──────別に、断わる理由もなければ、嫌だと思う理由もなかった


















STATUS : Enchanting 5



















朝一番に見た親友が、笑っているのに怒っているから思わず退いた。



基本的に温和で通るこの親友が、何故にこうまで怒っているのか、京一には判らなかった。
ぶっちゃけた話、思い当たる節は山ほどあったりするのだけれど。

昨日散々酒を飲んだ事なら龍麻も同じだから同罪である筈で、京一が一人先に潰れてしまうのも珍しい話ではなく、
散らかった部屋の掃除を龍麻が全てこなしてしまったりだとか(その時には大抵京一は寝落ちている)、
寝ている間に蹴飛ばしたとか(寝相が悪いのは自覚がある)、寝言で何か言ってしまったとか………─────、
上げていけばキリがないのだが、だがそれを今更怒るなんてのもナシだろう、と京一は思うのだ。
色々と勝手で無礼ではあるとは、思わないでもないけれど。


かと言ってオレが一体何をした、と逆に問い詰めるのも憚られる。
親友の顔に張り付いた、薄らとした笑みは、正直言って恐ろし過ぎた。
普段、日常の中で中々怒る姿を見ないだけに、余計に。

声を荒げて怒りを露にされるのなら、京一とてまだ対処の仕様がある。
しかしこうして笑っているのに目が笑っていないとなると、募るは恐怖心ばかりであった。



この顔は、以前も見た事がある。


鬼との激しい戦いの中、合間の時間に揃って修行をしていた時、龍麻と京一で打ち合った。
勿論特訓のつもりではあったのだが、段々と血が上って本気になり、最終的に京一が龍麻の顔に一発を当てた。
直前になって我に返り、慌てて寸止めを試みたものの、間に合わずに龍麻の顔には痣が残った。

帰り道で散々謝っていた間、龍麻から帰ってきたのは、無言の笑み。
たまに口を開くと「気にしてないよ」と言っていたが、目が笑っていなかった。

素直に思ったものだ─────コイツを怒らせるのは怖い、と。




龍麻を怒らせるスイッチは、ある意味、判り易い。


一つは、大好物の苺を貶される事。
好きなものを貶されれば、誰でも怒るだろうとは思うので、判らないでもない。

もう一つは、仲間を傷付けられる事。
理由が何であれ、相手が何であれ、龍麻は友人知人が傷付くのを嫌う。
鬼との戦いで、どんな形であっても誰かが傷付く度、龍麻は心を痛めていた。
……泣かない事が不思議なくらいに。


それから、他者は知らないかも知れないが……案外、負けず嫌いだという事。
京一の一撃が龍麻に当たり、龍麻の拳は京一に当たらなかった。
勿論、双方わざとの事ではなかったが、半ば本気になっていた訓練の打ち合い。
京一だって反対の立場なら、悔しいと思う。




ならば。
ならば、今日はなんだ。

何が龍麻のスイッチを入れたというのだ。







「た、つ…ま……?」








いつもは兎か何か、そんな大人しい小動物を思わせる瞳が、今はまるで捕食者を思わせる。

直感的に危険を感じて、後ずさったのは殆ど無意識だった。
壁に背中が当たって初めて、京一は自分が目の前の親友から逃げていた事に気付く。





「きょーいち」




名を呼ぶ親友の声はいつも通りで、穏やかな表情もいつも通り。
ただにじり寄るその、自分とそう変わらぬ体躯に、異常な威圧を感じるのは何故だ。



壁に背をぶつけ、何を逃げることがあるんだ相手は龍麻だ何もない───と思いつつ。
近付いてくるその存在から逃げようと、手が何かを探していた。
何をなどと、考える間も要らない、愛用の木刀だ。
しかしそれは紫色の太刀袋に収められたまま、龍麻の向こう側に放置されている。


大切なものをなんでこんな時に限って手放したんだ。
いや違う、此処だから手放したんだ。
此処なら他の何処よりも安全だから、他の何処よりも神経が研ぎ澄まされるから。

────だったらなんで、こんな状況になっている!?





「龍麻、」
「きょーいち、一昨日さ」





顔を覗き込んできた龍麻の距離が、異様なまでに近くて驚いた。
目を逸らした瞬間にバクリと喰われそうで、京一は瞠目したまま龍麻を見つめていた。

それをじっと、近過ぎる距離で見つめながら、龍麻は笑んで。





「ごっくんクラブにいたんだよね?」
「あ…あぁ……おう」




そんな事を聞く為だけに、こんな顔をしたとは到底思えず。
京一は相手の出方を窺う猫のように、じっと目の前の相手を見て、固まっていた。





「何か、されたの?」
「……あ?」





何か。
何かってなんだ。

前振りの無い、唐突な龍麻の言葉に、京一は目を剥いて、ぽかんと口を開けて龍麻を見上げた。


これと言って定型もない問いかけに、京一は何を答えて良いのか判らない。
間近に迫る親友の笑顔に、相変わらず威圧感を覚えつつも、質問の意味さえ見出せない。

龍麻は、一体何を持ってしてこんな事を聞いてくるのか。




「………オレ、なんか言ったか?」




ようやく口に出たのは、質問を質問で返すというものだった。


昨日の晩、散々酒を飲んだ事は覚えている。
しかし途中からの記憶はブッツリと途絶え、それは何も珍しいことではない。
悔しいことにそれ程酒に強くはない事を、京一は自覚していた。

そして酔いが回った後の事は、綺麗さっぱり記憶から消えている。
龍麻もそれを知っているだろうから、せめて何か取っ掛かりになる材料はないかと思っての問いかけだった。



すぅ、と龍麻の目が細められて、ギクリと京一の顔が引き攣る。





「い、いや、ほら、昨日はかなり飲んだだろ? オレまた覚えてなくてよ…その、なんか誤解させるような事言ったのかと……」
「…………覚えてないの……?」





低いトーンで呟かれた言葉に、京一は気まずさを感じたが、頷く。


酔っ払いの言動に意味不明なものが混じるのは重々知っているし、それにより誤解が生じることだってある。
その所為で龍麻を怒らせてしまったのなら、早々に謝って解消して貰いたい。




しばらくの沈黙の後、龍麻は、ゆっくりと京一から離れた。
ほぼゼロ距離にあった顔が遠退いて、ようやく威圧感から解放される。
相変わらず、この男を怒らせる程怖いものはない…と京一は思う。

しかし、この後の動向がどうなるか判らない。


親友の家に泊まっただけで、なんでこんなに緊張しなくてはいけないのか────……
どうも災難続きで、疫病神でもついているのかと思う京一だ。



だから、安心した。
此処でようやく見る事の出来た、見慣れた親友の笑顔に。









「そ。良かった」








にっこりと、今度はちゃんと目も笑っていた。
何処かぼんやりとした、ふわふわとした笑顔。

京一の見慣れた、親友の笑顔。



ホッと肩の力が抜けて、ずるずると壁際で京一は畳に落ちてしまった。






「びっくりしたんだよ。京一が変な事言い出したから」
「……変な事ってなんだよ…あー、頭痛ェ……」
「寝言だったんだね、あれ。うん、もう気にしない」
「そうしてくれると助かるぜ……」






襲ってきた二日酔いの頭痛に苛まれつつ、すっきりした表情の龍麻を見遣る。


龍麻は数秒前の威圧感は何処へやら、うきうきとした足取りでキッチンに向かった。

一体自分は何を言ったのか、と疑問は残った京一だが、聞こうとは思わない。
折角龍麻の気がそれたのだから、わざわざ蒸し返すこともないだろう。





「お味噌汁、食べれる?」
「あー……喰う……」





昨日の夕飯の残り物を温めつつ、聞いてくる親友に、京一は覇気のない声で答えたのだった。






























通学路。
欠伸を噛み殺す京一の隣を、龍麻はかけられる挨拶の声に律儀に答えながら、並んで歩いていた。


転校して来てから既に半年近くが経つというのに、未だに《転校生》は真神学園でも人気者だ。
大体こういうものは、物珍しさで最初こそ注目されるものの、殆どは次第に沈静化するものだ。
事実、最初の頃に比べれば、多少落ち着いてきてはいる。
しかし遠野が取り上げる新聞が起因しているのか(“ミステリアス”だなんて呼ばれれば無理もない)。
それとも龍麻自身の人柄か、京一とよく問題行動を起こしていると知られても、龍麻は色々な人に好かれている。

京一は、特にこれといって、それを気にした事はない。
龍麻と一緒にいる事によって、互いの評価が他者から見てどのように作用するかなど、京一にとってはどうでも良いのだ。
校内でケンカをするのも、サボタージュするのも、龍麻をそれに誘うのも、自分がそうしたいから、しているだけ。
そして龍麻も拒まないから、自然、二人並んでいることが多くなった。



龍麻が誰と話をしようと、誰とどう付き合おうと、京一は構わない。
ただ一点、龍麻と肩を並べるのが自分であれば、それだけで。




一通りの挨拶の波が収まって、龍麻は京一に目を向け、笑う。




「二日酔い、少しは収まった?」
「…そうだな。朝よりゃマシだ」
「京一、昨日は結構飲んだもんね」




まだ微妙に鈍痛を発する米神を抑えながら答えれば、龍麻はあははと笑いながら言う。


確かに、昨日はかなり飲んだ。
ヤケクソ気味に飲んだ。
次の日が平日だったなんて、すっかり忘れて。

これは今日は昨日とは別の意味で授業がダルくなりそうだ。
いつも通りフケるか、と今日もサボり決定。




「京一、あんまり飲めないのに」
「バカ言え。飲むのは問題ねェよ、飛ぶだけで────」
「だから、それも気をつけた方が良いから。昨日は僕だけだったから良かったけど」
「……ああ、判った判った。気ィ付ける」




奇妙な事を口走ったのを思い出し(何を言ったかは相変わらず思い出せないが)、京一は龍麻の言う事を享受する事にした。
また今朝一番の怒りを見せられるのは御免だ。



何度目か、漏れた欠伸を噛み殺していると、ふわりと柔らかな香り。
振り返れば、綺麗な黒髪の女生徒────美里葵が立っていた。




「緋勇君、京一君、おはよう」
「おはよう、美里さん」
「おう」




律儀に返す龍麻と、おざなりに挨拶して片手を上げる京一。
見慣れた並びに、葵はことりと首を傾けて微笑んだ。





「京一君、今日はもう大丈夫なの?」
「ああ。昨日のはただの寝不足だからよ」




ひらひらと手を振って、もう気にしてくれるな、と。
葵は少し心配そうな顔をしたが、程無くすると龍麻を見遣る。
龍麻が無言で頷けば、ようやく納得したらしい。




「でも、気分が悪くなったら早く言ってね。保健室で休まなきゃ」
「へいへい。ありがとよ」




それからも、昨日からの心配が募りに募っていたのだろう。
あれこれと世話を焼くように注意をして、葵は何某かの準備があるとかで先に校門へと走って行った。

相変わらず優等生だねェと皮肉気味に呟いた京一だったが、その声に以前ほどの棘はない。


それからは小薪と醍醐も来て、遠野も来て。
昨日の京一の様子についてあれこれ問い掛けてきたが、京一はそれを適当に流しただけだった。
その内、三人も、まぁ鬼の霍乱だろう、という一言で片付け、葵同様、校舎へ入って行った。

龍麻と京一は校門で立ち止まってそれを見送り、




「さってと……オレはサボるが、お前はどうする?」




悪びれも何もなく、昼飯にでも行くように言った京一に、龍麻は小さく笑い、





「屋上? 校庭?」
「校庭」
「ジュース買って行こうよ」





こちらも悪びれもなく、共犯に乗る。

これで編入試験の成績はトップクラスだったと言う。
マリアからその話を聞いた時は少し驚いた、何せその話を聞いたのは夏休みの補習授業中だったのだ。
けれども、京一は、それが自分の所為だったとは思っていない。
サボり仲間が出来た事は、京一にとっては面白い奴が出来た、という程度の事だったから。
それ以上の事も、それ以下の事も、考えなかった。


ついでに、悪戯事というのは、やはり共犯者がいて尚更楽しくなるもので。




「今日の昼飯、ラーメン頼むけど、お前は?」
「あ、じゃあ一緒に頼んでおいて」
「おう」




それじゃあ、と龍麻はいつもの自販機へ、京一は公衆電話のある事務室の方へ。
後で校庭の木の下で落ち合うのは、言わなくても決まり事になっている。







「──────そうだ。ねぇ、京一」






そのまま行こうとした京一の足を、龍麻の声が止めた。
何を言い忘れたことがあったのだろうかと振り向けば、龍麻は真っ直ぐこちらを見つめていて。






「今日も、うちに泊まりなよ」
「…………あ?」





昨日の屋上での会話と違って、今度のその言葉は唐突だった。

突然なんだと、声にせずとも顔に出たのだろう。
龍麻はふんわりと目を細め、いつものように笑い、




「っていうか、明日も、明後日も。うちにおいでよ」
「……いきなりだな。どうした?」
「別に。ただ、毎日あちこち泊まる場所探すの大変だろ?」




龍麻の言葉に、そうでもないがな……と呟いて京一は頭を掻く。


しかし、毎日同じ場所に帰っていいと言うなら、わざわざ街を歩き回らなくて済む。

気の知れた場所は幾つかあると言っても、毎回それらの都合がつくとは限らないのだ。
ごっくんクラブなどは店もある訳だし、毎日入り浸るのは邪魔になるだろうと、気が退ける。
吾妻橋達は「いつでもどうぞ!」という勢いだったが、あれらと一緒にいると、三度に一度はケンカが起きて巻き込まれ、平日等に徹夜をすると学校が辛い。

平穏無事に毎晩が過ごせるというのなら、根無し草状態の京一にとっては、願ったり叶ったり。
付き合い程度に他の所に顔を出すのも、龍麻ならば何も言わないだろうし。
更に言うなら、課題に一人で頭を抱えなくても済む、というオプションもあり。





「─────オレとしちゃ、そりゃ嬉しいけどよ」




京一としては、それを拒む手はない。

しかし、幾ら龍麻が一人暮らしで融通が利くといっても、心配なのは金銭面。
龍麻も京一も学生で、使える金銭面は大人に比べると、ずっとずっと限界値が低い。
京一とて何もかも龍麻に頼る訳ではないが、人一人抱えると、諸々の事情とは露呈してくるものである。


一時の勢いで承諾したら、後々大変な事になった─────とか。
相手が親友といえど、流石にそんな状態になったら、京一とて後ろめたい。



しかし龍麻は、やはり笑顔。







「いいよ。京一だしね」






一点の曇りもない顔で言われては、なんだか断わるのも気が退けて。







じゃあ取り合えず、今晩も世話になろうか、と言うと。

これまた見事な笑顔が京一を迎えたのだった。










親友でもラブラブな二人。
でも恋愛感情は龍→京。