天の塔 : 第三節








夜の色だ。
現れた見知らぬ人物に、京子はそう思った。



京子が八剣以外の存在に出逢ったのは、これが初めてだ。


八剣よりも目線の高さが京子に近くて、肩を並べても、恐らく八剣のように見上げる必要はないだろう。
纏う衣はあちこち穴の空いたボロボロの布で、泥とも埃とも、他の何かとも取れる程に汚れている。
何処かぼんやりと、眠たそうにも見える瞳の奥で、静かな光がひらひら揺れていた。

髪は漆に近い色をして、瞳は深い青。
京子が知っている夜の色だった。




扉は粉々になっていて、部屋の所々に木片が転がっている。
小さな部屋と外とを繋いでいた壁は、以外に呆気なく、その姿を失った。

それを打ち壊したのは、恐らく目の前のこの人物なのだろう。




「京、覚えてる? 僕のこと」




ゆっくりと歩み寄って、その夜の人は言った。


覚えてるか、否か。
と言うよりも、京子はこの夜の人を知らなかった。

首を傾げると、そっか、と夜の人は少し寂しそうに眉尻を下げて微笑んだ。




「うん、そんな感じするね。でも、怖くない?」




怖い。
怖い?

京子はまた首を傾げた。
何が“怖い”になるのか、やはり京子は判らなかった。
今日は訳の判らない単語をよく聞いている気がする。




「なんにも覚えてないんだね」




夜の人が呟いた。
それには、頷く。


何も覚えていないことは事実だ。
此処で過ごした記憶以外、京子は何も判らない。
覚えていないのか、それとも最初からないのか────とにかく、何もなかったことは確かだった。



夜の人が、目の前まで近付いて、立ち止まる。
お互いに手を伸ばせば、きっと届く距離。

見つめる瞳を何を思うでもなく見返していると、夜の人は纏っていた衣を脱いだ。
何をするのかと見ていたら、その衣で京子の体を包む。




「こんな格好、風邪ひくよ」




かぜ。
また判らない単語だった。




「と言うか……あんまり歓心しないね、この格好。危ないよ」




この夜の人は、判らない事ばかりを言う。
京子はなんだか頭が痛くなって、眉根を寄せた。

それを夜の人はしっかりと見付けたようで、困ったように笑う。
八剣も基本的に口角を上げた表情をしていたが、この夜の人はまた違う。
似たような表情をするのに、印象が全く違っているように思えた。


被せられた布は、見た時にはボロボロで穴も空いていたのだが、纏ってみると案外暖かかった。
京子が着ている薄手の布とは違い、厚手で出来ており、肌に当たる部分は少しふわふわとしている。




「京、」




しげしげと衣を見ていたら、先刻から何度も紡がれた呼び名。
夜の人はやはり此方を向いていて、その呼び名は京子を示しているものなのだろうが、京子は首を傾げた。

自分は“京子”で、だから八剣が“京ちゃん”と呼んでいる。
“きょう”が自分である確信などある筈もなく、京子は首を横に振り、





「京、子」





──────この時、京子は記憶の始まりから、初めて言葉を発していた。


八剣とも、夜の人とも違う、掠れた音が喉から鳴った。
その声に夜の人は少しいぶかしんだ顔をしたが、また直ぐに微笑んでみせる。




「うん。だから、京。僕はそう呼んでた」
「……あいつ、は…京、ちゃんって」
「うん。八剣君は、そう呼んでたよ」




夜の人は、どうやら八剣を知っているらしい。
そして、京子のことも知っているようだった。

夜の人が京子のことを知っているなら、京子も夜の人を知っているのだろうか。
でも幾ら考えても、京子は夜の人を思い出すことが出来ず、知っているのかさえ確認できない。


覚えていないこと、判らないことを、今まで深く気にした事はなかった。
気にするような必要もなかったし、八剣もそういう類について話をした事はない。
自分の告げる単語を京子が知っている否か、八剣は確認しない。

だから、過去の記憶が全くない事について、不自由を感じたこともなければ、不自然さを覚えたこともない。
最初からなかったから、それについて可笑しいか否か比べる対象もなかったから。



だけど今、気になる。

自分を知っているらしい、外から来た夜の人。
この人物を、自分は知っているのか、いないのか──────




「無理に思い出さなくていいよ」




ぼんやりと考えていた京子に、夜の人が言った。




「多分、今はあんまり思い出せないだろうから」




京子の頬に触れて、じっと瞳を見据えて、夜の人は告げる。
何処か確信的なものが其処にあって、じゃあそんなモンなのか、と京子は思った。


不思議だった。
同じ言葉を八剣が言って、こんなにも素直に受け止めただろうか。

きっとこの夜の人が纏う色の所為だと、漠然と思う。
穏やかに透き通る、深い青の色。
ゆっくりと浸透して、ゆっくりと広がって、染み渡る。




「僕ね、京を探してた」




真っ直ぐに見つめて、夜の人は言う。
京子はそれを、逸らすことなく受け止めていた。




「この世界から太陽が見えなくなってから、ずっとずっと、探してた」
「……たいよう?」
「うん。覚えてない? 太陽も」




頷く。


聞いたことはあった。
八剣の話の中に、そんな単語があった気がする。
京ちゃんみたいだったんだよ────なんて事も言われたが、意味が判らなくて聞き流した。

知らないものと比べられて、自分みたいだなんて言われても、どういう顔をして良いのか判らないし、想像も出来ない。
見た事がないから、やっぱり知らないし、知っていたのだとしても今の記憶の中には存在していない。
だから、覚えていない。



夜の人はまた一つ微笑んでみせた。




「じゃあ、探しに行こう」
「……何、を」
「太陽」




唐突な誘いだったけれど、不思議と京子は、それを拒もうとは思わなかった。
ただ頭の中で引っかかるのは、八剣の言っていた“痛くて苦しい”と言うこと。





「外に、」
「うん。出るんだ。太陽は、外にあるから」
「……外、は……駄目だって、あいつが、」




行きたくない訳ではない。

外に出れば、探していた夢の景色が見付かるかも知れない。
此処にはない色が。


でも足に引っかかる、此処から出てはいけないと言った時の、八剣の顔。
いつも飄々とした笑みを浮かべているのに、その時だけは酷く憔悴したような顔をしていた。

“痛くて苦しい”が何を示すのか判らないが、良くないことを示しているのは判る。
またそれがどういうものを示しているのかと問われると、やはり京子には判然としないのだけど、あんなにもと言う程に駄目だと言われ続けたら、出られるのだと思っても、何処かで二の足を踏んでいる。



けれども、夜の人は真っ直ぐに京子を見つめて言った。








「大丈夫。僕が一緒にいるから」








言葉と共に、深い青が京子の内側にゆっくりと染み込んで行く。





「………夢、」
「うん?」




呟いた京子の声をよく聞こうと、また夜の人の顔が近付いた。
間近の青はやはり深く、奥底でゆらりと穏やかな光が揺らめいた。




「夢、見たんだ」
「どんな?」
「……知ら、ねェ。判んねェ」




夢の情景を正確に伝えるだけの情報を、京子は持たない。
言えるのは、此処には存在しない景色であったと言う事で。




「空が、夜じゃなかった。色が違った」
「うん」
「……外に行ったら、見付かるか?」




外に出る。
探しに行く。

外に出れる。
探しに行ける。


夢の景色を、探しに行ける。


夜じゃない空。
夜とは違う色の空と、世界。



外に行ったら、見付けられる?









「いつかきっと、見付かるよ」








だから行こう。
その為に、僕は迎えに来たんだよ。


言って差し伸べられた手を、京子は迷うことなく掴み取った。





























扉を失って、壁も瓦礫になって、小さな世界は崩壊した。

あれだけ遠かった外の世界へは、意外に簡単に出ることが出来た。




普通に降りて行くと時間がかかり過ぎるからと、夜の人は近くの窓から飛び降りることを示唆した。
ガラスのない其処から外を見ると、やはり部屋でもよく見ていた空が広がっていて、夜の人が下に行くよと言うから、下を見た。
其処には京子の目には何も存在していないように見えて────つまりそれ程、其処は高い場所だったのだ。
京子には、その概念が判らなかったけれど。

怖かったらゆっくり降りるよ、と別の道を指差したけれど、京子はまた首を傾げた。
何が“怖い”のか判らないからだ。



夜の人は、京子を腕に抱いて窓から外へと飛び出した。
下から吹き上げてくるものに飛ばされそうになって、夜の人にしがみつく。

怖くはなかった、ただ驚いた。
あの小さな世界の中では、一度も感じたことのなかったものが、あちらこちらに散らばっていた。
吹き上げてくるのは“風”と呼ぶようで、それは外界から隔絶されたあの部屋には存在しなかったものだ。
あそこには、風が通り抜けてくるような隙間など、何処にも存在しなかったのだから。


落ちる時間は長く、その間に震えが来た。
寒いと言う感覚を、京子は始めて感じた。

熱いと言う感覚は知っている、食べ物を食べている時、時折そういう感覚を知った。
けれども、肌から突き刺さるような寒さを感じたのは、初めてだ。
小さな世界の室温はいつも一定で、暮らし易く、暑さ寒さとは無縁のものであったのだ。



その内、落ちる先に見慣れぬ色を見付けた。
あれなんだ、と呟いたら、夜の人が、木の緑だよ、と言った。

その頃になると、上にいた時は何もなかったように見えた足元に、沢山の見た事のない色が広がっていた。



少しずつ木が近付いて、かと思ったら、あっという間に視界に映るものが一変した。
それまで遮るものなどなかった目の前に、細いものや太いもの、楕円の形をしたものが一瞬の内に通り抜けていく。
ざりざりと衣を引っ掛けるそれらに、京子は閉口して、音が止むのを待った。

その間もずっと、京子を抱く腕はしっかりと彼女を掴まえていて、放さない。





やがて煩い音が収まると、風も止んだ。
一つ軽い振動を最後に、落下は止まった。





「大丈夫だった?」





問われて、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開ける。

最初に見たのは、覗き込む深い青。
その向こうに、落ちていく時にも見た、緑。


辺りを見回せば、見知らぬ世界が広がっている。




「………外…?」
「うん。立てる?」




頷いて、京子は夜の人の腕から降りた。
足の下はじゃりじゃりとしていて、小さな世界にはこれも存在しなかった。




「痛ェ」




半ば無意識に呟いて、京子はこれが“痛い”と言う事なのだと、初めて知った。


裸足の足を浮かせて、足の裏を覗き込む。
小さなものが食い込んでいて、それが痛かった。




「そっか、履くものなんかないよね。僕の貸すよ」
「……履くもの?」
「足を守ってくれるんだ」




それを履いていれば痛くないと言うから、差し出された草鞋を受け取る。
八剣の格好を思い出しながら、それを履いた。

今度は地面に足を下ろしても痛くなかった。




「ちょっと大きいけど、それしかないから、少し我慢してね」
「……でかいのか?」
「少しね」




草鞋の踵部分が余っているのを見て、そうか、でかいのか、と京子は思った。
そう言えば、八剣の足元のアレは、そんなに余ってはいなかったような気がする。


足元が落ち着いたところで、京子は首を捻って後ろを見上げた。
木の緑の向こうに、高く高く聳え立つものがある。

数歩離れて見上げてみるが、聳え立つそれは、頂上が全く見えない。
途中から途切れて、その向こうがどれだけあるのかすらも伺えなかった。




「判る? 僕ら、此処を飛び降りたんだよ」
「……高ェ」
「うん」




それがどれだけ人間離れしているのか、京子には判らない。
人間のする行動でもないとさえ、知らなかった。

ただ、こんな場所に自分はいたのか、と言う端的な感想が浮かんだだけだ。


聳え立つものから、京子はその向こうに広がる夜へと視線を移す。
小さな世界にいた時は、四角く切り取られた狭い空だったのに、今は何処までも果てしなく広がっている。
その漆の夜の中、白い星が点々と明滅を繰り返している。






「……広………───────」






広い。
遠く、広い。

落ちていく時に見た世界も、遠く、広かった。
小さな世界が本当に小さなものであったことを知った。
その小さな世界が存在していた世界も、また小さなものだったのだと。




「広いよ。広いから、知らないものや見た事のないものが、沢山ある」
「………」
「だからきっと、京が見たいものも、見付かるよ」




夢でしか見た事のない景色が、この広い世界の何処かに。
それだけで、何かが京子の中で漣を立てていた。




「取り敢えず、此処から離れようか」




ぼんやりと空を見上げる京子の手を取って、夜の人は歩き出した。
少し引っ張られる形でそれを追い駆けながら、京子は、ふと気付く。




「なぁ、お前、」
「何?」
「お前…の、名前」




聞いていない。
夜の人はずっと名前を名乗らず、京子も気にしていなかった。

でも、多分、この夜の人はこれから一緒にいるのだろう。
京子は八剣の名さえ、呼んだことはなかったけれども、それは呼ぶ必要がなかったからで、何故ならあの小さな世界には京子と八剣しかいなかったのだ。
名を呼ばずとも、相手が示す相手は、互いしかいなかった。
でも外の世界は広くて、自分たち以外にも人はいて、だったら名を呼ぶこともあるだろうし、ならば知らなかったら不便だ。



夜の人は、自分が名乗っていない事に、今気付いたようだった。
少しの間瞠目して、眉尻を下げて微笑む。




「そっか、ごめんね。僕は龍麻」
「…たつま?」
「緋勇龍麻。龍麻でいいよ」




龍麻。
緋勇龍麻。

やはり聞き覚えのない名だったが、それについては深く考えないことにした。




「龍麻」
「うん」




呼んでみると、龍麻は嬉しそうに笑みを深める。
ふんわりとした笑顔だった。


また歩き出す龍麻の後ろを、京子はついて行った。
手を引かれることに少し抵抗はあったが、前を歩いても何処に向かって歩けば良いのか判らない。
龍麻は外から来たようだから、外のことはよく知っているのだろう、多分。



しかし、少し進んだところで、龍麻が立ち止まる。
辺りの景色を見回していた京子は、それに気付けずにぶつかった。




「龍麻?」




どうしたのかと名を呼んでも、龍麻は振り返らなかった。
じっと前を見据える龍麻の表情は、先刻までの穏やかなものと違って、僅かに強張っているように見える。

京子は首を傾げて、何かあるのかと龍麻の隣に並ぶ。



そして、前方に立ち塞がる見慣れた人物を見付けた。







「───────八剣君………」







ぽつりと呟かれた名は、京子自身が一度も呼んだことのない、けれども身近に感じていた男の名。


記憶の始まりの時から、常に京子の傍らにいた男。
何も知らない京子に物質の名を教え、自らの名を伝え、京子に“京子”を教えた人物。

外に出てはならないと、言い続けていた者。



龍麻と同じように、八剣も常とは違い、無表情だった。
整った顔立ちが冷たさを感じさせる。

けれども、外に出たことについて、京子は後ろめたさのようなものを感じなかった。



じゃり、と八剣の足元で音が鳴る。
ゆっくりとした足取りで、八剣は此方へ歩み寄ってきた。




「全く……手加減なしで殴ることはないんじゃないか?」
「通してくれないから」
「お陰で、しばらく痣になりそうだ」
「すぐ消えるよ。僕の肩も、もう痛くないし」




口調は明るいのに、底が冷え切っているような気がする。
京子はなんだか薄ら寒いような気がして、衣の中で腕を擦った。


すぅ、と龍麻の空気が僅かに重くなる。




「……連れ戻すの?」




誰を?


そう訊ねようとして、京子は繋いだままの手が強く握られていることに気付く。
放さないように、そんな意識が其処にあるような気がして、京子は戸惑う。
どうしてそんなにも自分を連れて行こうとするのか判らない。

……嫌な気持ちは、しなかったけれど。



八剣は京子へと視線を移す。
京子もそれに気付いて、八剣と向かい合う。


龍麻に向けていたのとは違う色を浮かべた、瞳。
記憶の始まりの時から、それは変わることなく、京子に向けられていた。

彼が京子に対して、冷たい目をした事は嘗て一度もない。
少なくとも、京子の記憶の中で、八剣はいつも同じ表情をしていた。
京子から何を奪うでもなく、ただ傍にいて。




「………いいや」




目を伏せ、八剣は零れるように呟いた。




「無理やり連れ出すようなら、それも考えたけどね。自分から外に出たんだろう?」
「……どうかなぁ。そうって言いたいけど、今の京は、」
「知ってるよ。知り過ぎてる。でも、無理に引っ張り出した訳じゃないんだろう」




一度目、躊躇する仕種を見せた龍麻は、二度目ははっきりと頷いた。


二人の前まで来て、八剣が立ち止まる。
見下ろしてくる八剣の目は、数瞬前の冷たい印象は既に消えていた。




「京ちゃん」
「………?」
「京ちゃんは、外が見たい?」




それは、今までの八剣の言を思うと、意外な問い掛けだった。


外に出てはならない、京子は此処にいるべきだと言っていた八剣。
あの言葉は、別段押し付けがましいものではなかったけれど、容易く破れるような声でもなかった。
はっきりとした理由を、京子は一度も知らされることはなかったけれど、八剣が言うのならそうなんだろう────と、思うくらいには、真摯な声だったと思う。

その八剣が、初めて京子に“見たいか”と聞いてきた。
そして、向けられる眼差しは、沈黙ではなく明確な答えを求めている。




何処までも広がる、夜の空。
落ちていく時に見た、果ての見えない世界。

その何処かにある、夢に見た景色。








「見たい」








はっきりとした声が出た。
迷いも躊躇いもない、揺れることのない言葉で。



隣で龍麻が微笑んで、見上げた先の八剣も、小さく笑みを浮かべた。




「それなら、俺はついて行こう。君の気が済むまで。それが俺の役目だから」




告げた八剣の声にも、震えも迷いもなかった。

くしゃりと頭を撫でた節張った手を甘受する。
その手は常に京子の傍にあったもので、これからも此処にあるのだろう。









繋いだままの手が、撫でる手が、温かいことに初めて気付いた。














夜の世界 : 第一節
龍麻がよく喋りました。まだ京ちゃんがぼーっとしてるから。
京子がもう少し喋るようになったら、比例して龍麻は静かになっちゃうと思います。
龍麻と八剣はずーっと冷戦気味……

飛び降りる時は姫様抱っこ希望(ぼーっとしてる今だから出来る(笑))。