それは、夏の幻によく似た、














Memorable summer 前編














陶芸の良し悪しと言うものは、幼い龍麻にはよく判らない。
けれど、それでも父の作った作品が世間に認められると言う事は理解できたし、それを嬉しいとも思う。
だから作品展の話を貰ったと母に知らせる父が、とても嬉しそうな顔をしていたのは、やっぱり嬉しかった。


作品展は、龍麻が両親と共に暮らす山間の田舎ではなく、都会で行われると言う。

父は製作者としてその現場に立ち会い、田舎者の父一人では何かと不便であろうと、母も同行する事になり。
幼い息子を一人残すなど有り得ない、更に幸運にも夏休みの最中であった為、龍麻も期せずして東京に向かう事になった。
龍麻にとっては、予期せぬ家族旅行が始まるようなもので、両親も同じような気持ちだった。
ホテル等の段取りはスポンサーが行ってくれる事になっていたから、親子三人はのんびりとその日を迎える事が出来た。



バスを乗り継ぎ、龍麻は生まれて初めて新幹線に乗った。

あっと言う間に過ぎて行く景色に、龍麻は窓に張り付いて夢中になった。
でも、新幹線の中で売られるアイスに苺アイスはなくて、これには少しがっかりした。
代わりに、母の特製苺があったので、それ程尾は引かなかった。

田畑が沢山あった窓の向こうが、少しずつ建物の数を増やし、やがて見た事もないような高い高い塔で一杯になった。
長旅だったので途中の半分を龍麻は寝ていたが、起きた時にはまた窓に張り付いた。

それ位、龍麻にとってこの旅は初めて尽くしだったのである。


新幹線を降りて、また龍麻は驚いた。
住み慣れた田舎のバス停には、人はおろかバスさえも殆ど来ないのに、其処は違った。
右を見ても左を見ても人人人、新幹線は出たと思ったら直ぐに次の新幹線が入ってきて、電車も同じ。
駅の中は町の中なんじゃないかと思うほどに広くて、店が沢山あって、人で溢れていた。

父も母もそんな光景に驚きつつ、案内所を経由しながら、指定されたホテルへと到着した。
このホテルも龍麻達にとっては大きくて豪勢で、こんなにして貰っちゃって、何か御礼しなくちゃねえ、と母は言っていた。



作品展が行われる日は、朝が早かった。
きちんとした服装に着替えて、また案内所やコンビニ等を経由しながら、会場へ向かう。


会場は都会の中では比較的こじんまりとした建物だったのだが、やはり此処でも、龍麻達には驚く広さだ。
住み暮らす町の公民館と同じ位の広さだった。
龍麻達には、それか、若しくは小学校が一番広い位の認識だったから無理もない。

作品展は、父と同じような陶芸家や、書道家、アマチュア芸術家等が複数集まって催されたものだった。
父と母は他の人達の作品を随分と熱心に眺めていたけれど、龍麻には何がなんだかよく判らない。
ただ、父の作品を褒めてくれる声を聞いた時は、とても嬉しかった。


無事に作品展を終えた後、親子それぞれにあったのは、充足感だった。



翌日からは観光だ。
何せ両親も初めて東京に来たものだから、見る所は山ほどあった。

最初に行ったのは東京タワーで、記念写真も撮った。
次に浅草と言う場所に行って、大きな門を見て、その向こうにある縁日を歩いた。
落語と言うものを龍麻は初めて聞いて、その長さに途中で眠くなって寝てしまった。
龍麻は内容をろくに覚えていなかったが、両親は満足したらしい。


ガイドブックに載っている目的地を探す間に、何度道に迷ったか判らない。
道行く人に聞いても、自分たちと同じように旅行で来た人もいたりして、行き先が同じだと一緒に探し回って貰ったりもした。


夜になると、東京は暗くならない。
あちこちで明かりが点いて、道が見えなくなる事もなく、隣を歩く人の顔もちゃんと見える。
道路を走る車の量は減らないし、歩き回る人々の影も消えなかった。

飲食店も夜遅くまで────と言うより、24時間営業の店が沢山ある。
龍麻達の住む田舎では、日が暮れてきたら閉まってしまう店が殆どなのに。



もう毎日が刺激の嵐だ。
龍麻は、ちょっと怖いと思うこともあったけれど、楽しくて仕方がなかった。


















親子が東京に来て五日目。
今日が帰る予定の日だった。

けれども、大変な事件が起きてしまった。


─────龍麻が、両親から逸れてしまったのである。


ホテルの最寄のバス停から、新幹線に乗れる駅までは一本で行ける。
バスの中はいつも満員になっていて、その所為で龍麻は母と繋いでいた手を離してしまった。
ひーちゃん、と呼ぶ声に龍麻は慌てて両親を探し、それとよく似た後姿の人がバスから降りていくのが見えたから、龍麻はその人を追い駆けてバスを降りてしまった。
追い駆けて呼び止めてから、違う人だと気付いた時には、バスはもう出てしまっていた。



見知らぬ土地に一人置き去りになってしまったが、龍麻は慌てなかった。
現状をよくよく把握できていなかったとも言える。

取り敢えずバスを降りたのが間違いだったのは理解できたから、バスが行った方へと歩いた。
両親が龍麻を追って次のバス停で降りる可能性は十分期待できるのだ。
バスの方向へと進んでいれば、必ず合流できる筈。


……そう思っていたのだが、都会の道は幼い龍麻に優しくはない。


向かう先が二又に分かれていたり、三つに分かれていたり。
バスの音が聞こえないかと思ったけれど、子供の足とバスの早さでは差が有りすぎる。
更に不運な事に、この周辺のバス停はそれぞれ間隔があり、一度動き出すと次に止まるまで十分程かかってしまった。

両親が途中で降りて来ても、歩いて向かうのでは、合流するまで相当の時間がかかる。



しかし幼い龍麻には其処まで理解できなくて、結局、こっちかな? と思う方向へと進んでしまった。



そうして、右へ左へと曲がりながら歩き続けている内に、龍麻は自分が来た道さえも判らなくなった。

流石にこうなると龍麻も焦って来た。
誰か人に聞こうと思って辺りを見回すが、周囲には人っ子一人いない。
今度は、人を探してあちらこちらを歩き回る。




(誰か)




誰でも良いから、誰かいないか。


お父さんとお母さん知りませんか。
そう言っても、きっと判らないだろうから、どう聞こうか考える。

バス停って何処ですか。
これなら良い、と龍麻は思ったが、どのバス停かまで知らないことには気付かなかった。
とにかく、一番近いバス停まで行けば、ひょっとしたら両親がいるかも知れないと思った。



通りすがる人を探して、龍麻はあちこちきょろきょろしながら歩いた。

聞くなら、お父さんみたいな優しい人が良い。
怖いおじさんには、怖くて話しかけられそうにない。
龍麻は必死で人を探した。


住宅密集地となっているその場所は、夏休みであるのに───だからなのか───閑散としていた。
家の中も静まり返っているのが多くて、建物の中から人の気配がして来ない。
それを感じ取ると、ひょっとしてこの街には誰もいないんじゃないかと不安になって来た。

誰もいないのだとしたら、龍麻は一人でこの見知らぬ地を歩き回らなければならない。
もしかしたら、このまま両親と二度と逢えないかも知れない────そんな事まで考える。



(そんなのイヤだ)



過ぎった考えを振り払うように頭を振って、龍麻はもう一度周りを見回した。

─────その時だ。
静かだった住宅の隙間を縫って、ぱしん、と言う音が聞こえてきたのは。



龍麻は音のする方へ行ってみた。
誰かがいると思ったからだ。



辿り着いたのは、他の家よりもずっと広い、大きな家だった。
家を囲っているのは、他の家のように壁ではなく、竹垣の柵。
その向こうには青々と茂る木々があり、広い庭があった。

音は確かにその庭の向こうから聞こえていて、龍麻は恐る恐る、竹垣の柵に近付いた。
何気なく柵に手を置くと、其処は偶然にも開けられるような仕様になっていて、龍麻は迷った末に中に入った。
誰かに声をかけられたら、正直に訳を話すつもりで。




ぱしん。
ぱしん。




繰り返される音は、一つだけ。
何かが当たって弾けているような、そんな軽い音。



音と周りに気を配りながら、龍麻はゆっくりと家屋に近付いた。
建物の作りは木造で、龍麻が住んでいる家と形状がよく似ているが、あれよりももっと広くて大きい気がした。

庭に面した縁側の側まで来ると、龍麻は「ごめんください」と小さな声で呟いた。
そんな声では聞こえないと思いはしたけれど、緊張からか、それ以上の声が出ない。
龍麻は「ごめんください」ともう一度呟いて、そっと縁側の奥を覗き込んだ

その時。



「なんでェ、お前」



覗き込んでいた反対側からの声に、龍麻はびくっと飛び上がった。
慌てて頭を逆方向に向けると、自分と同じ歳位の子供が立っている。



「…………」
「……………」



しばらく、二人で見詰め合っていた。


現れた子供は、洋服ではなく、白と黒の着物を着ていた。
手には長い棒を持っている。

子供はあちこちに怪我をしていて、絆創膏とガーゼだらけだ。
それらがない場所も薄らと青くなっていて、龍麻は見ているだけで痛い。
でも、子供はそれはちとも気にしていないようで、それよりも、



「なんだって聞いてんだよ」



荒っぽい口調でそう言った子供は、自分の風体など勿論気にしておらず。
見慣れない子供───龍麻───がいる事の方がよっぽど重大事件だった。

じっと子供にしてはきつめの瞳が龍麻を睨んで、龍麻は慌てて口を開ける。



「あの、ね。あの。君、此処の家の人?」
「そーだよ。だからお前ェはなんなんだって聞いてんだ」



子供にしてみれば、龍麻は不法侵入者である。
幼い頭で其処まで考えてはいないだろうが、向けられる瞳はそれを見るものと似ていた。



「あの、あの」
「なんだよ」
「あの……バス停って、どこにあるの?」



もごもごと口ごもる龍麻に、子供はイライラとしていた。
その様子に、怖い子だなぁ、と思いつつ、龍麻はなんとか聞きたい事を言葉にした。


子供は一瞬きょとんとして、ぱちりと瞬きする。
その時は、もう怖い顔をしていなかった。
でも龍麻はまだ緊張していて、握った右手を左手で包む。

子供は少しの間沈黙してから、判り易く溜息を吐いた。



「なんでェ、迷子かよ……」
「迷子じゃないよ」



子供のはっきりした言い方がなんだか嫌で、龍麻は言い返した。
が、子供は更に呆れた目をして、「何処が?」と呟く。



「母ちゃんとか、どうしたんだよ」
「………いなくなっちゃった」
「ほれ見ろ、迷子じゃねェか」



そう言われると、龍麻はぐうの音も出ない。
しかし一度否定してしまった所為もあって、今更認める事も出来ず。
龍麻は頬をぷくっと膨らませて、黙り込んでしまった。

子供は、そんな龍麻の顔を覗き込んでくる。
まじまじと見詰めるその瞳に、龍麻は慣れていない所為もあって恥ずかしくなって来た。
頬が熱くなってくるのが判る。


其処に、とんとんと規則正しい足音が聞こえて来た。
それから、低くて渋い大人の声。



「おい京、何してんだ」
「とーちゃん」



京、と呼ばれた子供が顔を上げて、声のした方向へと振り返る。
龍麻も顔を上げて同じ方を見た。



廊下に立っていたのは、子供と同じ白と黒の着物を着て、やっぱり子供と同じ長い棒を持った男性。
眉間に深い皺を刻んで、肩にかけたタオルで額に滲む汗を拭っている。

その人物は、龍麻が知るどの大人の男の人よりも、大きな体をしていた。
手は熊みたいに大きくてゴツくて、龍麻の頭なんて片手で掴めてしまいそうな程だ。
着物の袷から覗く胸元も盛り上がっていて、とても固そうに見える。


この人を、子供は父ちゃん、と呼んだ。



男の人は自分の子供をしばらく見た後で、縁側の庭に立つ龍麻に目を向ける。
父と違ってきつい目尻をしたその人に、龍麻の解れかかっていた緊張がまた糸を張った。



「なんだ、見ねェガキだな」
「迷子だってよ」
「迷子じゃないよ」
「まだ言うか、てめェ」



子供の言葉に反射的に違うと言うと、子供は判り易く顔を顰めた。



「母ちゃんとはぐれて、何処行きゃいいのか判んねェなら、リッパな迷子だろ」
「迷子じゃないよ」
「じゃあこれから何処行くのか言ってみろよ。迷子じゃねェなら判るだろ」
「…………」



子供の意地悪な追求に、また龍麻は口を噤んだ。


もともと、龍麻はお喋りではない。
人と話すこと事態に不慣れで、慣れない人と話すには、相手に根気と時間が必要だ。
ズイズイと押されると、龍麻は何からどう話せば良いのか判らなくて、黙ってしまう事が多い。

今回もまた沈黙してしまって、龍麻はしゅんと俯いた。
子供はふんぞり返って「そら見ろ」と言う。



「やっぱ迷子じゃねェか」
「黙ってろ、バカ」
「いてッ」



ぱかんと男の人が子供の頭を叩いた。

男の人の仕草は軽く叩く程度のものだったのだが、子供は頭を抱えて蹲っている。
男の人の手は大きくて硬いから、普通の人が叩くよりも痛そうだ。


蹲って唸る子供をちらちら見ながら、龍麻は緊張して男の人を見上げた。
男の人は膝を折って龍麻と目線の高さを合わせると、不精な顎ヒゲを指先で摩りながら、じっと龍麻を見詰め、


「坊主、この辺のモンじゃねェだろ」
「……はい」
「だよな。ここらで見た覚えがねェや。そんじゃあ迷っても仕方がねェな」
「…………」
「お前一人でここらに来た訳じゃあねェだろう。父ちゃんか母ちゃんはどうした?」
「……いなくなっちゃった」



全部、先に子供に言ったことだ。
それでも龍麻は、改めてぽつりぽつりと答えた。


父の陶芸が作品展で展示された事、その為に田舎から上京してきたと言う事。
作品展はもう終わっていて、親子三人で東京のあちこちを見回っていた事。
今日はもう帰る日で、これから帰りのバスが来る所まで行こうとしていたのだけれど、最寄り駅までのバスの中でうっかり両親と離れてしまい、一人バスから降りてしまった事。

見知らぬ人と話すと言うことに龍麻は緊張していたが、男の人はきちんと全部聞いてくれた。
時々、隣で子供が茶化すような事を言うと、また男の人は子供をぱかんと叩いた。



一通り話終える頃には、龍麻は縁側に子供と並んで座らせて貰っていた。
歩きっ放しで足が疲れていた龍麻にはありがたい。



「成る程なァ。よく歩いたな、坊主。頑張ったじゃねえか」



くしゃくしゃと大きな手が、少し乱暴に龍麻の頭を撫ぜる。
今朝、母に綺麗にして貰った髪が、あちこち変な方向に跳ねた。



「此処まで頑張ったついでに、もうちょいと行けるか?」
「……うん」



本当は足がじんじんと痛くなっていたけれど、男の人の言葉に、龍麻は頷いた。
此処でじっとしていても、父と母には逢えないからだだ。

こっくりと頭を縦に振った龍麻に、男の人は「よく言った」とまたくしゃくしゃ頭を撫でる。
それから、隣でずっと頬を膨らましている子供の頭を小突く。



「おい京、、こいつ、通りのバス停まで連れてってやれ」
「なんでオレが!」
「どうせ暇してんだろうが。さっさと着替えて行って来い」
「父ちゃんだって暇してんだろッ」
「バカ言え、俺ァこれから稽古の時間だ」
「いっつも見てるだけでなんにもしてねーじゃん」
「俺がいねェと締まらんだろうが。おら、行けッ」
「蹴んなよ、バカオヤジ! 行きゃいいんだろ、行きゃあッ」



父親の突然の言葉に、散々文句を言いながら、子供は立ち上がって家の中へと駆けて行く。
その足音はドスドスと大きな音を立てていて、内情を判り易く龍麻に伝えていた。


怒っていると如実に伝える子供に、龍麻は不安になる。

最初も思ったのだけれど、あの子の目付きは少し怖いのだ。
男の人の目付きも少し怖く見えるけれど、此方は龍麻を安心させようとしてか、顔に皺を作りながら笑ってくれるから、怖いと思ったのは最初だけだった。
しかし子供の方は、口調も目付きもずっと厳しくて、送ってくれるらしいと判っても、龍麻は緊張してしまう。



家の奥から、静かにしなさいと女の人の声が聞こえた。
その声に対して、子供の高い声が───やっぱり不機嫌な音で───返事をする。


やがて不機嫌な足音が聞こえなくなった頃、男の人は龍麻に向き直って目尻を和らげた。



「バス停まで行ったら、父ちゃん母ちゃん待ってじっとしてろよ。ウロウロするとまた迷うぞ」
「うん」
「父ちゃん母ちゃん知ってるなんて言う奴がいても、ついて行くんじゃねェぞ。怖い目に遭うからな」
「……うん」
「よし」



本当なら俺がついて行かにゃならんのだろうが、とぼやいてから。
男の人は、戻って来た足音に、まぁ大丈夫かと自分を納得させるように呟いた。