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撮影したCMに当てるナレーションの収録には、これも然程時間はかからなかった。
バージョンを変えて幾つか録音すると、それでこの仕事は終了した。


お疲れ様でした、と音響スタッフに挨拶をして、京子と八剣は録音室を後にする。



「次の仕事は……えっと…」
「後は打ち合わせだよ」
「そっか。ドラマのだよね?」




確認に訊ねる京子に、八剣は頷いた。


今年の秋に放送予定の三時間枠のスペシャルドラマに、京子はメインで出演する。
携帯小説で人気を博したと言うタイトルを原作とした、高校生同士の恋愛を描いたものだ。

今日の打ち合わせで、ドラマの配役等について説明を受ける。
事務所側は既にGOサインを出しており、製作側も意気揚々として準備を進めているらしい。
……しかし京子が全く乗り気でない事は、八剣にもよく判っていた。



録音ブースがあるのは、スタジオビルの地下二階。
エレベーターを使って楽屋のあるフロアまで上がると、京子はエレベーター上がって直ぐの場所にある広い空間へと向かう。
其処はボードや擦りガラス等を使って間仕切りされており、少人数の打ち合わせに使用される場所だ。


打ち合わせ相手のドラマスタッフは、既に待機しているらしい。
京子はドラマタイトルの書かれた紙を見つけ、そっとそのスペースを覗き込んだ。
其処には見た目四十代と言った所の男性と、少々冴えない雰囲気の眼鏡の若者が座っている。

若者が京子の存在に気付き、慌てて立ち上がる。



「きょ、京子さん、ですね。今日は宜しくお願いしますッ」
「はぁ……どうも。宜しくお願いします」




物凄い勢いで90度に腰を曲げて頭を下げる若者に、京子はぽかんとして、それでも辛うじて頭を下げて挨拶を返した。

八剣のスペースに入り、四つある椅子の内、残っていた二つに腰を下ろす。
その前にきちんと、もう一人の男性にも挨拶を忘れずに。



「宜しくお願いします、京子です」
「マネージャーの八剣です」
「ドラマプロデューサーの内山です。宜しくお願いします」
「アシスタントプロデューサーの大槻ですッ、宜しくお願いしますッ!」




一人テンションが違うアシスタントプロデューサー────大槻。
八剣がちらりと彼を伺ってみると、彼の視線は京子に釘付けだった。
頬が紅潮し、きらきらと輝く瞳から、彼が京子のファンである事は一目瞭然だ。

京子は大槻がじっと自分を見ている事には気付いているようだが、相手をするつもりは全くないようだ。
この手のファンの相手をすると、自分が疲れるだけと言う結果をよく知っているからである。


プロデューサー────内山が手元にあった本を京子と八剣に渡す。

ドラマの台本だ。
パラパラと二人がそれぞれにページを捲り始めると、早速、大槻が説明を始めた。



「今回、京子さんにはヒロインを演じて頂きたいと思っています」
「はい。……あの、本当に私なんかで良いんですか? もっと良い人いらっしゃると思うんですが……」
「いえ、是非とも今回は貴方が良いんですよ。脚本家と原作者からも推されていまして」




曰く、自分の理想のヒロインは京子だ、との事。
つまり最初から京子と言う人物を想定してのストーリー構成と言う訳だ。


お前らの理想を押し付けんなよ。
そんな声が隣から聞こえてきそうで、八剣は漏れそうになる苦笑を堪えるのに必死だった。

京子はと言えば、台本を眺めながら、困ったように眉尻を下げて微笑んでいる。
自分を起用してくれた事は嬉しいけれど、少々戸惑っている、そんな雰囲気が滲んでいた。
八剣には、曖昧に誤魔化しただけの表情である事がよく判ったけれど。



「京子さん、原作の方は」
「読んだ事あります。あの……これ、ラストは原作とは違うんですね」




台本の終盤部分に目を通しながら、京子が呟いた。
八剣も彼女と同じページを開いてみる。



このドラマの原作である小説を読んだ事があると言う京子の台詞は、決して嘘ではない。
本来は新聞も文庫本も読まないのだが、撮影現場であまりにも周りがこの話題で盛り上がるので、最低限でも話が合わせられるように、精一杯の忍耐力で読破した。


ストーリーは概ねこうだ。

主人公は高校二年生の男とメインヒロイン(これが京子になる)、二人それぞれ学校内で一位の人気を誇るが、お互いに自覚はない。
同じクラスに籍を置いていたが、お互いへの認識は低く、男子は男子、女子は女子のグループで固まっていた。
それが二年生の春にヒロインが先輩に絡まれていた所を主人公が助け─────其処から始まるラブストーリー。
お互いのファンクラブ(非公認)ややっかみ等からトラブルに巻き込まれながら、少しずつ愛を深めていく。

これを読んだ京子の感想は、夢物語ばっかりで吐き気がする、と言うもの。
何処の誰がこれが良い話だなんて言い振らしてるんだ、とまで言っていた。
シビアで現実的な彼女には、恋に恋する女子高生と言うものは、同調の余地もないものらしい。


ちなみにラストはヒロインがデートに向かう途中で交通事故に遭い、主人公が病院で息を引き取る寸前の彼女にキスをして終わるのだが、此処がドラマの脚本は違っていた。



「……ヒロインは命を取りとめ、それから数年後、結婚式と言うシーンで終わる、と」




要約した八剣の呟きに、プロデューサーは頷く。



「原作のラストでヒロインが死ぬと言うものが、読者には中々ショックだったようでね」
「……そうですね……私もショックでした」




悲しそうに眉尻を下げて言った京子だが、八剣だけは知っている。
この程度で泣く連中って、自分がマジで死んだ方がマシって言う目にあった事ねェんだな、と言っていた事を。

京子の価値観と言うものは、一般的な女性とはやはり一線を隔したものであった。


恐らく喉まで出掛かっているだろう本音を飲み込み、京子は表情を笑みに作り変え、



「だからドラマはハッピーエンドにしたんですね」
「ええ。シーンはそのまま使うけど、所謂、後日談と言う奴ですよ」




じゃあそれ位原作でもやれよ。
一話で終わるだろ、オマケの後日談くらい。

どうせあれだろ、面倒になったんだろ。
本になってマスコミにまで売り込ませて印税入って、もうやる気なくしたんだろ。


にこにこと笑う京子。
しかし彼女の本音はそれとは全く正反対の位置にある。
それを堪えて……これは帰宅の車中が大変な事になりそうだと、八剣は一人ごちた。



「それでですね、ちょっと一通り台本の方、目を通して頂きたいんですが……」
「はい」
「ちょっと良いですか?」




話を続けていこうとするプロデューサーに、八剣がストップをかけた。
三対の視線が其方へと向かう。



「キスシーンは問題ないとは思うんですがね。これ、ベッドシーンがありますが」
「えッ……あ、そうだ、確か……」




八剣が見ていたページを同じように開いて、京子が顔を紅くする。


終盤にさしかかる頃、一番の盛り上がりになる場面。
主人公とヒロインが誤解からケンカをしてしまい、それを見ていたライバルの少年がヒロインと付き合うと言い出す。
ライバルは強引にヒロインと交際を始め、それが原因で二人は仲直りのタイミングを失ってしまう。

ライバルとの交際を続けつつも、ヒロインは主人公の事が忘れられない。
そんなヒロインにやきもきしたライバルは、強引に関係を持とうとする。
しかしヒロインはついに自分の気持ちを抑え切れなくなり、ライバルを拒絶して泣き出す。
其処へ主人公が現れてヒロインを連れ出し、自宅で仲直りの─────と言うのが原作の流れである。



「自分がこの話を受けた時、これの予定はなかった筈ですが? この小説については私も知っていますので、話を受ける際、聞いた筈なんですよ。そう言ったシーンがあるのかどうか。その際、其方からは“ない”と聞いたので、受けたものなんですよ。何処で話が間違ったのか、聞きたいですね」
「ええ、そのー……ドラマとしてはカットする予定だったんですが、原作の方がどうしてもと」




しどろもどろに説明するプロデューサーは、完全に八剣に気圧されている状態だった。
同じくその傍らでは、アシスタントの若者が縮こまっている。
此方は完全にとばっちりだ。


京子は台本で顔を隠して、隣に座る男の顔を見遣る。
騙した形で仕事を了承させたドラマ側に、完全に不信感を覚えているのがよく判る表情をしていた。

騙したでも騙されたでも、京子にとってはどうでも良い事だ。
それより、この打ち合わせをさっさと終わらせて帰りたい。


京子はこっそりと溜息を漏らして、顔を顰めている八剣の服袖を引っ張った。



「ね、私は平気だよ?」
「……そういう訳にも行かない。またこんな事を繰り返されれば、此方の信用が落ちる」




京子にすら冷たい視線を向けて、八剣はきっぱりと言い切った。

それを受けた京子は少しばかり眉尻を下げたが、同時に、それもそうかと思う。
一度でもこんな形を許してしまえば、それが罷り通る事になってしまう。
それは避けなければならない。



「彼女が良いと言うので、今回ばかりは役を蹴るつもりはありませんが、次ははっきりとお断りさせて頂きます。それと、このシーンについては事務所を通して下さい。脚本家と原作者も加えて、話をさせて貰います」




淡々とした口調で言い切った八剣に、プロデューサーは苦笑い(愛想笑いだ)を浮かべる。
明らかに歳若いと判る男に威圧されているのが気に入らないのだろう、引き攣った表情をしていた。




それからは四人で黙々と台本を確認していく。
雰囲気としては最悪だ、プロデューサーは必要最低限以上に喋らなくなったし、アシスタントは完全に萎縮。
京子は重苦しさに眉尻を下げた表情を続け、八剣は無表情だ。

頼むから早く終わらせてくれ。
息苦しさと、眉尻を下げる為の表情筋が疲れて引き攣っているのを感じながら、京子は思う。


特に八剣が注意したのは、激しい運動を伴う演技だ。
アクション系のドラマではないのだから、大掛かりなものはないが、それでも京子はモデルである。
怪我なんてしてしまっては、本来のモデルの仕事に支障が出てしまう。

ヒロインはどちらかと言えば気弱なタイプだから、乱闘になるようなシーンはない。
しかし同級生からの嫌がらせ等で乱暴な扱いを受ける事があるので、此処は八剣にとって注意ポイントとなった。


沈黙して台本に視線を落とす京子の隣で、八剣は一つ一つ取り上げて確認する。
勿論、此処で確かめた事でも、本番となれば変更する事もあるだろう。
だがそれ以前に、何も確認せず、流されるままに仕事を受け付けていく訳には行かないのだ。
確りと自分の身を確保して仕事を選ばなければ、この芸能界で生き残る事が出来ない。




重苦しい空気がようやく終わったのは、八剣からの追求が一通り終わった所だった。



「お話した点については、要点を纏めて、事務所の方から改めて連絡させて頂きますので」
「ええ、はい。では、宜しくお願いします」
「はい。お願いします」




打ち合わせ終了、とばかりに打ち切った八剣に、プロデューサーから安堵の吐息が漏れる。
頭を下げて再度挨拶するプロデューサーに、京子は眉尻を下げて微笑み、頭を下げる。


自分と京子の鞄を持って席を立つ八剣。
京子もそれを追って腰を上げ、最後にもう一度、頭を下げて退席する。

仕切られた空間を出た途端に、二人の耳に苛々とした声が聞こえた。



「ったく、若造の癖に偉そうに言うなっつーの!」
「あの、内山さん、まだ其処にいらっしゃると思うんで、あの……」




此処が個室ではなく、間仕切りで区切られただけのオープン空間である事を忘れているらしい。

怒りであると判り易いプロデューサーの声が響いて、京子はそれから隠れるように八剣に身を寄せる。
そんな京子を宥めるように、くしゃりと大きな手が京子の頭を撫でた。


打ち合わせの間は八剣に完全に威圧されていたあの男は、口汚いことで有名だ。
よく言えばテレビの盛り上がりを優先して叱咤激励しているとも受け取れるが、別の言い方をすれば出演者・番組スタッフに対して気配りが足りない。
気に入ったキャストをブッキングする手段が強引である事もよく知られる。

見る目は確かなので番組はヒットするのだが、内輪の評判はあまり宜しくない、との話は嘘ではなかったらしい。



八つ当たり気味に缶コーヒーの買い付けを命令されて、アシスタントが慌てて間仕切りから出て来る。
その時、京子は地下駐車場へ降りる為のエレベーターの到着を待っていた。


打ち合わせの間仕切り空間から一番近い自動販売機は、エレベーター手前に設置してある。

急ぎ足で駆けて来たアシスタントと、エレベーターを待っていた京子との目が合った。
真正面からぶつかった視線に、京子はにこりと微笑んで見せる。
アシスタントの頬に朱色が昇った。



「ど、どうも」
「お疲れ様です」
「いえ、はい、…あ、いえ…」




どぎまぎとしたアシスタントに、京子は苦笑する。

エレベーターは一階で暫く停止しており、まだ昇ってくる様子はない。
退屈を持て余していた京子は、自動販売機に小銭を入れる若者に歩み寄った。



「さっきはすみませんでした。私のマネージャーが…」
「い、いえいえ。マネージャーさんとして当然の事ですよ。寧ろその、こっちの方に非がある訳ですから…」




丁寧に頭を下げる京子に、アシスタントは慌てて首を横に振る。
此方の方こそすみません、と言いつつ、アシスタントの顔が緩んでいる事は、遠巻きに眺める八剣によく見えていた。



「あの、京子さんは、この後は……」
「今日の仕事は終わりましたから、もう帰る所です」
「そ、そうですか。あの……京子さんはオフ日とか、何処か出かけたりとかは…」
「オフですか? 原宿とか渋谷とかですね。でも最近は、あまりオフ自体がないものですから」
「あ、そうなんですか、そうですよね。京子さん、スゲー人気で……」
「ありがとう御座います」
「あの、オレ、京子さんが出た雑誌は全部買ってるんですよ」




柔らかく微笑む京子に、アシスタントは段々と緊張が解けて行っているようだ。
代わりにテンションが上がってきたらしく、自分が如何に京子を好きか、ファン魂をアピールしている。
コーヒーの購入を言い付けられている事は、とっくに頭から抜け落ちているらしい。


エレベーターが上昇を始めると、数秒でエレベーターはフロアへと到着した。

八剣が京子を見ると、既に喋っているのはアシスタントの方で、京子は聞く一方になっていた。
握手をして欲しいと言うアシスタントに応えて、京子は右手を差し出している。
アシスタントは手に滲んだ汗を服裾で拭いて、震える手で京子の右手を握る。
もう感無量の表情だ。


アシスタントの手が離れたのを期に、八剣は京子を呼ぶ。



「行くよ、京ちゃん」
「うん。それじゃ、また。ありがとうございました」
「いえ! お疲れ様でしたッ」




ぺこりと何度目か知れないお辞儀をして、京子はエレベーターへ。
ドアが閉まる間際にもう一度、これが最後だった。



下降を始めたエレベーターの中には、京子と八剣しかいない。

其処で張り詰めた気が少し抜けたのか、閉まったドアに寄り掛かって溜息を吐く。
疲労の色を滲ませた吐息に、八剣は小さく苦笑する。



「疲れたかな?」
「……ちょっとだけ」
「今日の仕事はこれで終わりだ。車に着くまでもうしばらく頑張ってね」
「うん」




眉尻を下げて笑む京子に、八剣も笑顔を見せた。

































エレベーターが地下駐車場に着くまで、京子は終始笑顔だった。
降りる途中で同乗したトーク番組の司会を務めるタレントの存在があったからである。

女性タレントで話し上手、寧ろ話し過ぎと言われる程にお喋りが好きな人だった。
人見知りする事はなく、初見の相手でもどんどん話を盛り上げ、視聴者からの反響も良い。
話をするのが苦手だと言う人物も、この人相手なら、と思う事も多いらしい。


が、京子にとってはストレスにしかならない。


エレベーターで乗り合いをした瞬間に、彼女は京子に気付いて興味を持った。
短期間で人気を独占した今話題の一押しモデルで、秋に放送予定のドラマで女優デビューが決まった人物。
情報通でも知られるタレントにとって、食い付かない手はなかった。

押しに弱く、あまりお喋りしたがらない事も知られていたが、タレントの方はお構いなしだ。
あれもこれもと引っ切り無しに質問が飛んで来て、京子は笑顔を浮かべて頷いたり、首を横に振ったりと言う反応。
タレントは、時折見守る八剣にまで話を振ってきて、情報収集に余念がない。

どのタイミングで話を振られるか、八剣にも読めなかったので、八剣でさえ気疲れした程だから、京子のストレスは如何ほどか。



エレベーターが駐車場に到着し、ドアが開いた時、京子がやっと解放される────と思ったのは確実だった。



「楽しかったわァ。またね、京子ちゃん。是非うちの番組にもいらしてね」
「はい、宜しくお願いします。ありがとうございました」




ひらひらと手を振って去って行くタレントに、京子は両手を前に組んで、確りと頭を下げて挨拶をする。
礼儀正しい京子に、タレントは益々京子が気に入ったようで、良い子ねェと笑っていた。

……顔を上げた瞬間の、京子の渋面の事は、勿論知らない。



「……京ちゃん、顔に出てるよ」
「……ヤベ」




八剣の指摘に、失敗した、と舌を出す京子。
それから直ぐに、可愛らしい笑顔とぶりっ子ポーズで八剣を見上げる。

八剣は小さく苦笑を漏らして、くしゃりと京子の頭を撫でた。



「行こうか」
「うん」




車はエレベーター口のすぐ近くに置いてある。
鍵を取り出して遠隔操作でロックを解除すると、ランプが点灯するのが見えた。


八剣が荷物を後部座席に置いている間に、京子は助手席に乗り込む。
彼女の荷物は小さなバッグの中に入っている簡単なメイク道具と日焼け止めクリーム、財布と携帯電話くらいのものだ。
これなら、助手席に乗ってそのまま持っているなり、足元に置くなりしても邪魔にはならない。

身軽になった八剣が運転席に乗り込み、キーを差し込む。
エンジンがかかって、京子が長い溜息を吐いた。



「あ〜……クソ疲れたぜ……」




ぐったりと項垂れた少女の呟きに、八剣はお疲れ様、といつも通りの返しをして車のギアを入れる。



「なんなんだよ、あのババァ。ベラベラベラベラ…うるせェっつーの」
「それで売れてる人だからね、仕方がないさ」




あまり喋るとボロが出かねないと自覚のある京子にとって、あの手の人物の相手は肝が冷える事だろう。
増してそれがテレビ番組となると、先刻のように聞かれた事に頷いて答えるだけとは行かない。
相手からの質問に際して、詳しいエピソードを話さなければならないし、リアクションの見せ方も気を遣わなければ。

ただでさえトークそのものに注意を払い、何気ない仕草にも出来る限り意識している京子である。
そのトークを前面に押し出す類の仕事は、雑誌インタビュー以外では出来る限り避けたいのが本音だ。


京子は車の収納ボックスに入れていた風船ガムを取り出して、一つ口の中に放り込む。
空腹感を誤魔化す時の行動だ。

発信した車を出口へと向かわせながら、八剣は隣の少女をちらりと見遣り、



「帰りにドーナツでも買って帰る?」
「……抹茶とシナモン」
「はいはい」




出来るだけ甘くないものを選ぶ京子に、八剣は判っていると頷く。


シートに背中を預け、すらりとした足を組む京子。
むぐむぐとガムを噛む京子の表情は、まだいつも程の険を滲ませてはいない。
仕事のストレスを怒りに向ける余裕もないのだろう、疲労の色の方が濃い。

胡乱な目で、京子は風船ガムを膨らませる。
ぷぅ、と一息でそこそこ大きくなった風船は、パンと音を立てて割れた。


口の周りについたガムを細い指先で剥がしながら、京子はふと後部座席を振り返る。



「そういや、共演者の確認してなかったな」




先の打ち合わせでの事だ。
台本にはキャストの名前も一通り載っているのだが、京子は完全に其処を失念していた。
それよりも番組プロデューサーとアシスタントの前でボロを出さないように務めていたのだろう。

モデル雑誌の撮影でも、京子は度々こういう事がある。
誰が一緒であろうと、その場その場ではプロの顔で受け止める度胸と機転があるので、八剣はその点について心配はしていない。


受け取った台本を入れた八剣の鞄は、後部座席に乗っている。
京子はシートのリクライニングを倒して、腕を伸ばして鞄を手に取った。



「俺が確認しておいたよ」
「ん」
「特別、気になるようなキャストはいなかったと思うけどね」
「ま、そうだろうけどよ」




NGキャストがあるのなら、先刻の打ち合わせの時点で八剣がプロデューサーに伝えた筈だ。
それがなかったのだから、八剣が言うように、気にしなければならない人物はいないだろう。

とは言え、やはりキャスティングを把握しておくに越した事はない。
特に今回のドラマで相手役となる人物は、最低限名前だけでも覚えておかなければ。


八剣の鞄を好きに漁り、京子は台本を取り出す。



「どうせなんとかってイケメン俳優とか言われてる奴なんだろうけど」
「だろうね。携帯小説が原作だし、其方で当たりの見当をつけているだろう。しかし、確認した時はあまり聞き慣れない名前だったけどねェ……」
「ギャラで選んだんじゃねェの。もうテレビドラマ引っ張りだこなんて連中なんか、クソ高ェギャラになってるらしいし」




言いながら京子は、まぁどれでも良いけどな、と呟いて台本を開いた。


キャスティング一覧は、台本の表紙の裏に書いてある。
主人公と言う事もあって、一番最初には京子の名前が記されていた。

気になるのは、その隣の名前。




─────それを目にした瞬間、京子はピタリと動きを止めた。



「………オイ」
「うん?」
「……これ、なんて読むんだ」




キャスティング表に目を落として問う京子に、八剣は苦笑する。
人の名前と言うのは読み難いものもあるので、京子の問い掛けはそう可笑しなものではない。
増して、京子は勉強などからきしだと(八剣の前でのみ)公言しているので、読み辛い名前もあるだろう。

それにしても、然程難しい名前だったかなと思いつつ、八剣は車のギアをドライブに移しながら教えた。





「緋勇龍麻、だよ」






言いながら、どんな顔をしていたかな、と八剣呟く。
いまいち思い出せそうにない。



「顔はよく判らないけどね。最近売り出し中らしいよ。まだ高校生だそうだ」





説明すると、大抵はへーだのふーんだの、素っ気無い相槌がある。
けれども今日返って来たのは沈黙のみで、返事どころか、京子は微動だにしない。
ただじっと台本を見下ろしたままだ。

常にない様子の京子に、八剣は眉を潜めて、静かな少女を見遣る。
彼女は噛んでいた筈のガムの事さえも忘れてしまったようだった。



台本を見下ろしたまま、京子の瞳は何処か頼りなさげな光に揺れて、






「…………たつま、」







名前を紡いだ声が小さく震えている事に、果たして彼女は気付いていただろうか。













疲れてしまうとやっぱりボロが出ちゃうもんです。