水の上で儚く揺れる水仙は泣いている。眠りそこねた小魚が跳ねて波紋が現れて水鏡の世界は割れて跡形もなくなるけれど、ぬるむ水にはしゃぐ生き物たちの活気は彼女には届かない。
彼女のまわりはまだ冬だから、春になっても盛りが過ぎないのかもしれない。
 石造りの橋に、重めの足音がゆっくり響く。それは打ちしおれている水仙の近くで止まった。

「珍しい時間に珍しい所で会うな。どうした、ロクスにいじめられたか?」

 夜の闇にふさわしい低い声が彼女を呼ぶ。
背が高く肩幅は広く、髪はその素行を物語るかのように逆立ち尖っていて左側のこめかみあたりだけ上着と同じ色に染めていて、片目を眼帯で隠した、低い声の強面の男。物言いから察するまでもなく素行のよくない男だと推測できるけれど、不躾に近寄らない態度は紳士的ですらある。唇の形は笑みのそれなのだけれど、男の表情は笑っているようには見えなくて――――だがひとつしかない目は返事すら返さない彼女の様子に気を悪くするでもないらしく、月明かりの元で彼は確かに笑っていた。
男は己のまとう空気すべてでしおれた水仙に微笑みかけているけれど、水仙はわずかに顔を向けただけで挨拶はおろか言葉ひとつ返さない。青い海の底みたいな月明かりの下で色をなくすその瞳は蒼、蒼い瞳は水面と同じに揺れているよう。
 言葉ひとつ返さない彼女は花の精そのものなのだけれど、その背にはやはり純白の翼。大道芸人の仮装にしてはずいぶん手の込んだそれをどう思うのか、男は怪訝な顔どころかそのことなど気にも止めぬ風で、今度ははっきりと唇をさらに緩め愛しむ眼差しを向け笑いかけた。
「お天道様の下のあんたもいいが、月明かりだとその美貌ってヤツがいっそう引き立つな。
 隣、邪魔するぜ。」
 真夜中に少女がひとり存在を彷徨わせていてもなれなれしく近寄らず、彼は隣を陣取る言葉を口にしつつも少し離れた場にしゃがみこみ横目でちらりとしおれる水仙を盗み見た。
 打ちひしがれているのがありありと読める下がり気味の細く丸い眉と頼りないほどに細い腰のない髪が春の夜風に弄ばれる様がいかにも儚げで壊れてしまいそう。小さく華奢な体、細腕に力はなくて、それでも彼女は淡い光を放っているから男は目が離せずにいる。
小さな体を包むしなやかなドレスのように裾の長い若草色の服が清楚な佇まいの彼女によく似合っていて、男は不謹慎な自分を感じながらもそれを止められない。
「それにしても、ずいぶんしょげ返っちまって見てるだけでかわいそうだ。
 あの女たらし、酒場女にゃいくらでも優しくできるくせ、あんたはダメだなんてわかりやすすぎて横っ腹が痛くなるぜ。」
「……怒られても無理のないこと、しましたから…………。」
 男がいくつも言葉を口にして、ようやく彼女は声を聞かせてくれた。ポツリとそれだけ言うとまた言葉が途切れて彼女は花びらみたいな唇を合わせ結んで、月明かりの下で見てもわかるほどに下唇を強く噛んだ。
「やっとしゃべってくれたな。しかしこれまた泣き出しそうな声で。
 あんたは怒られてもしょうがない、って思っててもな、それでも堪えるのも男の度量だよ。
 あんたみたいに言い聞かせればきちんとわかる女相手に本気で怒るなんざ、いい年の男のやるこっちゃない。」
 声をかけながら探りを入れていた男はようやく返ってきたか細い声に少しだけ安心したらしく、けれど後悔に後がない彼女が不憫でならなくて、短い掛け声を小さく口に出しながらその場に腰を落とし足を抱えて胡坐をかいた。男が己の足の上に肘を置いて背を丸め顔を彼女の方に向けると、彼女が身にまとっている光の粒子が彼の顔をわずかに明るく照らし出す。
なれなれしい口ぶりと紳士的な距離、そして優しくいたわる低い声や無意識に大きな度量と普通の女ならその言葉に彼の振る舞いに慰められるのだろうけど、水仙の様な少女は顔も上げずにしおれたままでいる。彼女のそんな様子に男は笑いながら眉を寄せて、声のないため息をひとつついた。
「いったい何やらかしたんだ?
 俺はどうにもしてやれねえだろうが、愚痴れば楽になるって言うぜ。」
 彼と彼女はそのやり取りから推測できるように顔見知り以上の関係には違いなくて、見かけによらず饒舌な男は小娘に毛が生えた程度の年頃にしか見えない彼女に好意を隠せずにいる。泣くに泣けずにいる様子の彼女がどうにも心配でしょうがなくて聞き役にまわる心積もりがあることを伝えているのだけれど、彼女はまた貝のように口を閉ざしてしまったから心配は加速度的にふくらんでしまう。
打ちしおれても美しい少女の姿の水仙だけど、淡い光をまとうその佇まいにはやはり微笑がふさわしい。
だから、
「なんでもかんでも抱えこんでちゃ誰だっていつか破裂しちまうぜ?
 ただでさえあんたは面倒なヤツのお守りやってんだ、泣き言言っても誰も責めねえよ。」
自分の足に頬杖をついて。紳士的な距離を保ったままで男は彼女から憂いの源を引きずり出そうと試みる。
しかし儚げな少女は芯も我も強い頑固者らしくて、小さく空気を飲み込むみたいに息を呑んだだけで口は開かない。
背の純白の翼持つ儚げな水仙みたいな少女と、世の中から転げ飛び出した片目の強面が、月がゆっくりと、一晩かけて渡り行く橋の上でなかなか過ぎない夜を共に浪費する。
揺れる水面に映る眠らない月は、確かに橋の上をゆっくりと西へ向かい歩いている。
月も川面もすでに静かでまだ虫が鳴くほどの陽気ではなくて、ふたりの間には浅い川のせせらぎだけがあった。
「…………笑いません?」
 せせらぎでかき消されそうな細い声、しかし男の耳は敏くそれを拾い上げた。
「笑うしかねえ人生を送る俺があんたを笑うと思うかい?」
 回りくどくわかりやすい本音に偽りはなくて、男は自らを道化と捉えて喜劇じみた台詞回しで彼女に答える。
「あんたに笑われるんならわかるが、俺は一所懸命なあんたを笑えやしない。
 まあこのツラは生まれつきだから、笑ったうちにカウントしねえでくれるとありがたい。」
 皮肉な笑みが張り付いた口元も当然わかっているらしく、男の笑いの矛先は常に自分自身で、彼女に向けられることはない。向けられるのは下心隠さぬ笑顔であり、嘲笑の類はすべて己自身に向いていた。
「……私、自分の都合でばかり行動してて…………」
 それで十分らしい、少女は訥々と、歯切れの悪い口ぶりでようやく語りだす。
男は相槌を打つどころかうなずくことすらしないで遮らないでただそこにいるだけ。……けれど、それでも十分。
他に誰もいないから、彼女も彼もそれで十分だった。
「私の都合を押しつけてるのに、私ったら何も考えずに押しかけて邪魔ばかりして……」
 少女の台詞の中身はまったくまとまらないし要点がどれかすらわからないほどに抽象的なんだけれど、男はまぜっかえさず、黙ってただそこにいるだけ。
動くのは風が吹きつける逆立つ髪と時々のまばたき、そして呼吸に伴ってわずかに、見えないほどわずかに上下している広い肩ぐらい。
彼女の表情を伺うために目だけで覗き込むことすらしない。
「私どれだけ役立たずなんだか…………!」
 そして彼女は声を詰まらせた。
「……自分のふがいなさを悔しく思うヤツは役立たずじゃねえ。
 本当の役立たずは、自分が役立たずだってことすら気がつきゃしねえよ。
 とりあえず、気がすむまで泣くか? こんな粗末な胸でよけりゃいくらでもどうぞ。」
 声を詰まらせたけど、それでも泣けずにいる彼女へ返すのは、おどけたふりした真実。
男は頬杖を解き少々大仰に腕を広げて見せた。唐突に誘いをかけられた少女は驚いたみたいな丸い目で彼を見たけれど、そのまま固まってすぐには動けない。
「しかしロクスのヤツは器が小せえ。お嬢さんがこんなに思いつめてるんだったら、男としてするこたぁひとつだろうに。」
「で、でもロクスが私を疎ましく思うのは仕方がなくて」
「逆さ。生真面目で一所懸命なあんたがまぶしくて仕方がないんだろうよ。でもあいつのこった、素直にほめられやしないだろうし、従うなんて男のプライドがとかつまんねえこと考えたに違いねえ。」
「ヴァイパー……いえクラレンスっ」
「俺はあんたが好きだからな、それこそカッコつけるの忘れちまうくらいに。
 しょげてちっちゃくなったあんたも可愛くて抱きしめたくなるが、やっぱ笑ってるのが一番だ。
 思いっきり泣いた後に笑ってくれるんだったら、俺の上着の一着や二着濡らされるくらい安いもんだよ。
 こんなおいしい役、ロクスにゃもったいねえ。」
 男の本音の隠れたあたりを隠すことなくつらりと語り、おどけて笑った少年みたいな笑顔に――――とうとうつられてしまったらしい、水仙が揺れて夜露を弾くみたいに彼女は吹き出してしまった。
それがきっかけ、思わず吹いたはずなのに笑ったはずなのに彼女の目尻から涙がにじんで珠になって弾けてこぼれて止まらなくて、
「……そうだ、我慢しなくていい。
 泣くのこらえてがんばらなくてもいいんだよ。」
 いつの間にか、花盛りの水仙がこぼれた夜露にまみれるみたいに彼女はぼろぼろと泣き出した。
彼女を追い詰めた理由はわからずじまいだけど、無理に引きずり出して月の元にぶちまけても代償に彼女がさらに傷つくと言うのなら、彼にとって理由なんてどうでもよかった。
けれど大きな手は、子どもみたいに小さな肩を、そして純白の翼をふるわせて泣きじゃくる幼さ残る美しすぎる彼女を抱かない、支えない、触れない。
そんな立場にいない自分を冷ややかに捉えているから、彼は不躾に触れない。
表に出せない思惑も同時に抱えているから、自分には彼女に触れる資格などないことを彼は冷徹なほど冷静に理解している。
ただ、口にした言葉に嘘偽りはないから、ひとりの男として彼女のわだかまりをこの川に流してしまいたかった。
自分さえ忘れてしまえば胸の奥に沈めてしまえば後は月しか見ていないのだから、なかったことにさえしてしまえるから――――

「泣いてすっきりしちまえ。」

 月が橋を渡りきってしまう頃には忘れられるからと、男は先に様々なことを川に流して、低く短くそう口にした。
2009/04/11