Seaside school W




臨海学校三日目。
この日の生徒達は、殆どが退屈で仕方がない日となった。



半分旅行のような行事に見えても、これも一応“学習”である。
昨日の地引網や調理実習もそうなのだが、これはこれで楽しむ生徒は結構多かった。
自分の手で何かを作り、それを食べ────と言うものであるから、実益が兼ね備えられているのである。
机上で文章や数式を追うだけよりも、よっぽど楽しい。

しかし三日目のスケジュールは、午前中がホテルに滞在しての小テスト(勿論、海に来てまで問題プリントを見る事にブーイングが起きた)。
午後はホテルからバスで20分かけた場所にある、地域の歴史資料館での見学だ。


小テストを終えた後の昼食は、愚痴も漏れつつも楽しかったのだが、その後がまた眠い時間である。
知的欲求の強い生徒は興味津々に展示された品々に心を奪われていたが、無論、正反対の生徒も多い。

蓬莱寺京子はその筆頭とも言える性格をしている。
小テストも歴史資料館も、京子にとってはどうでも良いもので、そんな事より海で遊ばせろと、資料館への道中バスの中で叫んでいたものであった。




─────しかし、入ってみれば意外に京子は大人しい。
それは退屈を持て余しての事ではなく、本人や周りが思う以上に、展示されているものに興味を示していたのだ。

と言うのも、歴史資料館に展示されているものの半分が、戦国時代の武将についての品物だったからだ。
この地方を治めていた将の軍旗や縁の品々が並べられた中には、武将が身に着けていた鎧や装飾品、そして勿論刀も展示されていた。
京子の目を引いたのは専ら刀で、他のものはさっさと通り過ぎるのに、それらだけは説明まで読んだのである。


京子は授業で習った内容など殆ど覚えていないから、説明に書かれた武将の名前は一切ピンと来ない。
けれども、刀につけられた名称には詳しく、いつもクラスメイトに説明される側である彼女が、この時初めて事細かに説明する側に回ったのである。




「大きい刀ねー」
「ああ、こりゃ大太刀だろ」




目の前の展示品をデジカメに納めて呟いた遠野に、京子が言った。




「大太刀?」
「刀身の長さが三尺以上のモンがそう呼ばれるんだと」
「……三尺以上?」
「………葵、パス」




長さの単位の修正を求められて、京子は隣に立っていた葵の肩を叩いた。
葵は苦笑し、一尺が約30センチだから、と一拍置いてから、




「約90センチ以上ね」
「へぇ〜……確かに、これってそれ以上はあるわよね」
「説明に書いてあるよ」




大きさに感嘆するように展示品の刀を眺めて呟く遠野に、京子と並んで説明書きを見ている龍麻が言う。


説明書きによると、この刀の全長は161cm、刃長114.3cm、茎長47.5cm、反り5.0cm。
京子と除く女子メンバーと醍醐には、どれがどの部分を指す長さなのか、いまいち判らない。
目の前にある刀剣が、自分達のイメージする日本刀よりも遥かに大きい事だけが辛うじて判るだけだ。

京子はそんな級友達を忘れたように、説明書きと展示される刀とを交互に見比べている。
龍麻は、京子ほど刀について詳しい訳ではないが、彼女の話に付き合っていた。




「刀って、時代劇とか見ると、腰に差してるよね」
「ああ」
「これもなのかな」
「無理だろ。こういうタイプは背負うんだってよ。でけぇ奴は普通に腰に差したらしいけど」
「重そうだね。これでどうやって戦うんだろう」
「普通の刀みてェに振り回すのは無理だろ。使うとして、“斬る”のは無理だから、“叩き潰す”とか、馬の足元狙うとか。それに、この手のモンは大体、何かの象徴で作られるモンだ。実戦でこんなモン振り回したら、味方までペシャンコにするだろ」
「でも持ってる人っていたんでしょ?」
「らしいけどな」




……正直、他者には入れない会話だ。
歴史や古代の武具に詳しい者ならともかく。

遠野は色々な情報を持っているが、此処まで濃密ではない。




「あっちこっちで喧嘩が起きてた戦国時代でも、こんなモンはあまり使われなかったんじゃねェか?」
「なんで?」
「いや、オレもよく知らねェけど」
「でもさァ、漫画でこういう刀に似てる奴持ってるキャラクターっているよね」




二人の会話に割り込んだのは、小蒔だった。

いたっけ? と首を傾げる龍麻に対し、京子は直ぐに一致する記憶を思い出したらしく、



「ああ、斬馬刀って奴だろ。ありゃ大抵、本物の斬馬刀とは違うモンだ」
「そうなの?」
「でっけェ刀ブンブン振り回してるようなキャラの事だろ。確かにこの辺の大太刀がモデルになった奴はあるだろうけど、そもそも“斬馬刀”ってのは日本刀とは別のモンだし」




全長で自分達の身長近くの長さを持つ、展示品の大太刀。
大きさは葵や小蒔達が想像するものを遥かに超えているが、形状はそのままだ。

対して本来“斬馬刀”と呼ばれるものは、古代の中国で使用されていた武器であり、形状も日本刀とは異なる。


これらが近年、ごちゃ混ぜにされて認識されているのは、小蒔が言うように漫画やゲーム、フィクションで、それらの武器の呼称を“斬馬刀”と扱うようになったからだろう。




「詳しいわねー、京子」
「まーな。殆ど聞いた話だけどよ」
「聞いたって、誰に?」




遠野がそう問い掛けたのは、ごくごく自然な流れだった。


昨今の目新しいものにさえ、京子は興味を示さない。
流行の服も音楽も知らないし、色恋沙汰なんて何処吹く風で、それは龍麻と付き合うようになってからも変わらない。
勉強で知る事なんてもっと興味がないから、大体テストは赤点で補習の嵐。

そんな京子がやけに詳しく語るのだから、何処で知ったのか、その経緯に疑問を持っても可笑しくはない。
遠野が聞くのも変ではない、彼女はなんでも知りたがるから。



しかし、遠野が問い掛けた途端、京子の顔から表情が消えた。




「京子?」




空気の温度が1℃下がったような気がして、遠野は眼を丸くして京子を呼んだ。
聞こえていない訳ではないだろうに、京子はそれに答えない。

どうしたのだろうかと、遠野、葵、小蒔は顔を見合わせ、醍醐も龍麻を見た。


龍麻は数秒、京子の横顔を見つめた後で、




「京、あれ見よう」
「おわッ」




京子の手を引いて、進んだ先の突き当たりに展示されているものを指差して歩き出す。

手を引いてスタスタと龍麻が歩くものだから、京子はそれに引っ張られて行くしかない。
転びそうなほどに早足で進んで、龍麻は京子を目当ての展示品の前まで連れて行った。




「おい、龍麻、」
「凄いね、この辺って忍者の里もあったんだって」
「龍麻、」
「何処の忍者かな。伊賀や甲賀は此処じゃないし、戸隠も違うし。風魔かな?」




呼びかけを、明らかに意図して無視している龍麻。
無視せず此方を振り向かれた所で、京子は何も言えなかっただろうが。

そんな龍麻に、京子は一つ溜息を吐きながら、それでもその表情は常の色を取り戻して。




「……風魔も此処じゃねェだろ」




口元に苦笑を交えて呟く京子に、龍麻はようやく振り返る。
交わった瞳はいつものように穏やかだ。

引いていた手を離しても、もう京子の表情から色が消える事はなかった。


























資料館はそこそこ広く、順路通りに全てを見回って外に出た時分には、陽は海の向こうへ沈み始めていた。
その歴史資料館からホテルまでは、バスを使っても20分かかる道程。
歩いて帰ろうと思ったら、当然、その倍以上の時間がかかる。

だと言うのに、龍麻と京子は徒歩でホテルまで帰ることを選んだ。



往復バスの本数は一時間内に一本か二本ある程度のものだが、歩き回った後の休憩のついでに待つと思えば大したものではない。
都会と違って道中にコンビニなんてものもないから、殆どの生徒はバスを使ってホテルに戻る。
一度に乗る人数が多いので車内は飽和気味だが、歩いて帰る時間と労力を考えたら、断然楽だ。

それなのに、龍麻はクラスメイト達がバスに乗るのを見送って、京子と二人で資料館に残った。



それに京子は勿論反対した─────と、言いたい所だが。



資料館の出入り口にあるロビーで少しの間休憩した後、京子は資料館の裏手にある浜辺に赴いた。
直にバスが来ると時間だと言うのに、葵がそれを言っても手を振っただけ。

京子がその場を離れた後、時間通りにバスは到着し、友人達は乗るべきか待つべきか迷った。
一人残していてもバスはまた来るが、置き去りにしてしまうようで気掛かりだった。
彼女の事だから何も心配はないだろうけれど、此処は自分達が慣れ親しんだ街ではないのだ。
資料館からホテルへの道は海岸沿いを一本道だが、慣れない地に友人一人を置いていくのは気が退ける。

結局、一緒に歩いて帰るからと言う龍麻が京子を待って資料館に残り、他のメンバーはバスに乗った。
何かあっても二人が一緒にいるし、何より京子を宥めて連れて帰る事が出来るのも、恐らく彼だけだろう。
自然と彼にお鉢が廻る事になったと言って良い。




バスが行って、一分前と違って閑散としたバス停を離れて。
龍麻が資料館の裏手に行った時、京子は浜辺に降りて波打ち際に立っていた。


ホテルの傍の海岸と違って、其処には彼女の姿以外何もない。

ただ広い空と海が広がり、白波が寄せては返し、夕暮れ時の緋色の太陽が遠く水平線できらきらと光る。
都会で見る大きな人工物はなく、あると言えば海を走る船の影と、今は沈黙して佇む灯台くらいのもの。
浜辺もさらさらとした砂が緩やかな丘を作り、ぽつりぽつり、彼女の足跡だけが軌跡を残しているだけだった。



真夏の海だ。

海の向こうに沈もうとしている緋色の太陽は、日中よりも眩しく暑い気がした。
余り長く当たっていたら、日射病を起こす可能性もある。
けれども、海の向こうから吹く風は、心地よく。




立ち尽くす彼女は、それらを一身に受けて、腕を上げて大きく伸びをした。




「ん〜〜〜〜〜〜ッ………」




静寂が基本となっている資料館は、やはり息が詰まったのだろう。
思った以上に展示品に興味を示していた京子だったが、ああ言う場所は友人と会話をするのも憚られる気がする。

腕を下ろした後、京子は首を左右に倒した。
如何にも凝ったと言わんばかりの彼女の仕草に、龍麻もなんだか自分も凝ったような気がしてくる。
少し首を傾けると、(気の所為かも知れないが)こきりと小さな音が鳴った。


はぁ、と一つ息を吐いて、京子は肩越しに龍麻を見た。




「物好きだよな、お前」




何がと言わず、藪から棒の京子の台詞。
龍麻はそれに苦笑を浮かべ、




「そうかな」
「絶対そうだろ。なんで残ってんだよ、お前まで」
「なんとなく」




笑って言う龍麻に、京子は眉根を寄せる。
龍麻のその言葉が本音か否か、読めないからだ。

それでも京子は、帰れとは言わない。
バスがもう出てしまった事もあるだろうが、此処にいる事に厭は唱えなかった。
もう一度小さな声で「物好き」と呟いたのみだ。



京子はまた海の方へと視線を戻すと、履いていたサンダルを蹴るようにして脱いだ。
裸足が熱い砂浜に乗って、京子は一つ二つ跳ねるように進んで白波の中に入る。

ぱしゃり、京子の足が水面を蹴って水が舞う。




「案外面白かったな」
「うん」




午前中の小テストは退屈だったけれど、この資料館は面白かった。
テストはともかく、資料館の方は龍麻もそう思う。




「晩飯なんだっけな」
「苺食べたいね」
「お前だけだろ、そんな奴」
「出ないかな、苺のデザート」
「コンビニ行けよ、自分で」




ぱしゃん、ぱしゃん。
素っ気無い言葉の合間合間で、水が跳ねる。


龍麻もサンダルを脱いで、寄せて返す波の中に足を踏み入れた。
熱された砂浜と違って、水の中はひんやりと冷えて気持ちが良い。
でも多分、今から全身で浸かったら、海向こうから吹く潮風で体を冷やしてしまいそうだ。

京子がするように水面を蹴ってみると、昼間とは違う、朱色の宝石がきらきらと飛んだ。





─────二人、しばらくそうして水を蹴って遊んでいた。





………京子の様子が少し可笑しい事に、龍麻は気付いていた。
気付いてはいたけれど、どうしようとは思わない。

ただ、傍にいたいと思う。



資料館を見回っていた途中から、彼女は殆ど喋らなくなった。
声をかければ反応はするけれど、それ以前のように刀に関する知識を進んで口にする事はしなかった。
聞かれた質問に答える、それが精々だった。

小蒔や遠野が揶揄えば、いつものように言い返すけれど、それも少しだけテンポが遅い。
葵もそれに気付いたようで、何度か心配そうに京子を見たが、京子はそんな葵を見なかった。


展覧を見終わって休憩していた時までが、彼女の意地の限界だったのだろう。
何も言わずにその場を離れ、この海岸までやって来た。

そして今、崩れかけた自分を形成するパーツを拾い直している。



多分、自分は此処にいない方が良いんだろうと龍麻は思った。
京子の意地っ張りとプライドの高さは筋金入りだから、増して龍麻が相手では尚更だろう。
龍麻と京子は対等だから。

親友として、相棒としてを思うなら、龍麻は先に帰るべきだったかも知れない。
そして彼女がホテルに戻って来た時、いつものように声をかければ良かったのだ。


けれども龍麻は、彼女には決して言わないけれど、今は恋人として傍にいたいと思う。
守りたいとか、支えたいとは言わない、ただ傍らで同じ場所で同じ時間を過ごしていたい。







──────ばしゃっ、と大きく水の跳ねる音がした。


気付けば互いに背中を向け合う形になっていて。
自分が普通に立っている以上、音の要因は彼女以外何者でもない。

龍麻は水面を蹴る足を止めて振り返った。




「つ……っめてェ〜……」




見付けたのは、ほんの数センチの深さの波間に尻餅をついた京子の姿。
ショートパンツは勿論、跳ねた水の所為だろう、シャツも水分を吸って肌に張り付いていた。




「ドジだね、京」
「るせェ!」




ほっとけと吼える京子に、龍麻はくすくす笑って近付いた。


波間に座り込んだ京子は、自分自身は濡れてびしょびしょになっているのに、木刀だけはしっかり庇っていた。
紫色の太刀袋は先端に水が散って其処だけ色が違っていたが、ほぼ無傷と言って良い。

そんなに濡らすのが嫌なら、海に入る前にサンダルと一緒に置いてくれば良かったのだ。
けれども、それを言ったら京子は冗談じゃないと怒るだろう。
初日の昼間も、昨日の風呂の後も手放さないものだから、今だって絶対に手放さないに決まっている。



龍麻がすぐ傍まで来ると、京子は座ったままで水を蹴り上げた。
脊髄反射でそれを避けるが、続け様また水が飛んでくる。




「おらッ」
「わ、」




別に逃げる必要なんてない。
これはただのじゃれあいだ。


水を蹴る度、龍麻が避ける。
水着ではないのだから、出来れば服を水浸しにはしたくない。
最も、龍麻は臨海学校初日の日に私服のパーカーを一つ水浸しにしてしまっていたが。

京子は自分だけが転んで濡れてしまった事が気に食わないのだろう。
龍麻を同じ目に遭わせてやろうと言わんばかりに、立ち上がると龍麻を追いかけて水を蹴った。




「待ちやがれッ」
「嫌だよ」




なんだか、臨海学校に来てから追いかけっこばかりしているような気がする。
初日は龍麻が京子を追い駆けて、昨日はホテルのロビーで京子が龍麻を追い回した。

そして今日は、夕暮れの浜辺で追いかけっこ。
なんだかベタな映画のワンシーンのようだ。
京子は絶対にそんな事は思っていないだろうけれど、龍麻はそう思う。
悪くないな、とも。


一歩進む度に、京子は水面を蹴る。
波が寄せては返す、柔らかな砂の上で。

だからあまり調子に乗ってしまったら、退いていく白波に足を取られてしまう事もあるもので。




「う、ぉッ?」




片足立ちになった京子の体が、ぐらりとバランスを崩した。
既に一度転んで濡れているとは言え、もう一度転んでしまうのは御免被りたい。

しかし、倒れまいと両腕をじたばた羽ばたかせても、浮いてしまった足は下ろせないままだし、波は相変わらず寄せて返すし。
それはほんの一瞬の間の事だったのだが、龍麻と京子には随分長い時間だったように感じた。
バランスを整え切れずに倒れこんで行くまでが、まるでスローモーションのよう。



─────スローモーションは、倒れる京子に龍麻が手を伸ばしていくまで続いていた。




前のめりになって倒れようとしている京子に、振り返った龍麻が腕を伸ばす。
二人が離れていた距離は、たった数歩分だ。
龍麻が踵を返して足を踏み出し、腕を伸ばせば、倒れ掛かる京子に直ぐ届く。


龍麻が伸ばしたその腕に、京子も反射的に腕を伸ばした。
藁に縋る思いだ。

けれども二人のタイミングがずれていた所為だろうか。
お互いに伸ばした腕は触れ合わぬままに交差して、空を掴む。
支える事が、頼る事が出来ないまま、京子はそのまま倒れて行った。


龍麻が踏み出した一歩は、当人が思うよりも勢いがついていたもので、そのまま踏鞴を踏むように数歩進んだ。
傾いた京子のバランスをギリギリで保とうとしていた片足は、もう限界。
無理だと自身を支える大事な役目を放り投げて、膝が落ちかけていた。

元々、それ程二人の間に距離があった訳ではないから、互いが近付くにはそれだけで十分だった。
十分過ぎて、京子は龍麻の胸に飛び込む形になって、龍麻はそれを受け止めた。
救い上げようとする龍麻と、支えが欲しい京子と、お互い夢中になって、気付いた時には龍麻が京子を抱すくめる形になっていた。



胸に恋人が顔を埋めていて。
濡れた髪から雫が跳ねてきらきら踊る。
視界の端には沈み始めた綺麗な夕陽。

………本当に、映画のワンシーンのようだ。





ばしゃんと少し大きな水飛沫が立って、龍麻は自身の後ろ側が冷たいのを感じた。
宙に飛んだ飛沫が龍麻の顔に落ちて、冷たさと水の宝石の煌きの眩しさに目を細めた。

此処が深い場所でなくて良かった。
寄せて返す波の高さは、横になった龍麻の顔を覆うには至っていない。


京子は、白波の中に倒れ込んだ龍麻の上に乗っていた。
背中に回された男の腕はそのまま、京子も龍麻の胸に手を添えていて、本人にそんなつもりはなかったのだが、まるで龍麻に全てを預けているよう。
…倒れまいと龍麻を頼って倒れ込んだのだから、そうであると言われても、否定の言葉に信憑性はなかっただろうけど。

恋人の腕に囲われた京子は、倒れた事も、龍麻に抱き締められていることも、よくよく理解できていなかった。
軽いパニック状態である。
その割に、木刀だけは濡れないように確り庇っている辺りが彼女らしい。



さっさと放せ、と。
そんな台詞が直ぐに出て来るものだろうと思っていた龍麻は、静かな京子を不思議に思って、緋色の空から目線を外した。

京子は顔を上げてはいたものの、見上げる瞳は不思議そうだ。
やはり少しだけ常と様子の違う京子に、龍麻は先に帰らなくて良かったと思う。




「ドジだね」




笑って言ったら、胸の上に置かれていた手が拳を作って、一度叩かれた。
少し痛い。

仕返しに、龍麻は京子の背中を抱く腕に力を込めた。




「オイ、コラ」
「いいじゃん」
「良くねェ」




京子を抱き締めたまま、龍麻は起き上がった。
やっぱり背中はぐっしょりと濡れていて、後ろ髪からぽたりぽたりと雫が落ちる。

一緒に起こされた京子は、龍麻の足の間に座り込んでいる。
既に一度尻餅をついてズボンを濡らしていたからだろう。
其処に下ろした事に、京子は特に文句は言わなかった。




「京の所為で、僕も濡れちゃった」
「ざけんな。お前が濡れたのはお前のドジだろ」
「だって京が転ぶから」
「支えろなんて言ってねェ」




確かに、言われていない。
いないけれども、京子は龍麻に手を伸ばした。
彼女も、脊髄反射であってもそれは自覚があったようで、恥ずかしそうに頬が染まる。

そんな京子の顔をじっと見つめていたら、フンと京子がそっぽを向いた。



仏頂面でいる事が多くて、沸点が低い京子。
けれども怒る時は相手を睨み付けて決して逸らさず、鋭い眼光が閃く。
仲間が相手であってもそれは同じで、怒りは怒りと露にし、以前はそれで葵や小蒔と衝突していた。

──────反面。

好意に慣れていない彼女は、恥ずかしがり屋で直ぐ赤くなって目を逸らす。
その上強がりで、意地っ張りで。


龍麻と京子が逢ったのは今年の春の事だけれど、龍麻は随分早くにそんな彼女の顔を知った。
何かと辛辣な言葉を、わざと嫌われるような言い方をする片隅で、恥ずかしそうに照れる彼女。

他人が知らない彼女の顔を見る度に、龍麻は嬉しくなる自分を自覚した。
それは日に日に募り、重なり、多分生まれて初めての恋心になって。
幸運なことに想いは叶って今に至る。



だから龍麻は、京子がそっぽを向いても慌てない。
怒らせたとは思わない(たまに半分その理由も混じっていたりはするけれど)。




「………離せよ」
「いや」




抱き締められたままでいる事が、益々京子の羞恥を煽ったのだろう。
解放希望の声がかかったが、龍麻はあっさり拒否して京子の頬にキスをした。



強い光なのに、何処か淡い、夕陽の所為だろうか。
肌を伝い落ちる雫が、なんだか現実味を失わせていく気がする。

腕の中で収まっている恋人が、いつもより少しだけ小さく見えた。




「京」




呼びかける。
肩が少し跳ねた。


京子の濡れた髪先に手を伸ばす。
手櫛で梳くと、そうされる事が嫌なのか、京子はぶんぶん頭を振った。

龍麻は小さく微笑んで、また京子の頬にキスをする。




「……た、つま……」




そろそろ、京子も顔を上げた。

見詰め合っていたのは、多分、ほんの数瞬だ。
…けれども龍麻と京子には、ゆっくりと刻が流れていくような気がして。



龍麻がずっと抱き締めている所為で、当然、二人はぴったりと密着し合っている。
京子の柔らかな胸が龍麻の胸板に押し付けられ、その奥で京子の鼓動が跳ねているのが判る。
同じように龍麻の鼓動も早くなっていて、知られたら少し恥ずかしいなと思う。
京子が何かと照れる理由が少し判るような気がした。

けれども、離れるなんて出来ない。
このままずっと、触れ合っていたい。



──────どちらともなく、口付ける。

……本当に。
本当にベタな青春映画のワンシーン。




「…ん……ん、…」




喉の奥から零れる、くぐもった声も愛しい。


頬に手を添えて、角度を変えて、深く深く。
激しさを増していく口付けに、京子も応える。

龍麻の胸に置かれた京子の手が、薄いシャツに皺を作る。
息苦しいだろうかと伺い見た京子は、目を閉じて龍麻に身を任せきっていた。
そんな彼女も珍しくて、龍麻は更に深く恋人の内側へと進入していく。



波に晒される下肢が冷たい─────筈、なのだけれど。
少しずつ熱くなってくるように思うのは、気の所為じゃない。




「ん…ふ……っは…ぁ……」




貪るような口付けから解放すると、京子は酸素を求めるように肩で呼吸をしていた。
ひょっとしたら、自分達が思っている以上に時間が過ぎていたのかもしれない。
口付ける前までは、酷くゆっくりだったような気がするのに。




「京、」
「……ん……?」
「歩いて帰ろうか」




口付けの心地良さに酔っていたのだろう。
京子は少し気分を阻害されたように、僅かながら眉根を寄せた。

濡れているはずの体が熱くなっていたのは、龍麻だけではない。
人目がない事もあって、京子も常よりも少しだけ大胆な心情になっていた。
深くなる口付けに積極的に応えていたのが、その証。


でも、今はこれで終わり。




「続き、今度にしよう」
「………」




龍麻の言葉に、京子の顔に朱色が昇る。
恥ずかしそうに少し目を伏せて、僅かに俯いて唇を真一文字に結ぶのが、可愛い。

もう一度口付けたくなったのを堪え、力が抜けている京子の腕を引いて、龍麻は立ち上がる。
京子もその力に助けられて、少しふらつきながら、随分久しぶりに二本の足で立った。





手を繋いで白波の上を歩く。
時々京子が足を取られてバランスを崩しかけたが、もう転ぶことはなかった。

此処からホテルまでは、歩いて一時間近くかかる。
それだけあれば、濡れた二人の服も乾いてくれるだろう。
沈み始めると早い夕陽は、二人がホテルに辿り着くまで果たして待ってくれるだろうか。
でも夜の浜辺を二人並んで歩くのもいいなぁ、と龍麻は思う。


半歩後ろをついて歩く京子は、何も言わない。

時々手を繋いでいるのが恥ずかしくなるのか、離そうとするように龍麻の手を揺らしてみるが、龍麻は離さなかった。
ある程度判っていたのだろう、無理に振り払おうとはしなかった。



防波堤の向こうから、時々自動車が走る音がする。
でもそれも遠い。

それよりも、足元で寄せて返す波の音が耳に心地良い。










いつもより少しだけ、様子の違う京子。
その本当の理由を龍麻は知らない。

でも、こんな風に過ごせるのなら、少し嬉しい。




手を繋いで、二人夕暮れの海岸を歩く。

なんてきれいな、ワンシーン。















V X

ファザコン京子(爆)。
うちの京ちゃんは、男の子でも女の子でも、父ちゃんと師匠の事が好きです(自分ではそうは言わないけど)。

ベタな青春を過ごしてる二人もいいなぁと思いました。
夕暮れの海辺でじゃれるのと、ベタにキスする二人が書きたかったんです。
寝転がったままでも良かったんだけど、龍麻が溺れそうだったんで……