DISQUIETING 01



あそこ、と遠野が指差したテントの下。
京子と吾妻橋を除く“神夷”のメンバー三名の姿があって、龍麻達は急いで其処に駆け寄った。




「あ、アンタら! なんで入って来てんだ!?」
「ね、京子は? 京子、大丈夫!?」




驚くキノコの台詞を無視して、遠野が三人に詰め寄った。
三人は顔を見合わせた後、直ぐにその場を退いてくれた。

テントの中を覗き込むと其処には京子と吾妻橋。
京子は頬に絆創膏を、吾妻橋は二の腕にガーゼを貼っており、それ以外に目立った傷はなさそうだった。
しかし表情は険しいもので、京子の眦は鋭く尖っている。




「京子!」
「……おう」
「京子ちゃん、大丈夫?」




遠野と葵の呼ぶ声に、京子はひらりと手を振った。
擦り剥いたのか、甲に湿布が貼られている。


京子が生傷を負っている事は決して少なくない。
付き合いが長い醍醐は勿論、葵も小蒔も遠野も、龍麻でさえも、それは見慣れているものだった。

しかし彼女が直接怪我をするような場面を見たのは初めてだ。
それも人間相手の喧嘩沙汰ではなく、事故現場。
下手をすれば、彼女が重く大きな照明機材の下敷きになっていたかも知れない。
それを思うと、葵などは血の気が引いてしまう。




「ったく、もうちょっとちゃんと整備しときなよねえ」




だから小蒔のその言葉には無理もなかったのだが、吾妻橋がそれを否定した。




「いや、設置はちゃんとしてたんスよ。俺らもそれは見てましたから」
「…って言ったって、まさかセットの上に上って直接確かめた訳じゃないでしょ」
「そりゃそうっスけど」




怒りを隠さない小蒔の様子に、吾妻橋は頭を掻いて口を噤む。
何事か言いたそうに視線を彷徨わせていた彼だったが、結局それ以上何か言おうとはしなかった。



テント向こうのステージから、アナウンスが放送される。
午前のプログラムはこのまま終了し、ステージ整備を整えた上で、安全を確認してから午後のプログラムに移行。
ファンと思しき声が幾つも重なって、スタッフが宥める声が隙間から聞こえた。

龍麻は、随分と大事になってしまっているように思えたが、無理もない事。
安全が確かめられないままステージを続ければ、今度こそ怪我人が出るかも知れないのだ。


カン、カン、と小さな音が鳴った。
京子が手に持っていたピックの先で机を叩いている。




「災難だったね」
「……別に。いつもの事だ」




龍麻の言葉に、返ってきた台詞を聞いて、遠野がぴくりと反応する。




「いつも? あんな事、しょっちゅうあった?」
「……リハでな」




遠野は京子のライブに頻繁に────と言うより、ほぼ毎回通っている。
真神学園の構内新聞の鉄板ネタだし、京子の方も彼女に宣伝を任せている一面もあった。
だからライブで起きた出来事は遠野も把握している。

しかし、リハーサルで起きている事であると言ったら別だ。
流石の遠野も、本番直前のその現場にまで押しかける程空気を読まない訳ではない。
楽屋に居座らせてもらう事はあっても、本番さながらのリハーサル時は大人しく待機していた。



今回の事故を、京子は「いつもの事」だと言う。
唯一「いつも」と違う事と言ったら、リハーサル中は何事もなく、本番の最中に起きたと言う点だけ。
言外に、彼女がこの手の事故に巻き込まれたのが珍しい話ではない事だと言える。

ただの偶然でそんな事が何度も起きるだろうか。
偶然も二度三度と重なって行けば、それは最早必然、更に言えば人為的な可能性もある。


コツ、コツ、と机をピックで叩く京子の表情は、苛々とした様子を隠そうともしない。
その傍らにいる吾妻橋の方は、もどかしそうな表情で京子を見ている。




「どうせ今回のも、いつもの連中がやってる事だ」
「いつもの…って、犯人の見当ついてるの? だったら警察にでも言わないと」




小蒔が言ったが、京子は首を横に振る。




「ンな事したって無駄だ。証拠もねェし」
「……バカが喚き散らしてた時に録音でもすりゃ良かったっスね」




ぽつりと呟いたのは、横川だった。
同意するようにキノコと押上が溜め息を吐く。

その言葉を砕くように、カツン、と京子が一つ強く机を叩く。




「それだって証拠にならねェよ」
「でも、あいつが自分で喋ったんですぜ」
「バカ。証拠になるモンでも、連中相手じゃ証拠にならねェって言ってんだ。どうせ揉み消されるに決まってる」




京子の言葉に、龍麻達は互いの顔を見合わせた。
が、その中で唯一、醍醐だけはじっと京子を見詰めていて、




「………サイクスか」




零れた名前に、龍麻たちは目を瞠った。





対向者と傍観者。




DISQUIETING 02



サイクス────音楽業界で一、二位を争う大手の事務所。
抱えているタレントの数は星程多く、音楽だけでなく、それを中心にバラエティやドラマ等のタレントも多く輩出している。
音楽に関しては主にバンド系が所属しており、アマチュアからの叩き上げが多い。

しかし、其処に所属するバンド・タレントの殆どは、元々は別の事務所に所属していた。
人材の集め方は引き抜きがメインで、事務所内で問題になったタレントや、方向性が合わずに辞めた俳優などの受け皿となっている事も少なくはない。
スキャンダル等で元の事務所をクビにされたタレントにとって、こうして拾ってくれる場所があるのは有難い話だ。


だが、救済措置と言えば聞こえが良いのだが、そのタイミングが余りにも良過ぎて、胡散臭さを感じている人も多かった。
流行り廃れの多い芸能界だから、ヒットしても直ぐに忘れられると言うのは普通の事だ。
それと同じくして、拾われてバックアップされて売れた後、使えるだけ使い、打ち捨てると言う方針が浮き彫りになっていた。

最近は新人の育成に力を入れていると言う噂だが、事務所所属のスクールもあまり評判が良くない。
体育会系なのは何処の事務所も似たようなものなのだが、セクハラ騒動だの、体罰が酷過ぎるだの、不穏な噂には事欠かない。


それでも事務所に入る人間が後を絶たないのは、『売れている内は華』でいられるからだ。
人気が低迷すれば捨てられるが、そうでなければ、少なくとも芸能界に留まっていられる。

芸能界に長く身を置いている人間ほど、他の世界を知らない。
だからこの世界にしがみ付く者が多く、瀕死の所を救ってくれた事務所に対して、敬愛にも似た念を持つ傾向があった。




京子は、そのサイクスに誘いをかけられている。
しかし彼女は誘いを断り続けていた。




「……今回の事故、サイクスがやったって事?」




醍醐の呟きと、微かに反応した京子を見て、メンバーの中で最も事情に通じている遠野が言った。

京子は沈黙し、級友達から視線を逸らした。
それが彼女の音なき言葉で、肯定を意味する。


口を噤んだ京子に代わり、吾妻橋が言った。




「アニキが誘いを蹴ってるんで、嫌がらせですよ」
「何、それ。滅茶苦茶じゃんか!」
「……煩ェ、小蒔。静かにしてろ、周りに聞こえる」




小蒔の怒鳴る声に、京子が淡々とした声音で言った。

龍麻達が辺りを見回すと、出番が近付いたのだろうバンドマンやスタッフが忙しなく動き回っている。
客寄せの為の音楽がステージの方から流れていたが、それ程大きな音ではない。
小蒔の声を気にしている者はいなかったが、聞き留めた者は一人二人ではないだろう。



京子は椅子から腰を浮かせ、テント済に片付けられていた楽器に近付いた。
ベースの絃の隙間にピックを差し込んで、京子は龍麻達に背中を向けたままで話す。




「珍しかねェ話だ。気に入らない奴がいりゃ叩く、嫌がらせして妙な噂撒き散らして、人気を落とすなんてのは」
「……でも、あんなの酷いわ。京子ちゃんも吾妻橋君も、大怪我をしたかも知れない」
「それ狙いなんだから当然だな」
「そんな……」




信じられない、と言う様子の葵を、京子が一瞥した。
直ぐに視線を逸らし、彼女はベースの絃に指を伸ばす。

弾く事もなく、ただ指先を其処に掠める彼女の背中は、怒りすら感じさせていなかった。




「怪我でもすりゃあオレが根負けすると思ってんだろ。あの豚共は」
「それってもう、嫌がらせじゃなくて、脅しなんじゃないの?」




龍麻の言葉に、ああそうだな、と京子はやはり淡白な反応のみを返す。




「京子……危ないよ、そんなの。やっぱり警察に」
「だから無駄だって言ってんだろ」
「でも、何かしないと。京子ちゃん達がどんどん危なくなっていくだけだわ」




身を案じる友人達の言葉にも、京子は何も言わない。
拒否しないのは葵達の気持ちを無駄にするまいと思っての事だろうが、かと言って頷く事もしなかった。

代わりに吾妻橋達が他人事のように呟いた。




「脅しねえ……この間の訳の判らんファンレターって証拠になるのかね」
「あれこそただの嫌がらせにしか思われねェよ」
「話題作りとか売名行為だーって騒がれんのも目に見えてるしなァ」
「まあ、なんつーか。相手が悪いよな」




好き勝手に語っているように見える舎弟達を、京子は咎めなかった。


吾妻橋などは、今回の件で自分の怪我をしそうになったと言うのに、全く意に介している様子がない。
京子の言う通り、こう言った嫌がらせを超えた脅し行為は、最早彼らにとっては慣れてしまったものだと言う事か。

────それこそ本来ならば歓迎すべきではない事だ。
出る杭は打たれると言う言葉があるとは言え、流石にこれは行き過ぎである。
ましてそれが当然となってしまうなど、警備の面を含めて、あってはならない話の筈。



小蒔が醍醐へと振り返り、詰め寄る。




「ね、醍醐君。醍醐君のお父さんって、確か警察での人だったよね」
「え、ええ……いや、しかし……」




小蒔が言わんとする事を察した醍醐だったが、彼にしては珍しく、その後の言葉が続かない。

想いを寄せる少女の頼みとあれば叶えたい。
だが、それにしてもやはり、吾妻橋達の言う通り、相手が悪いのだと醍醐はよく知ってしまっていた。


視線を彷徨わせる醍醐に助け船を出したのは、京子だった。




「やめとけ、小蒔。醍醐の所のジイさんまで巻き込む気はねェよ」
「でもさ!」




放っておけない、と言う小蒔を遮ったのは、テントに現れた新たな訪問者だった。





巻き込みたくない京子と、放っておけない皆。
墨田の四天王は、基本的に京子の意見の味方です。表立って京子の意見に反対する気はないし、しようとも思ってない。しても大体聞かれない(爆)。




DISQUIETING 03




「いるかい、京ちゃん」




割り込んだ声に一同が振り返ると、金髪の背の高い男が一人。
八剣右近だ。


八剣はテント内を見回し、龍麻達を流し見した後、ベースの前に立ち尽くしている京子に目を留める。
京子も、他の面々も、決して穏やかではない雰囲気の中、彼は気にしなかった。
立ち尽くす京子の下に歩み寄ると、顔を寄せ、何事か耳打ちする。

ようやく京子の赤みを帯びた瞳が八剣へと向けられたが、その目は明らかに嫌悪の色を含んでいた。
それを確認するように見つめた後、八剣は小さく笑い、彼女の頭をくしゃりと撫でる。




「やめろ」
「ああ、ごめんね」




打ち払って睨みつける京子に、八剣は悪びれた様子もなく言い、手を引っ込めた。


椅子へと戻って腰を下ろした京子を、八剣はじっと見つめた。
見分するように眺める眼差しに、京子は眉根を寄せたものの、身を隠したりはしない。
テーブルに置いていたペットボトルの蓋を取り、口を付ける。

十分に京子を見詰めた後で、八剣は安堵の笑みを浮かべて見せた。




「怪我はしていないようだね」
「オレよか吾妻橋の方がやらかしてる」
「大したものじゃないだろう? この程度なら。ねえ」




話を振られた吾妻橋は、へえ、と気の抜けた返事をするしかない。




「……ま、確かに病院行くようなモンでもねぇけどな」
「なら問題ないね」
「ありますッ」




二人の会話に割り込んだのは、葵だ。


葵には、二人の会話は可笑しいものとしか思えなかった。
京子が事故についても、怪我についても言及しないのは、先の話を聞いてよく判った。

だが、八剣までもが今回の事故について、然して重く受け止めていないとは思わなかった。
従兄妹の関係だと言っていたし、八剣は何かと京子の事を気にかけているようだったから、もっと心配するものかと思ったら。
京子の生傷は確かに珍しいものではないが、あわや大惨事となった今回の事件は、軽く受け流して良い事ではない。
大切に思う身内だと言うのなら、尚更。




「どうして、もっと心配しないんですか」
「……心配、ねえ。いるかい? 京ちゃん」
「いらね」
「京子ちゃん!」




温度差のある遣り取りに焦れて、葵が京子を叱るように呼ぶ。
京子はそれも気に留めておらず、八剣は軽く肩を竦めて見せただけ。

それから、八剣は京子に向き直り、




「ああ、そうだ。“CROW”の二人が京ちゃんを呼んでたよ」
「カミナリ野郎が?」




鸚鵡返しに確認した京子に、八剣は頷く。




「“神夷”の出番はさっきの事故でお流れになっただろう」
「当たり前だろ」
「それで、“CROW”の二人が一緒に出ないかってさ」




────あの事故騒ぎのお陰で、“神夷”はオープニング用のインスト一曲を弾いて終わりになってしまった。

これがプロデビューしているアーティストであれば、プログラムの何処かに出番を挿入させる事も出来たかも知れない。
しかし京子達の“神夷”はアマチュアバンドで、事務所に入っている訳でもないから、それは期待出来なかった。
幾らプロ並みの人気を誇るとは言え、立場はアマチュアである事に変わりはないのである。

遠野が撮影班としてイベントに参加したりするのを容認させたのは京子だが、代わりに彼女自身がその責任を負うリスクがある。
この所為で何か事件が起きれば、遠野は二度とイベント会場に出入り出来なくなるし、京子も音楽業界から追い出されるだろう。
遠野一人の無理を通すのにそれだけのリスクを負うのだから、既に完成されたプログラムの編入など無茶な話であった。


だから、今日の音楽イベントで“神夷”の出番はもうない。
楽しみにしていたファンも、ぱらぱらと帰ろうとしていた。



それじゃ勿体ないだろう、と雨紋は言ったのだ。




「新曲フルと、短縮でもう一曲。それ位なら融通利かせられるってさ。打ち合わせしたいらしいから、行っておいで」
「……いらねェ世話だ」
「なら、断る?」
「…………行きゃいいんだろ、行きゃ」




笑みを浮かべた八剣に、京子は判り易く苦い顔をして見せた。
彼女は纏められていた楽器の傍に投げていた楽譜ファイルを掴むと、行くぞ、と吾妻橋達を促した。





基本的に神出鬼没の人(笑)。




DISQUIETING 04



本来いるべきであろう、テントを使用する人間がいなくなった。
となると、彼女に逢いに来た自分達は、早々に退散した方が良いのではないだろうか。

そう思ったのは龍麻だけでなく、葵、小蒔、醍醐、そして遠野も同様であった。
しかし、自分達と同じく部外者である筈の八剣は、特に気にした風でもなく、京子が座っていた椅子に腰を下ろす。


彼は胸ポケットから煙草を出そうとして、テーブルに灰皿がない事に気付き、煙草ケースを取り出すのを諦めた。
代わりだろうか、スラックスのポケットから飴を取出し、口の中に放り込む。
どうやら彼は、京子達が戻ってくるまで此処で待っているつもりのようだ。

そんな彼の前に、一人の少女が立った。
未だ納得のいかない表情を浮かべたままの葵である。





「……心配、してないんですか」




声色に責めるような気配が滲むのは、無理もない事だったのだろう。

八剣は、葵の声色に気を悪くした様子はない。
テーブルに頬杖をついて、葵を見る。




「いいや。心配だよ」
「だったら、どうして何も言わないんですか」
「言った所で、聞くような子じゃないからね」




あっさりと言った八剣に、葵が絶句する。


確かに、誰かに何か注意されたからと言って直ぐに転向する程、京子は聞き分けのよい性格をしていない。
寧ろ反対されればされるだけムキになって、注意内容とは真逆の方向に向かおうとするだろう。
だが怪我をするような事に巻き込まれて、挙句、脅されている等と聞いたら、葵は黙ってはいられない。

それを八剣は、京子が聞くとは思えないからと、何も言わないつもりなのか。
何か注意していれば、気を付けるように言っておけば、起きるかも知れない事態を回避出来るかも知れないのに。


瑪瑙の瞳を興奮させていく事に気付いたのか、八剣がひらりと手を振った。
そうじゃないよ、と言うように。




「俺も京ちゃんに怪我をさせたくはない。ただね、それだけを言っても、どうにもならないんだよ。京ちゃんが“神夷”を続ける限り、こんな事はいつまでも続くだろう」
「……それは…やっぱり、人気があるから、ですか?」
「まあ、それもあるだろうけど。嫌がらせを判っていて、彼女が放置している所もあるからね」




人気を妬んでの嫌がらせは、いつでも何処でも、起こりえるものだ。
増して京子は良くも悪くも目立つので、そう言った話には事欠かないだろう。

だが龍麻達が不思議に思うのは、嫌がらせに対して、京子が何も仕返しなどを考えていないと言う事だ。
彼女の性格を考えると、やられっ放しと言うのは腹が煮えるものではないのか。
それを仕返し所か、それらしい対策もせず、好きにさせているとはどういう事なのか。




「……京は、何を考えてるんですか?」




龍麻の問いに、八剣の返事は「さてね」と言う曖昧なものだった。




「確かに、考えている事はあるんだろうけど」
「八剣さんは知らないの?」
「さあ、どうだろう」




含みのある笑みを浮かべて言った八剣に、葵と小蒔が眉根を寄せた。
それから二人は、一番の事情通であろう遠野へと目を向ける。
知っている事があるなら教えて欲しい、と。

二対の物言いたげな眼差しに、遠野が慌てて首を横に振る。
自分も知らない、と。




「京子がサイクスと揉めてるって言うか、誘いの事でなんかややこしくなってそうだなって言うのは、知ってるけど。それだけッ」
「ホント? アン子、なんか内緒にしてない? 京子に口止めされてない?」
「ないない。ホントにない!」
「じゃあ醍醐君と緋勇君は?」




付き合いの長い醍醐と、短くとも一番長い時間を共に過ごしているだろう龍麻と。
葵と小蒔の縋るような目が向けられたが、どちらも答えられなかった。




「俺が蓬莱寺と知り合った時には、もうサイクスと揉めていて……それだけですね、俺が知っているのは」




その時には、今程過激ではないものの、“神夷”への嫌がらせは既に始まっていた。
放置する京子の様子が引っ掛かったのは醍醐も同じだが、それについて彼女に問うた事はない。

そもそも醍醐と京子の仲は、今でこそ良好ではあるものの、当時は決して温和なものではなかったのだ。
相手の内情に首を突っ込むような事が出来る筈もない。




「……僕は─────……」




俯いた龍麻の脳裏に過ったのは、インターネットで見た写真。
小さな子供と一緒に笑い合っている、五人の大人達。

知っている、と言うより、見たのはそれだけだったから、結局の所、龍麻は何も知らないのだ。
京子がサイクスの誘いを断る理由も、“神夷”やベースパートに拘る理由も。


それから龍麻が黙ってしまった事に、疑問を感じた人間はいない。
そもそも龍麻が京子と出会ったのは今年の五月、龍麻が真神学園に転向してきてからだ。
彼女について、龍麻が知らない事が多いのも不自然ではなかった。



葵と小蒔は小さく溜息を吐き、八剣へと向き直った。
八剣は相変わらず、含みのある笑みを浮かべたままで、恐らくどんなに詰め寄っても、彼は口を割りはしないだろうと伺える。

二人が京子の事情に関する話を諦めたと察して、八剣は言った。




「嫌がらせや脅しについては、大丈夫だよ。今回の事は、あそこまでとは想定してなかったが。こっちでちゃんと手を打ってある」
「……手を打って……?」
「其処は大人の事情でね。あまり詳しく言うと京ちゃんが怒るから」




大人の事情。

そういう言葉で、彼はこれ以上踏み込むなと警告していた。





世の中には、知らない方が良いと言う事もあるけれど、知らないままでは何も守れない。