「……………。」
 「本日のディンガル政庁執務室だより」、宰相閣下は落ち着きがなかった。
当然と言うか部屋の中の部下たちは戦々恐々でおとなしくしている。
彼らは全員宰相閣下直属の部下なんだけど、有能すぎる宰相閣下のペースについて行ける者はこの中にはいない。彼らの実質的なまとめ役ただ一人が、有能すぎるわがまま宰相とフツーの人である彼ら秘書たちのクッション役を果たしながらも、宰相の仕事っぷりをさりげなく補佐できる。
「…シルマリル様、早く戻ってこないかな…」
「どのタイミングでお茶お出しすればいいのかわかりません。」
「軍からこの書類至急って決済急いでるのが来てるけど、閣下に出していいものか…。」
「待て。軍の連中にねちねち言われるより閣下のご不興買う方が胃に来るぞ。」
 秘書たちが集まって密談をしている間も宰相閣下は何ぞ書類に恨みでもあるのかと思わせる勢いで捌いている。いつもは、ただひとり宰相閣下の操作説明書を持つ(?)秘書の女性がすでに優先順位別に仕分けが済んだ書類たちを閣下に手渡しているから問題ないのだけれど、今朝朝一番の時間、書類の分類の時間に彼女は呼ばれて別室へ行き、10時の休憩に入っても戻らずに今に至る。
勝手に動くと閣下につっこまれるし、動かなかったら仕事っぷりをいやーな目で見られるんだから秘書たちは今朝から生きた心地がしないんだけど、「早くボスを僕らの元に返してください」と彼女の帰りを催促するのもまた無理で――――秘書たちの女ボスを連れて行ったのは麗しき黒髪の女帝陛下直属の、これまた美しい近衛兵の女性たち。
亡くなった訳ではないが込み入った事情により先代となった若き獅子のごとき皇帝と今部屋の中でいらついている宰相閣下が親友だったのと同じに、かつて宰相閣下の部下だった女帝陛下と秘書たちの女ボスの彼女はまるで親を異にした姉妹のように親しい間柄で、女帝陛下は愛らしい妹同然の彼女を自室に呼び歓談することがある。
陛下ご自身は自分から忙しくしている友人のもとへ来てもいいと思っているけど、そうなるとこの部屋の主がいい顔をしないし、近衛兵だけでなく国の高官たちもやんわりと自粛するようにと言うから、いつも呼びつけてばかりいる。

「あら? みんなどうしたの、なんか空気が重いけど。」

 ようやく戻ってきた秘書たちの女ボス、女ボスと言う実質的な立場なのに美しく愛らしく、困り顔しきりの秘書たちがたちまち彼女を取り囲んで、いやその背中に隠れる勢いで宰相閣下との壁にしてしまう。
「閣下は仕事の手を止めないのでお茶を出すタイミングがわかりません。」
「声かけない限り止まらないから声かけてお茶を机に置いていいわよ。」
「軍から至急の決済を求める書類が来たのですが」
「待たせていいわ、至急かどうかはこちらで判断するものだから。」
「みんな休憩が取れないんですけど…」
「声かけても仕事やめない人に合わせなくてもいいから。
 今取ってかまわないわ、私はまたすぐ席を外すから早めにね。
 やりかけの仕事でも目処が立ってるんだったら途中でもいいでしょ。」
 背中から矢継ぎ早に飛んでくる指示を仰ぐ迷える子羊たちの声に、彼女はいつ判断して考えているのかと思わせるタイミングで立て続けに指示を下し解決してゆく。しかし「また席を外す」と告げた彼女の言葉に、秘書たちはまた固まった。
この針の筵の時間がまた来るのかと思うと、昼までで、いや今すぐにでも早退したい。

「…君たちはいつまでひよこでいるつもりだ。彼女がいないと仕事の配分も満足に出来ないのか?」

 もちろん早退の本当の原因はこの部屋の表向きのボスで、陰口にでも聞こえたのかいらついた様子で視線だけを上げて静かな恫喝を放った宰相閣下の言葉に、ひよこたちは固まり怯えて小さな女ボス、めんどりさんの後ろに隠れてしまった。
「あなたたちがひよこなら閣下は雄鶏よ、ねぇ?
 あの髪がとさかで上着が立派な羽根ってところかしら。」
 そうなるとさしづめ机に根を張って立ち上がらない宰相閣下は雄鶏といったところだろうか? そんなこと、ひよこたちは思うだけにとどめて口に出すなど恐れ多くて出来ないんだけど、このめんどりさんはその立場ゆえに大きくて強い雄鶏を少しも恐れない。
今だって彼女がこそっと口にしたにもかかわらず、部屋中が息を呑むような嫌な静けさに満ちているから当然閣下の耳にも入る。
「シルマリル、君が若い連中を甘やかすから君がいなくなったとたん仕事も満足に出来ないんだ。」
「できないことはありませんよ、閣下の放つプレッシャーに耐え切れないだけです。
 私不在で閣下が席を外しても仕事に滞りがないところが彼らの有能さを物語っていると思うのですが。」
「…私は邪魔だ、そういうことか?」
「そこまで言ってませんけど、まあ似たようなものかと。」
「室長そんなはっきりと」
「あなたたちもいいかげん慣れなさいな。別にかみつきはしないって何度も言ってるでしょう?
 閣下ももう少し時計を気になさってください。仕事が趣味のあなたは時計が邪魔でしょうけど、私たちは休憩が待ち遠しいんです。」
 夫婦の鎹は子どもだが、この部屋の鎹は間違いなく彼女。空気読めない宰相閣下相手に鋭く優しげにつっこみ怯えてばかりのひよこたちにも釘を刺す。誰もが怯える威圧感を放つ男をころころと手のひらの上で転がすみたいに扱う彼女は何のことはなく宰相閣下の細君で、かつてはこの国が何度も挑みながらも結局痛み分けにしか持ち込めなかった大国の軍で2番目に偉い立場にいた。
見かけの小柄さと頼りなさが詐欺だと叫びたくなるほど有能な女傑としてその名を大陸に轟かせている。
「宰相閣下?」
「……何だ?」
「陛下より昼食会のお誘いをいただきました。宰相閣下もともに、とのご希望です。」
「…わかった。支度をするぞ、シルマリル。」
「はい。」
 ぴんと背筋を伸ばし、しかしどこかたおやかに告げた彼女の言葉に宰相閣下がうなずいてようやく羽根ペンを置き席から立ち上がる。その腰には根っこは生えていなかったが腰が重いのはいつものことで、仏頂面に近い無表情から常に放つ威圧感の割に細身で容姿端麗な男性なんだけど、そんな男にも神とやらは欠点と言うか弱点を与えた。
「…室長、さすがだな。」
 強面なほどの宰相閣下の弱点は名実ともにパートナーの細君だと言うことを、部下を始め彼を知る者は微塵も疑っていない。彼女は実にマイペース、誰もが恐れたり身構えたりするこの男を難なく操縦しうまい具合に動かしている。
「…で、今まで陛下とどのような話をしていたのだ?」
「チェスのお相手をしていました。」
「……チェス、だと? この忙しい最中、私の執務室でもっとも有能な君を連れ出して、チェスか?」
「はい。陛下もずいぶんお忙しいご様子で、お疲れでしたから私からお誘いしたんです。
 対局しながらでもお話はできますから。」
 かつて敵国で粗忽極まりない軍総司令のおもりをしていた元副指令殿は、熾烈な恋の鞘当の末に強面の仕事人間の宰相閣下に奪われて、今この国で宰相閣下のおもりをしている。
以前は誰もが遠巻きに見ていた宰相閣下なのだけれど、今では間違いなく距離が縮まったことだろう。
「それでは席を外すが、遅れている仕事を追いつかせておくように。」
 宰相閣下が偉そうにそう言いながら胸を張ったところで、今の今までの流れを見ていれば迫力も半減してしまう。奥方に操縦されている亭主と思えば、秘書たちの溜飲も下がりストレスもわずかではあるが減るというもの。

「…取りそこねた休憩の分、少し長めに休んでなさいな。
 その間閣下のことは私にまかせて忘れなさい。」

 先に部屋の主を外に出して、ひよこたちにめんどりさんがそう耳打ちした。
美しい雄鶏と小さなめんどりさんが、烏の濡れ羽色の髪を持つ女帝陛下の元へと出かける、その様子を想像してひよこたちが必死で笑いをこらえていたことを、閉じたドアの向こうで風船が割れるみたいに爆笑していたことを、雄鶏さん…もとい宰相閣下は知っているのだろうか。
もちろんめんどりさん役の秘書たちの女ボスは知らずとも推測して黙殺してくれる。