鎖に繋がれた天使の行方









散々嬲り続けた最中に、少女は意識を手放した。



絶頂へは何度上り詰めただろう。
もう無理だと叫んでも聞き入れられず、京子は強引に快楽の頂点へと押し上げられた。
最中に体内に男の欲望を注ぎ込まれたのは、一度や二度の話ではない。
卑猥な言葉を強要され、その羅列によって己を快感へと貶め、まるで性奴隷のように男に好きに扱われた。

そうして繰り返し悦楽を強制された躯は、意識を失って尚、更なる快楽を求めて止まない。
眠る彼女の牝貝の形を指先でなぞってやれば、それだけで彼女の躯は反射のように震えてしまう。
男の味を覚え込まされた其処へ、もう一度ペニスを穿てば、きっと良い反応が返って来る事だろう。


だが、其処まで追い詰めておきながら、八剣はそれ以上を望もうとは思わなかった。
あれだけ彼女の嫌がる事を強制していたのに、彼女が目を閉じた途端、それまでの意地の悪い表情は消え失せる。




眠る京子を風呂場に運び、優しげな手付きで彼女の躯を洗い流す。
その手が悪戯な動きを見せることはなく、寧ろ労わりさえ見せた。



風呂上りの京子の躯が冷えないように、柔らかなタオルで体を拭いた後は、リビングへとまた運ぶ。
しわくちゃになったシーツを全て取り替えて、情事の気配を残さないベッドに、ゆっくりと横たわらせた。

京子はベッドの上でしばらく身動ぎした後、猫のように身を丸くして、ようやく大人しくなった。
そんな京子の頭に手を伸ばして、─────触れる直前で、八剣はその手を止めた。




(─────おこがましいか)




己の掌を見下ろして、八剣は胸中で呟いた。




優しくしたいなど、慈しみたいなど、おこがましい。
それは自分の役目ではない。

少女は、八剣に、そんな役目を望んでいない。




……それはそれで、辛い。
今更ながらにそんな考えが過ぎって、八剣は自嘲した。





────そのまま思考の海に沈もうとした八剣を現実に戻したのは、部屋の扉をノックする音だった。



重い腰を上げて玄関に向かう。
一度、ちらりとベッドの少女を見遣ったが、彼女はもう寝返りさえ打つ様子はなかった。
少なくとも、四半刻は目覚めないだろう。

改めて玄関へと足を向けて、進む。
ドア一枚向こうの気配は、八剣もよく知るものだった。


軋んだ音を立てて開けたドアの向こうに立っていたのは、壬生紅葉。




「珍しいねェ、紅葉が俺の部屋に来るのは」




と言うより、他人のテリトリーに近付く事そのものが珍しい。
揶揄う顔でそう言ってやると、静かな怒りを灯した瞳がジロリと此方を睨んだ。




「─────お前、どういうつもりなんだ」




藪から棒の壬生からの問い掛け。

説明のない言葉だったが、八剣にはそれが何を示してのものなのか、よく判っていた。
何せこの話題で壬生に詰問されるのも、もう何度目になるか。


八剣は己のテリトリーの外へと出て、ドアを閉める。
ドアに寄り掛かって壬生を見下ろせば、やはり剣呑な色を秘めた瞳が向けられていた。




「どうもこうも。お仕事だよ」
「……拳武館は閉鎖している。勝手に依頼を受けるな」




壬生の語尾は強く、八剣を責めているのがよく判る。
だが、八剣の方は柳に風と言った風で、全く応えていない。




「拳武館は、ね」
「館長に知られたらどうするつもりだ」
「どうもしないよ。伝えてはいないが、隠しているつもりもない」




壬生が報告すべきと思うのなら、そうすれば良い。
館長が何を思うかは八剣には判らない───良い印象ではないのは確かだが───が、どう思うにしろ、八剣自身が己の選択を悔いる事はないだろう。
全てを判った上で、八剣は“依頼”を引き受けているのだから。



動じない八剣の態度と言動に焦れたのだろう。
壬生の右手が拳を作る。
打っては来ないだろうが、そうしたい程に彼の感情は珍しく荒れ狂っている。


目覚めぬ母の為に莫大な入院費を稼ごうとしている壬生にとって、拳武館の存在は有難いものだった。
己を拾ってくれた館長には、恩や大義以上のものを抱いている事だろう。

そんな壬生にとって、今の八剣の行動は、館長への裏切り以外に他ならない。


暗殺集団である拳武館は現在閉鎖状態にあり、新たな仕事が来る事はなく、属する若者達が人を殺める事もない────筈だった。
少なくとも、館長自身が抱いた、己が信じた道への疑問が昇華されるまでは。

だが、八剣は人を殺めた。
それも拳武館への依頼にあったような、奪う為の大義名分や理由がある訳でもなく。
路地裏で屯しているような、社会から食み出されて群れているだけの、一般人を。




睨む壬生に、八剣はいつもの笑みを浮かべて見せた。




「怒るなよ」
「……どの口がほざく」




これかな、と自身を指差せば、壬生は不愉快そうに視線を外した。




「寂しいねェ。冗談だよ」
「お前の冗談に付き合うつもりはない。はっきり言え。どういうつもりだ?」




八剣の言葉遊びをきっぱりと斬り捨てて、壬生は鋭く問い掛けた。
八剣は一つ肩を竦めて、




「さっきも言っただろう。どういうつもりも何も、お仕事さ」
「拳武館は現在閉鎖している」
「だから、拳武館じゃなく、俺個人への依頼なんだよ」




だから、拳武館が閉鎖しているか否かは関係ない。

告げた八剣に、壬生が眉間の皺を強くする。




「……依頼人は、」
「京ちゃんだよ」




口篭りかけた壬生に代わって、八剣自ら告げる。




「最初の依頼は二月前かな。俺達が彼女達と逢って直の事だ」











──────二月前、拳武館は柳生宗嵩の策略によって、偽者の館長の手管により、《宿星》の者達と邂逅した。

穏やかではない邂逅の後、本物の鳴滝冬吾の帰還により、事態は一気に収束。
それぞれの胸の内に蟠りを残したまま、《宿星》の者達は一時の日常へ、拳武館の者達は空白の日常へ。
そして鳴滝冬吾は、自らが率いる拳武館を閉鎖した。


八剣も壬生と共に暫くは彷徨っていたが、気が落ち着くと己の寮へと戻った。




それから間もなく、あの少女は現れた。




この寮の事を、誰に聞いたのかは判らない。
だが彼女は顔が広いから、何処かしらの伝手を辿れば、知る事は出来ただろう。



雨の日だった。
酷い土砂降りで、煙る天雫で視界は酷く悪く、数メートル先も見えない程。
傘など持っていても殆ど役に立たないような、酷い天候。

そんな日に、彼女は寮前で立ち尽くしていた。
傘も差さずに、頭の天辺から爪先まで、ずぶ濡れになって。


見つければ放って置くことは出来ず、八剣は彼女の意志も確かめないまま、寮内へと連れ込んだ。
一先ず誰か女性に任せようと人を呼ぼうとした時、彼女は言った。




『──────お前に話がある』




顔を伏せていたので、表情は判らない。
けれども、ただならぬ空気を感じた八剣は、止むを得ず、彼女を自室へと招き入れた。


一先ず風呂へと押し込んだ、その後。
部屋へと戻ってきた彼女は、着替え代わりに用意していた服に袖も通さぬまま、裸身で八剣の前に姿を見せた。

流石に八剣とて慌てた。
だが彼女は陶然として、八剣にゆっくりと歩み寄り、




『拳武館ってのは、依頼すりゃあ人を殺すのか?』




そう問うた彼女の瞳には、昏い昏いものが澱んでいて、あの強気な閃きはなかった。
汚泥の中に沈んでいくような、そんな明滅だけが宿っていた。

問う彼女の瞳を見詰めたまま、八剣は応えた。




『全てじゃない。依頼は一度館長の下に集められ、館長が選定して割り振られる』
『選定基準は?』
『有体に言えば、殺すに相応しいかどうか。その人間の人となりで決まる』




要は、館長の匙加減と、ターゲットとなる人間がこれまで何をしてきたか。
あくどい事を繰り返して成り上がってきた者なら、裁きが下される─────そんな所か。

それを聞いた彼女は、ふぅん、とあまり興味なさげに呟いた後で、




『誰でも判るような人間の屑は?』




それは、殺しの対象になるのか。


八剣が行き着いた応えは、「否」。
誰でも判るような最低な人間なら、わざわざ裁きを下す必要がない。
因果応報に直に相応の罰が下される。

それを聞いた途端に、彼女はつまらなそうに目を細めた。




『小物は放っとけって事か』
『……まあ、そういう事になるね』




拳武館が暗殺してきたのは、法の目を潜って暗躍してきた者達だ。
政治家、投資家、医者……権力によって力を振り翳し、弱者を貶めてきた者達への、裁き。

路地裏にいるようなチンピラなど、道端に転がっている石ころのようなものだった。




『拳武館じゃあ、無理って事か……』




彼女はそう呟いた後で、




『じゃあ、お前は?』




そう問うた彼女が求めていた答えは、ただ一つ。
先とは違う答え、「応」のみ。



沈黙した八剣に、少女は身を寄せた。

風呂上りの火照った体温の所為か、それとも澱んだ光を湛えた瞳の所為か。
八剣の胸に顔を寄せ、体重を預けてきた彼女は、まるで娼婦のような色香を持っていた。




『拳武館じゃねェ。お前にだ』
『……それでも、同じ依頼だろう』




拳武館は暗殺集団。
依頼をするなら、それは人を──────



……身を寄せた彼女は、《力》を持っているとは言え、普段は普通の学生だ。
ターゲットとして周辺を調べていた時から、それは随所に散りばめられていた。
ただ少し特殊な日常を送ってはいたけれど────それでも学生らしさは消えない。

友人仲間と共に過ごしている時は、彼女は年齢以上に幼く笑う事がある。
その青臭さを知れば尚の事、《力》がなければ、ごく普通の女子高校生であったのだろうと思えた。



─────そんな彼女の“依頼”。




『全部で、十人』




告げられた数字に、八剣は瞠目した。
思わず少女を見下ろせば、くすりと妖艶な笑みを浮かべた彼女の顔があって。




『今ンとこ、覚えてるのがな』
『……まだ、他に?』
『そりゃ追々。なんせ五年も前だからなァ……』




しみじみと呟いた彼女の口元は、歪んでいた。
それは笑っているようにも見えたし、噛み噤んでいるようにも見えたし、憤りのようにも見えた。




『十人ないし、二十人。殺してくれ』




はっきりと告げられた言葉に、八剣は耳の奥が痛むのを感じた。
それが何の兆候であったのかは、今でも判らない。
警鐘に近いものであったような気はするのだけれど。




『……報酬は?』




依頼するのだから、当然、見返りとなる報酬が必要になる。
その額は法外と言っても良いレベルである事が多く、一人の学生が支払えるようなものでないのは明らかだ。

引き受けるか否かを答えないまま、報酬について問うたのは、最後の砦としたから。
少しやんちゃが過ぎるこの少女は、根無し草で、決して余裕のある生活はしていない。
支払える等と言える訳がなく、ならばこの話はご破算であった。


─────そうなるべきだと、八剣は思った。
《力》を得て、異形のモノや変異した人間と戦う事はあっても、その手はまだ赤黒くはあるまい。
過去にどれだけの出来事があったとしても、陽の下で笑う今、闇の世界に足を踏み入れる必要はない。

まして、この子は少女なのだ。
フェミニストを気取る訳ではないけれど、この選択は選ぶべくもないと思っていた。



だが、彼女は笑った。




『オレが代償だ』




そう言った彼女の声は────気の所為かも知れないが────微かに震えていた。
それは恐怖からか、自嘲からか、もっと別の湧き上がる何かからか。

八剣に判ったのは、彼女はとうの昔に、引き返す事を止めていたと言う事だけ。




『一回二回で終わる額とは思ってねェよ。お前がヤりたい時にヤりゃあいい』




勿論、学業が絡む時は別だけど。
言って彼女は、八剣から離れ、部屋のベッドに倒れ込んだ。

シーツを手繰って裸身に巻きつけ、八剣を見上げて、彼女は嘲笑った。







『この躯、お前の好きにすりゃあいい』








──────頬を打てば良かったのかも知れない。

震える声で、泣きそうな瞳で、強張った躯で男を誘った少女。
彼女が本当は怯えていた事など、少し考えれば容易く判る事だった。



けれど、八剣は手を伸ばした。
彼女をベッドに押し付けて、彼女を貪った。
女陰を開いて、欲望で穢した。

それで商談成立だ。













「─────これで、大体全部かな」




平時と変わらぬ飄々とした声で告げた八剣に、壬生の右手の骨が軋みを上げる。
握った拳を打ち上げまいとしているのが、八剣にも判った。




「俺個人の仕事なんだよ。拳武館は関係ない。冠にするつもりもない」
「……それでもだ!」




ダン、と。
耐え切れなかった、それでも相手にぶつけるべきではないと、理性が圧し留めたのだろう。
壬生の拳が、強い力で壁を叩く。




……壬生の怒りの理由は三つある、と八剣は分析する。



一つ目は拳武館の館長である、鳴滝冬吾への裏切り。
大義の為とは言え、人を殺めるという手段に疑問を持ち、自らの道を一度考え直そうとしている恩人を思えば、八剣の行動は裏切り以外の何物でもないと言える。

二つ目は、拳武館への依頼のように、大義を持たないまま、人を殺したという事。
決して大罪を犯した訳でも、大きな意味で人を貶めた訳でもない、単なるチンピラを殺した。
一人二人ではない、まだ十人には満たないが、一ヶ月半で近い数を斬り捨てた。
命に優劣はないと何処かの少女が言っていたが、それでもやはり、意義は変わって来る。


そして三つ目が、彼の兄弟弟子である少年の相棒である少女を、穢したという事。
それも一度や二度ならず、繰り返し穢し、貫き、“雌”に仕立て上げたという事。




(青いねェ─────)




どうやら、この見知った少年より、あの少女の方が随分大人びているようだ。
悪い意味で、だけれど。




「────仮に、依頼を受ける事を良しとしても、彼女をあそこまで追い詰める必要が何処にある?」




問い詰める壬生の目は、言い訳は許さないと告げていた。

壬生は、この二ヶ月の間で、兄弟弟子との蟠りを多少なりと解消出来たらしい。
だから、大した面識がないにも関わらず、あの少女の事をこんなにも気にかけるのだろう。


睨む同僚の眼差しに、誤魔化さない方が良さそうだと思い、八剣は小さく肩を竦めた。




「別に俺は追い詰めていないよ」
「何処がだ。あんな─────」




言葉を詰まらせた壬生に、八剣はくすりと笑む。




「ああ、聞こえたか。隣だから当然だね」
「煩い!」




一喝した壬生だったが、僅かに頬が赤い。
初心だねェ、と呟けば、また剣呑な瞳が此方を睨んだ。




「まぁ、それは気をつけるよ。それで話を戻すけど─────本当に俺は、彼女を追い詰めているつもりはないよ」




真っ直ぐに壬生の瞳を見返して、八剣は言った。
その瞳が今までの飄々としたものと違っている事に気付き、壬生は眉根を寄せる。
お前の真意が判らない、と。


腕を組んで、背にしていたドアに体重を預けるように凭れ掛かる。
それから外界を見て、そう言えば雨が降っていたんだと、今更ながら思い出した。
彼女との情交前にも見た雨だったのだが、完全に忘れていた。

降りしきる雨を眺めながら、八剣は思い出す。
数時間前、部屋に戻ってきた時に見た、窓辺に佇む小さな後姿を。




「彼女を追い詰めているのは、他の誰でもない、彼女自身だ」




目の前に現れた“モノ”に、怯えて、震えて、だけど逃げる事も立ち向かう事も許されず、八方塞で動けなくなった。
けれどこのままにはしておけないから、手段を探して、此処に行き着いた。
しかし此処に来ても無償で自分の願いを叶えてくれるものはない、だから自分自身を代償にした。
他に差し出せるようなものがないから。

其処までしても尚、彼女は未だ怯えて、震えて、息を殺し続けている。
陽の下で笑う仲間達を失いたくなくて、澱んだ闇の底で、息を詰まらせて“モノ”が全て消えるのを待ち望んでいる。


─────けれど、彼女が深く深く呼吸して、目を開いて振り返れば判る筈なのだ。
彼女が失いたくないと願うものは、決して簡単に消えてしまうようなものではないと。


追い詰められた彼女は、周りが見えなくなっている。
眼前に現れた“モノ”に思考も行動も絡め取られ、もっと単純な事が見えなくなった。

唯一思い至ったのは、己を縛り続ける“モノ”を消し去ること。
そうすれば、自分を縛り続ける“モノ”は二度と戻って来ない。
蘇った恐怖を再び思い出すこともない。



少女との性行為で、彼女を追い詰めているのは、確かに八剣だと言えるだろう。
だがそれ以上に切羽詰って彼女を限界へと追い詰めているのは、他ならない、彼女自身の精神だった。




「……それなら、あんな事をしなくても、」




もっと優しくすれば良いだろう。
もっと慈しんでやれば良いだろう。

壬生がそう言わんとしているのは、八剣にも判った。




「まぁねェ。それが出来れば良かったんだが」




虚空を扇ぐ八剣は、自嘲気味に笑みを作る。


優しく出来れば、慈しむ事が出来れば。
ただただ抱き締めてやる事が出来れば、それで良かったのかも知れない。




「だけどね、紅葉。あの子はそれを望んでいないんだよ」




彼女が望んだのは、恐怖を取り除いてくれる、優しい手ではなく。
恐怖から守ってくれる、力強い腕でもなく。

恐怖を忘れさせてくれる程の、激しい快楽。


優しさも、力強さも、温もりも、彼女にとっては意味を成さない。
今直ぐに目の前の“モノ”を取り除いてくれるものでなければ。


柔らかな綿絹で包まれる程に、彼女は呼吸の仕方を忘れて惑う。
それは彼女にとって酷く不安定なものだから。

痛みで支配されて。
快楽で支配されて。
全てを忘れて、ようやく泥のように眠るのだ。




話せるのはこんな所かな、と八剣はもう一度壬生の顔へと視線を戻す。
壬生の瞳は先刻までの剣呑な色は失せており、代わりに鈍色の光が宿っている。
八剣はそれを見ない振りをして、ドアノブに手をかけた。




「そういう事だから。これは俺個人が勝手に請け負った依頼だ。館長に報告したければすると良い。除名されても、俺は構わない」




しばし路頭に迷うことになるが、これでも世渡りは上手い方だと自負している。
何某か仕事の当ては見付かるだろうし、荒事が起きても心配するほど柔ではない。

今の八剣にとって、最優先するべきは、依頼された仕事を完遂する事。
それ以外の事は、その時になって考えれば良い。
恐らく、どうとでもなるだろう。


部屋へと戻ろうとする八剣の背に、静かな声が投げられる。




「全てが終われば、お前は彼女を解放するのか」




彼女を縛る恐怖が全て取り除かれた後。
八剣とを結ぶ唯一の契約が終了したら、彼女はもう此処へ来る事はない─────筈だ。

だが、八剣は小さく笑んで、「どうだろうね」と呟いた。




「八剣!」




声を荒げる壬生は、解放すべきだと考えているのだろう。
それが正しいのだと八剣も思う。


しかし、染み付いた恐怖は簡単には取り除けない。
彼女は、彼女自身が思う程前向きな思考をしていないから、今度は別の恐怖に苛まれるだろう。

例えば、この契約関係が誰かに知られる、と言う事に。



何処まで行っても、彼女が解放される事はないだろう。
彼女自身が、自らを赦さない限り。




「解放してあげたいとは、思うけどね」




彼女の笑った顔を見たのは、いつだったか。
以前、偶然街で見かけた時は、傍らにいた相棒にじゃれついて笑っていたと思うのだが、その後がない。
八剣の眼前の彼女は、いつも不愉快そうに顔を顰めているか、乱れあられもない面をしているかだった。


優しくすれば、慈しめば、綿絹で包み込んでやれば、若しかしたら笑ってくれたのかも知れない。
けれども、きっと無邪気に笑う事はなかっただろう。

やはり自分は、彼女にそういった役割として望まれていないのだ。
彼女がこうして八剣を頼ってきたのは、そうした顔を見せなくても、繕わなくても良い関係だったから。
甘えとも惰性とも違う、定められた境界線を越えて来ないと思っているから、彼女は此処に来たのだ。




壬生からのそれ以上の問い掛けはなく、八剣は彼に背を向けて、振り返らないままドアを閉めた。
雨音が遠くなり、直にドア向こうの気配も消える。




寝室に戻ると、少女はやはり先刻と同じ格好のまま、眠っていた。
鍛えているのだろうに、それでも少し痩せたように見える薄い肩が規則正しく揺れて、呼吸している事を知らせる。

八剣がベッドに腰掛けると、ギシリとスプリングが撓り、僅かにクッションが歪む。
それでも少女が身動ぎする様子はなく、穏やかな寝息は途絶えなかった。


ゆっくりと手を伸ばして─────今度は、彼女の頬に触れる。




(起きているのは、疲れるねェ)




彼女は意識を覚醒させている限り、本当の意味で安らぐ事はないだろう。
常に神経を尖らせて、己に危害を加えようとするものを逸早く察知しようとしている。
平時は眠る時でさえ、人の気配に敏感で飛び起きるようだから、やはり脳が起きている内は、ゆっくり眠る事など出来ないのではないだろうか。

それがこうして、身も心も疲れ果てた一時になって、ようやく眠れる。
この間は覚醒そのものを拒否しているかのように、何があっても瞼を持ち上げることはなかった。



彼女の長い前髪を少しだけ寄せ上げる。
露になった面立ちは、いつものきつい目尻が閉じられている所為か、常よりもずっと幼く見える。

そっと、彼女の顔に、己の顔を寄せた。
触れるか触れないかの距離で止まる。
それ以上は近付かない。




「解放……か」




解放するべきだ。

だが、彼女がもっとも解放されるべきは、自分自身を縛る意識から。
そうでなくては、八剣が彼女を解放した所で、本当の意味で彼女が自由になる事はない。


今繋がっている鎖を手放したら、彼女は次は何処へ行くのか。
あちらこちらに知り合いがいるようだから、頼る伝手はあるだろう。

其処でまた、違う誰かと同じ契約を結ぶのだろうか。





──────それなら、此処に縛り付けてしまいたい。





助けを請う彼女に、優しく出来ない。

違う。
優しくする気など最初からない。


柔らかく包み込んだ瞬間に、彼女は怯えて、この腕を擦り抜けて行くだろう。
彼女にとって、特定の人間以外からの優しさは、真意の見えないまやかしにしかならない。
そして八剣は、その特定の人間以外に分類される。

だから八剣は彼女に優しくするつもりなどないし、縛り付ける為に彼女を傷付ける事もする。
そうする事で、彼女を鎖で繋いでおく事が出来るなら。



此処にあるのは、痛みと、快楽。
彼女が求めているのは、他でもない、それらによる支配。
支配されることで、彼女は襲い来る恐怖を打ち消そうとしている。



優しく出来れば良かった。
慈しむ事が出来れば良かった。

そう思わないと言ったら嘘になる、ふとした瞬間に覗く、彼女の年相応の表情の表情を見る度に思う。
だが、最初に彼女が契約を持ちかけたあの時、応じてしまった八剣は、既に出来る資格を失った。
八剣に赦されたのは、彼女を快楽で縛る事と、彼女を食い潰そうとする五月蝿い羽蟲を握り潰す事だけ。


………それで十分だ。




(そうしていれば、君は此処から離れない)




捕らえた鎖は、離さない。
少女を手放すつもりはない。
解放など、させない。













縛り続けよう、永遠に。


少女がそれを望むのならば。

















書き出したのが凡そ一年前……ようやく書き切れました。
荒んだ京子と、救い上げようとしているようで道連れに堕ちようとしている八剣が書きたかったんです。あとエロと(寧ろこっちが真骨頂状態)。
あと、京ちゃんの中学時代の荒れ様が堪らなく萌えだったモンで……

中学時代はアレなフラグが乱立しそうなので、その手のネタが好きな私はウハウハ状態です(滅)。