夢路の翳 : 第三節








あまりに静かだから、誰もいないのだとばかり思っていた。
けれども、窓とは反対にある障子戸を開けると、其処には龍麻と八剣が向かい合って座っていて。




「いた」




いないと思っていた二人がいたから、思わずそんな言葉が口を突いて出た。
それと同時に龍麻と八剣が此方に顔を向けて、京子を見つけ、




「京ちゃ、」
「京!」
「う、ぉ」




龍麻が抱き付いて来た。
立ち上がって、勢い良く。

龍麻を受け止めて、そのまま京子は後ろに倒れた。
どてっと音がして背中が痛んだが、顔を顰める程の痛みでもない。
丁度京子が背中を落とした場所に座布団が置かれていたので、このお陰だ。


龍麻が上に乗った状態で、京子は数瞬の間呆然としていた。
と言うのも急に視界がぐるりと変わったものだから、自分が今どんな状況なのか判っていなかった所為だ。
判っていた所で倒れるのを防ごうともがいたかは、少々微妙な所と言える。



龍麻が京子の体の上を退く。

それでもぽかんとしている彼女に、龍麻は肩を掬い上げて起きるように促した。
京子は素直にそれに従い、龍麻の着物の袖口を掴んで起き上がる。




「龍麻」
「何?」
「おはよう」
「うん、おはよう」




挨拶すると、龍麻は嬉しそうに頷いて同じ言葉を返した。
それから京子は八剣へと顔を向けて、同じように挨拶する。




「おはよう」
「………おはよう」




少し間があったが、此方もちゃんと挨拶をした。

その時、八剣の表情が何処か可笑しく見えた。
形作る面立ちは見慣れたものではあったのだが、京子は「変」と感じていたのだ――――殆ど本能的に。


短い距離をわざわざ立ち上がって歩くのが面倒で、京子は四つん這いで八剣の傍に近付いた。
座布団の上に正座して、着物の袖に手を入れて腕を組む姿は、この宿に来てから何度も見た姿だ。
彼はどうやらこの風体が基本らしい。

それはいつも通りで、近い距離で覗き込んでみた顔も、いつものように笑みを浮かべている。
のだけれども、京子はどうも引っ掛かるものを感じて、眉根を寄せた。




「お前、なんだ?」
「うん?」




唐突で脈絡のない問いかけをした京子に、八剣は何が? と問い直す。




「顔が違う」
「そう?」
「ん」




こっくり頷く京子に、八剣は笑った顔のままで眉尻を下げた。
益々変な顔になった、と京子は思った。


くしゃりと頭を撫でられる。
八剣の手だ。

温かい手。




「なんでもないよ、京ちゃん」




そう言っていつもと同じ顔で笑う八剣が、なんだか気に入らなかった。


こんな事は初めてだ。
龍麻はいつもと同じ顔をしていて、此方は変でもなんでもないと思うのに、八剣のこの顔は気に入らない。
今まで一度だって、そんな感情を覚えた事は一度もなかった筈なのに。

笑っている筈なのに、笑っているように見えないのは何故だろう。
これならまだ、京子が寝る前に見た顔も変だったけれど、あれの方が気に入らないと思わない分だけ良い気がする。
何を基準としてそう思うのかは判らないけれど。



だから、取り敢えず八剣の頬を引っ張った。




「……京ちゃん?」
「伸びる」




思わぬ京子の行動に疑問系で名を呼ぶ八剣を、京子は無視した。


もう少し力を入れて引っ張ってみる。
また少し伸びた。

と、腕を掴まれて柔らかく放される。




「ちょっと痛いから、ね。止めてもらえるかな」
「………」




そう言って笑った八剣の顔は、いつもと同じ顔だった。

顔の形はさっきと同じ。
けれども、やっぱりさっきは違う顔だったのだと、京子は思った。


くすくす笑う声が聞こえて振り返ると、龍麻が此方を見て笑っていた。




「京ぐらいだよね。八剣君の頬抓ったり出来るのって」




凄いよね、と龍麻が言って、何が凄いのか判らない京子は首を傾げる。




「駄目か」
「ううん」




直ぐに龍麻は首を横に振った。
けれども、くすくすと笑うのは止めない。


それを見ながら、なんだか龍麻の顔が見え難い気がして、京子は辺りを見回す。
其処でようやく、いつも灯りを灯している筈の行灯が暗い事に気付く。

近付いて内部を覗き込んで見ると、固定する為の台の上に火の付いていないロウソクが一本乗っているだけ。




「なぁ、つけないのか」
「点けるよ」




龍麻が答えて、此方に歩み寄ってきた。
近くに置いていた小さな箱を手に取って、ぱかりと蓋を開けると、中には先端に赤い塊が付いた小さな棒が沢山入っている。
その中から一本を取り出して、龍麻は箱の横にある一箇所だけ色が違う所で、赤い先端をぶつけ始めた。

何をしているのかと覗き込んでいると、危ないからと言って離される。


シュ、と何度か擦れ合う音が続いた後、暗かった部屋の中がぽうっと明るくなる。
行灯の中に火が入り、暗かった部屋が照らされる。


龍麻は同じように、部屋の中にある他の行灯にも火を入れた。
月も星もない夜だった上に窓を閉め切っていれば、外界の微かな灯りさえも部屋の中には零れて来ない。
よって京子が寝ていた部屋以上に暗かった部屋の中だったが、行灯が灯された事で、京子にも見慣れた明るさが取り戻された。




京子は行灯に近付いて、ゆらゆらと障子の向こうで揺れる火に見入った。
野宿の間、火を起こす度に間近でそれを見詰めていたように。

お気に入りの玩具を見つけた子供のように飽きずに灯火を見詰める京子に、龍麻と八剣からは安堵の息が漏れた。




「京が寝てる間は消しておこうと思ったんだ」
「なんでだ?」
「明るいとあんまり寝れないんだよ。眠ることは出来るけど、暗い方がよく寝れるんだ」
「外で寝る時は消してなかったぞ。でも寝れた」
「野宿の時はね、獣や妖が襲ってくるかも知れないから、安全の為に消さないんだよ。あと、明るくても眠れる事は眠れるけど、眠りの深さって言うのがあって、明るいとこれが浅くてね。あんまり体に良くないんだよ」




安全。
ってなんだ。

眠りの深さ。
ってなんだ。
どんな状況でも、“寝る”は“寝る”だろう。


思った京子だが、取り合えず、外では消さない方が良いから消さないと言う事は判った。
そして此処では消しても大丈夫だから消していたのだと。
それが判れば十分だった。

……と言うか、龍麻の説明の後半は既に殆ど聞き流し状態で、頭に残っていない。




それよりも、自分が聞きたかった事を思い出す。




「龍麻」
「うん?」
「外の火も消えてた」
「外……あ、町の灯り?」




確認に頷く。




「あれは雨が降ってたから」
「あめ」
「空から水が降ってくる事があるんだ。それが雨」




町の篝火は雨が降っても直ぐに消えないように屋根を作ったり、油を滲み込ませた布に火を点ける等、工夫は成されているが、やはり火は水に弱い。
普段よりも勢いは沈静化してしまうし、小さな火などは簡単に消えてしまう。
それでも燃やそうと薪をくべ続ければ、雨が止む前に炎を燃やす為の材料がなくなり、町は闇に包まれる。

本当は雨が降っている時分こそ、明るい炎が欲しいのだ。
空から無償の恩恵として与えられる月も星も姿を隠しては、後に頼れるものは自分達が作る炎しかない。
なのにその炎が頼りなく小さくては、皆不安を抱えずにはいられない。


完全に火を失ってしまえば町は妖に取り付かれてしまうから、せめて絶やさないように、火の勢いを小さくした状態で保たなければならない。




「さっきまでずっと雨が降ってたから、まだ火が小さいんだよ」
「またでかくなるのか」
「うん」




それを聞いたら、京子も少しほっとした。
真っ暗で静かな町の風景は、なんだか酷く落ち着かなかったのだ。




「なぁ、雨が降ると暗くなるのはなんでだ?」
「空に曇って言うものが出来てね。これで月や星が見えなくなるんだ。だからいつもより暗いの」
「また見えるようになるのか?」
「うん。後何時間かしたら晴れるんじゃないかな。そしたら星も見えるようになるよ」
「月は?」
「どうかなぁ……今日は判らないけど。大丈夫、また見れるから」




月と星の淡い光は、京子が外に出て見つけたものの中で、一等気に入っているものだ。
見れなくなると詰まらなかったから、また見れると聞けたのは嬉しかった。



京子は自分が寝ていた部屋に戻った。
布団を跨いで、開けたままにしていた窓の桟に登り、町を見渡す。

大路の広場に、町で一番大きな篝火がある。
先程は縮んでいた炎が、今は京子の記憶にあるままの大きさを取り戻し、綺麗に揺らめいていた。
他にも方々の篝火が勢いを吹き返し、町にぽつりぽつりと光と音が取り戻されて行く。


チンチン、ドンドン、チンチンと音が鳴り始め、それを皮切りにしたように彼方此方から人の影が現れる。
小さな子供が走り出し、水溜りの上で跳ねて遊び、親がそれを怒っていた。
市場の方角にも再び火が灯り、景気の良い商人の声が聞こえてくるかのようだ。


町が灯火に色付いて行く様を見る京子の表情は、初めてこの町を訪れた時のものとよく似ている。
見た事のない物達にすっかり意識を奪われて、あれはなんだ、これはなんだと龍麻に聞いていた時と同じ。
アン子に案内されて町を歩き回り、沢山のものを見て驚いたりしていた時と同じ顔。

真っ暗だった世界が灯火によって色付いて行く光景も、京子は初めて見た。
灯火が生まれることによって、こんなにも見える世界は変わっていくのだと、初めて目の当たりにしたのである。




―――――と。

京子はふと、自分の手の中に収まったままになっている石の事を思い出す。


握り締めていた手を開くと、今は空には存在しない、淡い月の光が其処にあった。
淡い月色の光を放つその石は、今でも握っていると手の中から温かい感覚が伝わってくる。

眠る間際に渡された石は、恐らく、京子が眠る為に龍麻が京子に握らせたのだろう。
これを握った瞬間から不思議な事に“感じない”感覚が薄れ、気付いた時には一度寝て起きた後だった。
それまでにあれだけ冷たくなっていくのを感じていた体も、すっかり元通りになっている。




「龍麻」




窓枠を降りて、京子は布団を片付けていた龍麻を呼んだ。

龍麻は布団を押入れに仕舞い込んでから、何、と振り返る。
京子は歩み寄って握り締めていた石を龍麻の前に差し出した。




「これ」
「あ、いいよ。京にあげる」




返って来た言葉に、京子はぱちりと瞬きした。




「いいのか?」




正直、手放し難くて返したくないと言う気持ちはあった。
握っていると温かくてて心地良かったからだ。


龍麻は頷くと、ちょっと貸してね、と言って京子の手から石を受け取る。

龍麻の手が京子の左腕を持ち上げて、浮かした状態で留めるように言った。
言われたままに従っていると、龍麻は石と連なった珠を繋げる糸を一箇所外し、京子の腕に巻き付けて結び直した。




「この方が落とさないよ」
「ん」




握っていなくても、変わらず淡い月色に光る石。
触れた場所から同じ温かさと心地良さが感じられる。




「それからね、今後の予定なんだけど。あと二、三日泊まってから、次の町に行こうと思うんだ」
「次の町?」
「町は此処だけじゃないんだよ。外は広いんだから。――――で、京はそれでいい?」
「なんでもいい。行くなら行く」




手首で淡く光る石を掲げるように、京子は腕を持ち上げたり下ろしたり、覗き込んだり。
其方に夢中になっているお陰で、龍麻の話には殆ど生返事しか返って来ない。
最もちゃんと話を聞いたところで同じ返事にあるだろう事は予想が付くから、龍麻は淡い光を追い駆ける幼い横顔に柔らかな笑みを浮かべる。



嬉しそうに石――――《足玉》を見詰める京子の瞳は、眠る前のように光のないものではなく、元の輝きが取り戻されている。
いや、“元の”どころか、生来の活発で眩い色が甦りつつあるのだ。

記憶と力を失い、自分自身を失った事で欠けていた彼女本来の性質が、《足玉》に助長された事もあるのだろう、僅かだが目覚め始めている。


眠る前は酷い様相であったが、何か良い夢でも見たのか、京子は随分すっきりとした顔をしている。
龍麻が何度も見たいと願った彼女の笑顔が、其処にはあった。
まだ幼さは残り、遠い記憶で笑う少女には届かないが、面影の重なりがはっきりとし始めていた。





京子は暫く石を眺めていたが、気が済むと龍麻の顔を見て笑った。

それから八剣を見て――――――顔を顰める。




「なんだよ」




上機嫌に笑っていた京子が急に不機嫌な声を発するから、龍麻は少し目を瞠る。
京子の視線を追って振り向けば、其処に立っているのは八剣で、彼は先程から随分と静かだった。
京子が行灯の火が灯っていない理由を聞いた時も、雨について訊ねた時も、彼は終止、一貫して沈黙していたのである。

京子は龍麻から説明されていたからそれを気にしていなかったが、今はっきりと、八剣の様子が可笑しい事に気付いた。
目覚めた挨拶の後に見た彼の顔は、やっぱり違う顔だったんだと、この時明確に認識した。


八剣は常に浮かべていた笑みを失っており、無表情で開いた障子戸の敷居の向こうで立ち尽くしている。
龍麻には、敷居がまるで境界線のように見えた――――八剣自身が引いた、龍麻と京子を隔す線であるかのように。



問いかけに沈黙した八剣の視線が、僅かに虚空を追った。
首だけは此方に向いているけれど、八剣は京子を見ていない。

それがまた気に入らなくて、京子はすたすたと近付いて、八剣の真正面、目の前に立つ。
京子は女にしては背が高い方だが、八剣は上背がある。
必然的に見上げ見下ろす形になって、八剣の視線が此方を向かなければ、この距離で二人の目が遭う事はなかった。


眉尻を釣り上げて行く京子の纏う空気は、如何にも物騒だ。

龍麻は京子のその表情を見てはいなかったが、それでも想像が付いた。
背中から感じる彼女の雰囲気が、遠くに見た彼女の不機嫌なものと一緒だったからだ。



怒り出すまで、後五秒。
思って、龍麻は心中で数を数えてみる。




五、四、三、二、一………







「ンだよ、なんかあんなら言えよッ!!」








怒鳴った京子に、八剣は唇を噛む。

彼のこんな顔も珍しい、いつだって彼は表情を読み取らせることをしないのに。
――――それだけ、彼が思い詰めていることなのだろうけれど、京子はそれを知らない。




「その顔、なんか気に入らねェッ」
「……ごめん」
「…………ッッ」




京子の右手が上がって、ドンッと一度強く八剣の胸を叩いた。


京子は、感情を持て余していた。
気に入らない、気に入らなくて頭の中がぐらぐらと煮え、腹の奥も同じように煮える感覚がする。
けれども、京子はこれが“怒り”と呼ぶ感情である事が判らず、どうして良いのかも判らない。

謝られるのがまた気に入らないと思って、気が付いたら彼の胸を力一杯叩いていた。
それだけが今の京子に出来る精一杯の自己主張。



胸を叩いた京子の手が八剣の着物の袂を掴む。
その手が小さく震えている事に気付いて、八剣はようやっと京子の顔を見る事が出来た。

泣き出しそうに歪んでいる面に、八剣は胸が痛む。




「……ごめんね、京ちゃん」




袂を握る京子の手に触れ、八剣は京子の顔を覗き込む。

それから目を逸らさない京子は、自分がどんな顔をしているのか自覚がない。
遠い昔なら、直ぐに目を逸らして見せまいとしただろうに。




「京ちゃん、正直言うとね――――俺は、少し反対なんだよ」
「………?」
「今、緋勇と次の町に行くって言っただろう」
「……反対?」




ことりと首を傾げる京子は、「反対」の言葉の意味を判っていないようだ。
先程までの怒りと泣き顔の混じった表情が消え、途端に幼くなった面立ちに苦笑する。




「俺は、京ちゃんにこれ以上外を見て欲しくないと思ってる」
「なんで」
「……眠る前――――火事の時の事、どれ位覚えてる?」




―――――火事。
野宿の時の焚き火よりも、町を照らす篝火よりも、大きくうねり広がる赤。

京子がそれを見に行ったのは、純粋に好奇心からだった。
火事と言うものの意味を知らない京子には、遠目の火事の空は、大きな灯りに照らされているように見えたのだ。


“火事”が焚き火や篝火のような、明るく閃くものと違うと知ったのは、あの惨状を目の当たりにしてから。
炎に飲まれた家屋が耳障りな音を立てて崩れ落ち、その傍らで人々が泣き、悲鳴を上げる。
隙間隙間に昏い呟きが聞こえ、数時間前に通った筈の穏やかな景色は何処にも存在しない。

小さな子供が泣いていて、おかあさんと呼んでいた。
その子はずっと京子の服を握り締めて、数時間前に笑っていた顔はくしゃくしゃになって戻らなかった。



八剣に手を引かれて宿へと戻る道すがら、町のあちこちでは同じような光景が続いた。
人々が泣き、昏い呟きを零し、その傍らで揺れる篝火さえも畏怖の目で見る。

そして京子の体は冷え行き、“何もない”感覚が覆い尽くそうとしていた。




「あの時、どんな事を感じた? 言える範囲で良い、教えて欲しい」
「……気持ち、悪ィ…感じ」
「これ以上外にいたら、同じように感じる事は絶対にあるんだ。今回以上に傷付く事も」
「…………」
「俺はそれが嫌なんだよ」




傷付いて欲しくない。
泣いて欲しくない。

八剣も判っている。
これは、勝手に自分が望んでいることだ。
そして自分が望んだからこそ、今こうして、京子が外の世界にいると言う事も。


今更迷うのは遅過ぎるし、彼女が傷付くのが嫌だから連れ戻すなんて、ただのエゴだ。

けれど、連れ戻すのならこれが最後の機会でもあるのだ。
これ以上彼女の世界が広がって、彼女が遠い記憶のように傷付いてしまう前に。
彼女が帰る事を厭わないのならば。




「身勝手でごめんね」
「……やつ、」
「だから俺は、正直、君を連れ戻したいと思っている。絶対に―――とは言わないけれど」




あの小さな世界に。
変化のない世界に。

笑うことのない世界に。


京子が、決して傷付く事のない世界に。








「それでも、京ちゃんは外にいたい?」








問いかけ方が卑怯だと、八剣は自覚している。
言葉を聞いた龍麻が少し眉尻を下げているのが見えた。

けれど、他になんと問いかけて良いのか判らない。
そして八剣は、前に龍麻が言ったように、京子から外の世界すらも無為に取り上げる事は出来なかった。
彼女が望んで手を伸ばした世界だと思うから。


彼女が帰るつもりがあるのなら、連れて帰ろう。
けれど、帰るつもりがないのなら――――――……





見下ろし問いかける八剣の瞳を見て、変な顔だと京子は思う。
思ったけれど、今度は気に入らないとは思わなかった。



どうしたいと言われても、京子は考えられない。
考えなくても答えは出た。

けれども見下ろす瞳で揺れる光が、それを音に出す事を躊躇わせる。
簡単に出来る筈の音を発すると言う行為が何故か出来なくて、京子は眉根を寄せて首を傾げた。
それは無意識に八剣の望むことを慮っての行為であったが、まだ京子には相手の気持ちを汲んで答えを考える事が出来ない。
赤子同然の京子の意志は、何処までも自分の思うままに素直に答えを見つけ出すことしかしないのだ。




がしがしと頭を掻いて、京子は一つ息を吐いてから、







「此処(外)にいる」







真っ直ぐに八剣を見詰め、はっきりとした声でそう言った。




「外は綺麗なだけじゃない。嫌なものも沢山あるよ」
「でもキレイなモンもあるんだろ。美味いモンもあるし」
「それだけじゃない。言っただろう? 痛くて苦しくなることもある」
「あったけェモンもあったぜ。火もやっぱあったけェ。あのでっかいのは嫌だけど」
「……傷付く事もあるよ」
「んー………」





がりがりと頭を掻きながら、こいつは外が嫌いなのかな、と八剣を見て京子は思う。
あの小さな世界にいた頃から、八剣は外の事となると、こんな事ばかりを言っているような気がした。

実際、間違いでもないのだろうけれど―――――


どうしようかと沈黙した京子に代わるように、パンパンと手を叩く音が部屋に響く。
二人が其方へ目を向けると、龍麻が笑みを浮かべていた。




「その辺にしとこうよ、八剣君」
「………緋勇」
「京が自分で決めて言い出した事、何言われても変えないのって知ってるよね」




京子を真ん中に挟んで遣り取りする二人に、挟まれた本人はきょろきょろと交互に二人を見る。




「それに、京は見たいものがあるんだよね」
「見たいもの?」
「うん」





ね、と同意を求められて、京子はこくりと頷いた。




「“天の塔”を離れる時、八剣君、京に“外が見たい?”って聞いたよね。京は見たいって言った。でもちょっと違うんだ。京は“外”が見たいんじゃない、外に“見たいもの”があるんだ」




ただ外が見たいだけなら、此処までの短い旅で十分だっただろう。
地面の上に立って自らの足で森を歩き、草花を見て、星を見て月を見た。
兎を抱いて、野盗に遭って、少しだけれど怪我もしたし、野宿をして焚き火を見た。

町に辿り着いてからは宿屋に泊まり、服を見て、瓦版屋に文字と言うものを教えて貰った。
あちこちを案内されて、小さな世界には存在し得なかったものを溢れるほどに見る事が出来た。

そして火事を知り、人々が泣く姿を目にし、八剣が言っていた“痛くて苦しい”事も感じた。


ただ“外が見たい”と思うだけなら、今の京子にはこれで十分だっただろう。
温もりも冷たさも数日間で与えられた京子の器は、もう引っ繰り返さなくても溢れそうな位一杯になっている。



でも、京子はそれで満足していない。
だから戻れと言われても戻る気にならない。

一番見たいと思うものを探して外に出たのに、まだ見付けてもいないのだから。




見下ろして来る八剣の瞳を、京子は真っ直ぐ見詰め返した。
微かに緋色を含んだ京子の瞳は、揺らぐことなく、強い光を奥底に宿している。

―――――その眼差しは、遠い日に誰よりも迷うことなく前へ前へと突き進んだ少女のものと瓜二つで。





「………判った」





八剣には結局、折れると言う選択肢しかないのだ。




「京ちゃんがそう言うなら、もうこの事については何も言わない」
「なんでだ?」
「京ちゃんの意志が俺の意志。君が自分の意志ではっきりとそう決めたなら、俺はそれに従おう」
「さっきまで意地でも連れ戻すって言ってた気がするんだけど」
「さて、なんの事だったかな」




掌返すと言った言葉が正に相応しい八剣の態度に、龍麻は苦笑する。
そのまま微笑を向けられた京子はしばしきょとんと首を傾げたが、ややすると笑い返した。
龍麻の苦笑と微笑みの意味は、理解していない。


八剣の手が京子の頬を滑った。
くすぐったさに目を細める京子に、八剣は紡ぐ。




「その代わり、俺は君の傍にいて、君を守る。命を賭けて、何処にいても」
「いのち…?」
「判らなくていいよ。これは俺の勝手な誓いだから」




小さな子供の表情で首を傾げる京子に、八剣は笑みを浮かべて言う。
その笑みがようやく見慣れたものになって、京子は少しホッとした。
気に入らない顔など、いつまでも見ていたくない。



頬を撫でていた八剣の手が離れると、京子はくるりと踵を返し、窓辺にまた乗り上げて外を見る。
空を見上げて見付けたものに、京子がぱあと破顔して龍麻と八剣に振り向いて。









「月、見える」








幼い顔で笑う少女に、二人も何日ぶりかの和やかさを取り戻していた。












八剣が過保護です。京ちゃんすっかり姫。
龍麻に言われれば言われただけ対立する八剣、京ちゃん相手ならあっさり引き下がります。
別に龍麻が嫌いな訳ではなくて、京ちゃん以外に意見を譲る気がないだけです(汗)。

この節で第一章は終了です。……長かったなー!!
と言うか、この節が一番長かった。八剣が割り込んでくれないから……京ちゃんが龍麻と楽しそうに話しているのでタイミングを計りかねてただけなんですが、空気が読め過ぎるのも問題ですね。