■□ 本心 □■
アリーシャ、レザード、ルーファス
慌しい昼間の喧騒が嘘のように、日暮れと共に静寂が訪れた。
王族、しかも王女が王城に戻るだけなのにその道行きは隠匿されたもので、共の者は途中で声をかけた射手と過去より来たりし重戦士のふたりのみ。しかも王女の帰還を盛大に迎えるはずの王城とその護衛、そして高官たちは、彼女を捕らえ供のものを断頭台へと送ると言い放った。
即日のうちに追手をかけられる形で王城をあとにせねばならず、王女とその護衛となった者たちは、王女の受ける仕打ちとしてはあまりの異常さに誰もが重い気分のまま、重い眠りについた。
しかし異常な王城をあとにし外の空気を吸い込めば、こんなにも穏やか。
空を見上げれば三日月が細く美しく銀色に輝いていて、吹き抜ける風に重さは感じない。深い鳶色の髪と夜色の服を揺らして吹き抜ける風に、不寝番は何を思いそこにいるのだろう?
すべてが王女たちの敵であった中、唯一彼女に与し逃走経路、いや血路を時空も空間すらもゆがめ開いた青年は、疲労困憊の王女の供たちを見て不寝番を申し出た。
虫の鳴き声が聞こえる以外は遠くに獣の遠吠えらしきものが聞こえるけれど、彼の魔道の結界は獣どころか追手すらも惑わし彼らを隠すほどに強力なものだから心配はいらなかった。
「眠れないのですか?」
彼が静かにそう口にしたのが合図、小さな影がむくりと身を起こした。
はちみつ色の髪と空色の瞳、小さな体、小さな手。ディパン公国の王女アリーシャ。
実父であるはずの父王に追われ、本来の住まいからまた逃げるより他がなかった不憫な王女様。
表向きでは死んだことにまでされた王女様。
…その彼女には、別段不審な気配はまったくない。気が弱くて儚げ、しかし必要に迫られ細い剣を手にせざるを得なかった。今の彼女に放逐されるだけの理由は見つからない。
不寝番の彼は呼びかけに答えて身を起こした王女様をいたわるかのようにやわらかく微笑んだ。
「無理もありません、あのような形で城を追われたのですから……」
「……あなたの助けがあったから、ルーファスとディランまで巻き込まずにすみました。」
「あなたは捕らえられようと身の安全は保障されるでしょうが、他のお二方は処刑場送りだという声が聞こえたもので。
王女殿下を護衛しお連れした方々にそのような仕打ち、あまりにもあまりでしょうし。」
微笑と直後にかけられたいたわりの言葉に、王女アリーシャは今にも崩れて泣き出しそう。不寝番まで買って出た彼は唐突に王女の捕縛の現場に駆け込み彼らに与して絶体絶命の窮地を見事に切り抜けた。
それだけではない、王女に対する同情のような同調も見せている。
「あなた…三賢者の」
「レザード、レザード=ヴァレスです。三賢者様の下で研究に携わっていました。
中でもダレス様にはよくしていただきまして、アリーシャ王女の話も、少しだけ。」
アリーシャは一度聞いただけでは名を覚え切れなかったらしいが、無理もない。
すべてがあまりにも慌しすぎて頭がついてくるのを待っていられなくて、それで一度聞いたはずの彼の、命の恩人の名すら忘れてしまったのだけれど、忘れられた当人は気にした様子もなく一度口にした自己紹介を、嫌な顔ひとつせずに改めて繰り返した。
「実は個人的にダレス様と似たような境遇におりまして、そのことをきっかけにしお近くでの仕事などをお受けする機会が多くありました。…ダレス様は、あなたのことをそれは気にかけておいででしたよ。」
夜色の服と同じ色のマント、鳶色の髪は短く、邪魔にならぬ程度に清潔に揃え。
いかにも学者といった風体に見せている眼鏡は、角度しだいで月と同じ銀色に輝く。
レザードは礼儀正しく穏やかな物言いで、学者にありがちな慇懃無礼な素振りはまったく見せない珍しい青年だった。
今もそう、アリーシャの尻すぼみですらある要領を得ない断片的な問いかけだろうと、とても丁寧に受け答えをして、答える時には自然な微笑みを添えて返す。
その優しげな物言いは今までのアリーシャに与えられなかったもので、そのことが彼女を少しだけ饒舌にしていた。
「ダレスと…親しく……」
「はい。とても光栄なことではありましたが、それ故に己が携わっていた研究の核心に触れてしまい、恐ろしくなってしまって……」
「だから私たちに手を貸したのですか?」
「…城から離れるきっかけが欲しかったのかも知れません。」
とてつもなく重要な話を、夜の静寂の中で。淡々と。
アリーシャがその名を口に出したルーファスも、ディランも、身動きひとつしない。
無用心にも正体がはっきりしていないレザードを信じきって深く深く眠っている。
「つまりはただの臆病者です。
加えて言えば、王女殿下は躊躇されてもお供のお二人は私に他意があることを知ればおそらく迷われることはないでしょう。
三賢者様の下にいたとは言え一介の魔道士が、射手と重戦士のお二人に勝てるはずなどありません。言葉は悪くなりますが、一人では何もできなかったからあなた方に便乗しただけです。」
誰も聞いていない気安さなのか、レザードは眉根を寄せながらアリーシャに情けない自らの話を、絶体絶命であった彼女たちに手を貸した理由を語って聞かせる。
しかしアリーシャは窮地を救ってもらったその力――――魔道の力に畏怖を覚え忘れるには記憶が新しすぎて、レザードの言葉に首を横に振った。
「あなたは臆病ではありません。
本当にそうならば、私たちを見捨てればよかったのですから。
そうですか…あなたが恐ろしくなるようなことを…ダレスは……お父様は……」
アリーシャの声が細くなる。
得体の知れない研究に没頭するディパンの頭脳、それを許した父、そして幼なじみダレスの見せた後悔。目の前の助力者は自らを振り返り、逃げるきっかけを探していたのだろうと言った。
それだけでも充分、彼女が背負った故郷はなにやら道を踏み外してしまったらしい。
己に他意はない、そのことをアリーシャだけでもきちんと告げておこうとしたレザードの配慮が裏目に出た。彼女は今にも泣き出しそうに青い瞳を揺らしていて、それを見たレザードは穏やかな微笑を消し真一文字に結んだ唇にわずかばかりの後悔をにじませた。
己の置かれた境遇で立ち回ることで手一杯だろうにこの王女様は存外聡いご様子で、レザードの言葉から発した当人が思う以上のものを読み取るらしい。
ならば、あわてて取り繕おうとそれは徒労どころか逆効果になりかねない。
穏やかに饒舌だったレザードは、一転して黙り込んでしまった。
「……ありがとう、レザード。」
しかし、アリーシャは儚げで実際脆いのだけれど、今にも泣きそうな顔をしながら、それでも泣かずに微笑んでレザードに「ありがとう」と言った。
「あなたが私たちを助けてくれたことは事実です。
私たちだけでは逃げられなかったかもしれないだけでなく、失敗すればあなただって処罰は免れなかったのに……。」
アリーシャにとっては、それだけで充分感謝に値すること。王族としてだけでなく、人並みの幸せすら手放さざるを得なかった、そんな中でこんな配慮と思いやりを受けたのは、果たしてどれくらいぶりだろう?
思い返せば緩慢で無為な時の中の平穏すら失いかつての居城を追われたあとにばかり、他人の優しさというものを与えられている気がする。かつてディパンの忠臣だったディランの身を挺しての護衛も勘違いしそうになるし、最初は猜疑心ばかりだったルーファスも、足元の悪い場ではその細い手を無言で、当たり前のように差し伸べてくれた。
そして今のレザードの言葉の数々で、アリーシャは泣きたくなるほどの不安と悲しみとそして喜びを感じている。
放り出されたはずの世界なのに、まさかこんなに優しかったとは思ってもみなかった。
「いいえ。感謝しているのは私の方です。
ですから、どうかお気になさらず……私ひとりではどうにもできぬまま我が身の置かれた状況に怯えることしかできなかったのに、あなた方の道行きに同行させてもらえることそのものが心強いのです。
旅は道連れ、とはこのことですね。」
そして王女の聡明さに舌を巻き言葉を模索していたレザードも、再び微笑を取り戻す。
「どうかご無事でいてください。…いつかダレス様と再び逢われるその日まで。」
「ええ。それまでどうか力を貸してください、レザード。」
「もちろんです。
ダレス様にはぜひあなた様との再会を果たしていただきたいのです。」
たったひとりを、盲目的に。
道を踏み外しても想い続ける男として共に目的を遂げようではないか。
「…さ、もうお休みください。あなたが一番疲れておいでのはずです。
気持ちが高ぶって眠れないでしょうが、目を閉じていればそのうちに体が自然に眠るでしょう。」
「ありがとう、レザード。」
「それと、これを……」
レザードは微笑を崩さない。それだけではなく、己の身を包んでいたマントの金具をはずしてアリーシャの膝に掛ける。
その行動だけ見れば不埒にも王女に恋慕の情を抱く男のそれで、あまりにもあからさまなレザードの言葉と微笑みと行動に、さすがのアリーシャも一瞬身じろいだ。
緑の髪が一瞬だけ動いたことを誰か気づいただろうか? レザードは曲解されたことを感じ、初めて慌てた様子を見せ首も手も横に大きく振った。
「あ、いえ、他意はありません。他の方は旅慣れていらっしゃる様子ですが王女殿下は慣れていらっしゃらないだろうし、昼間のこともありますし。
それに、旅慣れてないという話では私も他の方のことを気に掛けている余裕はないかもしれませんが、私は男ですから。」
「でもレザード」
「…大丈夫です、よくある話と同じに、王女殿下に恋慕の情を抱いての行動ではありません。
お恥ずかしながら、私にはずいぶん長いこと想っている女性がいまして。
彼女から見れば情けないのか相手にされないままではあるのですが、…だから、ディパンへの仕官の話にはふたつ返事でうなずいたのです。
素晴らしい女性に惹かれた以上、ふさわしい男になりたいのですよ。」
恥ずかしいついでに、もうひとつ。レザードはありのままをアリーシャに照れながら語る。冷静で、なのに鼻に掛けた様子は微塵もなく穏やか、そんな彼がばつが悪そうに、頭なんかかきながら、照れながら。
しかし観念したみたいにアリーシャに語った姿は声は、まるで恋に不慣れな少年のようですらある。
そんなレザードの様子に、一転して暗く曇っていた表情を明るくし、彼のマントを膝に置いたまま身を乗り出したアリーシャも年頃には違いなくて、わずかに頬を染めた様子で言葉を切ったレザードに食い下がる様子なんて見せる。
「あなたのような方に想われるなんて、きっと素敵な人なのですね。
よかったら話を聞かせてください。」
「どうかお許しください、どうにも誤解されたご様子なのでお話しただけです。
ダレス様にさえ話したことのない、ごく私的なことですから……」
「レザード」
あの引っ込み思案で臆病な王女様が。すがる勢いでレザードに食い下がる。
さすがの彼もかなり困ったらしい、まるで腰を抜かしたみたいな情けない様子でアリーシャから慌てて離れるけれど、そう離れてない場所に、緑の髪。
休んでいるルーファスの背にぶつかり、レザードは慌てて彼から離れ起こしてしまわなかったかと彼を振り返った。
それを見たアリーシャもハッと我に返り、はしゃぎすぎた自分に気づいて口もとを押さえた。
幸いルーファスは身動きひとつせず、当然起きなくて、しばし沈黙を守ったふたりはほぼ同時に胸を撫で下ろしまた声を潜めた。
「……私は幸いそう疲れてはいませんし、気持ちがどうにも落ち着かなくて眠るどころではありません。
不寝番でちょうどいいのです。
さ、あなたは体を休めてください。次に起きたらしばらくはおそらく休めませんよ。」
「わかりました。……おやすみなさい、レザード。」
そして、最初の静かな、静かな声の調子にお互い戻る。
レザードの言葉は言い逃れではなくそのとおりで、次に起きたら安全な場にたどり着かない限り休憩もままならないだろう。男性陣はともかく、疲弊しきった乙女の体ではレザードの言うとおり長くは持ちこたえられない。
アリーシャは、今度は素直に横になった。肌寒い夜の空気も、夜色のマントを貸してもらい苦にならない。
目を閉じてしまえば、あっという間。気持ちが少しでも軽くなった分、疲れは簡単に彼女に眠りをもたらした。そして再び訪れる静寂。
レザードは微笑を消して三日月を見上げる。
けれど。
「……起きていらっしゃるのでしょう、ルーファス殿?」
しばらくの沈黙、静寂の後に、レザードは再び口を開いた。
「先ほどは申し訳ありませんでした。不用意にもお休みだったところを起こしてしまって……。」
しかし、今度はアリーシャとは違い、その名を呼んだ相手、緑の髪の青年は起きる気配すら見せない。それでもレザードは言葉を切らない。
「おそらくあなたがもっとも私のことを疑っていると思いますが、魔道士の脆弱さを知らないあなたではないでしょう?
あなたが本気になれば私など容易く屠ることができますから、私も不用意なことをして自らの立場を危うくするようなことなどできません。
……アリーシャ王女はただでさえお疲れのご様子です、私を快く迎えてくださった王女殿下に必要以上の心労を感じてほしくありませんので、胡散臭いでしょうが当座の間だけでも大目に見て下されれば助かるのですが……」
「…………………………。」
「……おやすみなさい。」
結局レザードはひとりで語っただけで、ひとりで完結し挨拶を口にすると今度はそれっきり黙ってしまった。彼に背を向けていたルーファスはその間身動きひとつしない。
間隔のあいた呼吸を規則正しく繰り返すばかり。
しかし、緑の瞳が闇の中はっきりと姿を現していた。厳しく結んだ唇は眠っているもののそれではなく、今起きたとも思えない。
別に背中に彼がぶつかってきた際に起きたのではない。一瞬、ほんの一瞬、いやそれにすら満たない短い時間とも言えないほどの断片のような瞬間的な中に潜んでいた強烈な悪意、狂気に、半ば反射的に目が覚めた。
あれの正体はいったいなんだったのだろうか? 耳をそばだてても聞こえてきたのはアリーシャとレザードの声だけで、その言葉には彼を起こしたほどのものはなにひとつ隠れていなかった。
置かれた立場ゆえに、ルーファスは気配の類には相当に、過敏なほどに鋭い。
その自分が反射的に反応したあの瞬間を「気のせい」と片づけるには、あれは少々強烈過ぎる。しかし、今は何もかもが読めなさ過ぎる。
誰もが秘密を抱えたままでいるから、ルーファスは道連れができても気を許すことはない。
アリーシャのように無防備にはなれない。
夜は静かにふけるばかり。
2008/10/06
下手すれば一気にネタバレの嵐になりそうな話でした。
レザ×アリも結構好きです。