煌く光のすぐ隣に
影が必ずある事を、人は無意識に忘れていく

火が時として全てを奪い壊すことも
いつか忘れて


それがいつか、罪になる事さえも忘れていく




そして過ちは繰り返される













人世 : 第一節




















アン子の案内で町を一通り巡り終え、二人が宿に戻ったのは、其処を出てから約五時間後。
京子の勉強も兼ねての案内だったから、妥当な時間の経過だろう。


部屋に戻ると、八剣は出て行った時と何ら変わらぬ所作で二人を迎えた。

京子の布団は片付けられていたが、龍麻が敷いてやると、京子は其処で直ぐに寝付いた。
立ち止まりながら、休憩を挟みつつ歩いたと言っても、何せ五時間である。
体力のない彼女が、自覚なくとも疲労するのは当然のことだった。





町での京子の様子を八剣が尋ねると、龍麻は殆ど全て、話して聞かせた。


アン子の案内で、勉強も兼ねて通り、市場、広場、とにかく行ける場所は殆ど行った。
ラーメン屋に入って、其処で食べたラーメンをいたく気に入って。
見世物小屋に入ると、其処で見た剣舞に見入って、最後までずっと見つめ続けて。

広場で子供達と一緒に遊んだことも、其処でこの地に残る童唄を聞いたことも。





「童唄……ね。俺も知ってる奴かな」





呟く八剣に、龍麻は多分、と首を縦に振る。




「少し意外だね。今も唄われているって事が」
「そう? 口伝よりも伝え易いし、変わらず残ると思うけど」
「そういうものかな?」
「多分」




備え付けの茶を湯呑みに注ぎながら、龍麻は続ける。




「元々の土地柄って言うのもあると思う」
「土地柄?」
「此処が“天の塔”に近い町だって、今もまだ伝わってるんだって」




開いた障子窓から外を見ても、其処にはあの高い影は見られない。
しかし、龍麻が町の外れに行った時は、確かに見つける事が出来た。

遥か昔から紡がれた記憶は、薄れつつあるものの、未だ人々の歴史の中で語り継がれている。
様々な出来事と時間の中、よくぞ語り継いでくれたものだと龍麻は思った。
そうでなければ、自分達は存在できないのだから。




「─────それで、ね」




茶を一口啜ってから、龍麻は切り出す。

本当に説明したいのは、此処からだ。




「京が町の子達と手毬遊びしてる時、少しだけ、変化があったんだ」
「………変化、と言うと?」
「子供達が京の名前を呼んでる間、京の気配が変わって行くんだ」





その変化に気付けるのは、龍麻だけだ。
ヒトには見えない、その変化。




─────“言霊”と言うものがある。
言葉にする事で、音にしなければ意味を成さない単語にも意味を持つようになる。
其処にはヒトの感情があり、想いがあり、その言葉が存在している事を示す。

名前も同じだ。
他者から呼ばれる名があって、その名は、その人物を形成する一つとなる。


龍麻が“龍麻”である事も、八剣が“八剣”である事も、その名で自分を呼ぶ人物がいるから。
小さな世界で目覚め、何も持たなかった京子が、自分の名を“京子”と認識したのも、八剣がそう呼んでいたからだ。
八剣がその名を口にしていなければ、京子は名前さえも持ち得ることはなかっただろう。


“言霊”は発する者がいて、受け止める者がいて、初めて力と意味を持つ。
名前は呼ぶ者がいて、呼ばれる者がいて、そしてその名を持つ存在が生まれるのだ。






「京の力が失われたのは、人から忘れられたからだと思う」






自分自身でさえ持たない力は、人から与えられることによって補われる。
けれども、京子はその補われる術を持たなかった。

その存在を知る者がごく僅かであったからだ。
両手で数えて足りる程度では、彼女の力を補うには足りない。
何より、彼女自身がそれを自覚していなかったから、与えられる力の受け皿も出来ていなかったのだ。




「だから、京の力を取り戻すには、色んな人に会うのが良いと思うんだ」




京子を知って貰って、京子の名前を覚えて貰って。
彼女と言う存在がいる事を、沢山の人に覚えて貰って。

自分が沢山の人の中に存在している事を、京子が自覚する事が必要だ。




「元々、僕達は人が知っているから、存在できる。沢山の人が知っていれば、知っているだけ、力も使える」
「……確かに、一理あるね。俺と違って、緋勇と京ちゃんはそういう存在だから」




彼女と言う存在を、沢山の人が知って。
彼女が“自分自身”を知って。

一体どれ程の人が彼女の存在を知れば、彼女の力が取り戻されるか、其処までは判らない。
けれども、現状を打開する事は出来る筈だ。




「京ちゃんにそれは説明するの?」
「ううん。今はしない」




八剣の問いに、龍麻は迷わずに首を横に振った。






「自分の事は自分で知らなきゃ。京が前にそう言ってた」






それは、もう随分と昔の話で、いつの事であったか定かではない。
まだ龍麻も京子も幼くて、そう言った彼女は若しかしたら、誰かからの受け売りだったのかも知れない。

だけれど龍麻は、その時の彼女の顔と、差し出された手を覚えている。



八剣は、どちらにしろとも言わなかった。
そう、と一つ呟いてから、それ切り口を噤む。

同じく、龍麻ももう口を開かなかった。






───────その傍らで眠る京子は、夢でもまた、子供達と遊んでいるような寝顔を浮かべていた。

























甲高い音がする。
丁度浅い眠りの中にいた京子は、それによって意識を覚醒へと引き戻された。



起き上がって辺りを見回すと、龍麻と八剣が揃って窓辺に立っていた。

二人の視線は外を向いており、その方角に赤い色が明滅している。
その明滅は、町を照らす火の揺らめきににていたけれど、それよりももっと大きく動いていた。


布団を抜け出して、京子も二人の間に入る。




「京」
「何してるんだ?」




目覚めの挨拶もしないまま、京子は龍麻に問いかける。

龍麻は、ほんの一瞬、言い難そうに俯いた。
それを見た京子が首を傾げていると、龍麻と反対隣に立つ八剣が指を差す。




「あれだよ」
「あれ?」




八剣が示したのは、ゆらゆらと明滅する赤の光源。
大きな篝火が、夜の空を焦がさんばかりに咆哮を上げている。

カン、カン、カン、と何処からか高い音が響いていた。
それは町中に聞こえるほどの大きな音で、京子は少し耳が痛くなる。




「なんだ? あれ」
「火事だね」
「かじ?」




寝る前にアン子と龍麻と一緒にした勉強では、そんな単語は聞かなかった。
また首を傾げて、京子は説明を求めて八剣を見上げる。




「事故か人災か判らないけど、家が燃えてる」
「もえてる? 灯りみたいに?」
「あれよりよっぽど大きいよ」




町の開けた場所にあった灯りも大きかったと思う。
けれども、確かに、遠くで揺らめく赤は、あの赤よりも大きくて広くうねっている。




京子は、灯りが気に入っていた。

何故かと言われると、自分でもよく判らない。
あの小さな世界に存在していなかったから、物珍しさもあるのかも知れない────京子はそういう感情を知らないが、感覚的にはそういうものが彼女の中にあった。


狭い世界から外に出て、野宿をする時、起きている間はずっと火を見ていた。
どうして火を作るのか京子には判らなかったが、気に入っているから別に構わなかった。
じっと見ていると目が痛くなるのも、ちっとも嫌にならない。

人里に来たら、もっと沢山の火があちこちにあって、大きな火もあった。
この部屋には行灯と言う仄明るい灯りがある。


─────じゃあ、遠くで大きく揺らめくあの赤は?






「京?」






くるりと踵を返して離れた京子を、龍麻が追って振り返る。




「何処行くの?」
「さっきの所」
「さっきって」
「赤いとこ」
「────火事の所?」




まさかと言う色で龍麻が問う。
京子は、躊躇わずに頷いた。




「京、駄目だよ!」
「すぐもどる」
「そうじゃなくて────」




龍麻の声も聞かずに京子は部屋を出て行く。



この時、龍麻ははっきり言って顔面蒼白だった。
京子はそれに気付かないし、何より龍麻は殆ど表情を変えないから、仮に此処にアン子がいても判らなかっただろう。
しかし、気持ちは本当にそれ程のものだったのだ。

同じく八剣も。




「……気になるから見に行くって言うのは、京ちゃんらしいと言えば、らしいけどね」
「京!」




数秒遅れた形になって、龍麻と八剣も部屋を飛び出した。

たったそれだけの遅れで、既に京子は宿を出ていて、距離が出来てしまっている。
ほんの数時間前まで走る体力も殆どなかったのに、もう人混みの向こうに紛れつつある。


見失ったとしても、追い駆けるのは簡単だ。
人の流れは殆どが彼女の目指す先と同じ方向に向かっている。
……途中で、彼女が見当違いの方向に行かなければ。

火事現場の近くにいれば、何処にいようと彼女は直に辿り着くだろう。



だけど、出来れば────否、絶対に、今の彼女に火事現場に近付いて欲しくない。





「京、待って!」




龍麻が珍しく声を荒げて呼んでも、京子は振り返らない。
恐らく、聞こえていないのだろう。
彼女の意識は、目的の場所に行く事だけに向けられている。


こんな日に限って月が出ていない事を、龍麻は悔やまずにはいられない。
それによって大きく左右される自分自身の力の事も。




「先に行くよ、緋勇」
「うん」




八剣が龍麻の前を走る。
次第にその距離も開いて行った。

しかしその八剣の進む足も、思うように前に行かない。
火事現場に近付くほどに、野次馬の数が増え、通りを塞いでしまっているのだ。
京子は運良く───龍麻達にとっては悪い事に───そうなる前に道を駆けて行ったようだけれど。




息が上がって、龍麻は一旦立ち止まる。



京子とアン子と三人で町を歩き回ってから、時間にしてほんの二時間程度しか経っていない。
その間に少し寝ることは寝たが、火事を知らせる半鐘の音にそれは中断された。

それから、直ぐにこの有様だ。


月が昇っていればまだ走れるものを、今日は半分も調子が出ない。
今の龍麻にとって、外部からの庇護がない日は少し辛いものがあった。

京子ほどではないけれど、龍麻もまた、本来の力の大部分を失われているのだ。
歩き回っていた間は特に疲れた気はしなかったが、それでも部屋に戻れば疲労を実感した。
だから、暫く眠ろうと思ったのだけれど。



一つ息を吐いて、もう一度走り出す。
もたもたしている暇はない。




その龍麻の隣に、小柄な少女が並んだ。





「────緋勇君!」





アン子だ。

数時間前に別れてから、アン子も寝ていたのか、髪の毛が所々跳ねている。
着物の袂は辛うじて合わせてあるが、帯の結び目が滅茶苦茶だ。
飛び出してきたのだと判る格好。




「緋勇君も火事見に行くの?」
「ううん。でも、京が行っちゃった」
「京子が? 一人で?」




頷くと、なんで、とアン子は声をあげる。




「見たことなかったからだと思う。どういうものか見てみたいんだ、きっと」
「そんな軽いモンじゃないわよ!」
「うん。だから止めようと思ったんだけど、京、足早くて……八剣君が先に行ってるんだけど」




追い付けるかどうかは判らない。
何せ、この野次馬の数である。




「風が強いから、火の廻りが激しいわよ。あんまり近くに行ったら危ないわ」
「うん……それに、人も」
「そうね。これだけ野次馬だらけだと、小さい子なんかもみくちゃになっちゃう」




龍麻の呟きを拾ったアン子が続けた。


それもある。
それもある、けど。

龍麻の懸念は、もう一つあった。




「最近、火付が多いのよ」
「そうなの?」
「うん。三つ前の瓦版でも火事のこと刷ったもん。犯人も中々捕まらなくて」
「……そう、なんだ…」




この町に住む者にとって、それがどれだけ不安な事だろう。
龍麻が一所に落ち着いていたのは、もう随分と昔の話だから、あまりよく判らない。

だけど、いつ自分達が業火に見舞われるか判らない日々を送る町人達は、決して安心して日々を過ごせまい。




赤い揺らめきが近付くほどに、所々で悲鳴が上がる。
逃げ惑う大人や、親とはぐれた子供、炎の中に取り残された者を呼ぶ人の声。
命からがら、炎から逃げ遂せた人の顔は、恐怖に歪んで強張っている。

ほんの数時間前、龍麻達が見た風景とは、全てが変わっていた。
さっき通ったばかりの道の中の一つであるとも思えない。




家も財産も、大切な家族さえも、舞い上がる炎が飲み込んでいく。




呆然と立ち尽くす人、泣き叫ぶ子供を抱き締める人、其処にいる人々は様々で、けれども一様に皆目の前の光景に恐れ戦いている事は共通していた。


火は、人々にとって何よりも身近であり、生活の命綱だ。
何処の家にも町にも存在し、絶やしてはならないもの。

それは人々の道を照らすと同時に、全てを奪い尽くす力を持つ。



時に炎の力は、何よりも残酷で────その災害は、人の手によって齎される時もある。











此処は決して、綺麗なだけの世界じゃない。












人世 : 第二節
シリアス展開です。
明るい世界の裏側。