見えないよねェ、と言ったのは小蒔だ。
体操服に着替え始めて直ぐに。

なんの話か判らず、興味もなかったから、京子はそのまま着替えを続けた。
それが自分に向けられた言葉である事には、一切気付かないままで。


そんな京子に代わって、遠野が問う。




「見えないって、何が?」
「決まってるよ。緋勇君と、京子の事」




ピタリと京子の動きが止まり、振り返る。
オレがどうしたよ、と言う顔で。

しかし判らなかったのは京子だけだったようで、遠野は葵と顔を合わせ、ああ、と手を打つ。





「そーよね、そう。ちっとも見えない」
「でしょ? 葵もそう思わない?」
「うん……そう、かも」
「あァ? なんだよ、オレがなんだってんでェ」





眉根を寄せて、上半身下着姿で三人に近付く。
遠野は京子の方を見ると、決まってるじゃない、と言って、




「京子と緋勇君、付き合ってるって感じしないのよ!」
「……あーそーかい」




下らない。
京子の反応は、正しくそんな風体だ。

詰まらん話を聞いたという様子で、京子は既に興味を失ったとばかりに三人に背を向ける。
その背中に遠野が圧し掛かるように抱き付いてきたので、思わず前のめりになった。
手近にあった机に手を付いて、そのまま倒れ込むと言う無様な姿を晒すのは回避する。




「何しやがんでェ、アン子! 重てェだろ!」
「失礼ね、アタシ絶対に京子より軽いわよ!」
「じゃなくて退けっつーの!」




怒鳴る京子に、遠野は渋々と言う様子で床に下りた。
重みから開放されると、京子は一つ溜息を吐く。




「……オレに何が聞きてェんだよ」
「あら、判った?」
「判らいでか。で、先ずそのデジカメ電源切って仕舞え」




既に着替えを終えた遠野の手には、見慣れたデジタルカメラ。
最近のデジカメは撮るだけでなく、録画も録音も出来るので、油断できない。
シャッターを押していないと安心していたら、音声録音されていたりもするのだ。


睨む京子に、遠野は絶対嫌と勢いよく首を横に振った。




「絶対イヤよ、折角のスクープなんだから!」
「何処がスクープなんだよ」
「だって京子と緋勇君よ。真神の有名な不良少女と、ミステリアスな転校生の恋! いいネタだわ〜ッ」
「ンなモン取り上げて何が面白ェんだよ! つーか、オレをネタにすんじゃねェッ!!」




遠野は、怒鳴る京子に構いもしない。
既に頭の中は来週の学校新聞の構想に入り込んでいるに違いない。

この野郎、と歯を鳴らす京子を、小蒔と葵が宥める。




「まあ、いいじゃん、京子。ちょっとだけ、ね?」
「それに、今のままじゃきっとアン子ちゃんも納得しそうにないし…」
「そりゃそうだろうけどな……」




黙っていようといまいと、遠野は近々、これをネタに新聞を書くだろう。
今までにも京子の乱闘騒ぎや、龍麻の不思議な行動諸々を取り上げているのだ。

自分をネタにするのは相変わらず腹が立つが、今更何を言っても無駄と諦めている部分は、確かにあった。
苦情の一つ二つで止めるくらいなら、土中に埋まったり、マンホール下に潜んでまで張り込み等しないだろう。
ある意味、プロ顔負けのジャーナリズムである。
……京子には、甚だ迷惑だが。


ついでに京子を宥めようとする小蒔と葵も、興味津々の顔。
年頃の女の子なら、自分の事でも他人の事でも、色恋沙汰には惹かれるものがある。
その感覚が、京子はてんで理解出来ないけれども。



京子は一つ長い溜息を吐いた。




「……面白ェ話なんざねェぞ…」
「大丈夫、面白くないって思ってるのは京子だけだから」




なるべく早目に話を切り上げさせようと思って言った台詞を、遠野はあっさりと打ち返す。


ああ面倒臭い。
がっくり項垂れる京子を他所に、遠野は早速デジカメの録音ボタンを押した。




「告白はどっちから?」
「……あー…? …どっちってなァ……」
「京子? 緋勇君?」
「……龍麻?」




少なくとも、自分は「付き合って欲しい」と言うような台詞は言っていない。
しかし龍麻の方がそう言ったのかと言うと、京子の記憶には曖昧にしか残っていなかった。




「へぇ〜、緋勇君が。ね、なんて言われたの?」
「忘れた」
「思い出してよ!」
「ンな面倒臭ェ……」




体操服のシャツを着ながら、一応、思い出してみようと試みる。


しかし、前述の通り、どちらが付き合う事を切り出したかさえ、京子の記憶は曖昧になっている。
色んな事が重なって起きた間の出来事だったので、思えば色々あやふやなのだ。

それでも恋人同士になる事に否やは唱えなかった事だけ、明確だった。






「忘れた」






京子が考えたのは、ものの数秒の事だ。
早い事と行き着いた内容とに、遠野だけでなく、小蒔までもががっくりと失望のジェスチャー。




「何よそれェ〜ッ!」
「うるせェな、忘れたモンは忘れたんだよッ!」
「本当は京子の方から言ったんじゃないの?」
「言ってねェ!」




抗議する遠野に、京子は忘れた忘れたときっぱり言い切る。
小蒔からの仮説は即座に否定した。

俄かに騒がしくなった一角に、葵がまぁまぁ、と宥めて、




「いいじゃない、アン子ちゃん。二人っきりの思い出にしたいみたいだから」
「待て葵。誰もンな事言ってねェだろ」
「へ〜、京子もそういう事思うんだ」
「思ってねェ!」
「じゃあ思い出してよ!」
「知らん! 忘れた!!」




有り得ない発言をさらりと述べられて、京子は否定する。
が、葵はいつもの清楚な笑みを浮かべているだけだ。


遠野は少しつまらなそうな顔をしたが、気持ちを切り替える。




「じゃあ、もうデートとかってしたの?」
「何をすりゃそんな事になるんだよ」
「二人で一緒に買い物に行くとか、ご飯食べるとか」
「いつもの事じゃねェか」
「……そういえば、そうだね」




二人で食事をする事がデートと言うなら、この二人は既に一緒にラーメンを食べたりしている。
街に繰り出す事も(鬼の事もあるが)少なくはない、買い物は───京子も龍麻も懐が豊かではないので、滅多にしないが。

それは龍麻が転校して来て、京子とつるむようになってから直ぐに見られるようになった光景だ。
男女と言う枠を飛び越えて“親友”である二人は、何処に行こうと何をしようと自然体だった。
今でもそれは変わらない。


だから、周りは二人の間柄の変化に気付かなかった。
以前と変わらぬ二人の様子、行動─────驚くぐらいに変化に乏しい。


京子の龍麻へのスキンシップは相変わらず、龍麻が京子を唯一“京”と呼ぶのも以前から。

今更、二人一緒にいる事に特別さを見出す事もなく。
それは、その形でいる事が二人にとっても周囲にとっても、当たり前になっているからだ。




「なんか特別な事してないの?」
「なんだよ、特別な事って…」




こうして聞き返す時点で、京子の中にその行動は認識されていない事が判る。

せめて顔を赤くするとか、そういう反応があるなら別なのだけど、京子は至って平静だ。
寧ろ、面倒臭いこと極まりないこの状況から早く逃げ出したくて堪らないらしい。




「緋勇君の家に泊まったりした?」
「したぜ。前からだろ」




さらりと言った京子に、葵が眉根を寄せた。




「京子ちゃん、それはちょっと……」
「なんでェ、いいじゃねえか。なんかする訳でもあるまいし」
「でも男の子の家なんだから」
「へーへー。気ィ付けますよっと」




全く意に介していない様子の京子に、葵は溜息を吐く。

この手の事を幾ら注意しても、彼女はまるで反省もなければ改正もしないのである。
仮に何かあったらどうするの、と言った所で、「ブッ飛ばす」と物騒な一言が返って来るのみ。
しかも本当にそれを実行する実力があるから、益々京子は葵の注意など聞かなかった。





「じゃあじゃあ! キスとかした?」
「キ…………あァ!?」





此処で始めて、京子の表情が崩れた。
何を言い出すんだと言わんばかりに瞠目する。

その瞬間、遠野の眼鏡がキラリと光った。




「したの!? したんだ!」
「誰がンなこと言った!」
「ちょっと待ってよ、アン子。キスならあの時してたじゃん。二人のこと皆が知った時に」




数日前の龍麻の行動。
そして京子の思わずと言った台詞。
あれで二人の関係はクラスメイト達に知れ渡った。




「それもそうだけど、アレじゃなくって。二人きりの時とか、おデコとかほっぺじゃなくて、口に!」
「なッ、ななななッ……なんでンな事言わなきゃならねェんでェ!」
「いいじゃない、教えてよ! ってゆーか、皆興味津々〜」




周囲には、まだ着替えを終えていない女子生徒達で溢れている。
京子並びに遠野が大きな声で話していたものだから、その会話は彼女達に丸聞こえだ。


クラスメイトの中には、龍麻が京子と恋仲と知って残念がっていた生徒もいた。
しかし、気になる男子の色恋沙汰ともなれば、やはり気になるものらしい。
ミステリアスな転校生が、都内有数の不良少女とどんな付き合い方をしているのか───全員が聞き耳を立てていた。

それに今更ながらに気付いて、京子は自分が今どんな状況に置かれているのか理解する。
今までバカバカしい、どうでも良いと思っていた色恋沙汰の真ん中に、自分がまさに立っているのだ。



一気に京子の顔が赤くなった。




「わッ、わ! したの!? したんでしょ! 照れてる〜ッ」
「京子でも照れることあるんだねェ」
「なッ! 違ェ、これは……つーか、何勝手に決めてやがんだ、アン子!!」
「何処で!? いつ何処でッ!? 緋勇君から? それとも京子から?」
「誰がンな事するかッ!」
「じゃあ緋勇君からかぁ。へぇ〜、結構積極的なのかしら?」
「メモに取るな!!」




京子の怒鳴り声など何処吹く風。
第一、メモなど取られなくても、全部デジカメに記録されてしまっている。

そして京子は、「龍麻からキスをした事がある」と言う事項について、否定することを忘れていた。




「手繋いだりとかしないの? 一回も見たことないよね」
「ンなガキ臭ェ事するか!」
「そんな事ないわよ。一回やってみたいよねー、恋人繋ぎ!」
「……なんでェ、そりゃ……」
「こうするのよ、こう」
「…歩き辛ェ、邪魔。」
「うっわー……言い切ったわね」




夢のない、とぼやいてみせる遠野に、京子は既に白い目を向けている。




「こうして聞いてると、本当に付き合ってるのか疑問に思えてくるね…」
「小蒔……」
「だってさぁ………」




幾ら京子が、時として男よりも男らしいとは言え。
恋人が出来た訳だから、もう少し女らしく───とは行かずとも、何某か変化があるかと思ったのだが。

しかし周囲の予想などまるで跳ね除けて、京子は相変わらず奔放だ。
そして龍麻もそんな京子を咎めることなどなく、傍らでいつもの笑みを浮かべている。
葵が常々気にしている、京子の立ち居振る舞いも、当面変化は見込めそうにない。

本人にとっては、そんな事を気にする事こそ、下らないの一言で一蹴されるものだった。




「二人で授業サボる時も、前と一緒なの?」
「何をどう変われっつーんだよ」
「だって二人きりになる訳じゃない。ドキドキしたりしないの?」
「別に」




着替えを終えた京子が立ち上がると、その足は直ぐに教室出入り口へと向けられる。
慌てて遠野も着替えを済ませ、電源を入れたままのデジカメを持ってそれを追い駆けた。



廊下に出ると、出入り口横に龍麻と醍醐が立っていた。
行こうか、と言う龍麻に、おう、と言い掛けて─────




「京子、さっきの話ッ」
「しつけェぞ、アン子!」
「だって〜!」




折角のスクープ、と呟く遠野の目に、龍麻が映る。
その瞬間、遠野の眼鏡が再び開き、京子は嫌な予感を覚えた。

そしてそれは見事に的中する。




「緋勇君、インタビューさせてッ」
「やっぱりかよ!」




京子が答えないなら、矛先はもう一人の渦中の人物に当然向けられる事になる。

京子と違って、龍麻は素直だ。
聞かれれば答えるし、何よりも嘘が吐けず、誤魔化しすら出来ない時もある。
不都合があれば怒鳴ってでもあやふやにさせる京子よりも、よっぽど攻略し易いだろう。



龍麻は遠野の突然の申し出に首を傾げたが、結局は頷いた。
遠野がしてやったりとガッツポーズを取る。




「あのね、京子との事なんだけど?」
「京の?」
「バカ、龍麻ッ」




遠野が何を聞き出すか、更には龍麻が何を言い出すか。
自分の予想の範疇に及ぶものであるのかすら、正直言って怪しい。
京子はそう思っていた。




「緋勇君と京子、いつから付き合ってるの?」
「え? えーっと……」
「言わなくていいッ!」




睨む京子の顔は赤かったが、当人はそれに気付いていない。
割り込んだ京子に、龍麻はしばし目を向けて────にっこり笑う。




「内緒」
「え〜ッ」
「うん、ごめんね」




眉尻を下げて謝られてしまって、遠野はぐっと口を噤む。
謝罪までされて無理に聞き出すのは、躊躇われる。




「じゃあ、じゃあ。京子から聞いたけど、告白したのって緋勇君?」
「そうなの?」




何故か龍麻に問いかけられて、京子は頭痛を覚えた。




「オレぁ言ってねェぞ…」
「そっか。うん、僕から」




それを認められただけで、京子は無性に顔が熱くなるのを感じた。
今まで特に気に留めてもいなかったけれど、“恋仲”である事を今更ながらに痛感する。

その“恋仲”と言う間柄が自分にやけに不似合いで、恥ずかしくて仕方がない。




「なんて告白したの?」
「告白?」
「京子が忘れたって言うのよ。緋勇君は覚えてる?」
「告白と言うか……言った事は覚えてるよ」




遠野の瞳がきらきらと輝いた。
確実に新聞に載せられるに違いない、と京子は直感する。

それでも龍麻はマイペースなもので、記憶の引き出しから言葉を探す。



遠野の手の中のデジカメは、今も電源オンで録音モードになっている。
龍麻が答えれば、それは全て記録されるだろう。

京子は未だ、龍麻があの時何を言ったか思い出せない。
言われたその時、自分が嬉しかったのか、恥ずかしかったのか、それさえも判らない。
色々あった最中に起こった出来事だった訳だから。


でも。





「あのね、」





言い掛けた龍麻を遮ったのは、頭部を襲った鈍い音と、激痛。
授業中の居眠りや落書きを注意された時よりもずっと痛い、手加減のない一撃。



一体何事。
教室から出てきた生徒達の胸中は、それ一色で埋められた。

成り行きを見ていた醍醐も、教室から出て来たばかりの葵と小蒔も。
授業に向かおうとしていた生徒達も、皆一様に足を止め、音の発信源に目を向ける。


其処にいるのは、いつも手放さない木刀を構えた少女と、頭を抑えた転校生。



音の大きさからして、相当なダメージであろう事は全員が予想できた。

京子も京子で、自分で思った以上の音に、激昂した頭の隅で「やり過ぎたか?」と奇妙に冷静な部分が考える。
が、かと言って木刀を握った手の力を抜くことも出来ず。





「……京、痛い」
「────るせェ!」





頭を抑えて顔を上げた龍麻は、いつもの表情。
少し眠たそうな瞳をして、悠長な一言だった。

思わず怒鳴って返した京子の声に、遠野が最初に我に返る。




「邪魔しないでよ、京子ッ」
「喧しいッ!」




一言で遠野を圧倒させると、京子はくるりと龍麻に向き直った。
その眼光は鋭く、見ようによっては据わっているようにも見えた。

見るものを威圧させるように目を細めた京子だったが、反面、耳は真っ赤になっている。
本人にとっては幸いな事に、周囲の生徒達は勢いに圧倒されて、其処まで気付いていない。
……龍麻一人を除いて。




「おい龍麻、絶対言うんじゃねェぞ!」
「京、覚えてるの?」
「覚えてねーよ!!」




きっぱりと言い切る京子に、じゃあ良いじゃない、と遠野は言ったが聞こえていない。








「覚えてねーけど、テメェ絶対ェ言うんじゃねえぞ!!!」







ずいっと顔を間近に近付けて釘を刺す。





何を言われたかなんて覚えてない。
何を思ったかなんて覚えていない。

それを自分たちだけの思い出に、なんて、欠片も思っていない。


けれど、そう言った“色恋沙汰”に自分自身が身を置いている事が、無性に恥ずかしくて仕方がない。
“友達”だなんて言葉にさえ、未だに慣れていないのだ。
それがいきなり“恋人”だなんて────

自分はまるで興味のなかった事が、まさか自分に降りかかってくるなんて思うものか。
挙句、ついさっきまで大した事ではないと思っていたのに、あんなに周りが騒ぐから。



今になって、現状、自分の変化を自覚する。










くるり、龍麻に背を向けて。
脱兎の如く廊下を駆け抜けていった京子を、追える者などいなかった。

ただ一人を除いて。



そのただ一人は、追いついて開口一番、







「京、手繋ごう」

「はぁ!?」








唐突な言葉に瞠目するのも構わずに、少女の手は少年によって包まれていた。















付き合い始めの二人です。
周りの方が大騒ぎ(笑)。そして周りの大騒ぎを見て、付き合っている事をようやく自覚する京子。
龍麻も京子も、恋愛初心者、何をすれば良いのか判らない。…キスはもうしちゃってるけど。